平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第15話 「最後の夜明け」

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 夜は薄紙みたいに裂けかけていて、王宮の石壁は冷たく汗をかいていた。
 広場に貼った写しは一晩で噂になり、兵の動きはぎこちなくなった。けれど、宰相は動いた。――カイルが捕らえられたのは、夕刻と夜のあいだの時間。市井に“王の病”を口実に外出を禁じさせ、路地の角で待っていた網で彼の行く手を挟んだ。

(罠だ、と分かっていたはずなのに)
 悔しさを呑み込み、私は南階の古井戸へ戻っていた。
 鍵合わせは一度、私たちに扉を開いた。なら、もう一度開く。今度は――ひとりで。

 膝をつき、父の鍵を歯の角度で確かめる。
 石の縁の浅い溝に、ぴたり。
 押す、回す。
 「く」と短く鳴って、蓋がわずかに浮く。乾いた空気が頬を撫で、暗闇の中に古い梯子の輪郭が現れた。

 深呼吸。
 私は胸の内側、縫い付けた革袋を指で叩く。密書の原本はここに。――でも今夜は掲げない。救い出すことが先。
 足を掛け、石の腹の中へ降りた。湿りと苔の匂い、遠くで落ちる水の音。狭い通路を手探りで進むと、古い格子で塞がれた横穴が現れる。錆びた蝶番。父の鍵の、別の歯。
 「お願い」
 囁きながら回すと、格子はため息を吐くように開いた。

 地上への出口は、王宮の警備が薄くなる古い書庫の裏に続いている。
 通路の最後の板を押すと、埃が舞い、暗い棚が並ぶ匂いが流れ込んだ。
 私は耳を澄ます。足音なし。夜番の交代の谷間。
 一本線の呼吸で、床へ身体を滑らせる。

 廊下に出ると、空気が変わった。
 広い。冷たい。音が遠くまで届く。
 私は裾を結び直し、滑るように影から影へ移る。
 牢は南階の奥、半分忘れられた翼の地下にある。――王族を“生かしたまま”封じるための場所。
 そこへ向かう角を、二つ目までは綺麗に曲がれた。三つ目の角で、細く笑う声が、真横から生まれた。

「……遅かったな、アメリア」

 皮膚の裏が冷える。
 振り向く。
 月明かりの入らない石の角に、黒い外套。
 灰色がかった金の髪、きちんと撫で付けた癖、冬みたいに乾いた笑い。
 アルヴィン。

「宰相の手紙は、読ませてもらったよ」
 彼は軽く肩をすくめる。
「君の字は相変わらず整っている。市井の女にしては、ね」

「褒め言葉には聞こえないけど」

「褒めているさ。――君はいつも“正しい書式”を守る。だから、壊しやすい」

 胸の奥で何かが古い癖で震えそうになり、私は自分の肩を両手で押さえた。
 ここで昔の鼓動に戻ったら、負ける。

「カイルはどこ」

「殿下? そこまで言うなら、“第二王子”と呼ぼうか」
 アルヴィンの笑みが深くなる。
「地下。檻。朝になれば、宰相の“言い分”が整う。王は病、第一王子は市井へ慈悲、第二王子は“市井の扇動者に誘導された”とね。君の紙が役に立つ」

 吐き気が込み上げる。
 でも、吐かない。
 吐くのは言葉だけ。

「あなたはいつから宰相の舌で話すようになったの」

「最初から?」
 即答。
「私は“王宮の秩序”に仕える。秩序は舌で動く。剣は舌の従者だ。……君の父上がそれを理解しなかった。だから夜に扉が破られた」

 胸の鍵がきしむ音がした。
 私は一歩近づく。彼の香りは変わっていない。刃物油と乾いた紙の匂い。
「ねぇ、アルヴィン。あなたが私を好きだった時、あった?」

 一瞬、彼の瞼が止まる。
 そして、笑いが戻る。
「君はいつも問いが急だ。……あった、と思っていた。だが、今は違う。私は秩序を、君は“今の君”を、殿下は“人としての世界”を。――それぞれが“好き”なもののために、互いを切る。その程度の話だ」

「程度、ね」

 喉が熱い。
 私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたの言う秩序が、私の家を焼いた。母の声を“未遂”の文字で埋めた。父の机を夜に割った。――秩序の舌がしたことよ」

「君は感傷に強い」

「違う。記録に強いの」
 私は外套の内側を叩く。
「だから、今夜ここを通る。カイルを連れ出す。あなたの舌を書き換えるために」

 アルヴィンはあからさまにうなずいた。
「大胆だ。感心はする。だが、君はひとりだ。私はここにいる。曲がり角の先には二人、階段の上に三人。さらに下には犬。君の鍵は石の蓋を開けるけれど、人の目は閉じない」

「そう?」
 私は一歩、彼のほうへ足を出した。
 彼は半歩だけ退く。癖。踵に重心を置き、刃を引いて抜きやすくする“騎士の退き”。
 私はその癖ごと、言葉で踏んだ。

「アルヴィン。あなたのような人間に、もう私は縛られない」

 石壁が、わずかに音を返した。
 自分の声がこんなに静かに届くのを、初めて知った。
 アルヴィンの眉がほんの少し下がる。
 そして、彼は微笑の端を上げ、右手を上げて指を鳴らした。

 足音。
 階段の上から三人、角の先から二人。
 槍が横になる。
 私は息を吸い、吐き、背筋を伸ばした。
「――通して」

「条件は?」

「あなたが今の私の目を、昔の私の名で呼ばないこと」

 兵が笑う。アルヴィンは笑わない。
 その無表情が合図で、彼は剣を半分だけ抜いた。音は出ない。鞘口の縁が金属を舐めるだけ。
「残念だ。通れないよ、アメリア」

「ミリア、よ」

「同じだ」

「違う。――今は、違う」

 私は背中の袋から粗末な紐束を取り出した。市場で荷綱に使う、乾いた麻。
 兵の槍が一斉に向きを変える瞬間、私は足元の大理石の柱の根元に綱を投げ、引いた。
 床面に残っていた古い掃除用の滑り粉が、綱に乗って広がる。
 兵たちの足がほんの一瞬、もつれる。
 アルヴィンの目が細く光る――驚きではない、計算の乱れ。
 私はその隙に、真横の装飾柱の陰へ滑り込み、階段の手すりの下を潜った。
 槍の先が髪を掠め、冷たさが頬に線を引く。
 アルヴィンの剣が“打たない軌道”で私を止めに来るが、私は止まらない。止まったら昔に戻る。
 踵で綱を踏む。兵の足と絡む。
 ――一拍。

「今だ」

 自分の声と、別の声が重なった。
 廊下の向こう、古い扉が「き」と鳴き、影が一つ飛び出してくる。
 エリオット。
 彼は私を見ると目を細め、何も言わずに角の二人の足を“滑らせ”、壁に肩を打たせた。
 私の背中に空気の通り道が生まれる。
「半分、借りた」
「返して」
「努力する」

 私は階段を一段、二段、三段――数えながら駆け降りる。心臓は喉に、喉は火に。
 地下の通路は石が湿っていて、灯火はまばら。
 鉄の匂い。錆の匂い。
 檻の列。
 端から三番目に、彼の影。

「カイル!」

 顔が上がる。
 目は一点の揺らぎもなく、私を見た。
 手枷。足枷。鎖は新しい。
「来るな。上は――」
「来た。だから、連れて帰る」

 錠前は二重。
 私は父の鍵を再び指に馴染ませ、歯を合わせる。
 回す。――固い。
 もう一度、深く息を吐いて、首と肩の力を落とし、腕だけで押し込む。
 「く」と音がして、最初の錠が外れた。

「ミリア」
「なに」
「離れるな」

「離れない」

 二つ目の錠に歯を移した瞬間、背後の空気が鋭く裂けた。
 金属の呼吸。
 振り向かずに身を低くし、柱の陰へ肩を打ちつけるように滑る。
 槍の穂先が私のいた空間を切り裂き、石床に火花。
 アルヴィンが、降りてきた。
 影が伸び、声が落ちる。

「君の鍵は万能じゃない」
「万能なのは、人の舌のほうでしょ」
「自覚があるなら尚更、ここで終わるべきだ」

 彼は剣を構えない。
 構えないことが、構えだった。
 私は鍵を握り、鎖に手を添えたまま、彼を見る。
「ねぇ、アルヴィン。あなたは秩序のために私を切ると言った。でも、秩序“のため”に、今ここで私を見逃す選択はできないの?」
「できない」
「どうして」
「“未遂”を本物にしないためだ。君を逃せば、宰相の舌は“王族同士の内戦”を捏ねる。秩序は崩れる。――だから、私は切る」

「切れるなら、切りなよ」

 喉が震えたが、声は震えなかった。
 私は鍵を残りの錠に当て、指先で歯を探る。
 アルヴィンが一歩。
 彼の剣が“沈黙”の軌道で近づく。
 私の肩に鋼の影が落ちる瞬間――鎖が軽く鳴って、錠が外れた。

 カイルが立ち上がる。
 手枷は残っている。が、彼は足枷を鎖ごと引きちぎり、鎖を逆手に取った。
 剣ではない。
 けれど、彼の手にかかると、鎖は剣のように空気を切る。

「下がれ、ミリア」

 鎖がうなり、アルヴィンの剣が一拍、遅れる。
 遅れた剣は、追いつく前に角度を変えさせられる。
 金属が触れ合い、火花が石の湿りにすぐ消える。
 私は檻の鍵を外し切り、扉を開け、手枷の錠に鍵を回す。
 震える指では回らない。
 息を合わせる。
 手の震えは恐怖じゃない。速度だ。
 「く」
 外れる。
 カイルの手が自由になり、鎖はただの重りに戻る。
 彼はそれを床に置き、素手でアルヴィンを見た。

「アルヴィン」
「殿下」
「秩序を掲げるなら、秩序の根を見ろ。舌が火を作り、人に責任を着せる“秩序”は、秩序じゃない。――影の稽古だ」
「理想で人は救えません」
「現実だけでも、救えない」

 二人の距離が半歩縮まり、半歩開いた。
 アルヴィンの刃は正確で、カイルの空身は薄く、重い。
 私は間に割って入らない。入れば、昔の私になる。
 かわりに、廊下の奥――階段の上へ向けて声を放つ。

「上にいる兵! この錠前を見なさい。レオンハルトの鍵合わせでしか開かない古い型! “未遂”を夜に作った舌は、昼に壊れる!」
 返事はない。
 でも、足音が一瞬だけ迷う。
 迷いは、秩序を遅らせる。

 アルヴィンの剣が低く走る。
 カイルがその刃を腕で受け、石の壁へ滑らせ、手首の角度だけで“打たせない”。
 剣が剣でない音を出し、アルヴィンの肘が強張る。
 次の瞬間、カイルの左手がアルヴィンの胸当ての紐を掴み、半歩だけ引いて、半歩だけ戻す。
 足の重心が崩れ、アルヴィンの膝が石を噛んだ。
 剣が鳴り、床で跳ね、止まる。
 私は駆け寄らない。
 ただ、言葉を置く。

「終わりにしよう、アルヴィン。あなたは宰相の舌で“正しさ”を語るけど、私たちは“生きるための正しさ”を選ぶ。私はもう、あなたには縛られない」

 アルヴィンは息を吐き、天井を見た。
 目に涙はない。
 ただ、疲れがあった。
「……君は、強くなった」
「周りが、強くしてくれた」
 エリオットの影が階段の上で揺れ、老婆の杖の音が遠くで二度、脳裏で鳴る。
 子どもたちの“お”の尾っぽ。
 火の前で交わした、軽くて強い結び目。
 全部が、私の骨になった。

「行こう」

 カイルが言い、私の手を取る。
 私たちは地下の別通路へ向かう。
 アルヴィンは動かない。
 私たちも、振り返らない。
 振り返れば、昔に引かれる。
 昔は、もう書き終えた。

 通路を抜けると、東の空がかすかに白んでいた。
 夜の底が薄くなり、鳥の声が一度だけ割れ、遠くの塔が輪郭を取り戻す。
 最後の夜明け。
 王都はまだ嘘を口にし、舌はまだ影を作る。
 それでも、私の手は鍵を持ち、彼の手は剣を持たず、私たちの足は前を選ぶ。

「ミリア」
「なに」
「もう少しで、王に会う夜が来る。……たぶん、それは“王でなくてはならない夜”だ」
「うん。私も舌を持つ。紙を持つ。火を守る」

「離さない」
「離さないで」

 東の雲が一枚、薄く剥がれた。
 私たちは影の道を早足で渡り、門の外へ走る準備をする。
 背後で、遠くの鐘が一度だけ鳴った。
 最後の夜明けが始まった。
 この夜に終わりを、次の朝に始まりを。
 鍵はここに。
 言葉はここに。
 手は、もう縛られていない。

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