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第8話 『涙の訓練と、恋に似た鼓動』
しおりを挟む街道から少し外れた、小さな丘があった。
町から馬で半日。
人の気配は薄く、代わりに風と草の匂いが濃い場所。
遠くにかすかに街道が見えるが、ここまでやって来る物好きはいない。
空だけが広くて、地平線が丸く見える。
エリーナは、そこに立っていた。
両手をぎゅっと握りしめ、胸元の紋章の上にそっと片手を重ねる。
「──アークヴァン」
『ここにいる』
すぐ背後で、低い声がした。
振り向けば、白銀の身体が丘を半分占めている。
今は人里から離れているので、アークヴァンも堂々と姿を現していた。
その鱗は、陽の光を受けて淡く光り、風が翼膜をかすめていく。
「お願いが、あるの」
『なんだ』
「……訓練、したい」
言葉にすると、胸の奥がじんとする。
「もっと──竜魔法をちゃんと制御できるようになりたい」
傭兵団に襲われたときの光景が、脳裏に蘇る。
拘束具。
鎖。
矢。
アークヴァンの脚を縛った光。
自分の手から溢れそうになった、暴れる白い炎。
そして何より、自分の中にあった“怖さ”と“怒り”。
「今のままだとさ」
エリーナは、草を踏みしめるように一歩前に出た。
「わたし、多分また“やりすぎる”」
王宮を吹き飛ばした夜。
自分の心が折れて、そこに竜の怒りが重なった瞬間。
「傭兵団だって、正直……途中から、“全部ここで壊してしまえ”って思いかけた」
自分でも、ぞっとする。
「でも、それは違う。……違うって、ちゃんと分かってたい」
竜の力を、“破壊だけ”に使いたくない。
守りたいから飛ぶのだと、胸を張って言えるようになりたい。
『主』
アークヴァンは、その小さな背中をじっと見つめた。
『初めて会った頃の主は、ただ泣いていた』
「……昔話突然挟む?」
『今も、よく泣く』
「それは否定しづらいかな……」
白銀の竜は、わずかに目を細めた。
『だが、“泣きながら前へ進みたい”と言ったのは、初めてだ』
「…………」
『我はそれを、誇らしく思う』
静かな声だった。
『訓練しよう、主』
その一言に、胸が熱くなる。
「……うん。よろしくお願いします」
◆
安全距離をとって、一本の木陰からこちらを眺めている男がひとり。
「すごい景色だなあ……」
カイは、ノートを片手に呟いた。
丘の頂上で、少女と竜が向かい合っている。
ふつうの世界ではありえない光景が、ここでは日常の延長のように存在している。
(これを研究者としてメモらない手はないよね)
彼はノートを開き、ページの端に「竜魔法・訓練初日」と書き込んだ。
「ねえ、カイー!」
丘の上から、エリーナが手を振る。
「安全距離って言うなら、そんなとこじゃなくていいよ! 見えてるんだけど!」
「いや、ほら、何か暴発したときに、俺が一番の被害者になるのはちょっと……」
「信用ないなあ!」
「逆に信頼してるからこそ距離を取ってるんだよ?」
「どういう理屈!?」
「“竜の主が本気で失敗したときの射程”を、俺の命で測りたくはないって話」
「まだ失敗前提なのつらい」
ひとしきりやり取りをしてから、空気が少し落ち着く。
カイはノートを膝に乗せ、真面目な声で言った。
「じゃあ──今日のテーマから決めようか」
「テーマ?」
「うん。いきなり“何でもできるようになる”って目標は、逆に何もできなくなるからね」
彼は、手帳にさらさらと書きつける。
「竜魔法、大きく分けると、“攻撃”“防御”“探索”の三系統に整理できると思う」
「攻撃、防御、探索……」
エリーナは復唱した。
「空を切り裂く炎とか風の刃が“攻撃”で。土壁や光の盾が“防御”で。
この前の井戸みたいに、水脈を探ったり、魔力の流れを読むのが“探索”」
「うん、そんな感じ」
カイは頷いた。
「どれも必要だけど、優先順位をつけるなら──」
「防御から?」
エリーナが即答する。
「うん?」
「わたし、守りたいほうだから」
言いながら、自分でも少し照れくさくなる。
「攻撃だって必要だと思う。でも、まずは“守るために力を使う”ところから、ちゃんとできるようになりたい」
王宮を吹き飛ばした夜。
あれは、“守るため”というより、“全部壊れろ”に近かった。
「“守る”を先に選べるようになりたい」
「……いいね」
カイの口元が、柔らかく持ち上がる。
「じゃあ、今日のテーマは“防御系の竜魔法の安定化”」
ノートに太字で書き込む。
「その中で、“竜の身体に沿った盾”“地形を活かした防御”“自身と仲間の防御”の三つ。……できれば」
「多い」
「夢は大きく、目標は細かく」
「それ研究者の口癖?」
「そうだよ」
エリーナは、苦笑しながらも、胸の奥が少しだけわくわくした。
(守るための竜魔法)
そのフレーズは、今の自分にとって、救いみたいに響く。
◆
「じゃあまず、“今の君がどれくらい不安定か”を確認しよう」
「それ、心にダメージくる前提じゃない?」
「大丈夫。でも、正直に書くからね」
「そこが大丈夫じゃない!」
エリーナは、深呼吸をひとつして、アークヴァンと向き合う。
「とりあえず、“竜障(ドラグ・ヴェール)”」
小さな防御の膜。
以前から使っている、基本の竜魔法だ。
胸元に手を添えて、光の流れをイメージする。
(怖い。……でも、守りたい)
傭兵団の矢が飛んできたときの光景を思い出しながら、アークヴァンの脚の前に、薄い膜を張ろうとする。
「──っ」
光が、暴れた。
竜魔法の白い光が、イメージした場所から少しずれて、アークヴァンの周囲全体にぶわ、と広がる。
「わっ!」
『む』
竜の身体の周りに、薄く光の粒子が散り始めた。
防御膜は確かに形成されている。
でも、範囲が広すぎるし、厚さもまばらだ。
「……全身バリア」
カイがぼそっと言う。
「強そうに聞こえるけど、実際は“広くて薄くてすぐ破れるやつ”」
「う……」
エリーナは、思わず肩を落とした。
『主』
アークヴァンが、翼を軽く震わせる。
『今のは、“怖さ”が先に立っている』
「……そうかもしれない」
矢や鎖の記憶が生々しすぎて、「ここだけ守ればいい」という具体的なイメージを上書きしてしまう。
「攻撃されたときのこと考えちゃうとさ、“ここ”って指さす前に、“全部守らなきゃ”って気持ちが──」
『それは悪いことではない』
竜は、静かに告げた。
『だが、世界の全てを同時に守ろうとするのは、不可能だ』
「……うん」
『守るべき場所を選ぶのは、弱さではなく、強さだ』
その言葉は、竜骨の森で聞いた“世界を選ぶ者”というフレーズと、どこかで重なる。
世界全てを一度に選ぶのではなく、目の前の一点を選ぶ強さ。
「……ねえ、カイ」
「うん」
「さっき、“今のわたしがどれくらい不安定か確認しよう”って言ったけど」
「うん」
「思った以上に不安定みたい」
「分かってたよ」
「それ先に言ってよ!」
「先に言ったら、ここまで本気でやらないでしょ?」
少し意地悪な笑い方だった。
でも、その意地悪さが、エリーナの自尊心を守っているのも分かっていた。
◆
「じゃあ、アプローチを変えよう」
カイは、ノートをぱたんと閉じた。
「君、感情がそのまま出力になるタイプだから」
「出力って」
「褒めてるよ。いい意味で、“感情と魔力が直結してる”」
彼は、空を一度見上げてから、エリーナに視線を戻した。
「一番安定するのは、多分“守りたい相手の顔”を思い浮かべながら魔法を出すことだと思う」
「守りたい相手……」
「うん」
エリーナは、思わず視線を泳がせた。
守りたい相手。
ふっと頭に浮かんだのは──
真っ先に、白い竜の横顔。
自分のことを、“主”と呼び続けてくれる存在。
(それはそうなんだけど)
そこまでは、自然だった。
問題は、その次だった。
──傭兵団の前に立った、黒髪の青年。
前を向く背中。
自分の手をぎゅっと握ってくれた手。
『だから君は、竜と自分の魔力だけ見てて』
言葉が、一瞬脳裏に蘇る。
(……あれ?)
胸のあたりが、急にきゅっと鳴った。
「エリーナ?」
「な、何でもない」
慌てて首を振る。
(なんで、そこでカイの顔が浮かぶの)
自分で自分にツッコミを入れる。
(いや、確かに“守りたい”って気持ちはあるけど……あるけど……)
その先の言葉は、喉の奥で絡まって、形にならない。
頬が、じわじわと熱くなる。
「……顔、赤い」
カイが遠くから指摘する。
「気のせい!」
「遠目でも分かるくらいには赤い」
「気のせいじゃないんだね……」
エリーナは、両手で頬を押さえた。
『主』
アークヴァンが、わずかに目を細める。
『今、心拍が上がったな』
「観察するのやめて!?」
『我と繋がっている以上、主の体調の変化は分かる』
「それはそうだけど、すごい恥ずかしいから今はやめて!」
竜と人間に同時にツッコむ羽目になるとは思わなかった。
カイは、ノートを抱えながら苦笑する。
「まあ、“守りたい顔”って言って、“竜の顔”だけじゃないのは、いいことだと思うけどね」
「……なんで決めつけるの」
「竜の顔思い浮かべて顔真っ赤にはならないでしょ」
「なるかもしれないじゃん!」
「なるの?」
一拍。
「…………ならないかも」
『ならぬのか』
アークヴァンが、ほんの少し傷ついたような声を出した。
「いや、違うの、アークヴァンはほら、“尊敬方向”だから! 照れる方向が違うというか! えっと……!」
説明すればするほど沼にハマっていく。
カイは肩を震わせて笑いを堪えていた。
「……とにかく」
エリーナは、強引に話を戻した。
「“守りたい相手の顔を思い浮かべて”っていうのは、やってみる価値はある、と思う」
「うん。出力の方向が定まるはず」
カイは、真面目な顔に戻る。
「攻撃のときは“壊すイメージ”が暴れやすいけど、防御のときは、“守りたい対象の輪郭”をはっきりさせれば、魔力の形も定まりやすいから」
「輪郭……」
「そう。例えば、“この翼に沿って”とか、“この人の身体の周りだけ”とか」
その説明は、驚くほど分かりやすかった。
「じゃあ、まずは……」
エリーナは、アークヴァンの翼に視線を向けた。
「“アークヴァンの翼に沿う光の盾”を作ってみる」
『翼……?』
「傭兵団の矢、翼も狙ってたから」
翼を傷つけられれば、飛べなくなる。
竜にとって、それは致命傷だ。
『ふむ』
アークヴァンは、わずかに翼を広げた。
『やってみろ』
「うん」
エリーナは、深く息を吸った。
胸の奥で、竜の気配と、自分の鼓動が重なる。
守りたいもの。
白い翼。
自分を空へ連れていく背中。
いつも「主」と呼んでくれる声。
そして──
矢の前に立った黒髪の青年の背中。
(……守りたい)
本当に、思った。
それは、“竜の主だから”とか、“研究員だから”とか、そんな肩書きの理由ではなく。
ただ、あの背中が傷つくのを見たくないと思った。
「──“竜障・翼守(ドラグ・ヴェール:ウィング)”」
自然と、そんな言葉が口からこぼれた。
白い光が、胸元の紋章から放たれる。
今度は暴れない。
線になって、アークヴァンの翼の縁をなぞる。
光が、翼膜の輪郭にぴたりと沿うように伸びる。
薄くて、でも均一な厚みを持った光の盾が、翼の周りに形成されていく。
『……ほう』
アークヴァンが、目を見開いた。
自分の翼とほとんど重ならないように、ぎりぎりの位置に光の層がある。
これなら、矢が飛んできても翼を傷つけずに弾き返せる。
しかも、その形は美しかった。
白銀の翼に、薄く光の縁取りが加わったような姿。
陽の光を受けて、虹色のような反射を返す。
「や、やった……?」
エリーナは、おそるおそる問いかけた。
『うむ』
アークヴァンは、わずかに頷いた。
『これは、“守る”ための形だ』
「成功、だ」
カイが、遠くからもはっきりと分かる笑顔を浮かべた。
「ちゃんと、“守りたい対象の形”に沿ってる」
「ほんとに……?」
「うん。魔力の流れも安定してる。さっきまでの“全身薄膜”とは別物だよ」
「……っ」
実感がじわじわと湧いてくる。
できた。
ちゃんと、“守るため”の竜魔法が。
嬉しくて、胸の奥がじんじんする。
そして──
その嬉しさに乗じて、自分の中の別の感情にも気づいてしまう。
(今、わたし……)
“守りたい相手”として、アークヴァンだけじゃなくて、カイの顔も思い浮かべた。
あの瞬間、胸がきゅっと鳴った。
ただの“仲間”ってだけでは説明のつかない、妙な熱を伴って。
(これ、もしかして)
恋。
という言葉が、喉まで出かかった。
「……」
エリーナの顔から、一気に血の気が引き──その後、逆にぼんっと熱が上がった。
『主?』
アークヴァンが首を傾げる。
『光の流れは安定しているが、心拍がさらに上がったぞ』
「観測やめて!? 今はほんとにやめて!?」
「顔、さっきより真っ赤だね」
カイのツッコミが追い打ちをかける。
「遠くから見てて分かるくらいって、なかなかだよ」
「近づかないで!!」
「え、なんで!?」
「なんでもない! 何もない! 何も起きてない!」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、これ以上近づかれたら、心臓の音がバレそうで嫌だった。
だって、今の鼓動は。
戦いのときの“怖さ”とも違う。
竜の暴走を止めようとしたときの“必死さ”とも違う。
もっと、柔らかくて。
もっと、くすぐったくて。
でも、間違いなく、自分の中で何かが動き始めた音だった。
◆
その後も訓練は続いた。
“翼守”の応用で、アークヴァンの頭部や前脚に沿った盾を展開する練習。
自分の体の周りに小さな防御膜を張る訓練。
カイの位置を意識しながら、「仲間と自分を同時に守る」シミュレーション。
そのたびに、エリーナは“守りたい相手の顔”を意識することになる。
アークヴァン。
カイ。
干ばつの村の子どもたち。
輪郭が、少しずつ増えていく。
その中で、特にカイの顔を思い浮かべたときの心拍数の上がり方が顕著で、竜の主の感情の揺れをずっと観測していた竜は、だんだんとひとつの結論に至り始めていた。
『……あの人間のせいか』
訓練の合間、アークヴァンは内心でぼそりと呟いた。
主の魔力が安定したのは喜ばしい。
守るための竜魔法を身につけつつあるのも、誇らしい。
ただ。
そのきっかけが、“竜”ではなく、“人間の言葉”だという事実が、竜の心に小さな石を投げ込んだ。
◆
夕方。
訓練を終えた丘には、橙色の光が満ちていた。
エリーナは、草むらにへたりこんで空を仰いでいた。
「つっかれたぁ……」
「お疲れさま」
カイが、水筒を差し出す。
「今日だけで、“竜の主がどれくらい動けるか”のデータがだいぶ取れたよ」
「データって言われると、なんか実験動物っぽいんだけど」
「人間の実験対象は、きちんと尊重されるよ」
「竜の主の尊厳を“きちんと”でくくるのやめて」
水を飲みながら、エリーナは空を見た。
白い雲が、ゆっくりと流れている。
さっきまで、自分の光が空を走っていたのが嘘みたいだ。
『主』
アークヴァンが、そっと近づいてきた。
鼻先を、エリーナの目の前まで下ろす。
『今日の主は、よく頑張った』
「……ありがと」
指先で、白い鱗をそっと撫でる。
冷たいけれど、どこか安心する感触。
『だが一つ、疑問がある』
「ん?」
竜の黄金の瞳が、じっとエリーナを見つめた。
『なぜ、あの人間の言葉だと、主は素直に聞くのだ』
「……へ?」
一瞬、意味が分からなかった。
「えっと……どういうこと?」
『我が“無理をするな”と言ったとき、主はよく無理をする』
「耳が痛い」
『我が“ここを守れ”と言ったとき、主は“全部守らなきゃ”と背負い込む』
「心に刺さる」
『だが、あの人間が“前は俺が見るから”“守りたい顔を思い浮かべろ”と言ったとき──主はすぐに従った』
そこに、ほんの少しだけ拗ねた色が混ざっているのを、エリーナは感じ取った。
(……可愛いなぁ)
と思ってしまった自分にもびっくりだ。
「アークヴァン」
『なんだ』
「ヤキモチ?」
『焼いてない』
即答だった。
その即答の速さが、逆に何かを物語っている。
エリーナは、少しだけ笑ってから、真面目な声で言った。
「カイの言葉が、素直に入ってくるのはね」
『うむ』
「理論が分かりやすいからだよ」
『……理論』
「うん。頭で理解できるように説明してくれるから、“そうか、じゃあやってみよう”って思えるの」
竜は、“感覚”で語ることが多い。
「風を見ろ」
「大地の匂いを嗅げ」
「心で感じろ」
それは竜にとっては当たり前でも、人間にはなかなか掴みにくい。
「アークヴァンの言葉はね、“感覚的に分かる”んだけど、わたしの頭が追いついてないことが多いの」
『ふむ』
「でも、カイは“どうしてそうなるのか”を言葉でも説明してくれる。
“ここを守るイメージ”とか、“魔力のラインをこう整える”とか」
『我の言葉は、分かりにくいか』
「分かりにくいんじゃなくて、“分かりすぎる”んだと思う」
『?』
アークヴァンが、首を傾げる。
「アークヴァンは、“私の全部”と繋がってるからさ」
エリーナは、自分の胸を軽く叩いた。
「“怖い”も、“怒り”も、“守りたい”も、“壊したい”も。……全部、一緒くたに感じちゃう」
『…………』
「それを、そのまま魔法に乗せたら、そりゃあ暴れるよねって話で」
竜の感覚は、あまりにも濃い。
「だから、きっと、わたしには、“竜の感覚”を少し薄めて整理してくれる人が必要だったんだと思う」
カイは、その役割を果たしている。
「アークヴァンの言葉がなかったら、そもそも“守るために怒ろう”なんて発想にならなかったし。
カイの言葉がなかったら、“守りたい顔”で魔法を整えるなんて発想もなかった」
『どちらも必要、ということか』
「うん」
エリーナは、竜の鼻先に額をそっと押し当てた。
「だから、“あの人間の言葉だと素直に聞く”っていうより、“二人ともいないと無理”って感じ」
『……ならばよい』
アークヴァンは、小さく息を吐いた。
鼻先を撫でられながら、ほんの僅かに尻尾を揺らす。
その仕草は、もし彼が犬なら確実に尻尾を振っていると言われる程度には、機嫌が戻っていた。
「アークヴァン」
『なんだ』
「ヤキモチ、ちょっとだけなら焼いていいよ」
『焼いてないと言っている』
「焼いてるでしょ」
『焼いてない』
「じゃあ、焼き竜鱗って呼ぶよ」
『やめろ』
カイが、ちょっと離れたところで吹き出した。
「……なに笑ってるのー!」
「いや、竜にヤキモチって概念があるの、すごく興味深いなと思って」
「研究者目線やめてあげて!」
『記録するな、人間』
アークヴァンの睨みも、どこか柔らかい。
◆
その日の訓練が終わる頃。
空の色は、夕暮れの手前の、茜と藍が混ざる時間帯になっていた。
エリーナが、草の上に寝転がって息を整えていると──
ふと、アークヴァンが空を見上げて目を細めた。
『……主』
「ん?」
『あれを見ろ』
竜の視線の先を追って、エリーナも空を見上げる。
遠く。
丘の向こう、まだかなり高度の高い空に──黒い点がいくつか。
最初は鳥かと思った。
でも、その動きはあまりにも整っていた。
「……あれ、もしかして」
カイも、眉をひそめて空を見つめる。
黒い点は、次第に輪郭を持ち始める。
翼。
鱗。
騎乗した人影。
「騎竜……?」
「うん。あの隊列の組み方、完全に軍だね」
カイは、息を詰める。
「リューン王国の騎竜騎士団か、もしくは近隣国の……」
高く掲げられた軍旗が、かすかに夕陽を反射した。
遠すぎて紋章は読めない。
けれど、それが“王国レベルの力”であることだけは、一目で分かる。
『……動き始めたな』
アークヴァンが、低く呟く。
『王と国の竜たちも』
「わたしたちのせい?」
「完全に関係ないとは言えないだろうね」
カイは、真剣な顔で空を見つめる。
「“王宮を吹き飛ばした白竜と、その主”が隣国にいる。……その情報が、どこまで上に届いてるかは分からないけど」
「でも、“竜骨の森まで来ていた”竜の主がいるってだけでも、動く理由にはなるよね」
「うん」
エリーナは、ぎゅっと胸元を押さえた。
竜骨の森で聞いた声。
“竜の主は、世界を選ぶ者”。
その言葉の重みが、また少しだけ現実味を帯びる。
(世界を選ぶ──なんて、大それたことはできない)
でも。
(目の前の選択なら、できる)
それは、カイが教えてくれたことだ。
「……アークヴァン」
『なんだ』
「もし、王国の竜たちが、わたしたちを“危険”って判断したら」
喉が、少し乾く。
「戦うしかないのかな」
『戦わぬという選択肢も、ある』
竜の声は、意外な答えを返した。
『逃げることも、“選ぶ”の一つだ』
「逃げる……」
『主が、世界のどこでどう生きるかは、主が決める。
誰かに“ここにいろ”と言われて従う必要はない』
その言葉に、エリーナは目を見開いた。
王宮にいた頃。
“ここにいろ”と命じられ続けた日々。
今は違う。
自分で、道を選べる。
「ねえ、カイ」
「うん」
「もし、王国レベルの人たちが、“竜の主を拘束しろ”って動き始めたら──」
「うん」
「そのときは、一緒に逃げてくれる?」
カイは、即答だった。
「当然でしょ」
「当然……?」
「俺はもう、“竜の主の研究員”じゃなくて、“泣き虫で諦めの悪い竜の主の同行者”だからね」
「ラベリング長いのなんとかして」
「そこが本質だから」
エリーナは、笑って、それからふと気づいた。
笑いながら──
胸の鼓動が、また少しだけ速くなっている。
恋に似た鼓動。
まだ、その名前をはっきり口に出す勇気はない。
でも、訓練で整えた竜魔法の流れのように。
自分の感情の流れも、少しずつ輪郭を持ち始めている。
白竜の背。
黒髪の横顔。
風の匂い。
指先の温度。
全部が混ざり合って、これから先、自分が何を“選ぶ”のかを、静かに問うていた。
『主』
アークヴァンが、空から視線を戻してこちらを見た。
『今日の訓練の続きは、また明日だ』
「うん」
『主の心も、魔法も──少しずつ整えていこう』
「……うん」
エリーナは、強く頷いた。
遠くの空を飛ぶ軍旗は、まだ影のようにしか見えない。
けれど、その影がいつか近づいてくる日を、彼女はもう怖がるだけではないだろう。
泣きながらでも。
震えながらでも。
守りたいものを思い浮かべて、光を放つ。
その小さな決意が、夕暮れの丘に、静かに根を下ろしていた。
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