転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第12話 調律の加護

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疫病の波は、完全には引いていなかった。
けれど、最悪の底は越えた。
熱に浮かされていた子どもが、水を飲めるようになり、老人が眠れるようになり、呻き声の代わりに小さな会話が戻り始めた。
村の空気に、ほんの少しだけ“明日”が戻った。

それでもセレフィーナの指先には、まだ熱の記憶が残っていた。
誰かの額に触れた感触。
体の乱れが、正しい位置に戻る感覚。
光も音もないのに、確かに起きる変化。
それが怖くて、同時に――希望みたいに眩しい。

「お嬢さま、手……大丈夫ですか」

屋敷へ戻った夜、リリアが心配そうに覗き込む。
セレフィーナは手袋を外し、自分の掌を見た。
普通の手。
白くて、細くて、ちょっと乾燥しているだけ。
ここに、何があるっていうの。

「大丈夫。痛くない」

「でも、あれ……あれは……」

リリアは言いかけて、言葉を飲み込む。
言葉にした瞬間、現実が怖くなる。
セレフィーナも同じだった。
だから頷くだけにした。

翌朝、ユリウスがセレフィーナを呼びに来た。
扉の前で短く言う。

「来い」

王都なら、この言葉は命令だった。
でもユリウスの「来い」は、命令というより“必要なことがある”の合図だ。
冷たいのに、怖くない。

「どこへ」

セレフィーナが聞くと、ユリウスは一拍置いて答えた。

「古い礼拝堂」

礼拝堂。
セレフィーナの胸がきゅっと縮んだ。
王都の礼拝堂。
祈りの匂い。
聖女の物語。
噂と正義が混ざる場所。

でもユリウスが言う礼拝堂は、たぶん違う。

「……理由は?」

ユリウスは視線を逸らした。
「昨日の件を、説明できるかもしれない」

説明。
それは怖い。
説明されれば、名前がつく。
名前がつけば、利用される。
でも名前がつかなければ、自分はずっと怯える。

セレフィーナは息を吸った。
「行く」

リリアもすぐに言う。
「私も行きます!」

ユリウスは短く頷いた。
「ついて来い。ただし寒い。覚悟しろ」

馬で山道を進む。
森の影が濃くなり、風が鋭くなる。
雪が浅く積もった道を、蹄がきゅっと踏む。
空は曇り、光は薄い。
世界が色を失うほど、音がよく聞こえる。

「……ここ、ほんとに誰も来ないの?」

リリアが声を落として言う。
「なんか、空気が……」

「来ない」

ユリウスは淡々と答える。
「昔は使われていた。今は、忘れられてる」

忘れられてる。
その言葉が、セレフィーナの胸に引っかかった。
忘れられることは、怖い。
でも、忘れられる場所だからこそ、嘘が少ないのかもしれない。

森が開け、石造りの建物が見えた。
壁は苔むし、屋根の一部は崩れ、扉は重そうに沈んでいる。
王都の礼拝堂みたいに白くない。
白さを保つ余裕がない場所の色。
それが、逆に本物に見える。

ユリウスが馬から降り、扉に手をかけた。
ぎい、と音がして、冷気が吐き出される。
中は暗い。
光は高窓から細く差し込むだけ。
石造りの床がひどく冷たそうで、空気は凍えたまま固まっている。

「寒っ……」

リリアが肩をすくめる。
セレフィーナは一歩踏み出した瞬間、背筋がぞくりとした。
寒さだけじゃない。
空気が古い。
時間が積もっている匂いがする。

礼拝堂の奥には、祭壇があった。
その背後の壁に、石の板がはめ込まれている。
碑文。
刻まれた文字は古く、ところどころ欠けているが、まだ読める。

ユリウスが火打石でランタンに火をつけ、灯りを近づけた。
揺れる光が文字の影を深くする。
影が、言葉を立体にする。

「読めるか」

ユリウスの問いに、セレフィーナは頷いた。
王都の教育は、こういうときだけ役に立つ。
古い文字の読み方も、礼儀作法も、すべて“飾り”だと思っていた。
でも今、飾りが剥がれて芯だけ残る。

セレフィーナは碑文を声に出して読んだ。

「――“調律の加護”……」

言葉を口にした瞬間、礼拝堂の空気が少しだけ揺れた気がした。
錯覚かもしれない。
でも、泉のときも鹿のときも、最初は錯覚だと思った。

碑文は続く。

「“土地と人の歪みを正す者。大きく望まぬ者ほど、加護が純粋になる”……」

セレフィーナは息を呑んだ。

望まぬ者ほど、純粋。
望まぬ者ほど、強く?

頭の中に、前世の自分が浮かぶ。
望むことをやめた自分。
期待するのをやめた自分。
「どうせ無理」って先に言って、傷つかないようにしていた自分。
今世でも同じだ。
王都で、望むことは弱点だった。
望んだら奪われる。望んだら笑われる。
だから、最初から望まない。

それが、力になる?

皮肉すぎて笑えない。
笑えないのに、喉の奥が熱くなる。
悔しいみたいな熱。

「……これ、私のこと?」

セレフィーナが小さく言うと、ユリウスは碑文から目を逸らさず答えた。
「可能性が高い」

リリアが震える声で言う。
「お嬢さまが、触ると熱が下がったのも……その加護?」

「断定はできない」ユリウスは言う。「だが、辻褄は合う」

辻褄。
現実の言葉。
ユリウスはいつも、現実の言葉で彼女を守る。
噂の言葉ではなく。
物語の言葉ではなく。

セレフィーナは碑文の続きを読んだ。
「“調律は、派手な奇跡ではない。欠けたものを満たし、余分なものを削ぎ、あるべき位置へ戻す”……」

あるべき位置へ戻す。
それは、彼女が疫病の村で感じた感覚と同じだ。
体の乱れが整っていく。
歯車が噛み合う。
音も光もないのに、世界のバランスが戻る。

セレフィーナの胸が、ざわめいた。
怖い。
でも、説明がつくことは救いでもある。

「……じゃあ」

セレフィーナは自分の声が震えているのを感じながら言った。
「じゃあ私の人生って、我慢した分だけ……報酬がついたってこと?」

口にしてしまった瞬間、胸が痛んだ。
自分を笑っているみたいで。
でも笑わなければ、やりきれない。
前世も今世も、ずっと我慢してきた。
望むことをやめてきた。
期待を切り捨ててきた。
それが力になるだなんて、世界はあまりにも意地悪だ。

ユリウスは眉をひそめた。
その表情は怒りじゃない。
痛みを見たときの顔だ。
人の傷に触れたときの顔。

「報酬じゃない」

低い声。
礼拝堂の冷気が、少しだけ引くような声。

「……あなたが生き延びた証だ」

その言葉が、セレフィーナの胸を撃ち抜いた。
証。
報酬じゃなく、証。
頑張ったからご褒美、じゃない。
生きるために必死だった、その痕跡。
生き延びたことそのものが、価値だと認められる言い方。

セレフィーナは唇を噛んだ。
涙が出そうになる。
でも、涙の理由が分からない。
嬉しいのか、悔しいのか、救われたのか、傷ついたのか。

リリアがそっとセレフィーナの袖を掴む。
「お嬢さま……」

セレフィーナは深呼吸した。
冷たい空気が肺に入り、涙の熱を冷ます。
礼拝堂の匂いは古い。
でも嫌じゃない。
ここには、王都の香水も、嘘も、拍手もない。

ユリウスが続ける。
「望まないことは、美徳じゃない。……ただ、生きる手段だった。あなたはそれで生き延びた」

「……でも、そのせいで」

セレフィーナは言葉を探す。
そのせいで、私は空っぽになった。
そのせいで、私は笑えなくなった。
そのせいで、私は人を信じられなくなった。

言いかけた言葉を、喉の奥で止める。
止めた瞬間、ユリウスが言った。

「そのせいで、あなたは傷ついた。……だからこそ、ここで取り戻せ」

取り戻せ。
命令じゃない。
願いに近い。
彼の不器用な願い。

セレフィーナは碑文を見つめた。
刻まれた文字は欠けている。
でも欠けているからこそ、残った部分が強い。

“調律の加護”
“望まぬ者ほど、純粋”

それは、セレフィーナがずっと避けてきた言葉の形だった。
望まないほど強く。
なら、望んだらどうなる?
望んだ瞬間に、加護は濁る?
それとも、望んでも壊れないくらい強くなれる?

疑問が湧いて、怖くなる。
答えが見つかったのに、さらに問いが増える。
それが人生なのかもしれない。

リリアが小さく言う。
「お嬢さま、じゃあ……これからは望んでもいいってことですか?」

セレフィーナは答えられなかった。
望むことは、怖い。
望みは、奪われる。
でもここでは、望みが息になる。

ユリウスが短く言う。
「望んでいい。……だが、急ぐな」

急がない。
その言葉が、また救いになる。
王都はいつも急がせる。
急がせて、判断を奪う。
ここは違う。
息をする時間をくれる。

礼拝堂を出ると、外の光が眩しかった。
雪が白く、空が薄青い。
風が頬を切る。
冷たいのに、どこか清々しい。

帰り道、セレフィーナは馬上でずっと考えていた。
自分の我慢が、ただの損ではなかったこと。
でもその我慢は、美談でもないこと。
生き延びるための、必死の方法だったこと。

そして、その必死が今、誰かの熱を少しだけ下げる。
土地の機嫌を良くする。
泉を目覚めさせる。

――世界は、私に何をさせたいんだろう。

その問いが、王都の「必要」と同じ匂いを持ちそうで怖い。
でも、ユリウスの言葉がそこに線を引く。

“報酬じゃない。あなたが生き延びた証だ”

必要とされるのではなく、存在を認められる。
その違いが、セレフィーナの胸の奥でゆっくり形になっていく。

屋敷が見えた。
暖炉の煙が上がっている。
あたたかい場所が待っている。

セレフィーナは、まだ答えを持っていない。
けれど確かに、自分の中に“望み”が芽吹き始めているのを感じた。
それは甘い砂糖菓子じゃない。
苦い薬草でもない。

生きるための、静かな火。
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