平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第13話 「裏切りの都」

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 王都の輪郭が、朝もやの向こうで鈍く光っていた。
 城壁の上に並ぶ槍の先は露をはじき、鎖門がゆっくり軋みながら降りる音が遠くまで伸びる。魚の匂いが濃い川筋に沿って、私たちは近郊の街へ身を紛らせた。倉庫の壁は塩で白く粉を吹き、縄を巻いた杭には渡り鳥みたいに小舟がいくつも鼻先を寄せ合っている。

「ここだ」
 カイルが示したのは、川沿いの古い倉庫街の端、扉だけ新しく取り替えられた薄茶の建物だった。外見はくたびれているのに、取っ手の鉄だけが冷たい光で指を撫でる。

 中は、埃と乾いた麻袋の匂い。床板は歩くたびに控えめに鳴り、隅には古い秤と空の樽。窓の隙間から差し込む光の筋が、埃を金の粉に変えて漂わせる。

「すぐ来るはずだ」
「……エリオット?」
「ああ」

 名前を口にすると、胸の奥の糸がぴんと張る。カイルの言う“古い友人”。彼の声は静かに怒る、と聞いている。私の足は、会う前から少し震えていた。緊張と、期待と、警戒。どれも正しくて、どれも邪魔だった。

 最初に入ってきたのは、埃ではなく風だった。扉がわずかに開き、外の川風が薄い水音を連れてくる。風の後ろに、細い影が滑り込んだ。

「やぁ。ずいぶん“王子らしくない”場所を選ぶね」
 低い声。笑うと目が消える。噂の通りだ。
 男は三十路前後、無造作に結んだ髪、薄い外套。動きは軽く、床板の鳴りに先回りするように歩く。笑っているのに、足音だけが真面目だ。

「エリオット」
 カイルが立ち上がる。
「久しいな」
「十年は老けた顔だ。……こっちは?」
「ミリア」
「偽名、だね」
 エリオットは一拍だけ間を置いて、私へ浅い礼をした。「はじめまして」
 その礼の角度が、どこか王都の空気を含んでいる。丁寧すぎず、無礼にもならない、あの均し方。

「ここは安全?」
 私が問うと、彼は肩をすくめた。
「この街で完全な安全は売り切れさ。けど、今は目印を外してある。――座ろうか。立ったままだと、会話が尖る」

 三人で樽をひっくり返して即席の椅子にし、埃を払い、向かい合う。
 エリオットは懐から羊皮紙を数枚取り出し、秤の上に置いた。
「近況。宰相の舌は元気だよ。“王子暗殺未遂”は継ぎ目だらけの紙芝居だけど、見たい人にはよく見える。第一王子の周りは今、正義で酔っている。酔いは、強い風より厄介だ」

「酔いの抜き方は」
「水じゃ足りない。事実という苦い薬と、見せ方という砂糖が要る」
 言いながら、彼は紙に描かれた印を指で叩く。出入りの許可状、夜間巡邏の割当、王都内の関所札。
「君の“鍵”があるなら、砂糖は用意できる。苦い薬のほうは、飲む本人が決める」

 彼の言葉は軽いのに、床に落ちずに宙で止まる。
 その止まり方が、私の皮膚の上で不思議なざらつきを残した。――格好をつけるには早い。ここは舞台じゃない。
 私は胸の革袋にそっと触れる。縫い付けた鍵が、体温でわずかに温かい。

「君は変わらないな、エリオット」
 カイルが言う。
「目だけが、昔よりよく動く」
「年だよ。見なきゃいけないものが増えた。……それと、忠告が一つ。君らを嗅いでいる鼻がいる。王都訛りに飽きた鼻だ。嗅ぎ方が鋭い」

 忠告を置く声は、少し低くなっていた。怒りではなく“仕事”の声だ、と直感する。
 私は息を吸い、吐く。
「この近郊で、どの門が一番ゆるい?」
「魚市場の裏口。朝、樽と一緒に人も流れる。だが――」
 エリオットは、言葉を切り、笑顔をほんの半分だけ畳んだ。
「君たち、目立つよ。歩幅が揃いすぎる」

 カイルの指が、膝の上でごく小さく止まった。
 私の指も、不安の形で網目を作る。
 ――この人は本当に、味方なの?

 そのとき、倉庫の外で笛の音が短く鳴った。警邏の合図に似ているが、音程が違う。
 エリオットが眉をわずかに動かす。
「巡りが早いな。話はまた――」

「待て」
 カイルが遮る。
「早すぎる。俺たちが着いて、十五分だ」
「王都の鼻は、機嫌がいいときほど仕事が早い」

 言葉は軽いが、目が笑っていない。
 私は胸の鍵が妙に重く感じ、樽から立ち上がった。
 扉の隙間から覗いた路地に、黒い影がひとつ、ふたつ。靴音の数は合わない。目で見えるより、耳で多い。
 ――囲まれる。
 背中の汗がひやりと流れ、足首にまとわりつく。

「エリオット」
 カイルの声に、刃の裏側だけが差した。
「誰の側にいる」
 一瞬、倉庫の中の埃が止まった気がした。
 エリオットは笑わなかった。
 ただ、目の奥だけが静かに呼吸した。
「第一王子の側だ。……“密偵”という言葉は、嫌いだけど、職名として正しい」

 床の鳴りが、私の膝から上へ上がる。
 裏切り。
 裏切りという音は、刃で殴られる音ではなかった。息の仕方を変える音だ。自分の肺が自分のものじゃなくなる。

「でも」
 エリオットは続けた。
「君らを売るために呼んだわけじゃない。俺は、君に“出方”を選ばせに来た。……だが鼻が良すぎる。時間が短い。すぐに出るなら、“今”」

「信じろと?」
 カイルの声音は低く、しかし怒ってはいない。
「信じなくていい。信じるのは“次の三十呼吸”だけでいい。出るか出ないか。出るなら、東の桟橋。二番目の舟。夜明け前に出る荷の、さらに下」

 笛が二度。今度は正しく王都の合図。
 扉の影に、鋲の光が刺さる。
 私の口が先に動いた。
「カイル、行こう」
 躊躇ってはいけない。遅れは、誰かの肩に乗る。
 エリオットは私を見た。笑わない目のまま、ほんの少し頷いた。

「行け。君は、まだ“ミリア”でいられるうちに」
 そして、脱ぎかけの外套を私に投げ、指で襟を立てる仕草を示した。
「襟を立てろ」

 心臓が跳ねた。老婆の杖の音が遠くで重なる。
 私は外套を被り、革袋の位置を確かめ、扉ではなく裏の小窓へ走る。
 カイルは一歩だけ遅れてエリオットを見た。目で何かを測り、目でそれを置いた。
「借りは、あとで返す」
「返さなくていい。生きて、舌に責任を取らせろ」

 倉庫裏の路地に出ると、すでに足音が網を張っていた。
 カイルの“迷わない”が先に歩幅を決め、私はその半歩後ろに入る。
「右、低い。左、滑る」
「うん」
 乾いた箱の角が膝に当たり、魚の鱗が靴に貼りつき、水路の匂いが喉に刺さる。
 笛は三度。囲みが狭まる。
 ――間に合え。

 桟橋の影に、舟が四つ並んでいた。黒い水の上へ突き出した板は、夜の胃袋みたいにぬるく、細い鎖が月光を吸っている。
「二番目、下」
 エリオットの指示が頭の中で反響する。
 舟の縁に身を伏せ、布をめくる。麻袋が積まれ、その下に空間。
 私が先に滑り込み、カイルが続く。
 布の隙間から見える桟橋の足。靴。鋲の光。声。
「見ろ。許可札のない舟は――」
「今夜は魚が多い。鼻が死ぬ」
「鼻は死なない。舌は死ぬ」

 舌。
 あの舌。
 宰相の舌。
 私は革袋を握り、息を殺した。
 しばらくして、鎖が外れる音。舟が水を割る。
 揺れが胸の中の石を転がし、罪悪感と恐怖が交互に天秤に乗る。
 カイルの手が、暗闇で私の指を探し当てた。
 握る。
 それだけで、呼吸の形が戻る。

 舟は下流へ。街灯の下をくぐるたび、光が布の隙間を白く撫でる。
 やがて揺れが落ち着き、布の向こうに声が離れていった。
 私たちは息を合わせ、布をほんの少しだけ押し上げた。
 夜風が指先に触れる。川の匂い。遠くで鎖門の鳴る音。
 桟橋から離れたところで、低い声が布の向こうから落ちた。
「降りろ。ここからは陸」
 舟主の声だ。エリオットの手配だろう。

 岸に上がると、そこは倉庫街の外れ、瓦が半分剥がれた屋根の連なる古い住宅区だった。人影はまばら、犬の目だけが光る。
 足を下ろした瞬間、背後の路地で笛がまた鳴った。
 追い手は、こちらの方向を掴みなおしたらしい。水と陸の境目は、匂いが入り混じる。

「走る」
 カイルの手が強くなる。
「西の曲がり角まで。その先は俺の道」
 私たちは石畳を蹴り、曲がり角をひとつ、ふたつ。途中、古布屋の軒先で女が眠そうにこちらを見、何も言わずに襟を立てた。
 西の角に差しかかると、カイルが突然、足を止める。
 前方に、外套の影がひとつ。
 笑うと目が消える男。
 エリオットが、そこにいた。
 彼の手は空。背中は壁。逃げもしない。

「――こっち」
 彼は短く言い、板壁の裏を叩いた。
 板が少し浮き、狭い通路が口を開ける。
「古い職人の抜け道。三人まで。走れ」
「売らないの?」
 私の口は、まだ尖っていた。
 エリオットは、目を消さずに笑った。
「売るなら、最初の倉庫で売るさ。ミリア――君の“今”を選ぶ目は、王都のどの貴族より澄んでる。汚れた舌より、よっぽど信用できる」

 背後で笛。近い。
 カイルが私の肩を押す。
「行く」
 私は頷き、通路へ滑り込んだ。

 細い通路は、石の冷たさでできていた。壁に貼られた古い張り紙が指に触れるたび、誰かの年月が粉になって落ちる。曲がり角を二つ、暗闇を三つ。
 出口の板を押し上げると、そこは街外れの野道だった。湿地の匂い。遠くで蛙が鳴く。
 夜はまだ深い。
 逃げ足は、まだ短い。

 私は足を止め、振り返った。
 板の隙間から、エリオットの眼だけが見えた。
 怒ってもいない、笑ってもいない、仕事の眼。
「――ありがとう」
 素直に言えた。
「礼はいい。……王都へは、正面から入るな。君の鍵は、まだ見せ時じゃない」

 板が戻り、通路はただの壁に戻る。
 私は唇を噛み、前を向いた。
 カイルが隣で息を整え、目だけで次の道を指し示す。
 走り出す。
 足音が夜を切り、肺が焼ける。
 逃げている。
 けれど、今の逃亡は、昨日までの逃亡と違った。
 足元に“向かう場所”の影が、確かに敷かれている。

 野道を離れ、崩れた祠の陰で一度だけ腰を下ろす。
 肩で息をし、喉の渇きに舌で耐える。
 遠くの王都は、黙って大きい。
 私は胸の革袋に指を入れ、鍵を握った。
 握った瞬間、決心の形が掌の中で硬くなる。

「……もう、逃げるだけはやめる」
 自分の声が、意外とまっすぐだった。
「過去を清算する。父の名も、私の名も。宰相の舌に、火の責任を取らせる。そのために、この鍵を使う。隠して持っているだけの“罪”から降りる」

 カイルはしばらく私を見て、それから、短く頷いた。
「一緒にやる」
「ううん、“一緒に”じゃない。あなたはあなたの名前で、私は私の名前で。隣にいて。手は離さないで。――でも、前に踏み出す足は、私の足で」
 言葉を置き終える頃、目の裏に熱が溜まっていた。
 恐怖は、まだいる。裏切りの影もいる。
 それでも、足は前に置ける。
 “ミリア”の軽さと、“アメリア”の重さ、両方を抱えた足だ。

「わかった」
 カイルは私の手を握り、いつもの強さで、いつもの位置で言う。
「離さない。――けれど、君の歩幅を邪魔しない」

 笑いが、涙と一緒に喉の奥で弾けた。
「ずるい。そう言われたら、もう怖がる暇がない」
「実用的だ」
「それ、万能薬じゃないよ」
「砂糖くらいにはなる」
「じゃあ、苦い薬は私が持つ」

 立ち上がる。
 祠の影から出ると、東がわずかに白くなり始めていた。夜は、もう一度だけ深まってから、必ず薄くなる。
 王都の塔が、霧の向こうでぼんやりと背を伸ばす。
 裏切りの都。
 でも、私の清算の都でもある。

「エリオットは、敵?」
 歩きながら訊くと、カイルは少しだけ考えて答えた。
「彼は、彼の守るものの味方だ。……今は、俺たちの“次の三十呼吸”の味方だった」
「次の三十は?」
「俺たち次第」

 私は深く息を吸い、三十まで数えた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ――
 数の合間に、村の火、花の匂い、子どもたちの「先生」という声が浮かんでは消える。
 どれも消えない。私の背骨の中で形を変えて、明日の歩き方を支える。

 三十を言い終わる頃、王都の外門へ繋がる小道の手前に着いた。
 門はまだ開かない。鎖は黒い。
 私は襟を立て直し、革袋を胸の底に押し込み、指先の震えを親指で止めた。
 怖い。
 でも、進む。
 裏切られても、進む。
 私が私を捨てない限り、誰の舌にも奪わせない。

「行こう」
「うん」
 手を握る。
 背中で夜が閉じ、正面で朝の輪郭が生まれる。
 私の“清算”は、ここから始める。
 鍵穴を探す旅。
 舌に責任を返す旅。
 そして、名前に温度を取り戻す旅を。

 王都の石は冷たい。
 けれど、私の掌は熱い。
 それで十分だと思えた。
 ――裏切りの都で、私は、もう裏切らない。
 自分を、そして、今日を。

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