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第17話:兄の敗北、模倣の限界
しおりを挟むラウフェン家の薬室は、静かすぎた。
以前は薬草を刻む音が絶えず、瓶を並べる音がリズムになり、見習いたちの足音が床を温めていた。
今は――空気が乾いている。
乾いた空気は音を殺す。
音が死ぬと、家の心臓も止まったみたいに感じる。
ルーカス・ラウフェンは、その静けさの中心にいた。
机の上に並ぶのは、協会から流れてきた“標準処方”の写し。
救護所で使われた調合の手順。
そして、どこからか手に入れた〈エリ〉の薬の小瓶。
透明に近い薄い黄金色。
匂いは強く、刺すようで、でもどこか“抜ける”方向を持っている。
ルーカスはその瓶を握りしめた。
指先が白くなるほど。
掴んだつもりになりたい。
でも、掴めない。
「……再現する」
声に出して、命令するように自分に言う。
言葉で世界を従わせる癖が、まだ抜けていない。
「再現できれば、ラウフェンは戻る。父上も、協会も――」
そこまで言って、喉が詰まった。
“戻る”という言葉は、もう希望じゃない。
焦りの裏返しだ。
彼は分析を始めた。
色、粘度、沈殿、香り。
薄荷。セージ。炎症を抑える草。
それらは分かる。
教本に載っている材料だから。
問題は、そこじゃない。
同じ材料を揃えても、同じ結果にならない。
ルーカスは鍋に水を張り、火にかけた。
温度計で温度を測る。
時間を計る。
分量を計る。
それは完璧だ。
完璧に教本通りだ。
なのに、出来上がった液は“効く匂い”にならない。
刺す。
ただ刺すだけ。
抜けない。
通らない。
「……なぜだ」
ルーカスは歯を食いしばる。
再度やり直す。
比率を変える。
煮る時間を変える。
冷ます速度を変える。
それでも、結果は同じだった。
効かないわけではない。
だが、“あの奇跡みたいな効き”に届かない。
熱は少し下がる。
咳は少し楽になる。
でも救護所で起きた、あの目に見える回復――
汗が出て、息が戻って、顔が戻るあの瞬間が起きない。
ルーカスの額に汗が浮いた。
汗は努力の汗じゃない。
恐怖の汗だ。
(同じ材料なのに)
(同じ手順なのに)
(同じはずなのに)
彼の手は“教本の正解”しか知らない。
世界は“正解”で出来ていると信じてきた。
正解は上にあって、下はそれをなぞるだけ。
なぞれた者が優秀で、なぞれない者が無能。
その体系の中で、ルーカスはいつも勝ってきた。
だから今、理解できない。
〈エリ〉は、正解をなぞっていない。
正解を再定義している。
毒と薬の境界を溶かし、方向を変え、流れを読む。
匂いを言葉として扱う。
触感を答えとして扱う。
それは、教本にない。
教本にないものは、ルーカスにとって“存在しない”はずだった。
存在しないはずのものが、世界を動かす。
それが、彼の心を焼く。
「……っ」
ルーカスは出来損ないの薬瓶を壁に投げつけた。
ガラスが割れ、床に散り、匂いが広がる。
薄荷の香りが一瞬、部屋を冷やした。
でも冷えるのは空気だけで、彼の内側は燃えている。
「ふざけるな……!」
叫びが、薬室に反響する。
反響して戻ってくる音が、やけに空っぽだ。
叫べば叫ぶほど、自分の中身の無さが響く。
扉が開いた。
老いた薬師の監督役――協会から派遣された検査官が、静かに入ってきた。
灰色の髪。冷たい眼差し。
この家に礼儀を払わない眼差し。
「……また失敗か」
淡々とした声。
淡々としているからこそ、残酷だ。
「黙れ」
ルーカスが吐き捨てる。
「お前らが持ち込んだ処方が曖昧なんだ。正確な手順が――」
「手順は正確だ」
検査官は即答した。
「正確に書かれている。足りないのは、君の理解だ」
理解。
その言葉が、ルーカスの胸を刺す。
自分は理解している側だと信じてきた。
理解できない側は、あの出来損ない――追放した妹のはずだった。
ルーカスの喉が鳴る。
「理解、だと……?」
検査官は机の上の瓶を見た。
未完成の薬。
匂いが刺すだけの液体。
「君は優秀だった」
その言葉に、ルーカスの肩がわずかに緩む。
褒められた。
それだけで、心がまだ求めてしまう。
だが次の言葉が、首を落とした。
「でも、時代が変わった」
静かに言われた。
だから逃げられない。
「君の優秀さは、既存の正解を完璧に模倣する優秀さだ。だが今、求められているのは“正解を作る力”だ」
正解を作る。
その領域に、ルーカスは立ったことがない。
立つ必要がなかった。
名門の中では、正解は最初からあるものだったから。
ルーカスは笑おうとした。
嘲笑で返そうとした。
でも口元が引きつった。
笑いが出ない。
「……そんなの、偶然だ」
絞り出すように言った。
「ただ運が良かっただけだ。あんな薬師、たまたま……」
「運で回復率が変わるなら、世界はもっと楽だ」
検査官が淡々と言う。
「君は、もう知っているはずだ。たまたまではない、と」
ルーカスのこめかみが脈打つ。
焦りが嫉妬へ変わる。
嫉妬は、憎悪へ変わる。
彼の頭の中に、あのフードの影が浮かぶ。
小さな影。
名を名乗らない影。
結果だけで場を支配した影。
「……あいつさえいなければ」
気づいたら声に出ていた。
言った瞬間、胸の奥が冷える。
あいつさえいなければ。
それは他人の存在に責任を押し付ける言葉。
自分の空っぽさを隠すための言葉。
検査官は目を細めた。
「君は今、自分が何者かを暴露している」
「うるさい!」
ルーカスは机を叩いた。
叩いた音が、空洞に響く。
「俺はラウフェンだ! 薬学の名門だ! 俺が――俺が勝つはずだった!」
勝つはずだった。
その言葉は、子どもみたいに幼い。
でもルーカスの人生は、ずっとその幼さを“正義”として許されてきた。
名門の息子だから。
優秀だと褒められてきたから。
正解をなぞるのが上手かったから。
検査官は冷たく言った。
「君が勝っていたのは、勝ちやすい盤上だったからだ。盤が変われば、駒の価値も変わる」
駒。
その言い方が、ルーカスの誇りを粉々にした。
彼は駒ではないと思っていた。
盤を動かす手だと思っていた。
でも現実は、駒だった。
教本という盤の上で、最適に動ける駒。
盤が変わったら、ただの木片。
ルーカスの視界が揺れた。
怒りで、涙で、屈辱で。
どれでもいい。
とにかく揺れる。
彼は、まだ“敵”を探してしまう。
敵さえいなければ、自分は優秀だと思えるから。
「……あいつが誰か分かれば」
ルーカスは呟く。
歯の隙間から漏れる声。
「潰せる。潰して、終わらせる。そうすれば――」
検査官は静かに首を振った。
「潰しても、君の空洞は埋まらない」
その言葉が、一番残酷だった。
ルーカスは目を見開く。
反論しようとして、言葉が出ない。
出ないのは、図星だからだ。
〈エリ〉を潰しても、ルーカスは“正解を作れない”。
盤が変わった以上、また別の誰かが現れる。
世界は止まらない。
管理できない才能が、また出てくる。
ルーカスは、ゆっくりと椅子に座り込んだ。
座り込んだ椅子は、当主の椅子じゃない。
ただの木の椅子だ。
彼は、ふと気づく。
父が当主の椅子で味わっている“空になる感覚”が、今、自分にも流れ込んできていることに。
優秀だった男が、平凡以下になる瞬間。
それは雷じゃない。
静かに、呼吸が薄くなるみたいに訪れる。
ルーカスは割れた瓶の匂いを吸って、喉の奥で咳をした。
その咳は、病の咳じゃない。
自分の中の埃を吐き出す咳。
でも吐き出せない。
埃は胸の奥に積もったまま、彼の誇りをゆっくり窒息させていく。
そして彼は、まだ知らない。
自分が憎んでいる“あいつ”が、かつて自分が笑って捨てた妹だということを。
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