公爵家を追い出された地味令嬢、辺境のドラゴンに嫁ぎます!

タマ マコト

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第7話 竜の傷跡

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 その夜、砦の風は静かだった。昼のあいだ中、細く積もった雪は庭の覆い布を白く染め、芽はその下で息を潜めている。ローザは窓を閉め、炉の火を細くしてから、文庫へ向かった。カイゼルに「夜は文字の輪郭を変える」と釘を刺されて以来、夜更けの読書は自重していたけれど、今日は別だ。土の匂いが薄い夜は、心音が大きくなる。心音に押し流されないように、言葉の重みで内側を支えたかった。

 回廊は冷え切っていて、吐く息が細い線になって流れた。鉄の従者が一定の距離で付いてくる。彼らの足取りは相変わらず音を置き忘れたみたいに静かで、扉を開ける所作だけが、かすかな金属音で「ここだ」と教えてくれる。

 文庫の扉は厚く、内側の空気は温度よりも先に匂いで温かい。紙と革、乾いたインク。昼間見つけた『古き契約と竜』の棚に手を伸ばすと、思いがけず高い位置から声が落ちた。

「夜に読むなと言った」

 見上げると、カイゼルが上段の回廊に立っていた。文庫は吹き抜けになっていて、二階の細い通路から全体を見下ろせるようになっている。銀の瞳が暗がりに浮いて、彼の気配だけが梯子より先に降りてくる。

「読むんじゃなくて、探すだけ」

 ローザは言い訳のつもりで笑ってみせた。

「眠れないから、眠り方を探しに」

「眠り方は書物の中にない」

「でも、眠れないときほど、背表紙の並びが落ち着くの」

「……奇特だな」

 彼は梯子を伝って降りてくると、テーブルの端に手を置いた。指は骨ばっているのに動きがやわらかく、置かれた手の下で木目が少し呼吸を思い出したみたいに見えた。

「今日は風が少ない」

「芽には優しい夜」

「雪は降る」

「覆いを何度でも直す」

 短い応酬のあと、カイゼルはふいに視線を逸らし、奥の薄暗い棚へ歩き出した。ローザはその背中に目を奪われた。灰の上衣が歩みに合わせて波打ち、その下で固い筋肉が形を変える。布の擦れる音が途中で一度だけ乱れ、裾がひらりとめくれた。そこでローザは見てしまった。皮膚の上に走る、太い、古い傷跡を。

 背の右側から左の肩甲骨へ斜めに走る一本。そして、その交差を避けるように幾筋も刻まれた浅い線。剣ではない。爪でもない。焼印に近い、熱で抉られた線の色。どれも時間の上で乾いていて、それでも触れたら痛みを思い出すような色をしていた。

「……背中」

 声が漏れた。カイゼルが動きを止め、振り返りもせずに答える。

「見るなと言っても、目は言うことを聞かない」

「ごめんなさい」

「謝るなら、目を逸らせ」

 言われて、ローザは視線を本に落とす……ふりをして、息を整えた。見たことは消えない。なら、雑に仕舞わない方がいい。彼の息の上に手を伸ばすような真似だけはしたくないけれど、目を背けるのも嘘だと思った。

「痛みますか」

 結局、問う。問わないのは罪だと、昼間に彼自身が言ったのだ。

 短い沈黙ののち、カイゼルはテーブルの対面に座った。炎の色が彼の頬に触れ、銀の瞳は色を変えない。

「時々、夜が古くなる」

「古くなる?」

「わたしの中の“昔”の時間が、今の時間に混ざる夜がある。そういう夜は、皮膚の下の線が熱を帯びる」

「今夜は」

「少しだけ。だから見回りに出た。眠れぬ客が文庫で言い訳をしているとは思わなかったが」

 皮肉めいた言葉なのに、針金の先端が丸めてあるみたいで、刺さらない。ローザは息を整え、彼の手の甲に目を落とした。薬指に重ねた自分の凹みが、ふと疼いた。契印は熱ではなく合図だけを残した。彼の傷は、合図ではなく記憶そのものの形だ。

「その傷、剣ではないですよね」

「剣の仕事はもっと潔い」

「じゃあ、火?」

「火だ。人の火。契約の火」

 彼は言って、わざわざ目を逸らした。逸らす前に、瞳の奥で何かがさっと影をつくる。ローザは姿勢を正し、背筋の骨を一本ずつ意識して積み重ねる。

「聞かせてくれますか」

「夜に?」

「夜の方が、嘘が少ない気がします」

「人は夜に嘘をつく。自分を慰めるためにな」

「あなたは?」

「慰められない」

 短い言葉のあと、彼は暖炉の火に細い薪を一本足した。炎が息を吸い、ぱちりと音を立てる。音に合わせて、彼の言葉が落ち始めた。

「昔、わたしは王に仕えた。竜の多くが山深くで眠りを選ぶ時代に、目を開けていることを選び、王の契りに加わった。雨を呼び、雪を退け、国境を見張る。代わりに、人はわたしたちの眠りを守り、幼い鱗を傷つけない――そういう古い契約があった」

「古き契約」

 棚の背表紙を思い出す。頁の間に挟まった、擦り切れた栞の手触りまで。

「契約は言葉で結ばれた。言葉は形だ。形は、壊れる。壊すのはいつも、人だ」

「……何が起きたの」

「王が変わった。腹心も変わった。“資源”という言葉が、古い契約の上に乗った。雨を数字に換算し、雪を兵糧に換算し、眠りを徴収できると考える者が増える。わかるだろう」

 ローザは頷く。数字は便利だ。けれど、便利はときどき毒になる。体温のない測りは、人の心の位置を量らない。

「ある冬、王都に呼ばれた。雪が深く、山の道は閉じていた。わたしは人の姿で降りた。人の間の約束は、人の姿の方がよく通るからだ。文官の庭で酒が配られ、火が焚かれた。焚かれた火は、契約の火だと聞かされた。『新しい取り決めを祝おう』――そう言ったのは、王の側近だった」

 彼の声は淡々としているのに、所々で石を踏む音が混じる。硬い音。踏み外しのない歩幅。

「その夜、火は祝わなかった。火は印になった。わたしは背に焼き付けられ、仲間は――」

 言葉が一度だけ止まる。止まった所に、音にならない音が落ちる。ローザは手を膝に押し付け、指先で布をそっとつねった。皮膚の浅い痛みは、内側の大きな痛みに比べれば、ただの印。

「仲間は、人の輪の中で切り離された。翼を、名を、眠りを。『竜は古い』『国は新しい』――その言葉を合図に、約束は別の名前を与えられた。献上、だそうだ。笑えるだろう」

「笑えない」

「笑えない」

 彼はわずかに笑った。笑いは音にならず、炎の揺らぎだけが反応した。

「わたしは逃げた。逃げることを恥じるなら、とっくに砦はない。逃げることが生き延びる唯一の術である時がある。山に戻り、眠ることを選ばず、見張ることを選んだ。眠りを奪われたから、見張るしかなかった」

「だから、砦は――」

「牙だ。わたしの居場所ではなく、わたしの仕事場だ。怒りをしまう場所と、怒りを出す場所が、壁一枚で隣り合っている」

 しまう部屋。円の重なり。ローザはあの冷たい空気を思い出す。中に入るのは「いつか必要になる」。その「いつか」は、彼の背に焼き付けられた夜から、ずっと現在進行形なのだ。

「……人の言葉は嘘だ」

 カイゼルはゆっくりと言った。

「甘い時は特に。『守る』『敬う』『共に』――口にされるほど軽くなる。軽いものは風に飛ぶ。飛べば、落ちる」

「全部が嘘じゃない」

「確率の話か」

「わたしの話」

 ローザは背を伸ばし、彼の目をまっすぐに見た。銀の瞳は受け止めて、跳ね返さない。跳ね返すのは、もっと古い夜のほうだ。

「わたしは、あなたに『守る』なんて言わない。『敬う』も、簡単に口にはしない。『共に』は、……いつか言えたらいいなと思っている。でも、今は言わない。言葉は約束になるから。わたしの舌で簡単に結んで、あなたの背中にまた別の線を増やすつもりはない」

「賢い」

「臆病とも言える」

「臆病は、生き物の基本だ」

「それでも」

 ローザは言葉を探して、胸の内側でいくつもの語を試し、ひとつを選ぶ。

「それでも、信じてみたい。あなたを、じゃない。人という存在を。信じるって、多分、相手の内側に手紙を置くみたいな行為だと思う。開けられるか、捨てられるか、燃やされるかは相手の自由。置いた手紙が燃やされても、置いたという事実は、私の中から消えない」

「これは告白か」

「ちがう。宣言」

 カイゼルの瞳の奥が、わずかに揺れた。炎の色ではない揺らぎ。遠くの氷がきしむ音が、耳のずっと奥で一度鳴った気がした。

「信じたいのは勝手だ」

「勝手にする。その代わり、問う。分からないことは、必ず」

「そうだ。問わないことは罪だ」

 ふたりは短く笑った。笑いは火に吸われ、文庫の梁に少しだけ留まって、すぐに消えた。

「……背中、触れてもいい?」

 気が付けば、口から出ていた。自分でも驚く。彼は眉をわずかに動かしただけで、怒りも拒絶も見せない。

「どうして」

「痛いとき、触れると内側から少しだけ熱が逃げることがある。温室で、折れた枝を当て木で支えるとき、掌で支えると枝が落ち着くの。気休めかもしれない。でも、気休めは大事」

「当て木か」

「わたしの手は木じゃないけど」

 長い沈黙。やがてカイゼルは上衣を片側だけ少し引き、肩を露わにした。光が当たらない皮膚は、雪の下の地面みたいに白く、傷はそこに地図のような線を描いている。ローザは指先を温め、迷いなく、しかし軽く触れた。指の腹を、皮膚の上に置く。押さない。なぞらない。ただ、温度を渡す。

 熱が指から移る。移っていく間、彼の呼吸がほんの少し深くなる。銀の瞳は閉じない。閉じないまま、彼は遠くの何かを見る顔をした。

「痛い?」

「……思い出は、痛みと同じ鉱脈にいる」

「じゃあ、今は」

「今は、少し遠い」

 ローザは触れていた指を離し、掌を胸に戻した。自分の心臓が、忙しない。忙しない鼓動は、逃げ腰にも似る。でも、逃げない。逃げているなら、ここにいない。

「ありがとう」

 カイゼルが先に言った。礼は硬い言葉なのに、端が柔らかい。

「どういたしまして」

「もう遅い。夜に読むな、と言った」

「読むんじゃなくて、眠り方を探しに来たんだもの」

「探せたか」

「少しだけ。あなたの背中に、地図がある」

「それは迷路だ」

「迷路は、出口の形を知る練習になる」

 ローザは微笑み、棚に手を伸ばして『古き契約と竜』を一冊だけ引き抜いた。表紙の革は固く、角はすり減っている。抱えるだけ抱えて、今日は開かなかった。開かないこともまた、選択だ。

 文庫を出ると、回廊の風が少し生温かった。雪は降り出していた。粉砂糖みたいな粒が、髪の上に落ちてすぐ溶けた。カイゼルは黙って歩幅を合わせる。鉄の従者は、ふたりのあとを等間隔でついてくる。

「ローザ」

「はい」

「お前は、王都から何を持ってきた」

「種と、手帳と、少しの砂糖菓子」

「砂糖菓子」

「甘いものは、約束を短くする」

「どういう意味だ」

「甘い約束は、すぐ溶けて消える。でも、溶けて消える甘さが、時々は救いになる。苦い夜に一粒」

「……今夜は甘いか」

「少し」

 部屋の前で別れるとき、カイゼルは何か言いかけてやめた。やめた言葉は、廊下の石に吸われる。扉を閉める音は、いつもより軽い。炉に薪を足し、ローザは窓の覆い越しに庭の暗がりを確かめた。布の上の雪は薄く、角で集まって小さな山を作っている。明日の朝、払えばいい。払える雪なら、怖くない。

 ベッドに身を入れ、毛布を持ち上げる。薬指の浅い凹みに親指を重ね、目を閉じた。眠りはまだ遠い。けれど、遠いものでも、方向が分かれば歩ける。今日という夜は、方向をひとつ教えてくれた。

 ――人の言葉は嘘だ。彼はそう言った。ローザは思う。嘘でできた壁があるなら、その壁の上に、芽の覆いを作ればいい。風を避け、雪を受け止め、春の入口にする。壁は、出口にもなる。名前をつけてしまえば、そこへ向かえる。

 「風の入口」と口の中で繰り返して、彼女は眠りの浅瀬に足を浸した。遠くで氷がきしむ。すぐ近くで、火が小さく笑った。胸の中では、まだ言葉にならない手紙があたためられている。いつか、彼の内側に置くための手紙。燃やされても、捨てられても、置いたという事実だけが残る。それでいい。今夜はそれで、十分だ。

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