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第17話「王都脱出、自然そのものを味方に」
しおりを挟む――決定が覆るのに、そう時間はかからなかった。
翌日からの空気で分かった。
王との会議で、「世界を旅する協力者として認める」と言われたあとも――
王宮の廊下を歩けば、ひそひそ声は止まない。
「本当に行かせるつもりなのか?」
「危険すぎる」
「一度外に出せば、二度と戻ってこないぞ」
「軍務卿殿も、まだ諦めておられぬようで……」
視線には、あからさまな「まだ終わっていない」という色があった。
エルフォルト家の屋敷に戻れば戻ったで、父はずっと沈黙したまま、必要最低限のことしか口にしない。
リーゼは、丁寧な笑みで話しかけてくる。
「世界を旅するなんて、素敵ですわね」
でも、その瞳の奥は笑っていなかった。
「ちゃんと、“戻る場所”があることを忘れないでちょうだい。
あなたが何をしたかは、全部“エルフォルト家の功績”として記録されますもの」
皮肉や嫉妬を隠すのが上手くなった妹は、もう、幼い頃にこっそり絵本を持ってきてくれた少女ではなかった。
(……時間をかけすぎたら、確実に動き封じられる)
直感だった。
王が何と言ったところで、王都全体の“意思”が「逃がしたくない」に傾きつつあるのが分かる。
世界樹の感覚が拾ってくる、“石と人のざわめき”がそう告げていた。
(だったら――)
クレアは、決めた。
夜のうちに、出る。
できれば、誰も傷つけず。
誰も真正面から敵に回さず。
「自然に」消えるように。
◇ ◇ ◇
その夜の王都は、雲が薄くかかった、少し湿っぽい夜だった。
月は霞んでいるけれど、完全には隠れていない。
街灯と窓の灯りで、王都はまだ起きている。
エルフォルト家の屋敷の一室。
クレアは、支給されたばかりの新しいドレスではなく、旅に向いた簡素な服に着替えていた。
丈の短いチュニックと、動きやすいズボン。
足元は柔らかい革靴。
肩には、小さな荷物袋ひとつ。
その中身は、本当に最低限だけだ。
水筒。
少しの保存食。
簡素な着替え。
薬草を詰めた小瓶がいくつか。
そして――胸元には、例の木製ペンダント。
「……荷物、多くても仕方ないしね」
苦笑しながら、窓の外を覗く。
中庭には、数人の兵が巡回しているのが見えた。
以前より明らかに、警備が増えている。
(“護衛”って言えば聞こえはいいけど……)
実質、「監視」だ。
部屋の扉は、表向きは自由に出入りできるようになっている。
でも、廊下を歩けば、必ず誰かの目に触れる。
「今夜はお休みになったほうが」
「明日の予定もございますし」
柔らかい言葉で、動きを制限される未来が目に見えていた。
「……窓から、かな」
自分でも苦笑する。
(“令嬢”が窓から出入りするって、どうなんだろ)
でも、今の自分はもう、ただの令嬢じゃない。
世界樹の末裔で、フィルナの雑役で、旅人になろうとしている人間だ。
窓をゆっくりと開ける。
夜風が、すうっと頬を撫でた。
それだけで、さっきまできゅっと縮こまっていた心が、少しだけ緩む。
「行こう」
自分に言い聞かせるように囁き、バルコニーに足をかける。
石の柵を越え、静かに庭側へ飛び降りた。
ふわり、と足元の空気が柔らかくなる。
地面に着く直前、草がじゅうたんのように盛り上がり、衝撃を吸収してくれた。
「……ありがとう」
小さく呟く。
世界樹の灯りが、胸の中でくすりと笑った気がした。
《マダ、始マッタバカリダ》
足音を殺しながら、庭を横切る。
なるべく兵士たちの目に触れないように、植え込みの影を縫うように進む。
昔の自分なら、三歩で息切れしていたであろう距離。
今は、肺は静かで、足も軽い。
――そのことが、なんだか皮肉で、少しだけ切ない。
(この身体で、もっと早く外を歩きたかったな)
そんな過去への未練を、吐く息と一緒に外へ出す。
屋敷の塀の近くまで辿り着いた、そのとき。
「クレア・エルフォルト」
暗がりから、低い声が響いた。
背筋が、ぞくりとする。
振り返る。
そこには、鎧を纏った兵士たちが、十数人。
囲むようにして立っていた。
胸には、王都兵の紋章。
その横に、エルフォルト家の紋章をつけた兵も混じっている。
そして、その前に一歩出たのは――王宮使節局のエドガーだった。
昼間と変わらない、きっちりと整えられた服装。
ただ、その笑顔は、もはや取り繕う気もないのか、口元だけが歪んだものになっていた。
「王城を発つのは、明日の正式な許可と護衛の手配を待つように、と申し上げたはずですが?」
声は丁寧なのに、その内容は完全に「監禁予定」のそれだった。
クレアは、静かに息を吸う。
「その“許可と護衛”が、実際には“拘束と監視”だってことくらい、分からないと思っていました?」
エドガーの笑みが、少しだけ固まる。
「……誤解なさらず」
言葉は柔らかい。
でも、その奥にある本音は、もう隠しようがない。
「クレア様の安全のためでもあります。
王都の外は危険ですし、貴方さまの力を狙う者が現れないとも限らない。
王家の庇護のもとで動いていただくのが、最も合理的なのです」
「合理的、ね」
クレアは苦笑した。
「合理的なのは、“王都の都合”だけです」
一歩、下がる。
兵士たちも、それに合わせてじり、と歩を進めてくる。
囲いは、じわじわと狭まっていく。
「クレア・エルフォルト」
隊長格と思しき騎士が、一歩前に出た。
軍務卿の部下かもしれない。
「王命に背くというのか」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昨夜、王はたしかに言った。
「強要はせぬ」と。
「そなたの意思を尊重する」と。
でも――その言葉は、王の意思だ。
王都全体の意思ではない。
軍務卿。
宰相。
貴族たち。
エルフォルト家。
王宮使節局。
いろんな思惑が、王の決定の周りで渦巻いている。
「……王命より」
クレアは、ゆっくりと口を開いた。
自分の声が、自分の耳にも、驚くほど冷静に届く。
「世界の声のほうが、今の私には重いです」
兵たちの表情が、ざわりと揺れた。
「世界の、声?」
「また妙なことを……」
「危険思想だな」
囁き。
でも、それはもう、クレアの決意を揺らす材料にはならなかった。
「忠告はしました」
エドガーが、ひとつ息を吐いた。
そして顎をしゃくる。
「拘束しなさい。手荒な真似はせずに。……“今は”まだ、国の宝ですから」
「了解!」
兵士たちが、一斉に動き出す。
鎖の音。
鉄の靴が、石畳を打つ音。
(ごめんなさい)
クレアは、心の中で先に謝った。
(本当は、こんなことしたくないけど)
でも、もう選ばなきゃいけない。
自分の人生を、自分で握るかどうか。
胸の奥の灯りに、意識を落とす。
足元。
石畳。
その下の土。
そこに眠る、無数の小さな根。
種。
眠っている草の芽。
(起きて)
そっと、呼びかける。
「――ここまで、でいいです」
兵士たちが、彼女に手を伸ばそうとした、その瞬間。
ぱきん、と音がした。
石畳に、ひびが入る。
「!?」「なっ……」
たちまち、ひびは蜘蛛の巣のように広がっていった。
割れる。というより、“割れる隙間を作るために、下から何かが押し上げてくる”。
割れ目から、柔らかな緑がにょきりと顔を出す。
草だ。
苔だ。
小さな蔦だ。
一晩で伸びる量じゃない。
でも、世界樹の灯りが後押しすれば――数秒で、足首まで届く高さにまで伸びる。
草と蔦が、兵士たちの足に絡みついた。
「うわっ」「ちょっ、足が」「動かねえ!?」
「安心してください」
クレアは、囁くように言う。
「痛いことは、しません。……あなたたちも、ただ“命令に従ってるだけ”ですから」
蔦の動きは、蛇のようにしなやかで――でも、決して鋭くはない。
ぎゅうっと締め上げるのではなく、「これ以上前には出さない」という線だけを、確実に守らせるような締め方。
兵のひとりが、剣を振り下ろそうとした。
その瞬間、石畳の割れ目から伸びた草が、するりと剣の柄に絡みつき、方向を逸らす。
「なっ……!」
錆びついた武器でもない、王都兵が使う鋭い剣。
それを、草と蔦が受け止めるなんて、本来ならありえない。
でも――今、王都という人工の箱の中で、長いこと押さえつけられてきた“自然”は、クレアの呼びかけによく反応した。
土の奥から、眠っていた命が、わずかに目を開ける。
《マダ、枯レテイナイ》
世界樹の声が、小さく囁いた。
「クレア殿、やめなさい!」
エドガーが叫ぶ。
「それ以上の抵抗は――」
「抵抗じゃありません」
クレアは、エドガーから視線を外さない。
「“自分で歩くための、一歩”です」
風が、ふっと吹いた。
庭の木々が揺れ、葉がざわめく。
同時に、クレアの髪がふわりと舞い上がった。
空気の流れが変わる。
王都の壁に沿って植えられた蔦が、一斉に伸びる。
まるで、ずっと上へ上へ行きたかったのを我慢していた子どもが、一気に駆け上がるみたいに。
「……ごめんなさい」
クレアはもう一度、小さく謝った。
足元の蔦が、彼女の足首に絡み、優しく“支える”。
次の瞬間、地面を蹴るより早く、蔦がぐんと伸び、クレアの身体をふわりと持ち上げた。
「なっ!?」「上に!?」
兵士たちの驚愕の声が、下から聞こえる。
クレアは、王都の外壁へ向かって滑るように移動していく蔦の上で、バランスを取りながら夜空を見上げた。
月は、さっきより少しだけ顔を出していた。
(怖い)
足元は不安定で、下を見れば兵と石畳。
落ちれば、ただでは済まない高さ。
それでも――胸の奥の灯りが、「大丈夫だ」と言っていた。
土。
石。
木。
風。
全部が、「もう、箱の中だけにいなくていい」と支えてくれている気がした。
外壁は、高い。
王都の誇りであり、象徴であり、牢獄にもなりうる厚い壁。
その壁の表面を、蔦が這い上がっていく。
ひび割れの隙間。
石と石の継ぎ目。
そこに根をねじ込んで、少しずつ、しかし確実に進む。
クレアの手も、壁に触れた。
冷たい。
でも、その下にある土は、まだ生きている。
「……今まで、ありがと」
誰にともなく呟く。
王都という箱も、まったく無意味なものではなかった。
ここで学んだ礼儀作法が、今の自分の言葉の形を作った。
ここでの閉塞感が、世界樹の声に手を伸ばすきっかけになった。
だから――完全に嫌いにはなれない。
ただ。
「もう、ここに閉じ込められるのは、嫌です」
壁の上へ出る直前、クレアは振り返った。
下では、兵士たちがまだ蔦に絡め取られ、動けずにいる。
誰も血を流していない。
誰も、致命傷を負っていない。
ただ、彼らは“足を止められた”。
「あなたたちも、ただ命令に従ってるだけなのは分かってます」
風越しに、声を届ける。
「だから、恨んでいません。
いつか、本当に“国のため”に力を振るうときが来たら――そのときは、また会いましょう」
誰が聞いているのか分からない言葉。
でも、言わずにはいられなかった。
蔦が最後のひと伸びをして、クレアの身体を外壁の上へ押し上げる。
城壁の向こう側。
そこには――夜の大地が広がっていた。
王都の灯りが、遠くに見える。
でも、足元の土は暗く、静かで、柔らかい。
「……っ」
胸いっぱいに、夜風を吸い込む。
湿った土と草の匂い。
森の陰の冷たさ。
遠くで鳴く夜鳥の声。
王都の、あの密度の高い空気とは違う。
もっと、素朴で、荒削りで、嘘がない匂い。
「はあ……」
吐き出した息が、白くほどけた。
外壁のこちら側にも、蔦が伸びてきている。
まるで、「さあ行け」と階段を作るみたいに。
「ありがとう」
もう一度、蔦に礼を言う。
蔦は、わずかに震えた。
その震えが、「どういたしまして」に聞こえたのは――少し、酔っているのかもしれない。
クレアは、ゆっくりと外壁から降りた。
土に足が触れた瞬間、膝が少しだけ震えた。
緊張が一気に抜けたのだ。
でも、倒れたりはしない。
しっかりと、足の裏で大地を踏みしめる。
王都の光が、背中のほうでちらちらと揺れている。
振り返りたい気持ちも、ゼロではなかった。
でも――クレアは、前だけを見た。
闇に沈む草原。
その向こうに続く、まだ見ぬ道。
フィルナへ戻る道も。
世界樹の欠片を探しに行く道も。
全部、ここから始まっている。
「……行こう」
誰もいない夜の空気に、静かに言う。
「初めて、自分の足で、自分の行きたい方向へ歩くんだから」
一歩、踏み出す。
足元で、草がふわりと揺れた。
それはまるで、「ようこそ」「おかえり」と同時に囁いているみたいで――
クレアは思わず、笑ってしまった。
世界樹の灯りが、胸の中であたたかく燃える。
《ココカラダ》
低く、深い声。
《オ前ノ、人生ダ》
「うん」
クレアは、小さく頷く。
王都の外壁は、もう振り返らない。
エルフォルト家の屋敷も、王宮の塔も、英雄だの特別保護だのという言葉も――ひとまず全部、背中に置いていく。
夜風が、前から吹いてきた。
少し冷たくて、でもそれは、“これからの道”の温度だ。
クレアは肩にかけた荷物をぎゅっと握り直し、闇の向こうへと歩き出した。
その一歩一歩が、確かに、彼女自身の選んだものだった。
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