12 / 20
第12話 「逃亡の夜」
しおりを挟む
その夕暮れは、やけに風向きが落ち着かなかった。
市場の布は小さく震え、干された冠の名残は影の中でかすかに鳴り、パン屋の煙突から立つ煙は真っ直ぐになったかと思えばすぐ折れた。乾物屋の老婆は杖で地面を二度、静かに叩き、目を細めた。合図。――風が変わる。
「北の小径は使えない」
カイルの声は低く短い。
「東へ出て、川沿い。橋の下を抜ける。君は荷を一つだけ」
「鍵は持つ。板は置いていく」
「板は明日、子どもがまた作る」
「うん……」
私は炭で黒くなった指を井戸で洗い、濡れた手のひらに頬を押し当てる。冷たさが現実を連れてくる。棚から小さな革袋――父の鍵――を胸の内側に縫い付け直し、外套の襟を立てる。花の結び目は台の上に置いたまま。軽い約束は、戻れる場所に置いていく。
外の空気が、鉄の匂いで重くなってきた。
王都訛りの靴音。柔らかい土でも石の音を鳴らす歩き方。
カイルは扉を半分だけ開け、庵の中の灯りを指で小さく絞った。
「来る」
「うん」
最初の叫びは、広場の方角からだった。
「開けろ!」
続けて、何かが割れる音、走る足音、そして、火のはぜる音。
火は、いつもは友達だ。けれど、舌を間違えると敵になる。宰相の舌は、火を呼ぶ。
「走るぞ」
「待って、マリアの家……」
唇が自分で名前を出して驚いた。もうこの村に“マリア”はいないのに、昔の侍女の名が呼吸の癖で出る。
カイルは私の手を取った。強くない。離れない程度に、確かに。
「全部は助けられない。だから、今は君を助ける。君が明日、誰かを助けるために」
「わかってる」
わかってる、と言いながら、腹の底が焼ける。わかっていることほど、痛い。
庵を出ると、空が低かった。
夕焼けの朱は消え、灰色の布の向こうで赤が滲んでいる。村の端から火柱が一本、細く立ち、すぐに二本目が追いかけた。太鼓の台が倒れ、花の柱が黒く傾ぐ。
子どもの泣き声、女の叫び、男の歯の音。
私は自分の喉が締まるのを感じた。
――遅い。
いつも遅い。火は人の足より速い。
「こっちだ」
カイルは人影の少ない垣根伝いに進み、畑の畦を滑るように下った。菜の花はもう種になりかけていて、指先で触れると乾いた音で崩れた。川風が湿っていて、靴の底に泥が吸いつく。
橋の手前で私たちは一度だけ伏せ、通り抜ける兵の一団をやり過ごす。黒い上衣。統一された歩幅。王都訛りの罵声。
「レオンハルトの娘はこの村にいるはずだ」
「帳場を押さえろ。字を書く女を探せ」
喉の奥で、昼の板が粉々になる音がした。
橋の下は暗く、藻の匂いが強い。
石の腹が低く唸り、水の背が冷たい。濡れた苔が足を奪い、私は一度バランスを崩した。
カイルの手が、即座に支える。
掌と掌。骨と骨。
その瞬間、炎の音が一段高くなった。振り返ると、広場の花の柱が完全に倒れ、火が花を食べ、色を黒く飲み込んでいくところだった。
「ごめん」
謝る相手もいないのに、言葉が出た。
「ごめん、私が来たから……」
「違う。火を呼んだのは舌だ。君じゃない」
「でも、私はここにいた」
「だから、火のそばの人を増やせた。君が教えた“む”と“め”は消えない。火は紙を焼くけど、手に覚えた形は焼けない」
私は目を閉じ、歯を噛んだ。
罪悪感は、いつも正しい顔をして近づく。
でも、いつも全部正しいとは限らない。
“全部”を抱えたら、足は止まる。止まれば、もう誰も助けられない。
――歩け。
心のどこかで、父の声がした。
歩幅は小さくていい。止まらないこと。
橋を抜け、東の林へ入る。
木々が風の向きを変え、葉の裏が白く返る。夜鳥が一声だけ短く鳴き、影が地面の上を走る。
カイルは立ち止まり、耳を澄ませた。
「追う足が二つ。先行と側面。――間に合う」
「間に合うって、何に」
「見えない場所に隠れる、じゃない。見える場所で、見えない角度でやり過ごす」
意味がわかる前に、身体が動かされる。
彼は私を倒木の影へ押しやり、自分は半歩斜め前、月の欠片が落ちる場所に立った。
走ってきた兵の足音が近づき、通り過ぎる。見えている。見えているのに、こちらを見ない。
カイルの立ち位置が、視界の中心から彼らの“探したいもの”を引き剝がす位置にある。
沈黙の剣は、抜かなくても同じ働きをする。
やり過ごしたあと、彼は息だけで合図を送る。
私は頷き、倒木から身を起こした。
指が震えている。寒さではない。
村の方向で、別の家が燃えはじめたのだろう。遠い空が一瞬だけ明るい。
「……戻らないの?」
膝が勝手に前を向きながら、口が後ろを向く。
「戻れば、君を失う」
「私なんて、いつでも失える」
「俺にとっては、失えない」
返事の重さに、脚の力が抜けそうになる。
足元の土がじんわり沈む。
あぁ、ずるい。
ずるい言葉は、私の弱いところを正確に撃つ。
林を抜けると、草地が広がっていた。月の光が霜のように薄く落ち、草の先に白い輪郭が生まれる。風は川を離れて乾き、遠くで狐の鳴く声が細く割れた。
そこまで来て、やっと私は膝に手をつき、息を吐いた。吐く息が腹の底から震える。
「……ごめん。ほんとうに、置いていくの、苦しい」
「苦しいままでいい」
「どうして」
「苦しさは、次に戻る道を忘れないための杭だ。楽にしてしまうと、戻る場所が“無かったこと”になる」
泣き笑いが、喉でうまく形を作れず、変な音が出た。
「そういうところ、好き」
「実用的だからな」
「ちがう。そういう冷たさの中に、あったかい部分がちゃんとあるところ」
「……ありがとな」
彼は私の正面に立ち、両手で私の手を包んだ。
夜の中で、手の温度だけが確かだ。
背後で村が燃える。火の音は遠いのに、耳の奥で大きい。
助けられなかった人の顔が、まだ見たことのない顔まで混ざって、胸の中で増えていく。
「ミリア」
「なに」
「もう離さない」
言葉は誓いの形をしていた。
子どもの約束より重く、王の宣言より軽い。
ほどけないように、毎朝結び直す種類の結び目。
私は目を閉じ、彼の手を握り返した。
「離さないで。……私が離したくなっても、手首ごと、捕まえてて」
「捕まえる。約束だ」
息を整え、私たちは東の街道へ出た。
夜の行商の隊列が一つ、遅れて通りかかる。馬車の車輪がいびつに軋み、荷台の麻袋から穀物の匂いが漏れる。
カイルは帽子を目深に被り、私はフードの影を深くした。
行商の男が一瞥し、何も聞かずに目を逸らす。旅人は、旅人の秘密に寛容だ。
街道の分岐に差し掛かるころ、東の空がわずかに白くなった。夜が一枚だけ薄くなる。村の炎の色が、逆に鮮やかに見えた。
「王都へ向かう」
カイルの声が決まっている。
「危険は増える。でも、鍵と名前の両方が要る。舌に火の責任を取らせるには、向こうの地面に足を置く必要がある」
「向こうに、味方はいるの」
「……少しは」
彼は短く間を置き、名を出した。
「エリオットという男。昔の友人だ。俺が“第二王子”である前に、人間でいることを教えた相手」
「どういう人」
「笑うと、目が消える。怒ると、声が静かになる。約束を守るためなら、手を汚すのを恐れない。……俺よりずっと、現実に強い」
「信用できる?」
「できる。だが、彼にも守るものがある。俺たちのために“全部”は出せない。出させない」
「会えるの?」
「会う。彼は王都に潜っている。汚れた舌の近くにいるほど、綺麗な水脈に近いことがある」
私はうなずいた。
知らない名が、少しだけ体温を持つ。
“エリオット”。
私の鍵と、彼の名を、どこでどう繋げるのか。
想像は、恐怖と期待を半分ずつ連れてくる。
街道を歩くうち、背中の熱が弱くなっていく。
村の火は、やがて夜に溶け、灰になる。朝になれば、子どもたちは泣き疲れて眠り、女たちはため息を数え、男たちは土を掘り返すだろう。
私の胸の中に残るのは、罪悪感という名の重い石と、歩き続けるための軽い石。両方を同じ袋に入れて、前へ運ぶ。
夜明け前の最後の闇、私たちは古い街道沿いの礼拝堂に滑りこんだ。
屋根は穴だらけで、扉は半分崩れている。祭壇の石は苔で滑り、窓は色ガラスの半分を失っている。
それでも、そこは風を避け、息を整えられる場所だった。
私は石のベンチに腰を下ろし、首筋の汗が冷えるのを待つ。指先が勝手に震え、膝の上で小さく踊る。
「水、飲め」
カイルが皮袋を差し出す。
喉に落ちる水はぬるく、でも確かだった。
私は額を押さえ、目を閉じた。
燃える柱。落ちる花。倒れた太鼓。
――“先生”。
あの呼び声は、火で焼けない。
それが、唯一の救いだ。
「ミリア」
「なに」
「ここで少し休む。三刻。夜明けの人波に混ざる。王都の門が開く前に着くと、逆に目立つ」
「実用的だね」
「実用しかない」
私は笑い、涙を拭いた。
笑うたびに、罪悪感の輪郭が少しだけ柔らかくなる。
柔らかくなるぶん、心は次の形に入る余地をもらう。
その形の一つに、彼の手がある。
「……もう一度、言って」
「どれ」
「“もう離さない”」
彼はためらわず、私の手を取る。
礼拝堂の割れた窓から、細い月が覗く。
「もう離さない」
「うん」
眠りは、焚き火の残り火みたいに不規則に訪れ、すぐに去った。目を閉じれば火の色が浮かび、目を開ければ石の冷たさが戻る。
私はそれでも、身体を横にして呼吸を数える。
ひとつ、ふたつ、十まで。
十の後は、また一から。
数えることで、夜は短くなる。
やがて、東の窓が薄く白んだ。鳥の声が割れ、遠くで車輪の音が生まれる。
カイルは剣帯を締め、外套の紐を整えた。
私は襟を立て、花の代わりに布の端を結んだ。軽い結び目。ほどけやすい結び目。――だからこそ、結び直せる。
「行こう」
「うん」
礼拝堂を出る前、祭壇の上に小さな白い石を二つ置いた。
一つは、助けられなかった人の分。
一つは、次に助ける誰かの分。
石は軽い。軽いけれど、指に冷たい。
その冷たさを、忘れない。
外へ出ると、朝が始まっていた。
王都へ向かう道は、まだ眠い灰色で、遠くの城壁は朝露の向こうにぼやけている。
私は深く息を吸い、カイルの横に並んだ。
歩幅を合わせる。
小さくても、止まらない歩幅。
「エリオットは、どこで待ってるの」
「門の外では目立つ。内側だ。古い倉庫街。魚の匂いのする川沿い。……昔、よくさぼって怒られた場所だ」
「怒られたの?」
「王子は、よく怒られる」
「今日から、私も怒る」
「ほどほどにな」
「ううん、ちゃんと怒る。離しそうになったら、怒る。諦めそうになったら、怒る」
「約束だな」
「約束」
歩くたび、村の火は遠ざかる。
遠ざかっても、消えない。
背中のほうで、いつまでも、あの音が揺れている。
でも、前には別の音が待っている。
車輪の軋み。朝の呼び声。城壁の鎖の鳴る音。
そして、たぶん、エリオットの静かな声。
彼は怒ると、声が静かになる。
静かな怒りは、火を育てる。
私とカイルの火を、王都の風の中で消えないように。
“逃亡の夜”は、まだ終わっていない。
けれど、逃げるだけの夜ではなくなった。
握られた手の温度が、それを教えてくれる。
私は胸の鍵に触れ、前を見た。
扉は必ずある。
鍵穴を探す旅が、今、始まる。
火を連れて。結び目を連れて。涙を乾かす風を連れて。
――もう、離さない。
その言葉を、足の裏で何度も確かめながら。
市場の布は小さく震え、干された冠の名残は影の中でかすかに鳴り、パン屋の煙突から立つ煙は真っ直ぐになったかと思えばすぐ折れた。乾物屋の老婆は杖で地面を二度、静かに叩き、目を細めた。合図。――風が変わる。
「北の小径は使えない」
カイルの声は低く短い。
「東へ出て、川沿い。橋の下を抜ける。君は荷を一つだけ」
「鍵は持つ。板は置いていく」
「板は明日、子どもがまた作る」
「うん……」
私は炭で黒くなった指を井戸で洗い、濡れた手のひらに頬を押し当てる。冷たさが現実を連れてくる。棚から小さな革袋――父の鍵――を胸の内側に縫い付け直し、外套の襟を立てる。花の結び目は台の上に置いたまま。軽い約束は、戻れる場所に置いていく。
外の空気が、鉄の匂いで重くなってきた。
王都訛りの靴音。柔らかい土でも石の音を鳴らす歩き方。
カイルは扉を半分だけ開け、庵の中の灯りを指で小さく絞った。
「来る」
「うん」
最初の叫びは、広場の方角からだった。
「開けろ!」
続けて、何かが割れる音、走る足音、そして、火のはぜる音。
火は、いつもは友達だ。けれど、舌を間違えると敵になる。宰相の舌は、火を呼ぶ。
「走るぞ」
「待って、マリアの家……」
唇が自分で名前を出して驚いた。もうこの村に“マリア”はいないのに、昔の侍女の名が呼吸の癖で出る。
カイルは私の手を取った。強くない。離れない程度に、確かに。
「全部は助けられない。だから、今は君を助ける。君が明日、誰かを助けるために」
「わかってる」
わかってる、と言いながら、腹の底が焼ける。わかっていることほど、痛い。
庵を出ると、空が低かった。
夕焼けの朱は消え、灰色の布の向こうで赤が滲んでいる。村の端から火柱が一本、細く立ち、すぐに二本目が追いかけた。太鼓の台が倒れ、花の柱が黒く傾ぐ。
子どもの泣き声、女の叫び、男の歯の音。
私は自分の喉が締まるのを感じた。
――遅い。
いつも遅い。火は人の足より速い。
「こっちだ」
カイルは人影の少ない垣根伝いに進み、畑の畦を滑るように下った。菜の花はもう種になりかけていて、指先で触れると乾いた音で崩れた。川風が湿っていて、靴の底に泥が吸いつく。
橋の手前で私たちは一度だけ伏せ、通り抜ける兵の一団をやり過ごす。黒い上衣。統一された歩幅。王都訛りの罵声。
「レオンハルトの娘はこの村にいるはずだ」
「帳場を押さえろ。字を書く女を探せ」
喉の奥で、昼の板が粉々になる音がした。
橋の下は暗く、藻の匂いが強い。
石の腹が低く唸り、水の背が冷たい。濡れた苔が足を奪い、私は一度バランスを崩した。
カイルの手が、即座に支える。
掌と掌。骨と骨。
その瞬間、炎の音が一段高くなった。振り返ると、広場の花の柱が完全に倒れ、火が花を食べ、色を黒く飲み込んでいくところだった。
「ごめん」
謝る相手もいないのに、言葉が出た。
「ごめん、私が来たから……」
「違う。火を呼んだのは舌だ。君じゃない」
「でも、私はここにいた」
「だから、火のそばの人を増やせた。君が教えた“む”と“め”は消えない。火は紙を焼くけど、手に覚えた形は焼けない」
私は目を閉じ、歯を噛んだ。
罪悪感は、いつも正しい顔をして近づく。
でも、いつも全部正しいとは限らない。
“全部”を抱えたら、足は止まる。止まれば、もう誰も助けられない。
――歩け。
心のどこかで、父の声がした。
歩幅は小さくていい。止まらないこと。
橋を抜け、東の林へ入る。
木々が風の向きを変え、葉の裏が白く返る。夜鳥が一声だけ短く鳴き、影が地面の上を走る。
カイルは立ち止まり、耳を澄ませた。
「追う足が二つ。先行と側面。――間に合う」
「間に合うって、何に」
「見えない場所に隠れる、じゃない。見える場所で、見えない角度でやり過ごす」
意味がわかる前に、身体が動かされる。
彼は私を倒木の影へ押しやり、自分は半歩斜め前、月の欠片が落ちる場所に立った。
走ってきた兵の足音が近づき、通り過ぎる。見えている。見えているのに、こちらを見ない。
カイルの立ち位置が、視界の中心から彼らの“探したいもの”を引き剝がす位置にある。
沈黙の剣は、抜かなくても同じ働きをする。
やり過ごしたあと、彼は息だけで合図を送る。
私は頷き、倒木から身を起こした。
指が震えている。寒さではない。
村の方向で、別の家が燃えはじめたのだろう。遠い空が一瞬だけ明るい。
「……戻らないの?」
膝が勝手に前を向きながら、口が後ろを向く。
「戻れば、君を失う」
「私なんて、いつでも失える」
「俺にとっては、失えない」
返事の重さに、脚の力が抜けそうになる。
足元の土がじんわり沈む。
あぁ、ずるい。
ずるい言葉は、私の弱いところを正確に撃つ。
林を抜けると、草地が広がっていた。月の光が霜のように薄く落ち、草の先に白い輪郭が生まれる。風は川を離れて乾き、遠くで狐の鳴く声が細く割れた。
そこまで来て、やっと私は膝に手をつき、息を吐いた。吐く息が腹の底から震える。
「……ごめん。ほんとうに、置いていくの、苦しい」
「苦しいままでいい」
「どうして」
「苦しさは、次に戻る道を忘れないための杭だ。楽にしてしまうと、戻る場所が“無かったこと”になる」
泣き笑いが、喉でうまく形を作れず、変な音が出た。
「そういうところ、好き」
「実用的だからな」
「ちがう。そういう冷たさの中に、あったかい部分がちゃんとあるところ」
「……ありがとな」
彼は私の正面に立ち、両手で私の手を包んだ。
夜の中で、手の温度だけが確かだ。
背後で村が燃える。火の音は遠いのに、耳の奥で大きい。
助けられなかった人の顔が、まだ見たことのない顔まで混ざって、胸の中で増えていく。
「ミリア」
「なに」
「もう離さない」
言葉は誓いの形をしていた。
子どもの約束より重く、王の宣言より軽い。
ほどけないように、毎朝結び直す種類の結び目。
私は目を閉じ、彼の手を握り返した。
「離さないで。……私が離したくなっても、手首ごと、捕まえてて」
「捕まえる。約束だ」
息を整え、私たちは東の街道へ出た。
夜の行商の隊列が一つ、遅れて通りかかる。馬車の車輪がいびつに軋み、荷台の麻袋から穀物の匂いが漏れる。
カイルは帽子を目深に被り、私はフードの影を深くした。
行商の男が一瞥し、何も聞かずに目を逸らす。旅人は、旅人の秘密に寛容だ。
街道の分岐に差し掛かるころ、東の空がわずかに白くなった。夜が一枚だけ薄くなる。村の炎の色が、逆に鮮やかに見えた。
「王都へ向かう」
カイルの声が決まっている。
「危険は増える。でも、鍵と名前の両方が要る。舌に火の責任を取らせるには、向こうの地面に足を置く必要がある」
「向こうに、味方はいるの」
「……少しは」
彼は短く間を置き、名を出した。
「エリオットという男。昔の友人だ。俺が“第二王子”である前に、人間でいることを教えた相手」
「どういう人」
「笑うと、目が消える。怒ると、声が静かになる。約束を守るためなら、手を汚すのを恐れない。……俺よりずっと、現実に強い」
「信用できる?」
「できる。だが、彼にも守るものがある。俺たちのために“全部”は出せない。出させない」
「会えるの?」
「会う。彼は王都に潜っている。汚れた舌の近くにいるほど、綺麗な水脈に近いことがある」
私はうなずいた。
知らない名が、少しだけ体温を持つ。
“エリオット”。
私の鍵と、彼の名を、どこでどう繋げるのか。
想像は、恐怖と期待を半分ずつ連れてくる。
街道を歩くうち、背中の熱が弱くなっていく。
村の火は、やがて夜に溶け、灰になる。朝になれば、子どもたちは泣き疲れて眠り、女たちはため息を数え、男たちは土を掘り返すだろう。
私の胸の中に残るのは、罪悪感という名の重い石と、歩き続けるための軽い石。両方を同じ袋に入れて、前へ運ぶ。
夜明け前の最後の闇、私たちは古い街道沿いの礼拝堂に滑りこんだ。
屋根は穴だらけで、扉は半分崩れている。祭壇の石は苔で滑り、窓は色ガラスの半分を失っている。
それでも、そこは風を避け、息を整えられる場所だった。
私は石のベンチに腰を下ろし、首筋の汗が冷えるのを待つ。指先が勝手に震え、膝の上で小さく踊る。
「水、飲め」
カイルが皮袋を差し出す。
喉に落ちる水はぬるく、でも確かだった。
私は額を押さえ、目を閉じた。
燃える柱。落ちる花。倒れた太鼓。
――“先生”。
あの呼び声は、火で焼けない。
それが、唯一の救いだ。
「ミリア」
「なに」
「ここで少し休む。三刻。夜明けの人波に混ざる。王都の門が開く前に着くと、逆に目立つ」
「実用的だね」
「実用しかない」
私は笑い、涙を拭いた。
笑うたびに、罪悪感の輪郭が少しだけ柔らかくなる。
柔らかくなるぶん、心は次の形に入る余地をもらう。
その形の一つに、彼の手がある。
「……もう一度、言って」
「どれ」
「“もう離さない”」
彼はためらわず、私の手を取る。
礼拝堂の割れた窓から、細い月が覗く。
「もう離さない」
「うん」
眠りは、焚き火の残り火みたいに不規則に訪れ、すぐに去った。目を閉じれば火の色が浮かび、目を開ければ石の冷たさが戻る。
私はそれでも、身体を横にして呼吸を数える。
ひとつ、ふたつ、十まで。
十の後は、また一から。
数えることで、夜は短くなる。
やがて、東の窓が薄く白んだ。鳥の声が割れ、遠くで車輪の音が生まれる。
カイルは剣帯を締め、外套の紐を整えた。
私は襟を立て、花の代わりに布の端を結んだ。軽い結び目。ほどけやすい結び目。――だからこそ、結び直せる。
「行こう」
「うん」
礼拝堂を出る前、祭壇の上に小さな白い石を二つ置いた。
一つは、助けられなかった人の分。
一つは、次に助ける誰かの分。
石は軽い。軽いけれど、指に冷たい。
その冷たさを、忘れない。
外へ出ると、朝が始まっていた。
王都へ向かう道は、まだ眠い灰色で、遠くの城壁は朝露の向こうにぼやけている。
私は深く息を吸い、カイルの横に並んだ。
歩幅を合わせる。
小さくても、止まらない歩幅。
「エリオットは、どこで待ってるの」
「門の外では目立つ。内側だ。古い倉庫街。魚の匂いのする川沿い。……昔、よくさぼって怒られた場所だ」
「怒られたの?」
「王子は、よく怒られる」
「今日から、私も怒る」
「ほどほどにな」
「ううん、ちゃんと怒る。離しそうになったら、怒る。諦めそうになったら、怒る」
「約束だな」
「約束」
歩くたび、村の火は遠ざかる。
遠ざかっても、消えない。
背中のほうで、いつまでも、あの音が揺れている。
でも、前には別の音が待っている。
車輪の軋み。朝の呼び声。城壁の鎖の鳴る音。
そして、たぶん、エリオットの静かな声。
彼は怒ると、声が静かになる。
静かな怒りは、火を育てる。
私とカイルの火を、王都の風の中で消えないように。
“逃亡の夜”は、まだ終わっていない。
けれど、逃げるだけの夜ではなくなった。
握られた手の温度が、それを教えてくれる。
私は胸の鍵に触れ、前を見た。
扉は必ずある。
鍵穴を探す旅が、今、始まる。
火を連れて。結び目を連れて。涙を乾かす風を連れて。
――もう、離さない。
その言葉を、足の裏で何度も確かめながら。
74
あなたにおすすめの小説
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
『追放令嬢は薬草(ハーブ)に夢中 ~前世の知識でポーションを作っていたら、聖女様より崇められ、私を捨てた王太子が泣きついてきました~』
とびぃ
ファンタジー
追放悪役令嬢の薬学スローライフ ~断罪されたら、そこは未知の薬草宝庫(ランクS)でした。知識チートでポーション作ってたら、王都のパンデミックを救う羽目に~
-第二部(11章~20章)追加しました-
【あらすじ】
「貴様を追放する! 魔物の巣窟『霧深き森』で、朽ち果てるがいい!」
王太子の婚約者ソフィアは、卒業パーティーで断罪された。 しかし、その顔に絶望はなかった。なぜなら、その「断罪劇」こそが、彼女の完璧な計画だったからだ。
彼女の魂は、前世で薬学研究に没頭し過労死した、日本の研究者。 王妃の座も権力闘争も、彼女には退屈な枷でしかない。 彼女が求めたのはただ一つ——誰にも邪魔されず、未知の植物を研究できる「アトリエ」だった。
追放先『霧深き森』は「死の土地」。 だが、チート能力【植物図鑑インターフェイス】を持つソフィアにとって、そこは未知の薬草が群生する、最高の「研究フィールド(ランクS)」だった!
石造りの廃屋を「アトリエ」に改造し、ガラクタから蒸留器を自作。村人を救い、薬師様と慕われ、理想のスローライフ(研究生活)が始まる。 だが、その平穏は長く続かない。 王都では、王宮薬師長の陰謀により、聖女の奇跡すら効かないパンデミック『紫死病』が発生していた。 ソフィアが開発した『特製回復ポーション』の噂が王都に届くとき、彼女の「研究成果」を巡る、新たな戦いが幕を開ける——。
【主な登場人物】
ソフィア・フォン・クライネルト 本作の主人公。元・侯爵令嬢。魂は日本の薬学研究者。 合理的かつ冷徹な思考で、スローライフ(研究)を妨げる障害を「薬学」で排除する。未知の薬草の解析が至上の喜び。
ギルバート・ヴァイス 王宮魔術師団・研究室所属の魔術師。 ソフィアの「科学(薬学)」に魅了され、助手(兼・共同研究者)としてアトリエに入り浸る知的な理解者。
アルベルト王太子 ソフィアの元婚約者。愚かな「正義」でソフィアを追放した張本人。王都の危機に際し、薬を強奪しに来るが……。
リリア 無力な「聖女」。アルベルトに庇護されるが、本物の災厄の前では無力な「駒」。
ロイド・バルトロメウス 『天秤と剣(スケイル&ソード)商会』の会頭。ソフィアに命を救われ、彼女の「薬学」の価値を見抜くビジネスパートナー。
【読みどころ】
「悪役令嬢追放」から始まる、痛快な「ざまぁ」展開! そして、知識チートを駆使した本格的な「薬学(ものづくり)」と、理想の「アトリエ」開拓。 科学と魔法が融合し、パンデミックというシリアスな災厄に立ち向かう、読み応え抜群の薬学ファンタジーをお楽しみください。
社畜OLが異世界転生したら、冷酷騎士団長の最愛になっていた
タマ マコト
ファンタジー
過労死寸前の社畜OL・神谷美咲が、目を覚ますと中世風の王国《アルセリア》の伯爵令嬢エレナに転生していた。
混乱の中で出会ったのは“冷酷”と恐れられる騎士団長ルーカス。
命を狙われ、家は「魔女の血」と噂される中、美咲は社畜仕込みの“段取り力”と現代知識で必死に状況を整理しながら生き延びようとする。
だが、冷たく見えたルーカスの瞳に隠された優しさを知り、彼の鎧の下にある孤独に惹かれていく。
「守られるだけじゃなく、働いて、この世界で生きていく」――
異世界での再スタートが、静かに始まる。
ゲームちっくな異世界でゆるふわ箱庭スローライフを満喫します 〜私の作るアイテムはぜーんぶ特別らしいけどなんで?〜
ことりとりとん
ファンタジー
ゲームっぽいシステム満載の異世界に突然呼ばれたので、のんびり生産ライフを送るつもりが……
この世界の文明レベル、低すぎじゃない!?
私はそんなに凄い人じゃないんですけど!
スキルに頼りすぎて上手くいってない世界で、いつの間にか英雄扱いされてますが、気にせず自分のペースで生きようと思います!
契約結婚のはずが、気づけば王族すら跪いていました
言諮 アイ
ファンタジー
――名ばかりの妻のはずだった。
貧乏貴族の娘であるリリアは、家の借金を返すため、冷酷と名高い辺境伯アレクシスと契約結婚を結ぶことに。
「ただの形式だけの結婚だ。お互い干渉せず、適当にやってくれ」
それが彼の第一声だった。愛の欠片もない契約。そう、リリアはただの「飾り」のはずだった。
だが、彼女には誰もが知らぬ “ある力” があった。
それは、神代より伝わる失われた魔法【王威の審判】。
それは“本来、王にのみ宿る力”であり、王族すら彼女の前に跪く絶対的な力――。
気づけばリリアは貴族社会を塗り替え、辺境伯すら翻弄し、王すら頭を垂れる存在へ。
「これは……一体どういうことだ?」
「さあ? ただの契約結婚のはずでしたけど?」
いつしか契約は意味を失い、冷酷な辺境伯は彼女を「真の妻」として求め始める。
――これは、一人の少女が世界を変え、気づけばすべてを手に入れていた物語。
追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす
yukataka
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。
婚約者を姉に奪われ、婚約破棄されたエリーゼは、王子殿下に国外追放されて捨てられた先は、なんと魔獣がいる森。そこから大逆転するしかない?怒りの
山田 バルス
ファンタジー
王宮の広間は、冷え切った空気に満ちていた。
玉座の前にひとり、少女が|跪い《ひざまず》ていた。
エリーゼ=アルセリア。
目の前に立つのは、王国第一王子、シャルル=レインハルト。
「─エリーゼ=アルセリア。貴様との婚約は、ここに破棄する」
「……なぜ、ですか……?」
声が震える。
彼女の問いに、王子は冷然と答えた。
「貴様が、カリーナ嬢をいじめたからだ」
「そ、そんな……! 私が、姉様を、いじめた……?」
「カリーナ嬢からすべて聞いている。お前は陰湿な手段で彼女を苦しめ、王家の威信をも|貶めた《おとし》さらに、王家に対する謀反を企てているとか」
広間にざわめきが広がる。
──すべて、仕組まれていたのだ。
「私は、姉様にも王家にも……そんなこと……していません……!」
必死に訴えるエリーゼの声は、虚しく広間に消えた。
「黙れ!」
シャルルの一喝が、広間に響き渡る。
「貴様のような下劣な女を、王家に迎え入れるわけにはいかぬ」
広間は、再び深い静寂に沈んだ。
「よって、貴様との婚約は破棄。さらに──」
王子は、無慈悲に言葉を重ねた。
「国外追放を命じる」
その宣告に、エリーゼの膝が崩れた。
「そ、そんな……!」
桃色の髪が広間に広がる。
必死にすがろうとするも、誰も助けようとはしなかった。
「王の不在時に|謀反《むほん》を企てる不届き者など不要。王国のためにもな」
シャルルの隣で、カリーナがくすりと笑った。
まるで、エリーゼの絶望を甘美な蜜のように味わうかのように。
なぜ。
なぜ、こんなことに──。
エリーゼは、震える指で自らの胸を掴む。
彼女はただ、幼い頃から姉に憧れ、姉に尽くし、姉を支えようとしていただけだったのに。
それが裏切りで返され、今、すべてを失おうとしている。
兵士たちが進み出る。
無骨な手で、エリーゼの両手を後ろ手に縛り上げた。
「離して、ください……っ」
必死に抵抗するも、力は弱い。。
誰も助けない。エリーゼは、見た。
カリーナが、微笑みながらシャルルに腕を絡め、勝者の顔でこちらを見下ろしているのを。
──すべては、最初から、こうなるよう仕組まれていたのだ。
重い扉が開かれる。
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる