転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第11話 熱のほどけ方

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使者が去った翌日、辺境の空はやけに澄んでいた。
澄んでいるのに、胸の奥はざわざわして落ち着かない。
王都の言葉が、まだ耳の裏に貼りついている。
「必要」
「賢明な判断」
鎖みたいに、音だけ残ってる。

その鎖を引きちぎる前に、別の現実がぶつかってきた。

朝、執務室に呼ばれたユリウスの声が、いつもより低かった。
「村で熱が出ている。数人。……小さいが、放置すると広がる」

エドガーが机に地図を広げる。
赤い印がつけられているのは、川沿いの小さな集落。
「最初は子どもです。次に母親、そして老人。咳と発熱。食欲低下」

「疫病?」

リリアが息を呑む。
セレフィーナは一瞬、王都の礼拝堂が頭をよぎった。
祈りの声、噂の声、責任の押し付け合い。
でもユリウスは、祈りの代わりに指示を出す。

「薬草を。隔離の準備。医師を呼べ。巡回の薬師にも伝えろ」

短く、必要なことだけ。
焦りはある。でも騒がない。
騒いでも熱は下がらないと知っている人の動き。

エドガーが頷く。
「すでに手配しています。村の集会所を隔離所に。薪と毛布を追加で運びます」

ユリウスはセレフィーナを見た。
「……行けるか」

選択肢。
まただ。
王都なら、行けるかじゃない。「来い」だ。
でもここは、行けるかと聞く。

セレフィーナは喉の奥が少し乾くのを感じた。
疫病。
看病。
隔離。
それは前世の記憶に似た匂いがある。
誰かのために動いて、誰かのために削れて、最後に壊れる匂い。

――頑張っても届かない。
――頑張っても評価されない。
――頑張った分だけ、当然になる。

身体が勝手に身構える。
でも、その身構えの中に、別の声もある。

――見てくれるだけでいい。
――悪役の椅子を渡すな。
――ここでなら、息ができる。

セレフィーナは、息を吸った。
薬草の香りが肺に入る。
「行きます」

リリアが即座に立ち上がる。
「私も!」

ユリウスは短く頷いた。
「準備しろ」

馬車で村へ向かう。
道は雪がまだ残っていて、車輪が軋む。
風は冷たいのに、空が青い。
青い空が、逆に残酷に見える。
人が熱に苦しむ日に、空がこんなに綺麗でいいのか、と。

村に着くと、空気が違った。
静かだ。
普段なら子どもが走り回っているはずの道が、今日は空いている。
戸口に立つ人々の顔は硬い。
でも、噂で騒ぐ硬さじゃない。
現実を受け止める硬さ。

「ユリウスさま……」

村長らしき男が駆け寄ってくる。
頬がこけて、目の下に影。
寝ていない顔。

「広がってます。昨日まで三人だったのに、今朝は――」

「数は」

ユリウスの問いは短い。
責めない問い。
状況確認の問い。

「十人……いや、十一人。うち二人が子どもです」

ユリウスが頷く。
「隔離所は」

「集会所に。毛布と薪は足りてます。薬草は……」

「持ってきた」

護衛が荷を下ろす。
薬草の束、消毒用の酒、布、桶。
物資が積まれていく。
辺境は、祈りより先に布を用意する。

セレフィーナは集会所へ向かった。
扉を開けた瞬間、熱と汗と薬草の匂いが混ざって鼻を刺す。
吐き気がするほどじゃない。
でも、身体が一瞬で“警戒”に切り替わる。

中には簡易の寝床が並び、呻き声があちこちから漏れていた。
咳。うわ言。
子どもの泣き声。
それをなだめる母親のかすれた声。

「……来たのか」

年老いた薬師がこちらを見た。
白髪で背は曲がっているが、目は鋭い。
この村に常駐している医師だと聞いた。
名はハインツ。

「伯爵さまが動いたのは助かる。……だが人手が足りん」

ユリウスが言う。
「ここにいる。必要なだけ使え」

“使え”という言い方なのに、嫌じゃなかった。
それは道具扱いじゃない。
命を救うための、役割の共有だ。

リリアが袖をまくる。
「何をすればいいですか!」

ハインツが素早く指示を出す。
「湯を沸かせ。布を煮ろ。水を運べ。換気は絶対に怠るな」

セレフィーナも動いた。
毛布を配り、湯を運び、額の汗を拭く。
手袋越しでも、熱が伝わってくる。
熱は人の苦しさだ。
触れると、自分の胸も熱くなる。

そして、怖さが来る。

――また、頑張りすぎる。
――また、全部背負う。
――また、誰も気づかない。

前世の映像がちらつく。
終電、冷たい駅のホーム、スマホの通知、誰にも届かない「助けて」。
頑張るほど当然になり、当然になった瞬間に消費される。
そんな未来が、背中から忍び寄ってくる。

セレフィーナは湯を運びながら、呼吸が浅くなったのを自覚した。
焦りじゃない。恐怖だ。
この場の苦しみが、自分の過去に直結しているから。

「おねえさん……」

子どもの声。
寝床の端で、小さな女の子がこちらを見ていた。
頬が赤く、唇が乾いている。
目だけが大きい。
怖い目。
熱で夢と現実が混ざっている目。

セレフィーナは膝をつき、水に入った布を絞って額に当てた。
「大丈夫。今、冷やすね」

女の子は薄く笑おうとして、咳き込む。
セレフィーナは背中をさすった。
その背中は小さくて、軽い。
軽いのに、重い。
この子が死ぬかもしれないと思うだけで、世界が暗くなる。

「……お水」

「はい。少しだけね」

口元に水を含ませる。
女の子は喉を鳴らして飲み込み、目を閉じた。
それだけで、セレフィーナの胸が少しだけ緩む。

その背後で、村の女が言う。
「手ぇ貸してくれて助かる。あんたも休めよ」

セレフィーナは振り返った。
女の顔は疲れている。
でも、強い。
「休めよ」という言葉が命令じゃない。
気遣いだ。
同じ目線の気遣い。

「……休んだら、悪い気がして」

セレフィーナがぽつりと言うと、女は鼻で笑った。
「悪いのは、倒れることだ。倒れたら次がいなくなる。だから休め」

その理屈が、まっすぐだった。
王都の理屈はいつも回りくどくて、誰かを守るふりをして誰かを切った。
ここは違う。
休むのは、守るためだ。

別の男が言う。
「ほんとそれ。あんたが倒れたら、今度は俺らが困る。だから、休め」

“困る”。
つまり、必要とされている。
でも王都の「必要」と違う。
道具としての必要じゃない。
一緒に生きるための必要。

休めと言われるたび、セレフィーナの中の何かがほどけた。
鎧の紐が、ひとつずつ緩む。
「休む=悪」だった価値観が、剥がれていく。

それでも、現実は厳しい。
熱は下がらない。咳は止まらない。
子どもがうわ言を言い、老人の呼吸が浅くなる。
ハインツの額にも汗が光る。

「……このままだと、きつい」

ハインツが呟く。
ユリウスは唇を引き結び、短く言った。
「できることを全部やる」

全部。
その言葉に、セレフィーナの心が揺れる。
全部やって壊れる未来を、身体が覚えている。

セレフィーナは、自分の手を見た。
手袋越しに、さっきの女の子の熱が残っている気がする。

――私に、できること。

ふと、あの感覚が頭をよぎった。
泉。草。鹿。
触れただけで、空気が落ち着いた。
“正しい位置に戻る”みたいな感覚。

セレフィーナは息を飲んだ。
まさか。
でも、もし。
もしあれが、偶然じゃないなら。

彼女は寝床の列の奥へ歩いた。
そこには、汗で髪が額に貼りついた青年がいた。
目が虚ろで、呼吸が荒い。
胸が上下し、唇は乾いている。

セレフィーナは躊躇った。
変なことをして、悪化させたら。
王都なら、ここで責任を押しつけられる。
「やっぱり呪いだ」と言われる。
悪役の椅子に座らされる。

でもここは辺境だ。
必要なことを、必要なだけやる。
失敗を糾弾するより、次の手を探す場所。

セレフィーナは膝をつき、青年の額に手袋越しに手を当てた。
熱い。
焼けるみたいに熱い。

「……ごめんね。少しだけ、触らせて」

誰にともなく言う。
祈りでも呪文でもない。
ただのお願い。

その瞬間。
胸の奥で、静かな音がした。

カチ、と。
歯車が噛み合う音。
バラバラだったものが、ひとつの位置に収まる音。

熱が、少しだけ引いた。
青年の眉間の皺が、ほんのわずか緩む。
呼吸が、浅い荒さから、一定のリズムへ寄る。

セレフィーナは息を止めた。
目の前で起きた変化が、信じられない。

「……え」

リリアが声を漏らした。
彼女も見ている。
見間違いじゃない。

ハインツが近づいてきて、青年の頬に手を当てる。
「……下がってる。ほんの少しだが」

「何をした」

ユリウスの声が低い。
疑いではない。確認だ。
戦場の声。

セレフィーナは手を離し、震える指先を握りしめた。
「……何も。触っただけ」

「触っただけで、熱が下がるわけがない」

ハインツが言う。
けれど、その声にも揺れがあった。
現実を見た人間の揺れ。

セレフィーナは自分の掌を見つめる。
魔法じゃない、奇跡でもない。
派手な光も、呪文もない。
ただ――整った感覚がある。

“正しい位置に戻る”感覚。
体の乱れが、すっと整っていくみたいに。
絡まった糸がほどけるみたいに。

セレフィーナはもう一人の額にも手を当てた。
同じ。
ほんの少しだけ、熱が引く。
劇的じゃない。
でも、確かに変わる。

「……お嬢さま」

リリアの声が震える。
怖さと希望が混ざった声。

村の女が目を丸くして言う。
「今の……なんだ?」

セレフィーナは答えられなかった。
自分でも分からない。
でも分からないままでも、やるしかない。

ユリウスが一歩近づき、低く言う。
「無理はするな」

その言葉に、セレフィーナの胸が痛む。
無理をするな。
でも、今は無理をしないと助からない人がいる。
その矛盾が、彼女を揺らす。

セレフィーナは、ユリウスを見上げた。
「……無理はしない。けど、できることはする」

ユリウスは一瞬だけ目を細め、頷いた。
「……分かった。俺が支える」

支える。
その言葉が、セレフィーナの背骨になる。
前世では、誰も支えると言わなかった。
支えると言っても、最後まで支えなかった。
でもユリウスの言葉は、嘘がない。
そう感じてしまう自分がいる。

その日、疫病はすぐには終わらなかった。
熱は上下し、咳は続き、夜になると不安が増える。
それでも、セレフィーナが手を当てるたび、ほんの少しだけ状況が整う。
薬草と隔離と看病の中に、微かな“余裕”が生まれる。
その余裕が、命を繋ぐ。

夜更け、隔離所の隅でセレフィーナは座り込んだ。
肩が重い。
手がだるい。
でも、壊れる感じはしなかった。

村の男が温い湯を差し出す。
「飲め。あんたも休めよ」

まただ。
休めよ。
その言葉が、鎧の紐をほどく。

セレフィーナは湯を受け取り、両手で包む。
湯気が指先を撫でる。

「……私、頑張るのが怖かった」

ぽつりと言うと、男は首を傾げた。
「怖いなら、怖いって言えばいい。怖いのに頑張るのが一番しんどいだろ」

その返しが、当たり前みたいで、涙が出そうになる。
怖いって言っていい。
そんな世界がある。

セレフィーナは湯を飲んで、息を吐いた。
熱の匂い。薬草の匂い。薪の匂い。
全部が混ざって、現実の匂いになる。

そして、彼女は確かに感じていた。
自分の中にある“何か”が、誰かを救う方向へ動き始めている。
それは前世の「消耗」じゃない。
支え合いの中での「働き」だ。

魔法じゃない。奇跡でもない。
けれど、世界が少しずつ整っていく感覚。
その感覚が、セレフィーナの中の“恐れ”を、静かに別の形へ変えていった。
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