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第8話:王都の異変の兆し、境界が割れる音
しおりを挟む最初に気づいたのは、風だった。
森って、常に何かが動いている。
葉が揺れる。枝が擦れる。鳥が飛び立つ。
目に見えないはずの風が、必ずどこかで“音”を作っている。
でもその日、遺跡の朝は――音がしなかった。
霧は薄く、空は青い。
なのに、葉が一枚も揺れない。
鳥の声はするのに、翼の風切り音が遠い。
まるで、世界が一瞬だけ息を止めたみたいだった。
セリアは池の縁で手を洗っていた。
水は冷たく澄んでいるのに、指先が妙にしびれる。
霧の冷たさとは違う。
もっと内側から来る違和感。
「……変」
セリアが呟くと、石の上で足をぶらぶらさせていたルゥシェが顔を上げた。
「うん、変」
即答。
「風が死んでる」
風が死んでる。
物騒な言い方なのに、しっくりくるのが怖い。
周囲の妖精たちもざわついていた。
昨日までなら、ひそひそとした囁きが主だったのに、今日は声が短くて鋭い。
尖った針みたいな声が、石の隙間から漏れてくる。
「……結界」
「歪んでる」
「音がする」
「割れる音」
割れる音。
セリアは背筋を伸ばした。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
でも妖精たちは聞いている。
人間には聞こえない“裂け目”の音を。
「結界って、王国を囲ってるやつだよね」
セリアがルゥシェに聞くと、ルゥシェは眉を寄せる。
「そう」
「歪むとどうなるの」
「魔獣が入る。疫が入る。……飢えも入る」
ルゥシェは淡々と言った。
でも“飢え”のところだけ、声が少し硬くなる。
飢え。
セリアの胸がちくりとする。
妖精たちの中に、モスがいた。
苔みたいな髪を揺らしながら、池の水面を睨んでいる。
水面は相変わらず静か。
でも、月のない昼間でも、水がどこか“濁っている”ように見えた。
「モス」
セリアが声をかけると、モスはちらっとセリアを見た。
黒い目が、いつもより落ち着かない。
「王都のほう、音が大きい」
モスが言った。
「境界が、薄い。ぺらぺら。風が止まると、薄くなる」
「風が止まると?」
セリアが聞き返すと、モスはむっとした。
「知らないの? 風は境界を縫う糸。止まると、ほつれる」
縫う糸。
その比喩が、美しくて怖い。
世界は布で、風が縫い目で、結界がほつれていく。
セリアは喉が渇いた。
水を飲んでも渇きが消えない。
胸の奥の契約の熱が、不規則に脈打っている。
まるで、どこか遠くで大きな鐘が鳴り始めたみたいに。
「聖女候補」
小さな妖精が言った。
羽のある、甘ったるい声の子。昨日セリアを値札みたいに見た子だ。
「王都で、失敗してるんだって」
「失敗?」
セリアが思わず聞くと、妖精は口元を歪めた。
「奇跡」
「結界の補修」
「豊穣の祈り」
「全部、うまくいってない」
ミレーヌ。
金髪の聖女候補。
王城で“主役”として迎えられた少女。
あの子が失敗している?
「当然だよ」
別の妖精が冷たく言った。
「人間が“使役”で結界を保てるわけない」
「契約は選び合い」
「奪ってるやつの祈りなんて、ただの音」
妖精たちの言葉は、刃みたいだった。
正しさがある。
でも、その正しさは痛い。
セリアは思い出す。
王城でミレーヌが見せた不安げな表情。
セリアを追放する空気に飲まれて、言葉を飲み込んだ顔。
あの子も、ただの加害者ではない。
でも、主役側だ。選ばれた側だ。
――それでも。
セリアの頭に、人間の町の風景が浮かんだ。
元の世界の町じゃない。
ここに召喚されて、短い時間だけ見た王都の外側。
召喚された直後、護衛に連れられて廊下を通った時に見えた窓の外。
石畳の道。小さな屋台。痩せた子ども。
貴族の馬車が通るたびに頭を下げる人々。
目が合うと、慌てて逸らす人々。
貴族が崩れるのは、正直、気持ちいい。
でも、結界が歪んで飢えが来るなら、まず死ぬのは貴族じゃない。
最初に死ぬのは、あの屋台の女の人かもしれない。
痩せた子どもかもしれない。
セリアの胸が、ぎゅっと痛くなった。
「……ねえ」
セリアは小さく言った。
「結界が壊れたら、民はどうなるの?」
妖精たちが一瞬、黙った。
その沈黙が、答えだった。
ルゥシェが代わりに答える。
「飢える」
短く。
そして、続ける。
「死ぬ」
セリアの指先が冷えた。
背中がぞわっとする。
死ぬ。
その言葉は、妖精の口から出ると余計に現実だった。
「でも」
セリアは言ってしまう。
「貴族が悪いとしても……民が死ぬのは違う」
妖精の一人が笑った。
笑いが冷たい。
「違う?」
「人間は人間」
「民も貴族も、同じ種」
「奪う種」
セリアの喉が熱くなる。
怒りが湧く。
でも、その怒りは妖精に向けた怒りじゃない。
妖精の言葉が正しいからこそ、悔しい。
悔しいのは、自分が人間だから。
自分が“奪う種”に属しているから。
「私は奪わない」
セリアは思わず言う。
声が強くなる。
「少なくとも、私は」
妖精たちの視線が一斉にセリアに刺さる。
試す視線。
嘲る視線。
興味の視線。
ルゥシェが一歩前に出て、軽く言った。
「うん。奪わないよ。少なくとも今は」
「“今は”って何」
セリアがむっとすると、ルゥシェは肩をすくめた。
「未来は知らないでしょ。だから、今の誓いが価値になる」
価値。
また通貨の話。
でも今回は刺さらない。
通貨は積み上げるもの。信用は積み立てるもの。
そういう世界なら、セリアは働ける。
自分の足で稼げる。
けれど、結界の歪みは待ってくれない。
空が不自然に暗くなった。
雲が出たわけじゃない。
光の色がくすむ。
木々の葉色が、ほんの少しだけ灰色に寄る。
緑が死に始める前兆みたいな色。
妖精たちがざわめく。
「来た」
「また歪んだ」
「裂け目が広がる」
セリアは耳を澄ませた。
その時、ほんの微かな音がした気がした。
――ぱき。
ガラスが割れる前の、ひびの音。
耳じゃなく、胸で聞く音。
境界が割れる音。
セリアは息を止めた。
胸の奥の熱が一気に跳ね上がる。
契約が反応している。
妖精の世界が揺れている。
その瞬間、空気がまた澄んだ。
澄む、というより整う。
音のノイズが消えて、世界の輪郭が一段くっきりする。
フィオラル。
姿が見える前に分かる。
王が近いと、呼吸が勝手に整う。
心臓が落ち着く。
怖いのに、安定する。
池の水面が、今度は昼なのに月みたいに光った。
水面が門になる。
そこから、静かな影が立ち上がる。
フィオラルは、いつものように名乗らない。
ただ、そこにいる。
それだけで妖精たちは頭を下げ、遺跡が礼儀正しく黙る。
セリアも膝を折った。
でも今回は、視線だけは上げたままにした。
見られるなら、見返す。
逃げない。
フィオラルは、セリアを見た。
均衡の視線。
「歪みが増えた」
フィオラルが言う。
声は低く、静かで、しかし断定だ。
妖精たちの誰かが言った。
「人間の王都だ。奪った契約が限界だ」
フィオラルは頷きも否定もしない。
ただ、セリアに問う。
「人間。何を感じる」
セリアは言葉に詰まった。
何を感じる?
怖い。怒り。悔しさ。
そして――迷い。
セリアはゆっくり言った。
「民が……死ぬのが嫌だ」
それを口にした瞬間、妖精たちの空気が少し硬くなった。
「甘い」
「人間に情けをかけるのか」
そんな声が混ざる。
セリアは拳を握った。
甘いかもしれない。
でも、切り捨てるのは簡単だ。
切り捨てた瞬間、セリアは貴族と同じになる。
自分にとって不要なものを、正義で切る。
それだけは嫌だ。
フィオラルは、セリアの答えを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
怒っていない。
でも、何かを確かめる目。
「君は切り捨てない」
フィオラルが言った。
それは評価でも非難でもなく、観測結果みたいな言葉。
「だから危うい」
危うい。
その言葉が、胸に落ちる。
危ういのは弱さだ。
でも危ういのは、同時に、繋ぐ可能性でもある。
「危ういって、悪いこと?」
セリアが思わず聞くと、フィオラルは少し間を置いて答えた。
「悪いとは言わぬ」
「だが、均衡は危ういものを嫌う」
「嫌うからこそ、注視する」
注視。
つまり、見られ続ける。
セリアの背中がぞわりとした。
見られるのは怖い。
でも、見られないよりはずっといい。
王城では、セリアは“見られないまま切り捨てられた”。
ここでは、見られて、問われている。
ルゥシェが小声で言った。
「ね、だから言ったでしょ。君は珍しいって」
「今それ言う?」
「今だから言う」
セリアは息を吐いて、フィオラルを見上げた。
王は静かに遺跡の空気を整えたまま、もう一つだけ告げる。
「王都で奇跡が失敗している」
「聖女候補の力は、歪みを補えぬ」
「このままなら、割れる」
割れる。
境界が。結界が。
そして、民が。
セリアは喉の奥が熱くなった。
怖さと怒りと迷いが、混ざって一つの塊になる。
その塊は、ただ燃える怒りじゃない。
形を変え始めている。
戻る理由。
人間の世界に戻る理由。
いや、ただ戻るためじゃない。
“切り捨てられた人間”が、切り捨てないために戻る理由。
フィオラルは最後にセリアを見た。
恋じゃない視線。
でも、どこか静かな期待みたいなものが混ざっている気がした。
それが気のせいかどうか、セリアにはまだ分からない。
「選べ」
フィオラルは言った。
「危うさを抱えたまま、立つか」
「危うさを捨てて、均衡に従うか」
セリアは答えなかった。
答えはまだ、胸の奥で育っている途中だから。
でも、もう一つだけ分かっていることがある。
風が止まった森で、境界が割れる音がしている。
その音は、セリアの選択を急かす時計みたいに、静かに刻み続けていた。
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