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第4話 公開断罪と婚約破棄
しおりを挟むその日は、朝から空気がおかしかった。
聖堂に迎えに来た侍女は、いつもより口数が少ない。
化粧を施す手も、わずかに震えていた。
「……リディア様。本日、王城で“聖女に関する重大な発表”があると伺っております」
髪に櫛を通しながら、侍女が慎重に言葉を選ぶように告げる。
「重大な、発表……?」
「はい。陛下直々のご宣言だとか。
ご出席は必須だと、殿下の侍従から……」
鏡の中で、わたしの顔が強張る。
――重大な発表。
嫌でも、先日の会議を思い出す。
『聖女の交代だ』
あの言葉が、頭の奥で何度もリフレインする。
記録を見に行ったときの冷たい羊皮紙の感触も、まだ手に残っていた。
(まさか、本当に……)
「リディア様」
侍女が、そっと声をかける。
「お顔が、少し……」
「あ、ごめんね。大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
自分で言って、自分で苦笑する。
この数日、まともに眠れていないのは事実だった。
瞼の裏には、書き換えられた記録、信じてくれない声、“意味がない”と言われた祈りが、ぐちゃぐちゃに混ざって貼りついている。
「それでも、綺麗ですよ。……聖女様ですから」
侍女の言葉に、胸がちくりと痛む。
――“聖女様”。
その呼び名が、まるで役に立たない飾りに思えてしまう自分が、嫌だった。
◇
大広間は、いつも以上に華やかだった。
天井から吊るされたシャンデリアには、無数のクリスタルが光を反射してきらめいている。
長い赤い絨毯の両側には、ぎっしりと貴族たちが並んでいた。
色とりどりのドレスと礼服、香水の匂い。ざわめきが波のように行き来している。
「本当に聖女の件かしら」「交代だって話も」「いや、ただの噂に決まっている」
断片的な言葉が耳に飛び込んでくる。
全部が、自分のことを話しているようで、気分が悪くなりそうだった。
「聖女リディア様、ご入場――」
侍従の声が響く。
全員の視線が一斉にこちらを向いた。
(逃げたい)
一瞬だけ、心臓が本気でそう叫んだ。
この場から消えてしまいたい。
誰にも見られたくない。
全部見なかったことにして、聖堂の片隅でただ祈っていたい。
でも、足は止まってくれない。
慣れたはずの聖女の正装――白と銀の衣は、今日はひどく重く感じた。
絨毯を進みながら、王の座する玉座を見る。
その隣には、ユリウス。
そして――その少し斜め後ろに、一歩下がるようにして立つエリシアの姿。
淡い水色のドレス。儚げな雰囲気をまとい、視線を伏せている。
けれど、時折上に向ける睫毛の影が、計算された角度で光を掬っていた。
(……本当に、上手いな)
こんなときでも、そんなことを考えてしまう自分が情けない。
定位置まで進み出て、深く一礼する。
「聖女リディア、参上いたしました」
声は震えていない。
まだ、大丈夫。
◇
「本日、諸君を集めたのは――聖女に関する重大な事柄を告げるためである」
王の声は、いつも以上に重々しかった。
ざわめきが、すっと引いていく。
広間中に静寂が落ちる。
「ここ数ヶ月、我がアルシェルド王国は、かつてないほどの困難に直面している。
辺境での魔物被害の増加、作物の不作、疫病の蔓延……」
読み上げられていく“問題”は、聞き馴染みのあるものだった。
そのたびにわたしは、祈り、力を使い、できる限りを尽くしてきた。
「そして、聖堂および各地からの報告によれば――」
そこで、王はわずかに目を閉じた。
劇場の役者みたいな間の取り方だった。
「聖女リディアの力は弱まり、この国を支えるには不十分である、とのことだ」
広間が揺れた。
「やはり……」「噂は本当だったのか」「そんな……」
貴族たちのざわめきが、一気に膨れ上がる。
――聞いていた。
“加護が弱まっている”と言われ続けてきた。
報告書がそう書いているのも知った。
けれど、“王の口から正式に宣言される”ということの重さは、想像していた以上だった。
胃のあたりがきゅっと掴まれる。
足の裏から、体温が抜けていく。
「陛下」
耐えきれず、わたしは一歩前に出た。
「申し上げたいことがあります」
王の視線が、重くのしかかる。
「……申せ」
「報告書の一部には、明らかな矛盾があります。
わたしが確かに癒した兵士が、“死亡”と記されている例も――」
「記録の正当性については、既に調査済みだ」
王の言葉が、ぴしゃりとわたしの声を切り裂く。
「聖堂の神官長、前線の隊長、文官たち――複数の証言が一致している。
一人の記憶違いよりも、多数の記録が重んじられるのは当然のことだ」
「記憶違い……」
自分の口の中で言葉が転がる。
――わたしの見たものは、全部“勘違い”にされた。
喉がひりついた。
言い返したい言葉はいっぱいあったのに、どれも声になる前に崩れていく。
「聖女リディア」
ユリウスの声が響く。
彼は一歩前に出て、わたしの正面に立った。
紫の瞳は、冷えた湖みたいに静かだった。
「君は自らの力についてどう考えている」
唐突な問い。
でも、きっと答えは決まっているのだろう。
「……以前より負担は増えています。
魔物も強くなっているし、祈りの回数も増えて……
それでも、わたしは――今も全力で」
「“全力で”という言葉は、何度も聞いた」
ユリウスは淡々と言う。
「だが、結果として“救えなかった命”が増えているのも事実だ」
“結果”。
先日の会議でも聞かされた、その言葉。
「国を導く立場として、“事実”から目を背けることはできない。
君がどれだけ自分では全力だと言おうと、国全体から見れば“足りていない”」
それは、“君の努力は評価しない”という宣告だった。
胸の奥がじわりと熱くなる。
悔しい。悲しい。
でも、その感情を表に出した瞬間、きっと“感情的な聖女”という新しいレッテルを貼られる。
「だからこそ――」
ユリウスはゆっくりと振り返り、広間を見渡した。
「我々は決断しなければならない。
この国を守るために、最もふさわしい形を」
(ああ、来る)
心のどこかで覚悟していた言葉が、もうすぐ形になる。
「聖女リディア」
もう一度名前を呼ばれる。
逃げられないよう、言葉で打ち込まれていく杭みたいだった。
「君は聖女としての責務を果たせなかった。
よって、聖女の称号を剥奪し――」
その瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。
“剥奪”という言葉が、耳から脳まで一気に染み込んでいく。
それは、わたしの存在理由を無理やり剥ぎ取る宣告だった。
「王太子妃としての婚約も――ここで破棄する」
時間が、止まった。
音が消える。
視界が少しだけ遠くなる。
世界がガラス越しに見えるみたいに、薄くなる。
ざわめきが遅れて押し寄せる。
「やはり……」「婚約まで……」「そこまで……」
二重三重の衝撃に、足がふらついた。
(聖女……だけじゃなくて)
(ユリウスとの婚約まで)
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は整っていた。
ユリウスはわずかに視線を伏せ、それから淡々と答える。
「王太子妃は、国の象徴だ。
民を導き、支え、安心を与える存在でなければならない」
それは、わたしがその条件を満たしていないと言っているのと同じだ。
「今、“聖女の加護が弱まっている”と国中で囁かれている状況で――その聖女を王太子妃として迎えれば、民はどう思う?」
彼は問いかけるような口調で言ったが、答えを求めてはいなかった。
「不安が広がる。王家の判断に疑念が生まれる。
だから、君を王太子妃に迎えることは、もはやできない」
ユリウスは一歩、距離を空けた。
それは、形だけの距離じゃない。
心の距離が、はっきりと視覚化された瞬間だった。
「君を嫌いになったわけではない」
その言葉に、思わず顔を上げる。
――今、何て?
「だが、王太子として、国のために最善を選ばなければならない。
個人の感情より、国の安泰が優先される。
それが“王になる者”の責務だ」
それは、“君より国が大事だ”という、あまりにも分かりきった答えだった。
分かっていた。
彼は昔から“国のため”を優先する人だった。
それでも、心のどこかで――本当に小さな、愚かな部分で、わたしは期待していたのだと思う。
“それでも君を選ぶ”と言ってくれる可能性を。
その幻想が、今、綺麗に砕かれた。
◇
「あ、あのっ……!」
張り詰めた空気を裂いたのは、震える高い声だった。
視線を向けると、エリシアが両手を胸の前でぎゅっと握りしめて立っている。
大きな碧眼には涙が溜まり、その頬を一筋、透明な雫がつたっていた。
「お、お待ちくださいませ、殿下! わたくしは、そのような……!」
彼女は必死に首を振る。
「聖女様の称号を奪ってまで、わたくしを……新たな聖女候補などと呼ばれるのは、恐れ多すぎますわ……!」
“呼ばれていない”ものを、わざわざ自分から口にする。
それが、どんな意味を持つ言葉なのか、理解した上で。
「誰も、君を責めはしない」
ユリウスがなだめるように彼女の肩に手を置いた。
「君の敬虔さは、誰よりも知っている。
君はただ、自分のできることをしてきただけだ。責めを負うのは――」
そこでほんの一瞬、彼の視線がわたしをかすめる。
「聖女の責務を果たせなかった者だ」
――わたし、だ。
「で、ですが……」
エリシアはさらに涙をこぼし、広間を見渡した。
「皆様も、ご覧になっていましたわよね……?
わたくし、ただ聖堂で祈っていただけで……聖女様のお役に立てればと、本当にそれだけで……!
それなのに、わたくしなんかの名前が“新しい聖女”だなんて、勝手にひとり歩きして……」
“勝手にひとり歩き”させたのは、誰だろう。
その噂の温度を誰よりも上手く操っていたのは、誰だろう。
でも、今この場でそれを指摘したところで、誰も信じない。
泣きながら自分を卑下する少女と、聖女の座から引きずり下ろされようとしている女。
どちらの言葉に耳を傾けるかなんて、決まっている。
「エリシア殿。そなたに強制するつもりはない」
王が、穏やかに告げる。
「ただ、国のために祈りを捧げてくれるその心が、我らにはありがたいのだ」
「陛下……」
エリシアは震えるまぶたを伏せ、深く頭を下げた。
「わたくしにできることがあるのなら……
聖女様のようには到底なれませんけれど……せめて、その、お隣に立たせていただけるのでしたら……」
“隣に”。
それが誰の隣なのか、言うまでもない。
広間の視線が、ユリウスとエリシアの間に集まる。
誰かが小さく、「お似合いだ」と呟いた。
胸の奥で、何かが“バキッ”と音を立てた気がした。
◇
「リディア」
もう一度、名前を呼ばれる。
ユリウスの声には、最初よりもわずかな躊躇いが混ざっているような気がした。
けれど、それが気のせいかどうか確かめる気力は、もう残っていなかった。
「君自身の言葉を、聞かせてくれ」
「……わたしの、言葉」
何を言えばいいのだろう。
本音を言えば――
悔しい。
怖い。
全部奪われるのが嫌だ。
わたしの見てきたもの、救ってきた命、積み重ねてきた祈りを、“無能”の一言で終わらせないでほしい。
ユリウスにだって、本当は聞きたいことが山ほどある。
「どうして、信じてくれなかったの」
「どうして、わたしより噂や記録を信じるの」
「どうして、婚約を、そんなふうに切り捨てられるの」
でも、そのどれもが、この場にはふさわしくない感情だ。
“聖女”は、個人的な感情を最優先にしてはいけない。
“元王太子妃候補”は、惨めな姿を晒してはいけない。
それが、この国の“正しさ”なのだと、今さら思い知らされる。
喉の奥で言葉がぐるぐる回る。
何かを言おうとしても、空気が通らない。
静まり返った大広間に、自分の心臓の音だけが響いているような気がした。
やっとの思いで、唇を開く。
「…………わかりました」
絞り出した声は、驚くほど小さかった。
けれど、静まり返った広間にははっきりと届いたはずだ。
わたしの“了承”。
全てを諦めた、たったひとつの言葉。
「今まで、聖女としての務めを与えていただけたこと……感謝しております。
王太子妃としての婚約を結んでいただけたことも、光栄でした」
口が勝手に、儀礼的な言葉を並べる。
何度も練習した挨拶文みたいに、滑らかに。
「この先、わたしがこの国にとって害になるようでしたら……どうか、遠慮なく切り捨ててください」
そこまで言って、息を吸う。
(ああ、わたし、今――)
ようやく、はっきりと自覚する。
(自分で、自分を“捨てていい存在”だって認めたんだ)
王も、ユリウスも、エリシアも、貴族たちも。
誰も「そんなことはない」とは言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
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