平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第14話 「真実の手紙」

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 午後の光は王都の壁で白く砕け、川の湿りと粉の乾きが同じ肺に入ってきた。
 老婆の家の机に、私は午前に書いた告発文を広げる。紙はざらりと指紋を飲み込み、胸の内側では革袋の鍵が呼吸のたびに硬さで合図をくれる。

「仕上げるなら今さ」
 湯気の向こうで老婆が言う。
「日が傾けば、舌は揃う。揃った舌に言葉を投げるのは骨が折れる」

「わかってる」

 紙束をなぞった指先が、そこで止まった。
 同じ紙のはずなのに、一枚だけ指の腹に引っかかる。極薄の膨らみ。私は息を詰め、紙の端を爪で撫で、湯気にかざした。温度で糊がほどけ、薄い膜がぺり、と短く剥がれる。
 中からさらに薄い羊皮紙。
 縁の匂いが“家”を連れてくる。蝋燭、夜更けのインク、父の書斎。
 折りたたみを開くと、細いが揺れのない文字が、真昼の光に浮いた。

 右上に日付。――断罪の夜の三日前。
 左下に印。印璽の横に、小さな点。家族だけの目印。偽作ではない、と父が遠くから頷いた気がした。

 宰相の書記官が送った“丁寧な催促”の写し。
 第一王子の行幸の割り当て、出入口の当直表。
 倉庫街で“祭礼準備”として夜に動いた物資の一覧。武器、布、火薬、薬。台帳の隅に繰り返される、同じ筆跡の同じ誤字。父はそこへ赤を書き添え、末尾に、静かな一行。

《暗殺未遂は起こされる。未遂で止められる。――舌と印の稽古だ。》

 背中を氷で撫でられたみたいに寒くなる。
 続く追伸には、別の筆跡。幼い頃に一度だけ見た、癖のある字。

《第二王子殿下に直奏すべし。王宮南階、古井戸の石蓋の下に“鍵合わせ”を置いた。――アルフォード家旧臣 マリウス》

 そして父の最後の行。

《万一、我が家が夜に襲われたなら――この密書を、火から守れ。娘よ、鍵はお前が持つ。血を汚すな。舌を汚すな。お前の“今”を生かせ。――父より》

 指が震え、文字の輪郭が波打つ。余白に見えた符丁を拾い、各行の頭文字を縫い直すと、隠された文が立った。

《宰相は第一王子を大きく見せるため、影を作っている。未遂は影絵。夜襲の命は宰相舌。第一王子許可。証は倉庫の印と行幸の割。――王に届けよ。》

「……父さん」
 こぼれた声を、床板が吸った。

「見つけたのか」
 見張りに立つカイルの低い声。私は頷き、密書を差し出す。
 彼は光の角度を変えながら黙読し、最後の一行で短く息を吐く。

「……マリウス。生きて、動いていたのか」
「知ってるの?」
「俺が小さい頃、剣の持ち方を一度だけ直した男だ。“剣は重さで覚えろ”って」

 彼は顔を上げ、真っ直ぐに言った。
「これは舌で作られた影を消す火になる。王に届けば、影絵は終わる」

「届けよう。今すぐ。あなたは――王宮に戻れる」
 “王に戻る”という言い方の無遠慮さに、自分でつまづく。私は言い直す。
「正統を取り戻せる。第二王子として、じゃなくて、あなた自身の足幅で」

「俺は、王でなくていい」
 落ち着いた声音が、ちょうど良い重さで胸に落ちた。
「君が生きられる場所があれば、それでいい」

「違う」
 私は首を振る。
「それは優しさだけど、父の遺言は“王に届けよ”。舌に責任を取らせる扉は、私とあなたの手でしか開かない」

 沈黙。湯の音。外の車輪。
 カイルは密書を畳み、私の両手を包む。
「“王でなくていい”のが本音だ。けれど、“王でなくてはならない夜”が来るなら、剣を持つ。――それが、この手紙の求める夜なら」

「ずるい」
「実用的だ」
「それもずるい」

 老婆が咳を一つ。
「惚気はあとだよ。舌はもう集まり始めてる。打つなら今」

 そこへ、扉が二度、靴底で静かに叩かれた。
 エリオットが影のように入ってきて、密書に目を落とし、短く息を吐く。
「見つけたか。……なら、次は“鍵合わせ”だ。王宮南階、古井戸の石蓋。昼のうちに合わせておく。広場は罠だ。第一王子の“市井への挨拶”。宰相が横で舌を湿らせてる。人も兵も集まる。つまり“風”が向こうのものになる」

 カイルが頷く。
「風を奪うには、先に根を打つ」
「そう。証を響かせる。――急げ。俺は広場で“半分”を流す。兵の歩幅を半歩ずらす」

     ◇

 王宮南階。観光客の喧噪から外れた陰りに、苔むした古井戸が眠る。
 私は膝をつき、父の鍵を出す。歯は小さく鋭く、震える手の癖まで覚えている。
 石蓋の縁を撫で、浅い溝に鍵の歯が噛み合った瞬間、胸の中の針がひとつ進む。押す、回す。
 「く」と石が鳴り、蓋が呼吸をして、内側の乾いた空気が逃げた。

「開く」
 私とカイルで蓋を半月ほどずらし、闇の底から木箱を引き上げる。
 中には、黒い封蝋と青い封蝋の紙束。黒には宰相印、青には王家の紋章。そして底に固定された小さな銀板。

《この箱を開けた者へ。
 影で国を動かした舌を、光で止めよ。
 王は、民の前で舌を持つ。
 ――先王 アードリック》

 カイルの指がかすかに震えた。剣ではなく、息の震え。
「父上……」

「足りる?」
「足りる。風向きを変える核にはなる」

 私は紙束を懐に戻し、鍵を逆に回して蓋を閉める。
 重さが腕に残る。覚悟の重さだ。

     ◇

 広場に向かう道で、人の流れが不自然に滑った。
 鐘がひとつ鳴る。二つ目が鳴る前に、門の上で旗が翻り、兵が綱を引き始めた。
 「衛生封鎖だ! 本日午後の出入りを禁ずる!」
 突然の布告。理由は“流行り病”の流言。
 舗道の空気がざわめきでねばり、路地の影が増える。

「罠だ」
 カイルの声は低い。
「広場に出た者を“監視の外”に置かないための封じ」
「でも、私たちは――」

 合図もなく、エリオットが人波の陰から肩をかすめた。目は笑わない。
「舌の包囲網。王は“いない”。大広間は工事、という名目の封鎖。今日、王には会えない」
「……やっぱり」
 胸の奥で、期待と覚悟がぶつかって火花になった。
「じゃあ、どうする」

「“読む場所”を奪われたなら、“読ませる数”で押す」
 エリオットは短く指を立て、手早く紙片と小瓶を袋に押し込む。
「夜の鐘の前に、写しを十、二十。魚市場、粉屋街、洗濯場、井戸端、祈祷堂の掲示。市井の舌で先に満たす。広場は明日でも明後日でもいい。王に上げる“前”に、市井に下ろす。順番を逆にするんだ」

「王に、今は会えない」
 呟くと、言葉は悔しさではなく、温度になった。
 私は頷く。
「やろう。私が書く。全部」
「俺が運ぶ」
 カイルが重心を落とす。
「半分、俺が運ぶ。半分、エリオットが散らす。どちらかが折れても、どちらかが届く」

 老婆の家に戻ると、机の上はすでに湯と紙で満ちていた。
 私は袖を捲り、筆をとる。
 父の字を、私の字で写す。数字、印、日付、名。
 “明朝に弁明を”。“夜の兵”。“未遂”。
 宰相の癖字。第一王子の割表。先王の銀板の一文。
 手首が焼ける。呼吸が速い。
 でも、書ける。書きながら、昼の光の方角がわかる。

「インクを惜しむなよ」
 老婆は湯を差し、私の背を平手で一度叩いた。
「襟も立てろ。背中が折れると字も折れる」

「はい」

 窓の外が、灰色から青に変わる。鐘が遠くで三つ。
 エリオットは写しを束にして身を薄くし、戸口に影を溶かす。
「一時間。戻る。戻れなかったら、次は魚市場で」
「戻って」
「努力する」

 カイルは束を背負い、残りを外套の中へ分ける。
「君は三枚、持て」
「持つ」
「逃げ路は覚えた?」
「覚えた」
「道が変わったら?」
「変える」
 短い問答で速度を合わせ、私たちは夜の手前の王都へ散った。

     ◇

 魚市場の柱に、一枚。
 粉屋街の掲示板に、一枚。
 洗濯場の梁に、一枚。
 インクは光を吸い、紙は風を掴む。
 最初の一枚の前で、老婆のような手が止まり、唇が音もなく動いた。
「……“未遂は影絵”」
 それが、合図になった。
 誰かが読み上げ、誰かが耳打ちし、誰かが家へ持ち帰る。
 宰相の舌が回るより早く、市井の舌が回り出す。

 角を曲がるたび、黒い上衣の影が増える。
 足音がこちらへ寄ってくる“つもり”で、実は別の方角を見る。
 カイルの立ち位置が、また視界をずらす。
 私は二枚目を祈祷堂の扉に打ち、三枚目を井戸端の柱に貼った。指先が震え、でも紙は落ちない。
 ――書いたものは、火より長く燃える。
 父の言葉が、私の背骨を押す。

 鐘が四つ鳴る頃、風向きが変わった。
 路地の入口に兵が集まり、馬の鼻息が近い。
 エリオットが影から現れ、首を横に振る。
「布告台、兵で埋まった。王子の挨拶は“延期”。代わりに“王の病”で市民を家へ返すと号令。今夜は門も閉じる。――王には、会わせない夜だ」

「わかった」
 悔しさはある。けれど、道を変えることはもう怖くない。
 私は最後の一枚を、パン屋の軒に貼った。
 蜂蜜の匂いが、指先のインクと混じる。
 軽い甘さと、重い黒。

「ミリア」
 カイルが私の手を取った。
「離さない」
「うん」

 老婆の家に戻る道で、一瞬、足が止まった。
 路地の向こう、子どもが背伸びして紙を読んでいる。
 口の動きはたどたどしく、それでも確かに“名”をなぞっている。
 私の名。父の名。舌の名。
 胸が熱くなる。涙は落ちない。落ちる暇がない。

     ◇

 夜。
 王都の空は低く、遠くの塔が黒い針で突き刺す。
 老婆の家で火を落とす前に、私は密書の原本を革袋に戻し、鍵の歯を指で確かめる。
 カイルは窓辺で外を見張り、エリオットは扉に背を預けて短い呼吸を刻む。

「今日は王に会えない」
 自分に言い聞かせるように言う。
「でも、王都は読んだ。明日も読む」
「読む奴が増えれば、舌が焦る」
 エリオットが応じる。
「焦った舌は誤字が増える。そこを突く」
「焦って刃を抜けば、昼の舌になる」
 カイルが続ける。
「俺たちは火を守る。剣は、まだ抜かない」

 私はうなずき、外套の襟を立てた。
「……カイル」
「ん」
「“俺は王でなくていい。君が生きられる場所があれば”――さっきの言葉、覚えてる?」
「言った」
「今夜、王に会えなかったのに不思議と心が折れないのは、そのせいだよ。私の“生きられる場所”って、こうして火のそばで、字を書いて、誰かが読むのを待つ場所でもあるんだね」
「そうだ」
「でも、“王でなくてはならない夜”が来たら、剣を持って」
「ああ」
「私は舌を持つ。――そして、明日も貼る」
「君は、靴」
「干す。忘れない」

 火が“ぱち”と笑い、夜の息が窓枠でほどける。
 王の間の扉は、今夜は遠い。
 けれど、扉はある。
 鍵穴も、ある。
 鍵はここに。
 手も、ここに。
 王に会うまでの道は、迂回で埋める。
 紙で、声で、人で。
 裏切りの都で、嘘の夜を裏切るために。

 私は眠りに落ちる直前まで、指の腹で鍵の歯をなぞった。
 明日は違う掲示板。違う井戸。違う舌。
 王には――まだ会わない。
 けれど、王の手に届くまで、読み上げをやめない。
 そのときまで、火は落とさない。
 そして、手は離さない。
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