公爵家を追い出された地味令嬢、辺境のドラゴンに嫁ぎます!

タマ マコト

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第6話 氷の館

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朝、砦の鐘は鳴らなかった。代わりに、風が長く鳴っていた。石壁の継ぎ目をなぞり、回廊を縫い、空気だけを震わせて去っていく。

ローザはその音で目を覚まし、膝を抱えたまま、昨夜窓辺に広げた黒い土を確かめる。指の腹をそっと押し当てると、ひやりとした冷たさの奥に、かすかな弾力があった。土は死んでいない。眠っているだけ。

扉の外に、足音の代わりに金属の擦れる音が近づいて、止まる。軽い二度のノック。返事をすると、鉄の従者が無言で扉を押し、盆を置いた。平たい黒パン、塩気の強いチーズ、薄いスープ。従者の仮面に目はない。口もない。言葉が入っていく余地が、そもそも作ってないみたいだ。

「おはよう」

ローザはいつもの癖で話しかけ、笑ってしまう。返事がないのは分かっている。けれど、口に出した言葉は、自分の耳で自分に戻ってくる。それでいい朝も、ある。

パンを少し齧り、スープで喉を温める。昨夜押した契印の跡は、痛まなかった。薬指に浅い凹みが残っているだけだ。凹みに親指を重ねると、そこだけ体温が鈍い。合図は生きている。ここにいていい、という合図。

部屋を出ると、廊下の影は薄くて長い。窓は細く、風が糸のように抜けていく。壁に埋まった鉱脈がわずかに光を返し、通るたびに彼女の輪郭を細くなぞった。角を曲がるたび、鉄の従者が一体、決まった距離を保ってついてくる。護衛か監視か、その境目もまた、薄くて長い。

「庭はどこ?」

従者に問うと、無言で歩幅を少し広げた。付いてくるように、という合図だと受け取るしかない。上階へ、回廊を渡り、暗い半円の扉を潜る。冷たい空気が頬の色を奪い、次の瞬間、眩しい白に目が細くなった。

そこが庭だった。といっても、王都の屋敷みたいな庭ではない。四角い中庭に、石畳が敷き詰められ、その間の割れ目に短い草が押し出されるように生えている。隅に低い壇。土が浅く盛られて、いちおう「畝」と呼べる線がいくつも並ぶ。今は雪の薄い膜に覆われ、光が硬く跳ね返ってくる。

「……寒い」

思わず声が漏れた。寒さには種類がある。王都の冬は肌の表面を刺す寒さだったが、ここは骨に直接触れてくる。空気自体が密度を増し、肺の奥で音を立てて固まっていくみたいだ。

従者は壇の縁に置かれた木箱の蓋を開けた。古びた移植ゴテ、短いスコップ、麻紐、ひび割れた陶製の札。道具は揃っているが、使われた形跡は薄い。彼女はゴテを手に取って重さを量り、箱の端に置いた。

「ここで、土を起こしてもいい?」

無言。だが従者は一歩退き、道具箱の前を空けて立った。許可と受け取る。

ローザは厚手の手袋の上からさらに革の手袋を重ね、ひざまずいた。雪の薄皮を手で払い、凍った土の表面をゴテでそっと割る。硬い。刃が跳ね返される。力を加える角度を変え、今度は押す。刃先が少し入った。ひと筋が生まれる。ひと筋に沿って、土は少しずつほどける。ほどく、という手応えが嬉しい。ほどけるものは、もう一度結べる。

窓辺の「石の腹」の土を少し持ってきていた。黒く乾いた土。彼女はそれを掌に広げ、起こした溝にそっと混ぜ、指先でならす。自分にしか意味の分からない、小さな儀式みたいなものだ。ここに、あの温室の呼吸を少し連れてきたかった。呼吸は感染する。よい息は、土に伝わる。

麻袋から、エミリアがくれた銀花の種を一粒だけ取り出し、凍みる空気から守るように身を屈める。両手で小さな窪みをつくり、種を置く。軽い。軽すぎて、指の上では重みが分からない。では、言葉で重みを与えるしかない。

「――ここで生きて」

誰にも聞こえないくらいの声で言い、土をかぶせ、手のひらでそっと押した。

「無駄だ」

背後で声が落ちた。振り返ると、回廊の陰からカイゼルが歩み出てくるところだった。光を反射しない灰の衣、風を切らない足取り。銀の瞳だけが、庭の白に馴染まず、浮いている。

「ここは風が全て持っていく。雪は遅れて返す。土は浅く、石は深い」

「知ってる。知った上で、置くの」

ローザは立ち上がらず、膝のまま顔を上げた。彼は庭の端で足を止め、薄く笑った。

「王都の娘は、たいてい初日に泣くか怒るかだ」

「泣くのは後に取っておくわ。怒るのは、目の前の誰かに向けるものじゃない。ここに怒るのは、私が嫌だ」

「ここに?」

「この庭に、この風に、この石に。ここは私の敵じゃない」

カイゼルの笑みが消える。視線が彼女の手元、わずかに違う色をした土の部分に落ちた。

「それは」

「王都の、いえ、私の温室の土。ほんの少しだけ」

「泥仕合を持ち込むな、という意味のことわざがあるが」

「違う。挨拶を連れてきただけ」

「挨拶」

「よそから来た者は、必ず挨拶をするものよ。土にも、風にも。そうしないと、居心地が悪くなる」

彼は黙り、短く息を吐く。

「好きにしろ。ただし、好きにするなら責任を持て」

「もちろん」

ローザは頷き、指先の土を撫でる。冷たい、でも生きてる。今はそれでいい。

その日から、彼女は毎朝庭に出た。雪が薄くても厚くても、風が刃物でも鈍でも、関係なく。鉄の従者はいつも同じ距離を保ち、道具箱は毎回、前日と同じ位置に戻されていた。夜には炉の火を落とす前に、日記を開く。

〈一日目――土は息が浅い。風が早口。手の中の種は静か〉
〈二日目――雪は言葉を飲み込む。従者にも挨拶をした。“おはよう”は石に吸われた〉
〈三日目――土の温度が、少し上がる。カイゼルが通りかかった。無駄だ、とまた言った。無駄は私の敵じゃない、と答えた〉

言葉で日が重なる。書くたび、胸のざわめきが細くなる。夜は静かだが、静かすぎない。砦のどこかで、たまに低い音が鳴る。深呼吸みたいな音。彼の「しまう」部屋の前なのかもしれない。彼もまた、何かと折り合いをつけている。

四日目の朝は、風が鳴らなかった。雪も降らなかった。音が少ない朝は、逆にいろんな音が聞こえる。自分の靴の革が折れる音、布が擦れる音、指の中の血の動く音。ローザはいつものように膝をつき、土を撫で――止まった。

表面に、針の先みたいな割れ目。昨日までも見た気がしたが、今日は違う。割れ目の縁に、湿り気の濃い影。影の底で、何かが押し返すように盛り上がっている。彼女は息を止め、指先を離した。押せば壊す。待てば見える。

影が、ほんの少し裂けた。薄い薄い緑がひとかけら、光の方へ顔を向ける。緑、と呼ぶには頼りない、半分は土の色のままの、かすかな色。

「――出た」

声が勝手に漏れた。従者は動かない。風も、まだ遠くにいる。ローザは両手を土の左右に置き、芽に触れないように囲む。冷たい。この冷たさの中で、どうして前へ来ようと思えたのか。芽は答えない。でも、前へ来ている。理由は、たぶん、あとでついてくる。

そのとき、背中に気配が落ちた。彼女は振り返らずに言う。

「無駄じゃなかった」

「偶然だ」

カイゼルの声には、苦くも甘くもない硬さがある。「雪の下で、去年の根が残っていたのかもしれない」

「だったら、なおさら嬉しい。誰かの続きに、やっと追いつけた」

「……」

彼は黙り、ゆっくりと回廊から降りてきた。足音が石を選ぶ。芽の前に立つと、彼は腰を折り、遠くから覗き込むみたいにして目を細めた。

「小さい」

「大きい芽はないの。最初はみんな、小さい」

「雪はまた降る」

「じゃあ、雪の上に布をかける。従者に頼めば、きっと黙って持ってきてくれる」

「従者は黙る」

「でも、してくれる」

カイゼルは、芽ではなくローザの手を見た。薄い泥が指先に線を作っている。契印の凹みの上にその線が交わり、ちいさな十字ができていた。

「お前の指は、王都の女の指ではない」

「ひどい」

「褒めた」

唐突で、少し遅れて意味が届く褒め方だった。ローザは笑って、泥の十字を見下ろした。

「ねえ、カイゼル」

「なんだ」

「ここに“庭”を作ってもいい?」

「いま見ているのは何だ」

「庭の入口。庭って、線じゃなくて空気だから。人が“ここは庭だ”って呼吸できる場所のことを、たぶん私は庭と呼びたい」

「呼吸は感染する、と言ったな」

「うん。うつすわ」

彼は立ち上がり、石畳をひとつ蹴った。蹴った、と言っても音は出ない。ただ、石がひとつだけ息を吐く。

「好きにしろ。好きにするなら、責任を持て」

「二度言った」

「大事なことは、二度言う」

「分かった」

ローザは背筋を伸ばし、従者に目をやる。「布と、薄い板で小さな覆いを作りたいの。風避けと、雪よけ」

従者は無言で回れ右をし、音もなく去る。命令を理解し、実行に移す。言葉はいらない。いらないが、言葉を使いたい日もある。

「あなたは」

「なんだ」

「無駄って言いにくくなったでしょう」

カイゼルは答えず、代わりに回廊の影を見上げた。風がそこだけ、彼の前で遠慮して回り道をする。

「芽は、雪に勝たない」

「勝たなくていい。同じ場所にいて、同じ空気を吸って、春になれば勝手に背が伸びる。勝つとか負けるとかじゃない。ここは戦場じゃないから」

「戦場は、いつだって他人が作る」

「じゃあ、そのときは避難所も作る。庭の隅に」

彼の口元が、ほんのわずかにほどけた。笑いにはならない。けれど、笑いに十分近い。

従者が布と板を運んできた。ローザは手際よく、板で小さな三角形の骨組みを作り、布をかける。布の端を石で押さえる。芽の真上には隙間を少し残す。空気の出入り口。彼女は覆いに手を添え、布越しに声を落とす。

「寒いけど、がんばって」

「芽は聞かない」

「私には聞こえる」

「幻聴だ」

「そう。あなたにもいつか聞こえる」

カイゼルは何も返さず、覆いの影を一瞥して回廊に上った。去り際、ささやくように言った。

「……声は、氷を砕く音に似ている」

「何の?」

「お前の声だ」

彼はそれだけ言い、影に消えた。風が戻る。砦の上を回り、庭の角で渦を巻き、布の端を一度だけ持ち上げ、また置いた。置かれた布は、さっきより落ち着いた。

昼を過ぎると、空が厚くなってきた。雪はまだ降らない。けれど、降る前の匂いがする。ローザは部屋に戻り、器にぬるい湯を用意して庭に運んだ。布の外側の土に少しずつ落とす。湯気がすぐ消える。湯の代わりに、彼女の呼吸を深くする。呼吸が深くなると、時間も少し深くなる。深い時間は、芽の味方だ。

夕方、焚き火の匂いが回廊の端から流れてきた。誰が焚いているのか分からない火。砦は無人に近いのに、火の匂いは人を安心させる。ローザは覆いの布を指で弾き、小さく頷いた。

「明日も来るからね」

夜、暖炉の火が落ち着くころ、彼女は日記を開いた。

〈四日目――芽。勝ち負けじゃない。覆いを作る。声は氷を砕く音に似ている、と言われた。氷は痛まないで砕ける? 砕けるなら、どこへ行く?〉

書き終えると、窓を少し開けて外気を入れた。冷たい空気は、眠気を整えてくれる。遠くで、低い音が一度だけ鳴る。砦の呼吸。彼の呼吸。庭の小さな覆いの布は、雪の前触れの風で、わずかに鳴った。

翌朝、薄雪。覆いの布に薄く積もり、角のところで細い線をつくる。ローザは手袋を外して、その線をそっと払った。布の下から、緑が少しだけ濃くなっているのが見える。芽は、雪の重みを経験した。経験したものは、次に同じ重さが来ても、少しだけ上手に受け止められる。

「おはよう」

いつもの挨拶のあと、彼女は覆いに耳を当てた。土の音は聞こえない。けれど、土の「静けさ」が聞こえる。静けさにも色がある。今日は、すこし柔らかい。昨日より、春に近い。

回廊の上に、灰色の影が立っていた。カイゼルは何も言わない。言わない沈黙は、昨日より長い。沈黙は、だいたい観察か、思案の時間だ。どちらでもいい。どちらでも、今は味方だ。

「ねえ」

ローザは顔を上げずに言った。「この庭に名前をつけてもいい?」

「名は持っていかれる」

「持っていかれてもいい。持っていく相手が、ここなら」

カイゼルは少し考えて、短く答えた。

「好きにしろ」

「じゃあ――“風の入口”」

「入口?」

「出口でもいい。入口と出口は、よく似てるの。ここに入ってきた風が、春になって出ていく場所」

「春は、ここに来るのか」

「来させる」

彼は、その言葉に何も足さなかった。足さないことで、少しだけ受け入れた。

その日から、庭は「風の入口」になった。鉄の従者は相変わらず黙っているが、道具箱が少し整理され、板や布が乾きやすい位置に並べられるようになった。カイゼルは庭を横切るとき、覆いの端を無言で押さえ、風がいたずらをした形跡を整えた。整え方はぶっきらぼうで、正確だった。

夜。灯りを落とし、目を閉じる前に、ローザは小さく呟いた。

「ここで、春に間に合う」

返事はない。けれど、砦のどこかで、氷が微かにきしむ音がした。砕ける音ではない。きしみは、予告だ。次の季節の予告。彼女の声が届き、届いた声が、どこかの氷に細い亀裂を入れた。亀裂は、いずれ光になる。

冷たい世界に、息を一つ置いた。息は薄い。けれど、確かに温度を持っていた。芽と、土と、石と、風。その全てに、彼女の声が薄く染み込む。春は約束ではない。春は、作業だ。彼女は明日も起きて、風の入口に行く。覆いの布を持ち上げ、目を凝らし、また挨拶をする。おはよう、と。そこから、春が始まる。
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