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第14話「家族との再会、凍りつく心」
しおりを挟む王都へ向かうと決めたのは、三日目の朝だった。
本当の本当は、行きたくなかった。
王都の空気も、エルフォルト家の石壁も、父の声も、なにもかも全部、思い出したくなかった。
それでも――
(“どう扱われるのか”を、この目で見ておきたい)
逃げたままじゃ、ずっと縛られる気がした。
王都のことも、家族のことも、怖いまま、知らないまま。
だったら、一度だけ、きちんと確かめる。
それで、戻る場所を、自分で決める。
そうやって、自分で自分を言い聞かせるみたいにして、クレアは馬車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
「気に食わねぇけどよ」
フィルナの村はずれ。
王都から来た馬車の前で、ノエルが腕を組んでいた。
「行くって決めたなら、まあ止めねえよ」
「ありがとうございます……?」
「でもな」
ノエルは、ぐっと身をかがめてクレアの顔を覗き込む。
「“いつ戻ってきてもいい”ってことだけは忘れんなよ。
王都が嫌だったら、一泊して即逃げ帰って来い。森も隊長も俺も、たぶん文句言わねえ」
「“たぶん”って言いましたね今」
「隊長は文句言うな、多分」
「ですよね」
苦笑しながら、クレアは視線を横に向ける。
マリアが、いつも通り無表情っぽい顔で立っていた。
ただ、その腕は硬く組まれ、顎には力が入っている。
「一応言っておく」
マリアは短く息を吐いてから、言う。
「王都がどう出るか、私は知らん。
だが、お前が“助けてくれ”と言うなら――」
そこで、言葉を切った。
視線だけが、真っ直ぐにクレアを射抜く。
「――そのときは、全力で取り返しに行く」
「…………っ」
喉の奥が、じん、と熱くなった。
(この人ほんと、サラッとそういうこと言う……)
言葉数は少ないくせに、一個一個がやたら重い。
「だから、怖くなったら躊躇なく叫べ。
“王都”だろうと、“エルフォルト家”だろうと、“国そのもの”だろうと――」
マリアは、軽く拳を打ち合わせる。
「ぶん殴る相手が増えるだけだ」
「隊長、それ反逆罪の予告になってない?」
「仮定の話だ」
「そういう問題ですか……?」
ノエルのツッコミに、マリアは肩をすくめた。
クレアは、思わず笑いながら、涙がこぼれそうになるのを誤魔化す。
「……行ってきます」
深く頭を下げる。
世界樹の末裔としてでも、エルフォルト家の娘としてでもなく――
ただのクレアとして、二人に背中を押される。
「“行ってきます”って言ったからな」
ノエルが、いたずらっぽく笑う。
「“行ってらっしゃい”をちゃんと返したってことは、帰ってくる前提だぞ?」
「……はい。ちゃんと帰ってきます」
胸の奥で、静かに誓う。
馬車の扉が閉まる。
車輪がきしみ、馬の蹄が土を蹴る音が遠ざかる。
フィルナの土の匂いと風が、ゆっくりと、馬車の窓から薄れていった。
◇ ◇ ◇
王都の城門は、やっぱり――巨大だった。
石。
石。
石。
フィルナの素朴な木の柵とは、まるで別世界だ。
積み上げられた灰色の石壁は、空を切り取る巨大な額縁みたいに迫ってくる。
その足元には、朝から晩まで、人、人、人。
行商人の怒鳴り声。
子どもの泣き声。
兵士の掛け声。
露店から漂う肉と香辛料の匂い。
すべてが、ごちゃごちゃに混ざって、クレアの五感に刺さる。
「……人、多い」
思わず、呟いていた。
王都にいた頃も、この門を何度か通ったことはある。
けれど、そのときは馬車の中からチラッと見ただけで、体調も最悪で、ほとんど記憶に残っていなかった。
今は、全部が鮮明すぎる。
土の固さ。
人々の熱。
吐き出される息の湿度。
世界樹の感覚を開いてしまった今のクレアには、王都の“密度”があまりにも重かった。
馬車が城門をくぐる。
石壁の影から、突然、明るい市街地に飛び出した。
色とりどりの布屋。
磨かれた看板。
金属を打つ音。
金髪の貴族、黒髪の職人、色とりどりの瞳。
世界の全部が、ここに押し込められているみたいだった。
(……息苦しい)
思わず、窓から視線を外す。
世界樹の声が、かすかにざわつく。
《密集。喧騒。欲。恐レ。期待》
人間の感情の匂いが、樹の感覚を通じて伝わってくる。
フィルナの、素朴で単純だった空気とは違う、ぐちゃぐちゃに渦巻く何か。
馬車の中で、クレアは膝の上で指を組んだ。
(深呼吸。大丈夫。ここで倒れたら、余計ややこしくなるだけ)
肺の中に、王都の空気を入れる。
苦いような、甘いような、よく分からない味。
やがて、馬車はひときわ広い通りを抜けて、少し静かな地区へと入っていった。
整った石畳。
植え込みの整えられた並木道。
そして、見慣れた門構え。
「……変わってない」
エルフォルト家の屋敷は、昔と同じ姿でそこにあった。
白い塀。
鉄の門。
蔦が絡む石壁。
中庭に伸びる大きな木。
物理的な変化は、ほとんどない。
変わったのは――
そこに漂う、空気の「重さ」だった。
門番の兵士たちは、以前よりも緊張した表情で立っている。
玄関前には、無駄に豪華な絨毯が新たに敷かれ、使用人たちが二列に並んで頭を下げていた。
クレアは、一歩、門をくぐる。
土ではなく、石の感触。
フィルナの土の柔らかさを知ってしまった足裏には、これがやけに冷たくて硬く感じる。
玄関の扉が開いた。
磨き込まれた床。
高い天井。
シャンデリア。
香水と蝋燭と古い木の匂い。
胸の奥で、嫌な記憶の何かが目を覚ます。
(ああ、やだ……)
ここで何度、熱で朦朧としながらも「大丈夫です」と笑おうとしただろう。
何度、「家のため」と言われて黙って頷いたか。
そんな記憶を、ここの空気は一瞬で引っ張り出してくる。
執事が一歩前に出て、完璧な礼で迎えた。
「おかえりなさいませ、クレアお嬢様。ご当主様がお待ちでございます」
“お嬢様”。
辺境で雑役をしていた自分には、もう似合わない呼び名。
でも、その言葉だけが、時間を強引に巻き戻してくる。
足が勝手に、執事の後を追って動いてしまう。
廊下を抜け、応接室へ。
扉が開かれた。
そこに――父がいた。
アルベルト・エルフォルト。
背筋を伸ばし、重厚な椅子に腰かけ、深い灰色の瞳でこちらを見ている。
昔と同じ。
髭が少しだけ白くなった気もするが、彼から漂う空気は変わらない。
厳格。
冷静。
そして――打算。
「よく戻ったな、クレア」
取り繕った笑顔を浮かべて、父は言った。
その笑顔は、口元しか動いていない。
目は、全然笑っていない。
「お前は……我が家の誇りだ」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
つい最近まで、「お前は王都の役には立たない」と言って、彼はクレアを辺境に送った。
その同じ口で、今は「誇りだ」と言っている。
(……言葉が、軽い)
そう思ってしまった自分に、クレアはびくりとする。
昔の自分なら――たぶん、ただ嬉しかった。
「誇りだ」と言われることに、飢えていた。
でも今は、どこか冷めた感情が一歩引いたところからそれを見つめている。
「……お久しぶりです。お父様」
喉が少し震えたが、声はちゃんと出た。
父の瞳が、ほんの一瞬だけ細められる。
その表情の変化は、「感動」ではなく、「観察」に近かった。
「痩せたな。だが、顔色は前より良い」
「辺境の空気が、合ったのかもしれません」
「そうか」
軽く頷く。
それ以上、彼はクレアの体調を深く問うことはしなかった。
「噂は王都中に広まっている。“エルフォルト家の娘が辺境の瘴気森を浄化した”とな」
誇らしげに言う。
「王宮からも、各方面からも、問い合わせが殺到した。
お前が王家の保護下に入ることを望む声も多い。“エルフォルト家は、良い養育をした”と評価された」
(……“わたしは”じゃなくて、“エルフォルト家は”)
胸の内側が、少しずつ冷えていく。
「今回の召喚命令は、家にとっても大きな機会だ。
お前の力を、“正式に”国のために役立てることができる。エルフォルト家の名を、さらに高めることができる」
父の言葉の主語は、ずっと「家」だった。
クレア個人ではない。
“お前がどうしたいか”なんて、微塵も問うていない。
「クレア」
父は、まるで“念を押すように”言う。
「お前は、我が家の誇りだ。
その誇りとして、恥じることのない働きをしてくれ」
“家のために”。
その言葉が、喉元まで出かかった。
かつて何度も聞かされた、あの呪文。
けれど――
(フィルナでは、一度も言われなかった)
マリアも、ノエルも、村の人たちも。
誰も「家のために」とは言わなかった。
「お前が決めろ」
「嫌なら逃げちまえよ」
「助けてくださいって言え」
そんな言葉は、この屋敷では一度も聞いたことがない。
喉が、じりじりと焼ける。
けれど、その焼ける感覚は、あの頃の「高熱」とは違う。
もっと、氷みたいに冷たい。
「……はい」
とりあえず、頷くことしかできなかった。
本当の返事は、まだ胸の中で固まっていない。
「まあまあ、お父様」
柔らかい声が、横から割り込んだ。
「クレアを脅かすみたいに言わないでくださいませ。せっかくお戻りになったのですのに」
リーゼだった。
栗色の髪をゆるく巻き上げ、花を散らした淡いブルーのドレスを身に纏っている。
姿勢は完璧。
微笑みも完璧。
さすがに社交界で鍛えられた“優等生”、といった感じだ。
「クレア、おかえりなさい」
「リーゼ……」
妹の名前を口にした瞬間、胸がきゅっとなる。
幼い頃、一緒に絵本を読んだこと。
熱で寝込んでいるクレアの部屋を、こっそり覗きに来てくれたこと。
そんな断片的な優しい記憶が、まるで別人のものみたいに遠い。
リーゼは、優雅な仕草で歩み寄ってきた。
甘く、柔らかい香水の匂いがふわりと広がる。
ローズと柑橘と、少しスパイスの混じった、高級品の匂い。
「本当に……驚きましたのよ」
まるで舞台の上の女優みたいに、ゆったりと腕を広げる。
「“クレアが、森を救った”なんて。最初は誰かの冗談かと」
そのまま、抱きしめるようなポーズで、クレアの肩に腕を回した。
視線だけ見れば、完璧な「感動の姉妹再会」だ。
使用人たちは皆、目を潤ませているふりをしている。
父は満足そうに頷いている。
――でも。
リーゼの指先が、肩を掴む力が、ほんの少しだけ強すぎた。
爪が、肌越しに軽く食い込む。
「……っ」
耳元に、熱い息がかかる。
リーゼが、笑顔を崩さぬまま、そっと囁いた。
「……調子に乗らないで」
その声は――氷のように冷たかった。
「森を浄化した? 世界樹の末裔? 素晴らしいことですわ、本当に。
でも、勘違いなさらないでね、クレア」
香水の匂いが、鼻腔を刺す。
ローズの甘さが、過去の閉塞感と一緒に蘇ってくる。
「全部、“エルフォルト家の功績”なんだから」
ぞくり、と背骨が凍る。
「あなたが何をしようと、“エルフォルト家の娘だからこその評価”ですのよ。
もし、どこの誰だかわからない孤児か、三流の家の娘だったら――誰も見向きもしなかったでしょうね」
囁きは甘く、言葉だけが鋭い刃物のようだった。
「だから、忘れないで。
“あなたひとりの力”だなんて、思い上がらないこと。
あなたは、“エルフォルト家を高めるための娘”なんだから」
香水の香りが、喉奥まで入り込んでくる。
息が、詰まる。
(ああ――これだ)
クレアは悟った。
この屋敷の空気。
この香り。
この囁き。
全部が、かつての閉塞感と恐怖を、一気に呼び覚ましている。
『お前は家のために生きろ』
『お前の価値は、エルフォルト家の看板の一部としての価値だ』
そう言われ続けて育った時間が、どろりとした塊になって胸の中に戻ってくる。
胸の内側が、じわじわと冷えていく。
フィルナで温めてもらった場所に、氷水を流し込まれるみたいに。
(わたしは――)
世界樹の末裔。
森を浄化した少女。
エルフォルト家の娘。
いろんな名前が、彼女の表面に貼りついていく中で。
(“わたし自身”として見てくれる人は、この家には、一人もいない)
父は、「家の誇り」と言う。
リーゼは、「家の功績」と囁く。
誰も、「クレア」とは呼ばない。
世界樹の灯りが、胸の奥でちかちかと点滅する。
フィルナの土の感触。
マリアの低い声。
ノエルの馬鹿みたいな冗談。
それらが、遠くへ追いやられていく。
目の前には、白い壁と、整った家具と、香水の匂いと、作り物の笑顔。
息が……詰まる。
肺がうまく動かない。
喉がきしむ。
頭の奥が、じんじんと痺れる。
(ここに、長くいたら――)
心が、凍りつく。
そう、直感した。
リーゼの腕の中、抱きしめられているふりをしながら、クレアの指先は、こっそりと丸くなっていた。
爪が、掌に食い込む。
世界樹の声が、遠くでかすかに揺れる。
《――選ベ》
その一言だけが、氷の底から微かに聞こえてきた。
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