公爵家を追い出された地味令嬢、辺境のドラゴンに嫁ぎます!

タマ マコト

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第17話 命の交換

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静けさは、騒がしさの裏側にいる。銀の粉が降り続ける砦の中庭で、ローザはその静けさに耳を澄ませた。耳を澄ますほど、胸の音が大きくなる。さっきまで空を満たしていた竜の光は薄れ、彼――カイゼルの輪郭は人の高さに戻りかけて、そして、戻りきらないまま透明に揺れていた。

「カイゼル」

呼べば届く。届くたびに、現実がひと呼吸延びる。彼はゆっくりとこちらを向いた。銀の瞳は相変わらず澄んでいるのに、奥の光が細く削がれている。皮膚の下で鼓動が乱れ、古傷の線が淡く灯る。雪でも火でもない温度が、距離の中に立ちのぼる。

「ローザ」

彼は微笑んだ。久しぶりに見る、子どものような角度の笑みだった。

「約束は守った」

「まだ。半分だけ」

「半分?」

「あなたが帰ってくる約束が、残ってる」

彼は答えず、代わりに周りを見た。石の壁、井戸の布、陽だまりの壁、畝の黒い筋。祈りの輪の灰が最後の煙を吐き、テオの握る石が銀粉で白く縁取られている。ゲルの肩は落ちて、ミルドは杖を強く握っていた。遠くで魔導師団の列が揺れ、ヴァレンが振り返りもせず退く。世界は離れていく。ここだけ、残っていた。

「――お前の花が、この地を生かすなら、それでいい」

彼はもう一度、それを言った。言うたびに、体の輪郭が薄くなる。ローザの喉に、熱いものが上がってきた。涙は熱に似ている。けれど、泣くだけでは足りないと、今は分かる。

「だったら、あなたにも生きてもらう」

口が勝手に動いた。決めていたわけじゃない。決めるより前に、体が走った。彼女は一歩、二歩、そして三歩で彼の胸もとまで詰め、腕を伸ばした。光を抱くというのは、こういう感触だ。固くない。柔らかいのに、重い。抱きしめた瞬間、契印が焼けるように熱を帯びた。痛みじゃない。扉が開く合図だ。

「ローザ、危ない」

「もう“危ない”じゃ動かない。『必要』で動く」

彼は言葉を失い、代わりに息を飲んだ。彼の胸の中の音が、腕越しに伝わる。不規則。足りない。――分ける。分けられるのか、分からない。分からなくても、やる。

ローザは額を彼の肩に当て、ほんのわずか頭を傾けて契印を重ねた。浅い凹みと、彼の皮膚の熱が重なる。そこに、自分の声を落とす。

「狼の根、夜の印、勇気、救い、逆境の友――全部、あなたに半分」

「半分?」

「半分でも、二人分でひとつになる」

言葉に形はないのに、形は伝わった。胸の奥から何かが引かれる感覚。温室で根鉢を崩すときに似ている。絡み合った根をほどくのではない。絡み合いをそのまま、外側の大きな土へ移す。移すのは、手の温度だ。

彼の手が、ためらいながら彼女の背に回った。重い。けれど、優しい。鱗が指の下で微かに鳴る。銀粉が舞い、彼の息が首筋に触れる。その触れ方が、初めてだった。戦いの間の荒い息ではない。眠る前の、深い呼吸。

「ローザ」

「いるよ」

「わたしは――」

言い終える前に、彼の胸の中で光が震えた。震えの中心から細い糸が一本、彼女の胸へ伸びる。契印から入り、肋骨の間を通り、心臓の背に触れる。触れたところがじんわりと熱くなり、熱が血に混ざる。血の重さが少し変わる。軽くない。重くない。ちょうど良い。彼の息が、彼女の息を見つけて肩で重なる。重なるたびに、銀粉のひとひらが生まれ、地面に落ちて小さな花の蕾に変わる。

「……見えるか?」

彼が囁いた。ローザは目を閉じたまま、内側で頷いた。見える。目ではなく、体で。二人の心臓が、別々に打って、時々同時に打つ。打ち方の癖が違う。違うのに、合うところがある。その合った瞬間、光が周りにほどける。ほどけた光が土に入って、遠くの斜面へ、井戸の下へ、祈りの輪の灰へ走る。

「貸し借りじゃないからね」

「取引でもない」

「交換」

「交換」

合図のように、氷の縁に立っていた風がやわらいだ。祈りの輪の布が小さく鳴り、ミルドが杖を握り直す音だけが近くなる。遠くでゲルが息を吐き、テオが石を落としそうになって慌てる足音がして、また持ち直す。世界は相変わらず忙しい。忙しいことが嬉しい。

彼の熱が、揺れて、減って、また足される。ローザの熱が、足されて、減って、また戻る。行ったり来たりの間に、境目が曖昧になる。彼女は自分の手のひらが、彼の背と自分の胸、両方の鼓動を同時に拾っているのに気づいた。拾えることに、涙が出そうになる。出た。頬を伝い、彼の胸に落ちる。光が色を帯びる。微かな春の色。彼の古傷の上で、その色がひとつだけ花になった気がした。

「ローザ」

彼はもう一度呼んだ。今度は、音が深い。

「ありがとう。――ほんの少し、楽になった」

「ほんの少しでいい。少しを積むのが、私の仕事」

彼は笑い、肩で息をした。その肩の動きが、いつもの重さに戻りかけ、そして、戻りきらない。光の粒がまた増えた。増えた光は、彼の輪郭をさらに薄くする。悲鳴を喉の奥で押し込んで、ローザは抱きしめる腕に力を込めた。

「行かないで」

「行くわけではない」

「消えないで」

「変わるだけだ」

変わる。言葉では分かっていた。けれど、体は納得しない。体は「ここに、今」の重さが好きだ。重さが、消えていく。彼女は震えを止めないことにした。震えは合図。合図は、彼に届く。

「怖いの」

「知っている」

「でも、手は離さない」

「離れる必要が来る」

「その時まで」

「その時まで」

彼の声が低くなり、胸の音がゆっくりになる。二人の鼓動が、今度は長く同じテンポで並んだ。並ぶ間に、砦の石が温度を変え、井戸の水が光を小さく返し、風の入口の蕾が一斉に開いた。開いた音が、聞こえた。花は音を持たないのに、確かに聞こえた。銀花――セラフィム――が、足元から回廊の柱へ、壁へ、そして遠い斜面まで、薄い川のように流れていく。

「……綺麗」

誰かの声。祈りの輪の女たちか、テオか、ミルドか。もう分からない。世界は一つの音で満ちていて、その音の中にそれぞれの声が溶け込んだ。

彼の輪郭が、いよいよ軽くなった。抱きしめているのに、腕の中に空気が入る。それでも、確かに彼はいる。温度がある。彼女は額を彼の肩から離し、目を開けた。近すぎて焦点が合わない。合わない輪郭が、ゆっくりと光にほどけていく。銀の瞳だけが、最後まで形を保って、まっすぐに彼女を見た。

「ローザ」

「いるよ」

「わたしは、人を憎んでいた。お前を愛してから、その憎しみは“古い”になった。古いものは、土になる。——土になって、お前の花を下から押す。いいか」

「うん」

「お前が歩くところに、花が咲く。驚くな。お前のせいだ」

「……責任、取る」

「面倒だな」

「得意分野」

彼はほんの一瞬だけ肩で笑い、その笑いが光に乗って砦の上へ登った。指先の感触が薄れる。彼の手が、彼女の背から離れる。離れながら、合図の熱を最後に一度だけ残した。契印が、音もなく打つ。〈いる〉。今度は、長く。

「愛してる」

ローザは言った。さっきよりはっきりと。泣き声ではなく、仕事の声で。彼の銀の瞳が、同じ言葉を返した。音ではなく、形で。形は、光になって空へ上がる。

抱きしめていた腕が空を抱いた。空は冷たい。冷たいのに、彼女の胸の中は温かい。温かいのに、寂しい。矛盾の温度が、彼女の中に根を下ろす。根は、重い。重いのに、支える。

「ローザ!」

背からミルドの声。気配でわかった。彼は泣きたいのを堪えている声をしていた。ゲルは言葉が見つからずに「……おう」としか言えず、テオは「花が道になった」と走り回っている。祈りの輪の女たちが蜂蜜の瓶を胸に抱き、空を仰いだ。空にはもう竜の姿はない。けれど、銀粉がまだ少し降っていて、光が地面へ帰っていく。

ローザはゆっくりと立ち上がった。足が震える。震えは止めない。震えは、まだ合図だから。彼女は風の入口へ歩いた。覆い布を持ち上げる。花。白銀の、小さな星がいくつも重なっている。昨夜まで蕾だったのに、今は息をしている。息は、土から上がって彼女の頬に触れた。優しい。優しいのに、泣ける。

「……ただいま」

彼に言うみたいに、花に言った。花は答えない。けれど、土が返事をした。指の腹に、微かな脈が触れた。

「領主様」

ミルドが近づいて、杖をついた。

「終わったんじゃない。始まったんだ」

「うん」

「やることは多い。火の跡、井戸、畝、道、祈りの輪」

「全部、今日の手でやる」

ゲルが口を開きかけ、閉じ、また開いた。

「……あいつは」

「いるよ」

ローザは胸に手を当てた。

「ここに。あと、土の下にも」

テオが彼女の手を引いた。

「見て、道! 花が道になってる!」

中庭から外門へ、銀の花が細い川になって伸びている。村の方へ。風がその上を撫でると、さざ波みたいに光が揺れる。歩けば、そこに花が増えるのだろう。ローザが歩くところに、花が咲く。彼が言った通り。

「行こう」

ローザは言った。

「井戸の布、結び直す。蜂蜜は薄く。咳の子には温かい水。畝は焼けたところから順に。祈りの輪の灰は、今日の灰に。結界の縫い目は、明日の朝、もう一度」

「承知」

ミルドが笑い、ゲルが短く頷き、祈りの輪の女たちが袖をまくる。テオが走る。鉄の従者は静かに荷を運び、砦の壁は重さを取り戻し、空は冷たくて、正しい。

歩き出す前に、ローザは一度だけ振り返った。空の高み、光がほどけて消えた場所。銀の粉は、もう見えない。けれど、風がひとつ通り抜け、頬に触れた。それは彼の手の温度に似ていた。

「行ってくるね」

言うと、風がわずかに強くなって、覆い布の角を一度だけ揺らした。いつかの夜に教えた鳴き方で。〈寝息〉。ローザは笑って、花の道に足を踏み出した。

銀の花が、足元でそっと開いた。彼女の影がそれを跨ぎ、前へ伸びる。影の先に、今日の仕事が待っている。滅びの果てに、愛が咲く。咲いた花は枯れる。けれど、種が残る。種は土に落ち、土は覚えている。覚えている限り、また咲く。彼女は胸の奥の灯りを確かめ、深く息を吸い、吐いた。

「――次へ」

声は小さく、仕事の速度で。花は音を持たないのに、たしかに彼女の足音に合わせて鳴いた。銀の道は村へ続き、村はその道に手を伸ばし、手は彼女の手と繋がる。繋がった先に、彼がいた。姿はなくても、呼べば、いる。呼べる声は、もう彼女の中で根を張っている。今夜はそれを抱いて、眠る。明日の「まし」を増やすために。
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