転生してきた令嬢、婚約破棄されたけど、冷酷だった世界が私にだけ優しすぎる話

タマ マコト

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第13話 正しい王子のひび

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王都の崩れは、音もなく加速していった。
雪解けを待つはずの畑が、春の気配に追いつけない。
雨は降るときは一気に降り、降らないときは嘘みたいに乾く。
川の水位は読めず、倉庫の麦袋は数字ほど安定しない。

数字が踊り、民の胃が鳴る。
そして、胃の鳴る音はいつだって政治を揺らす。

王城の会議室は、毎日、空気が尖っていた。
長い机。蝋燭の匂い。紙束。
貴族たちの声が、互いの喉を切り裂くようにぶつかる。

「税を上げるべきです!」
「民が死にますぞ!」
「ならば軍備を削れ!」
「それこそ国が死ぬ!」
「聖女の祈りを増やせば――」
「増やしたところで効果が安定しないではないか!」

“正しさ”が乱闘している。
誰もが自分の正しさを掲げ、誰もが責任を避ける。
そして、王太子クラウス・フォン・エーベルハインは、その中心で椅子に座っていた。

正しい王子。
民の前ではいつもそうだ。
笑顔、清廉、断固たる決断。
でも今、会議室の壁に跳ね返る声は、彼の仮面を内側から叩いていた。
仮面にひびが入るとき、人は顔の筋肉ごと痛む。

「静まれ」

クラウスが声を上げる。
いつもの“演説の声”で。
だが、今日は響きが弱かった。
声が空気に吸われる。
聴く者が、もう“正しさ”に酔っていない。

「殿下、静まれでは解決しません!」
「民が暴れ始めております! パンの配給に列ができ、刃傷沙汰も!」
「噂が――噂が止まりません。聖女様の加護が揺らぎ、呪いが――」

呪い。
その単語が出るたび、クラウスの胃の奥が冷える。
呪いという言葉は便利だ。
便利だからこそ、無責任に増殖する。
増殖した呪いは、いつか王家をも噛む。

「……マリアは」

クラウスが言うと、神官が慌てて頭を下げた。
「聖女様は現在、礼拝堂で祈りを……しかし、昨日も雨の祈りは叶わず」

会議室に沈黙が落ちる。
沈黙は、責任の形を探す時間だ。
そして王都は、責任を取るより、責任の置き場を探すのがうまい。

「……殿下」

一人の貴族が、柔らかい声で切り出した。
柔らかい声は、刃を隠す。
「今こそ、民を安心させる“象徴”が必要かと」

「象徴?」

「はい。聖女様の力が揺らいでいる今、別の柱が必要です。……国を整えられる者が」

クラウスは、その言葉の先を知っていた。
知らないふりをしても、もう遅い。
王都の物語は、いつも同じ道を走る。
不安→原因→象徴→生贄。

「……誰を指している」

貴族が、ほとんど囁くように言った。
「セレフィーナ・アルヴェイン嬢です」

空気が、奇妙に落ち着いた。
落ち着くのだ。
答えが出ると、人は安心する。
たとえそれが都合のいい答えでも。

クラウスのこめかみが脈打った。
セレフィーナ。
婚約破棄した相手。
拍手の中で、静かに去った女。

彼は思い出す。
舞踏会の夜、彼女が一礼したときの姿勢の美しさ。
その美しさが、あまりにも冷たく見えたこと。
冷たい、と思った瞬間、彼は自分が正しいと思えた。

正しさに酔っていた。
酔いは、苦さを感じない。

会議はまとまらないまま終わり、クラウスは礼拝堂へ向かった。
廊下は長い。
香水の匂いが鼻につく。
昔はそれが“王都の格”に感じたのに、今はただ息苦しい。
甘い匂いは、腐りかけた果実みたいに重い。

礼拝堂に入ると、マリアがいた。
白いドレス。白いヴェール。
蝋燭の光の中で、彼女は人形みたいに整っている。
整っているのに、肩が震えている。

「殿下……」

マリアが振り返る。
その瞳は潤んでいて、泣けば世界が優しくなると信じている目だった。
信じているというより、信じるしかない目。

「……また、できなかったの」

彼女の声は小さく震え、涙が落ちる。
涙は透明で、よく光る。
光る涙は、王都で最強の武器だ。

「ごめんなさい。私、頑張ったのに……」

頑張ったのに。
その言葉が、クラウスの胸を締め付けた。
クラウスは彼女の肩に手を置く。
慰めの形。
そしてその形が、彼自身の不安を鎮める。

――泣く人がいると、救える気がする。
――救える気がすると、自分が正しい気がする。

クラウスは薄々理解し始めていた。
自分が、彼女の涙に救われていたことを。
涙が、正義の輪郭を分かりやすくしてくれることを。
分かりやすい正義を演じるのが、どれだけ楽だったかを。

マリアが涙を拭いながら言う。
「皆が私のこと、期待してる……。だから、泣いちゃだめなのに……でも、怖いの」

怖い。
マリアは怖いと言える。
怖いと言えば抱きしめてもらえると知っている。
それは彼女の罪ではない。
彼女はそういう世界で育った。
涙が価値になる世界で、涙の使い方を覚えた。

クラウスの胸の奥で、別の映像が揺れた。
舞踏会の夜のセレフィーナ。
泣かなかった。
震えなかった。
叫ばなかった。
“承知いたしました”と、綺麗な声で言った。

――あれは、強さだったのか。
――それとも、壊れていたのか。

クラウスは自分の掌を見つめた。
誰かを救ったつもりの掌。
でも本当は、自分を救うために誰かを使っていた掌。

「僕は……」

言葉が喉で詰まる。
正しい王子の仮面が、ここでは役に立たない。

「僕は……分かりやすい正義に酔っていただけか?」

その疑念が、礼拝堂の冷気より冷たく彼を刺した。
疑念は怖い。
正しさが崩れるのは怖い。
正しさが崩れれば、自分が何者か分からなくなる。

マリアが目を見開く。
「殿下……?」

彼女は理解できない。
彼女にとって殿下は、いつも正しい王子であってほしい。
殿下が揺れたら、彼女の足場も揺れる。
だから彼女は、もっと泣く。
泣いて、殿下を“正しい場所”に戻そうとする。

「殿下、違います。殿下は正しいです。皆がそう言ってる。私もそう思う……」

涙。
慰め。
そして、クラウスは気づく。
自分がその慰めを欲しがっていることに。
欲しがることが、怖いことに。

――僕は、誰かに“正しい”と言ってほしいだけなのか?

その疑念が怖くて、クラウスは別の答えを探した。
自分を保てる答え。
世界を整える答え。
責任を背負わせられる答え。

セレフィーナ。
彼女なら整えられる。
そう言えば、自分は正しいままでいられる。
自分の過去の決断も、“必要な布石”だったことにできる。

クラウスは顔を上げた。
瞳に、いつもの“自己肯定の光”を探す。
だが光はまだ弱い。
だから、言葉で光を作る。

「……セレフィーナが必要だ」

その瞬間、マリアの涙が止まった。
止まったことに、クラウスは自分でも驚く。
涙の操作が効かない。
つまり、彼女の涙は万能じゃない。
クラウスはまた一つ、自分の依存を知ってしまう。

マリアが震える声で言う。
「セレフィーナ様、ですか……? でも、皆はあの方を……呪いだって……」

「だからこそだ」

クラウスは強く言い切った。
強く言い切ると、自分の足場が少し固まる。
言葉で世界を塗り替える。
それが、彼の得意技だ。

「彼女なら、国を整えられる。……辺境で何かが起きているという報告がある。泉が湧き、病が落ち着いたと」

マリアが唇を噛む。
嫉妬。
恐れ。
そして、安堵。
もしセレフィーナが戻れば、聖女である自分が責められる矛先が少し逸れる。
その安堵が、彼女の中で甘く広がる。

クラウスは立ち上がった。
礼拝堂の静けさが、決意に見えるように錯覚する。

「彼女を呼び戻す。国が必要としている。……そうだ。必要なんだ」

必要。
その言葉を繰り返すたびに、クラウスの中の罪悪感が薄まっていく。
罪悪感を消すための呪文みたいに。

でも、その“必要”は謝罪に見えて、実は依存だった。
セレフィーナが戻れば、国が整う。
国が整えば、僕の正しさも整う。
僕は正しい王子に戻れる。

クラウスは、自分の弱さを隠すように歩き出した。
礼拝堂を出る。
廊下を進む。
香水の匂いがまた鼻を刺す。
王都は今日も甘い。
甘さの裏で腐り始めているのに。

執務室に戻ると、クラウスは使者を呼び、命じた。

「辺境へ。セレフィーナを戻せ。……彼女が必要だ。国が、僕が」

最後の言葉は、口に出さなかった。
出したら、正しい王子の仮面が完全に割れるから。

窓の外で、灰色の雲が動いた。
雨になりそうで、ならない空。
王都の空は、まるで王都の心みたいだった。

そしてクラウスは、気づかないふりをしながら知っていた。
セレフィーナを呼び戻すのは、国のためだけじゃない。
自分が壊れないためだ。

正義の仮面にひびが入った男は、
ひびを埋める材料として、かつて捨てた令嬢の名をもう一度呼んだ。
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