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第3話 仕組まれた「無能」の証拠
しおりを挟む聖堂の地下には、陽の光が一切届かない部屋がある。
分厚い石壁に囲まれたその部屋は、正式には「記録保管室」と呼ばれていた。
聖女の奇跡の記録、戦場からの報告、魔物被害の詳細――あらゆる“祈りの結果”が紙に起こされ、ここに積み重なっていく。
けれど今夜、その部屋で行われているのは、祈りとは程遠い行為だった。
「……で、この日の治癒件数が三十二件、ですね?」
灯されたランプの光の下で、若い神官が羊皮紙をめくる。
彼の指は、震えているというより、迷っていた。
「そうだ。だが、そのまま書くな」
隣に立つ年配の神官――聖堂の中でもそれなりに地位のある男が、低い声で釘を刺す。
胸元のペンダントには、さりげなくエリシアの家の紋章が刻まれていた。
「件数を……十五件に減らせ。残りは“回復せず死亡”に書き換えろ」
「で、ですが! この兵士は実際に――」
「生きていることくらい、俺も知っている」
年配の神官は、苛立ったように舌打ちした。
「だが王城に上げる報告書に書かれるのは“真実”ではなく、“必要な事実”だ。
必要なのは、“聖女の加護は弱まっている”という証拠。わかるな?」
「……でも、それは……」
「聖女リディア様に情があるのか?」
その名前を出された瞬間、若い神官の肩がびくっと跳ねた。
彼の脳裏に、祭壇の前で疲れた顔をしながらも微笑み、何度でも「大丈夫ですか」と声をかけてくれた聖女の姿が浮かぶ。
あの人の祈りがなければ助からなかった命を、彼はいくつも知っている。
「わ、わたしは……」
「いいか」
年配の神官はぐっと顔を近づけた。
その目には、信仰とは別の光――もっと現実的で、もっと生々しい“打算”が宿っている。
「もう風向きは決まっている。王太子殿下も、議会も、皆、“新しい聖女”という可能性に期待している。
エリシア様は、そういう“空気”を辛そうにしながらも、ちゃんと受け止めておられるんだ」
そこで一拍置き、彼はさらに低い声で続けた。
「今ここで、お前が“逆らった”らどうなると思う? 聖女に同情して、王太子殿下や新たな聖女候補の心証を損ねた神官が、どう扱われるか……考えたくもないだろう?」
若い神官の喉が、ごくりと鳴る。
この国で、聖堂の庇護なしに生きることは難しい。
出世も、家族の生活も、すべてがこの場所に紐づいている。
「……わかりました」
ゆっくりと、彼はペンを取り直した。
インク壺にペン先を浸し、躊躇いながらも文字を書き換えていく。
三十二件だった治癒件数が、十五件へと減っていく。
救われたはずの命が、“紙の上”でだけ、静かに死んでいく。
「よし、その調子だ。魔物被害の報告も、同じ要領でだ」
年配の神官は、別の羊皮紙を持ち上げる。
「実際の被害に三割増しで数字を上乗せしろ。“聖女の祈りが届かず被害拡大”という文言も入れておけ」
「そんな露骨なことをして……バレませんか?」
「バレないようにやるのが仕事だ」
鼻で笑うその顔には、罪悪感の欠片もない。
「第一、“期限切れの奇跡”なんてものは、誰にも検証できん。
神官が“届いていない”と言えば、それが“正しい記録”になる。
それが嫌なら、君も早く位を上げなさい。上げたければ――どっちの側に立つべきか、分かるだろう?」
若い神官は、何も言えなかった。
部屋の片隅に積み重なった羊皮紙の山が、静かに、ゆっくりと、真実から遠ざかっていく。
◇
その頃、聖堂の上では、いつものように祈りが続いていた。
「次の方、どうぞ」
リディアは祭壇の前で、何度目か分からない呼びかけをする。
石の床に膝をつき、手を合わせる。
長時間同じ姿勢でいたせいで、脚がもう自分のものじゃないみたいに痺れていた。
「聖女様、こっちです。この人が――」
担ぎ込まれてきたのは、全身血だらけの兵士だった。
胸元に深い裂傷。鎧ごと切り裂かれている。
呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。
「っ……!」
痛々しい光景に、胸がきゅっと締めつけられる。
周りにいる神官たちが青ざめた顔をしているのを、感じる余裕さえない。
「すぐにここに横たえて! 心臓より少し高く」
「は、はい!」
手際よく兵士が祭壇前に寝かされる。
リディアはその脇に膝をつき、震える手を彼の傷口の上にかざした。
(間に合って――)
息を吸い込む。
胸の奥から、魔力を引き上げる。
意識を深く沈め、祈りの言葉を心の中で紡ぐ。
光が、じわりと生まれた。
最初は弱々しい火種のような光。
けれどそれは、リディアの意志と共に広がっていく。
ひび割れた器に水を注ぎ続けるみたいに、彼女は自分の中身を注ぎ込んでいった。
「っ、ぐ……」
兵士の喉が動く。
意識がないはずなのに、身体が痛みに反応する。
「大丈夫、大丈夫だから……」
聞こえていないだろうと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。
光がさらに強くなる。裂けた肉が引き寄せられ、血が止まっていく。
「聖女様、魔力が……!」
近くで見ていた神官が慌てて叫んだ。
リディアの指先が震え、額に汗が滲む。
何度も限界を越えてきた身体が、これ以上の酷使をやめろと悲鳴を上げていた。
「まだ……終わってない」
自分に言い聞かせるように呟き、さらに魔力を押し出す。
視界の端が暗くなる。
耳鳴りがして、遠くで誰かの声が聞こえた気がした。
(せめて、この人だけでも――)
その祈りに応えるように、光が一際強く瞬いた。
次の瞬間、傷口がぴたりと閉じる。
血の流れが完全に止まり、兵士の呼吸が安定していく。
「……っは」
リディアは大きく息を吐いて、床に手をついた。
全身の力が抜けて、倒れ込みそうになる。
神官の一人が慌てて支えてくれた。
「聖女様!」
「大丈夫……ちょっと、座るだけ」
笑おうとしたけれど、うまく顔が動かない。
代わりに、涙がにじんできた。
安堵の涙。
この兵士が生き残ったことへの、純粋な喜び。
「助かった……のか?」
かすかな声がして、リディアが顔を上げる。
先ほどまで瀕死だった兵士が、うっすらと目を開けていた。
「はい。もう大丈夫ですよ」
そう告げると、兵士はぼんやりと天井を見上げ、それから震える指先で自分の胸を押さえた。
「……温かい。痛く、ない」
「よかった」
心の底からホッとする。
こんな瞬間があるから、どれだけ疲れていても、何度でも手を伸ばしてしまう。
「聖女様、本当にありがとうございます!」
兵士の側に付き添っていた若い娘が、ぼろぼろと涙をこぼしながら頭を下げた。
きっと彼の家族だろう。
「お兄ちゃんがもうだめかもしれないって言われて……でも、聖女様が――」
「……わたしは、ただ少し手を貸しただけですよ。頑張ったのは、この人自身です」
そう言うのが、いつもの口癖になっていた。
それ以上、自分を特別だと思いたくなかった。
ただの一人として、目の前の命に手を伸ばしたかった。
「休憩を」
そばにいた神官が、小声で囁く。
「いえ、まだ……」
「今倒れたら、それこそ陛下に怒られますよ」
冗談めかしたその一言に、リディアは苦笑した。
「……それも、困りますね」
ようやく立ち上がり、少しだけ聖堂の外の空気を吸いに出ることにした。
◇
数日後。
王城の一角、報告書を扱う事務室。
その扉の向こう側で、もう一度“真実”が書き換えられる。
「北方前線の報告書、届きました」
文官が机の上に羊皮紙の束を置く。
別の文官がそれに朱のペンを走らせながら、内容を確認していく。
「魔物被害、前月比150%増加……? 多すぎやしないか、これは」
「聖堂から来ている記録と合わせての数値です。“聖女の祈りが届かず、死亡した兵士多数”と」
「……ふうん」
文官は鼻を鳴らしながらも、そのまま書類を綴じる。
そこに書かれているのは、あの時リディアが助けた兵士についての記録だった。
「聖女の祈りによる治癒、効果なし。帰還後、容体悪化のため死亡」
――実際には、彼は生きている。
今も家で療養し、家族と笑い合っている。
けれど王城に上がる紙の上では、その命はすでに“なかったこと”にされていた。
「これでまた、“聖女の加護の弱まり”の裏付けが増えるな」
「ああ。議会で話題になるだろう」
淡々と交わされるやり取りの中で、一枚一枚、リディアの評価は削り取られていく。
◇
その変化を、リディア自身が知るのは、もう少し後のことだった。
その日も聖堂は忙しかった。
戦場から戻る兵士たち、流行り病に怯える庶民たち。
祈りの列は途切れることなく続いていた。
「次の方、どうぞ」
いつものように、リディアは声をかける。
けれどそのとき、聖堂の入口近くで、少し違うざわめきが起きた。
「……だから、聖女殿のところなんて連れていけるか!」
「でも、お医者様はもう手がないって……」
耳に飛び込んできた言葉に、リディアは反射的に顔を上げた。
入り口のほうで、年配の男と若い女性が言い争っている。
女性の腕には、小さな子どもがぐったりと抱かれていた。顔色が悪く、息も浅い。
「どうかしましたか?」
リディアは席を立ち、二人に歩み寄る。
「お困りでしたら、わたしが――」
そう声をかけようとした瞬間、年配の男がこちらを振り向いた。
彼の目には、びっくりするほど露骨な拒絶が浮かんでいる。
「……来るな」
「え?」
「お前に祈っても、意味がないって聞いた」
その言葉は、鈍器で殴られたみたいな衝撃だった。
「誰が、そんなことを」
「前線から戻ってきた甥っ子だよ!」
男は吐き捨てるように言う。
「瀕死の状態で聖堂に運ばれて、“聖女殿が祈ってくれた”って喜んでた。
でも、すぐにまた悪化して、仲間は死んだ。
“聖女の祈りなんて、もう効かない”って、そう言ってた!」
「……そんな」
言葉が喉で絡まる。
あの兵士だ。
胸の傷を塞いだ、あの人だ。
「確かに苦しそうだったけど……助かったって……」
「仲間は死んだんだよ!」
男の怒鳴り声が、聖堂に響く。
周りの人々がざわめき、こちらをちらちらと見ている。
「お前に祈っても、助からない人間のほうが多いんだろ? だったら、もういい。
こいつは、別の治療院に連れていく」
男はそう言って、腕の中の子どもを抱え直した。
女性――おそらく母親だろう――は涙目で、リディアと男の間を見比べる。
「あの……聖女様は、たくさんの人を――」
「黙ってろ!」
怒鳴られ、女性はびくっと肩を震わせた。
その拍子に、子どもの頭がぐらりと揺れる。
「待ってください」
リディアは慌てて一歩踏み出した。
「わたしは、あなたの甥御さんを……確かに癒しました。胸の傷も、命も――」
「紙には“死亡”と書かれてるんだとよ!」
男の言葉が、リディアの足を止める。
「報告書に、そう載ってるって、城のほうの知り合いが教えてくれた。
“聖女の祈りは届かず、兵は死亡”ってな」
「……そんなはず、ありません」
瞬間的に否定する。
現場で癒した。命の灯が戻るのをこの目で見た。
あれが幻だったなんて、絶対にありえない。
「嘘だと思うなら、自分で確かめてみるんだな。俺は、もう、お前を信じない」
男はそれ以上振り返らず、子どもを連れて聖堂を出て行く。
母親は最後に一度だけ、申し訳なさそうに頭を下げると、必死に男の後を追った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
沈黙。
聖堂に残された人々の視線が、リディアに突き刺さる。
「……今の、どういう……」
「“意味がない”って……」
「本当に、加護が弱まってるんじゃ……」
囁きが、波紋みたいに広がっていく。
その中心で、リディアは立ち尽くしていた。
「聖女様……」
側にいた神官が、おそるおそる声をかける。
「ご無理は……」
「大丈夫です」
反射的にそう返した。
自分でも驚くほど、声が冷静だった。
「続けます。次の方を――」
「で、でも今の話……」
「わたしは、その兵士を癒しました」
リディアは、きっぱりと言った。
「わたしの手が届かなかった命も、もちろんあります。
でも、あの人は違います。あの人は、生きて……」
そこで言葉が途切れた。
――“紙には死亡と書かれている”。
男の言葉が、刺のように胸に残っていた。
「……記録を、確認してみます」
自分で言いながら、その言葉が妙に不安を連れてくるのを感じる。
もし、本当に報告書が“そう”なっていたら。
それは誰かが“嘘をついた”ということになる。
聖堂で、神の名のもとに働くはずの人間が。
◇
聖堂の奥にある小部屋。
そこで、神官長の机の上に、問題の報告書はあった。
「これですね。北方からの戦況報告に添付されていた“治癒記録”は」
神官長が一枚の羊皮紙を取り出し、リディアの前に差し出す。
手が震えそうになるのを、必死に抑えながら、その文字を追う。
『○月×日 瀕死の兵士一名、聖女による祈りののち、一時的回復の兆しあり。
しかし後、容体急変し死亡。
聖女の加護の持続性に疑義あり』
「……違う」
唇から、かすれた声が漏れた。
「この兵士は、生きて……いました。
確かに呼吸は弱かったですけど、傷は塞がって……わたしの目の前で」
「リディア様」
神官長は、困ったように眉を寄せる。
「もちろん、リディア様の仰ることを疑っているわけではありません。ただ、ここにあるのは“正式な記録”です。
前線からの報告と、聖堂の記録を照らし合わせて作られたものですから」
「でも、現場を見ていたわたしの記憶とは違います」
「人の記憶は曖昧です」
淡々と返される。
「激しい祈りの最中ならなおさら。兵士の容体を取り違えたり、時間の感覚が狂ったりすることもある。
もしかすると、リディア様は別の兵士と混同しておられるのかもしれません」
「……そんな」
そう言われてしまえば、それ以上強く言えなくなる。
“聖女の記憶より、書かれた紙のほうが正しい”と、暗に言われているようで。
「いずれにしろ、王城に上がるのはこの記録です。
そして陛下や殿下が見るのも、こちらの数字。……お分かり頂けますね?」
それは、「諦めろ」という優しい言い換えだった。
どうして、そんな言葉をこんなにも穏やかに言えるのだろう。
「……はい」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「ご心労はお察しします。少し休まれては? 記録の件は、こちらで対処しますので」
“対処します”――つまり、“このままにしておきます”という意味だ。
リディアは部屋を出ると、真っ直ぐに聖堂の裏庭へ向かった。
人目のない場所まで来て、ようやく、膝ががくりと崩れる。
石畳に手をつき、深く息を吐く。
空は晴れているのに、胸の中だけが土砂降りみたいだった。
(わたしのせいじゃ、ないはず……)
心の中で何度もそうつぶやく。
でも、あの男の言葉、報告書の文字、神官長の冷静な声が、全部ひとつになって、たったひとつの疑問に変わっていく。
(――もしかして、本当に、わたしじゃないほうがいいのかな)
その考えが頭をよぎった瞬間、ぞっとした。
今まで一度も口にしたことのない言葉だった。
誰かに向けてじゃなく、自分自身に向けた疑い。
(わたしが聖女じゃなかったら、もっと上手くやれる人がいて、こんなに叩かれないのかな)
(エリシアみたいな人のほうが、みんな喜ぶのかな)
想像したくない未来の絵が、じわじわと形を取っていく。
心の中に入っていたはずの“自分への信頼”が、少しずつ、少しずつ削れていく。
誰かに壊されたというより、自分で自分を内側から削っている感覚。
「…………やだな」
ぽつりと呟いた声は、風にさらわれて消えた。
今まで積み上げてきた全てが、ぐらぐらと揺れている。
その揺れを直視するのが怖くて、リディアはただ、両手で顔を覆った。
見上げれば、空はいつも通り青くて。
それが、酷く無情に思えた。
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