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第9話:噂が走る、無名の治療師に客が来る
しおりを挟む奇跡は、村でも噂になる。
噂は風より軽く、遠くまで広がる。
誰かが助かった、という話は、畑の端から酒場の隅へ、洗濯場から隣村の井戸端へ、音もなく滑っていく。
ジョシュの熱が下がった翌日、バルトンが言ったらしい。
「ライルのとこに行け。あそこは、もう“ただの治療師”じゃない」
“もう”って言葉が、怖かった。
変化を示す言葉は、注目を呼ぶ。
注目は、いつか刃になる。
最初に来たのは、旅商人だった。
黒い外套に雨の泥を跳ねさせて、馬車を停め、顔色の悪い男が玄関先で膝をついた。
「ここ、治療師の家か……? 頼む、背中が……刺すみたいに痛くて……」
ライルが外に出て、落ち着いた声で言う。
「中へ。まず座れ。ミラ、湯を」
「はい」
ミラは慣れた手つきで水を沸かす。
エリシアは部屋の隅、棚の影から様子を見る。
七歳の時の熱病騒ぎから、もう少し時間が経っていた。
彼女は十歳に近づいている。身体はまだ小さいけれど、目だけは大人みたいに冷える時がある。
旅商人の背中の痛みは、古い荷運びの傷と冷えが原因だった。
ライルは揉みほぐし、温め、炎症の草を出す。
そしてその夜、エリシアが小さな器を差し出した。
「……これ」
薄荷と、セージと、ほんの少しの刺激薬。
血の巡りを“押し出す”方向に寄せた薬。
ライルが一瞬だけ迷う顔をした。
それでもエリシアの目を見ると、黙って頷いた。
「飲めるか」
「なんだこれ、匂い強いな……」
「効く」
ライルは余計なことを言わない。
言わないことで、エリシアのやり方を守っている。
旅商人は半信半疑で飲んだ。
しばらくして、背中を押さえたまま目を見開いた。
「……うそだろ。痛みが、ほどける……」
その顔が、次の日には村の外に運ばれていく。
彼が旅商人であることが、一番まずかった。
旅商人の口は、街道を走る噂の荷馬車だ。
次に来たのは兵士の遺族だった。
夫を戦で失った若い女。抱えた赤子は痩せていて、泣く声も弱い。
女の目は、空っぽで、それでも必死で。
「母乳が出ないんです。眠れなくて……赤ちゃんが……」
ミラが女の肩に手を置く。
「まず座って。呼吸しよ。ね?」
ライルは赤子を抱き上げ、体温と呼吸を確かめる。
エリシアはその女の匂いを嗅いだ。
『枯れてる』
『乾いてる』
『怖がってる』
薬は、身体だけじゃない。
心の詰まりも、匂いになって出る。
エリシアはカモミールを煮て、少し甘く整えた。
眠りの匂い。落ち着きの匂い。
“眠れ”と囁く匂い。
女がそれを飲み、泣くみたいに肩を震わせた。
「……寝ても、いいんですか」
「寝なきゃ、出るもんも出ない」
ミラが、ぶっきらぼうに言う。
そのぶっきらぼうは、優しさの形だ。
女は初めて、息を吐いた。
赤子も少しだけ落ち着き、眠った。
「……ありがとうございます」
女の声は、砂みたいに乾いているのに、涙だけが温かかった。
貧しい母子も来た。
農作業で手が荒れ、ひび割れから膿む母。
咳が止まらない子。
栄養が足りず、目がくすんだ老人。
エリシアは治し続けた。
誰にも“自分がやった”と言わずに。
名前を売るつもりはない。
売った瞬間、値札がついて、奪われる。
それでも結果は勝手に広がる。
治った人が歩けば、噂も歩く。
救われた人が泣けば、噂は強くなる。
ある日の夕方、ミラが戸口で腕を組んだまま言った。
「ねえ、さすがに多すぎない?」
「断れない」
ライルは短く返す。
その言い方には疲れが混ざっていた。
家の薬草棚は少ない。薬材は貴重。
それでも断れない。断ったら、誰かが死ぬ。
エリシアは黙って、干し棚の薬草を見た。
匂いが言葉になる。
だから取捨選択ができる。
“今必要なもの”を、匂いで選べる。
でも――
(私がやればやるほど、見つかる)
見つかる。
その言葉が胸の奥をなぞる。
ラウフェン家に見つかる。
薬師協会に見つかる。
誰かに“これは面白い”と思われた瞬間、終わる。
終わる、はずなのに。
(……見つけてほしい)
矛盾が胸の中で絡まる。
復讐心は燃え上がらない。
刃にならない。
代わりに、背中に差した剣みたいに重い。
歩くたびに、存在を主張する。
*
その日、馬車の音が村の入り口で止まった。
いつもの荷馬車とは違う。車輪の音が硬い。
馬の蹄が揃っている。
"人の場所に踏み込むことに慣れている者の馬車”の音。
エリシアは窓の隙間から外を見た。
黒い外套の男が降りた。
背筋が真っ直ぐで、靴が汚れていない。
村の泥を踏むのに躊躇いがある歩き方。
護衛らしい男が二人、少し離れて立つ。
胸の奥の鈴が鳴った。
チリン。冷たい音。
警戒の音。
「……客?」
ミラが言う。
ライルは何も言わず、戸を開けた。
「治療の依頼なら順番だ」
ライルの声は淡々としている。
だがその背中は少し硬い。
相手が“普通の村人”じゃないと感じている。
黒外套の男は、礼儀正しく頭を下げた。
「私は王都薬師協会の使いだ。名を、ヘンリクという」
その名を聞いた瞬間、エリシアの喉が乾いた。
王都。薬師協会。
どちらも前世の鎖の匂いがする。
「薬師協会?」
ミラが眉を寄せる。
ライルの目が細くなる。
「うちは協会登録の薬師じゃない」
「承知している」
ヘンリクは淡々と言った。
声が平坦で、言葉が硬い。
“職務”の声だ。
「だが、この村に奇妙な薬師がいると聞いた」
奇妙な薬師。
エリシアの背中に冷たい汗が流れた。
その言葉は、興味を示す言葉だ。
興味は刃になる。
エリシアは物陰に身を潜めたまま、息を殺した。
視線だけで状況を追う。
心臓が早い。
喉が乾いて、唾が飲み込めない。
ライルが一歩前に出る。
「奇妙、ね。具体的には」
「熱病を数刻で落としただとか、古傷の痛みを一晩で消しただとか、毒草を使っただとか」
毒草。
その単語が出た瞬間、エリシアの胃がきゅっと縮んだ。
あの夜の匂い。
ミラの青ざめた顔。
ライルの腕から腐りの匂いが消えた瞬間。
(もう、そこまで来てる)
噂は尾ひれをつける。
“毒草を使った”という部分だけが独り歩きし、面白がられる。
ミラが口を開く前に、ライルが言った。
「ここは治療師の家だ。変な薬師はいない」
「……なら確認させてほしい」
ヘンリクは一枚の書状を出した。
薬師協会の印。
その印の形が、エリシアの記憶の奥を刺す。
ラウフェン家の薬室。監督官。試験。古い教本。
全部が一度に戻ってくる。
エリシアは思わず、棚の影で膝を抱えた。
子どもの身体なのに、心だけが十七歳の夜へ引きずられる。
(見つかったら、どうなる)
また殺される。
また奪われる。
そう思うのに――胸の奥の鈴が鳴るだけで、足がすくまない。
(……でも、見つけてほしい)
矛盾が胸の中で絡まり、呼吸が苦しくなる。
復讐心は刃にならない。
代わりに背中の剣が重くなる。
抜けば終わる。
抜かなくても痛い。
ライルが書状を受け取り、目を通した。
その横でミラが小声で言う。
「ライル、断りなよ。嫌な予感しかしない」
「分かってる」
ライルも小声で返す。
彼の表情は穏やかだが、目だけが鋭い。
「ヘンリク殿。確認とは?」
「治療の工程を見せてもらう。協会として、危険な調合が行われていないか確認する義務がある」
義務。
その言葉は、正義の顔をしている。
だから厄介だ。
正義は、個人の事情を踏み潰す。
ミラが耐えきれずに言った。
「危険な調合って何よ。ここに来る人は、みんな助けを求めてる。危険だろうが何だろうが、助けなきゃ死ぬの!」
ヘンリクは一瞬だけ眉を動かした。
感情の揺れ。
でもすぐ職務の顔に戻る。
「だからこそ、危険な調合は止めねばならない。助けるために殺すこともある。協会はそれを防ぐ」
正論。
正論の刃。
エリシアは唇を噛んだ。
前世でも正論で殴られた。
“家のため”
“体系のため”
“安全のため”
全部、正しい顔をしていた。
だから反論できなかった。
ライルが息を吐いた。
「……分かった。だが、治療の現場は見せても、配合までは見せない。うちは協会に所属してない」
「所属していなくとも、危険があるなら介入する」
ヘンリクの声は揺れない。
空気が張り詰めた。
雨の匂いが少し濃くなる。
外套の布が擦れる音が大きく聞こえる。
そのとき、寝室から咳の音がした。
今日来ていた貧しい母子の子どもが、また咳き込んだのだ。
治療は続いている。
止められない。
止めたら、目の前で苦しむ。
ライルが、静かに言った。
「……治療が先だ。見たいなら、邪魔をするな」
ヘンリクは一瞬だけ迷った。
彼も人間だ。
目の前の咳の音は、職務より重い時がある。
「……承知した。だが、私は帰らない。ここで見届ける」
「勝手にしろ」
ライルが吐き捨てるように言い、奥へ向かった。
ミラも後を追う。
ヘンリクは玄関先で靴を脱ぎ、静かに中へ入る。
エリシアは影から、その背中を見つめた。
喉が乾く。
息が浅くなる。
見つかる恐怖が、皮膚の裏側を這う。
でも同時に、胸の奥で鈴が鳴る。
チリン。
冷たい音。
その音は「逃げろ」と言わない。
「まだ終わらせるな」と言う。
(来たんだ)
王都の匂いが。
前世の鎖の匂いが。
自分を殺した世界の匂いが。
見つかりたくない。
なのに、見つけてほしい。
その矛盾が、エリシアの胸で絡まり、ほどけないまま熱を持つ。
エリシアは影の中で、そっと拳を握った。
小さな拳。
でも中身は、十七歳の夜を越えてきた拳。
(今度は、奪われない)
そう心の中で言った瞬間、背中の剣が少しだけ軽くなった気がした。
抜かない。
抜かなくても、前に進む。
その覚悟の音が、鈴と重なって鳴った。
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