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第16話「“私の人生は、私のものです”」
しおりを挟むその夜、クレアは眠れなかった。
エルフォルト家の屋敷、その中でも客人用として用意された、やけに広い寝室。
天蓋付きのベッド、分厚いカーテン、重たいカーペット。
昔いた自室よりも豪奢なのに、空気だけはあの日と同じ匂いがした。
閉ざされて、息苦しくて、逃げ場がない匂い。
(……窓、開けよ)
じっとしていると、胸の奥のざわざわが増幅されていく。
クレアはベッドからそっと降り、裸足のまま窓辺へ歩み寄った。
厚手のカーテンを少しだけ押しやると、夜の王都の空気が、細く部屋に流れ込んでくる。
冷たい。
けれど、昼間のあの人の熱気よりは、いくらかマシだった。
窓を開けると、その向こうに小さなバルコニーが続いていた。
石造りの手すり。
そこから、王都の夜景が見下ろせる。
「……きれい」
思わず、声が漏れる。
眼下には、光の海。
家々の窓からこぼれる灯り、街灯の光、遠くに見える酒場の明かり。
整然とした街路が、光の筋となって走っている。
高い場所から見下ろす王都は、まるで一枚の絵みたいで――
息を呑むほど、整っていた。
でも、その美しさは、どこか硝子細工めいていた。
硬くて、冷たくて、触れたら割れてしまいそうで。
割れたとき、誰が怪我をするのかなんて、考えてもいないような、そんな脆さ。
(この街は、ずっと“綺麗なまま”でいたいんだろうな)
綺麗なまま。
都合のいい形のまま。
だから――異物は、囲い込むか、切り離す。
病弱で役に立たない“娘”だった頃のクレアは、「切り離す」側の対象だった。
今、力を手に入れたクレアは、「囲い込む」側の対象になった。
どちらにしても、“街の形”を崩す駒の一つに過ぎない。
手すりにそっと手を置き、夜風を吸い込む。
「……フィルナの風のほうが、好きだな」
ぽつりと、本音が零れた。
王都の風は、いろんなものを運んでくる。
人の声、馬車の音、音楽、笑い、怒号。
それらが混ざって、重くなっている。
フィルナの風はもっと単純だった。
森の匂い、土の匂い、水の匂い。
少しだけ獣の気配と、人の生活の煙の匂い。
息をするたび、生き物の鼓動が素直に伝わってきた。
クレアは、そっと目を閉じる。
意識を、指先へ。
胸の奥の灯りに触れ、その光を細く、遠くへ伸ばすイメージ。
世界樹の根が、地面を伝って遠くまで伸びていくみたいに。
(……フィルナ)
森。
村。
駐屯地。
井戸。
意識がふっと移動する。
錯覚かもしれない。
でも――たしかに、頬を撫でる感触がわずかに変わった気がした。
湿った土の匂い。
朝と夜の境目みたいな、ひんやりした風。
マリアの、ぶっきらぼうな声が、耳の奥に浮かぶ。
『行くか行かないかは、お前が決めろ』
ノエルの、間の抜けた笑い声が、すぐ隣で響く幻聴がした。
『嫌なら、逃げちまえよ』
村の子どもたちのはしゃぎ声。
「クレアお姉ちゃん!」と呼ぶ声。
全部が、かすかに、けれどはっきりと、胸の奥に返ってくる。
「……やっぱり」
息を吐く。
「私は――ここに、いなくてもいい」
夜の王都は、クレアがいなくても、ちゃんと回る。
瘴気の森は、フィルナの一角。
確かに脅威だけれど、それが薄れたからといって、この街の誰かがクレア個人を心から祝福してくれたわけじゃない。
王都にとってクレアは、“都合よく使えるかもしれない存在のひとつ”でしかない。
「わたしが必要なのは、ここじゃない」
森が沈みかけているところ。
湖が泣いているところ。
土が呼吸を忘れているところ。
世界樹の欠片が、静かに、助けを求めている場所。
そして――
フィルナの、あの小さな村。
胸の奥で、世界樹の声が、そっと囁いた。
《ソウダ》
低く、深く、しかしどこか優しい声。
《オ前ガ、王都ニ縛ラレル必要ハナイ》
まるで、当たり前のことを言うみたいに。
《オ前ガ生キタイ場所ヲ、選ベ》
“生きる場所”。
その言葉に、胸が少し熱くなる。
生まれた場所じゃなくて。
誰かに決められた場所じゃなくて。
「生きたい」と思える場所。
(……選んで、いいんだ)
そんなこと、一度も許されると思ってなかった。
家のため。
体面のため。
国のため。
ずっとそういう言葉で、居場所を決められてきた。
でも、世界樹は、“クレア自身が選べ”と言ってくれている。
風が、夜空のどこかでざわりと揺れた気がした。
クレアは胸元のペンダントを握る。
「……決める」
小さく、言葉にする。
「フィルナに、戻る。
それから――世界を、歩く。
行かなきゃいけない場所に、わたしの足で行く」
誰かに命令されるんじゃなくて。
「この国のため」というラベルを貼られるんじゃなくて。
自分が「行きたい」と思った場所へ。
「……私の人生は、私のものです」
夜空に向かって、静かに宣言する。
誰に聞かせるでもない。
でも、それは確かに、自分自身への誓いだった。
夜が、少しだけ、優しくなった気がした。
◇ ◇ ◇
翌日。
王城の小会議室。
昨日の謁見よりは人数の少ない、しかし顔ぶれの重さだけで言えば、むしろこちらのほうが上かもしれない場に、クレアは呼び出されていた。
王。
王太子。
軍務卿。
宰相。
数名の高位貴族。
エルフォルト家当主。
そして、王宮使節局のエドガー。
全員が、テーブルを囲むように座っている。
クレアだけが、席を与えられず、テーブルの一端に立ったままだった。
それでいい、とも思った。
(あそこに座ったら、“同じ側の人間”みたいな顔しなくちゃいけない)
それよりも、自分はここで、“選ばれる側”として堂々と立っていたかった。
「さて」
宰相が口を開く。
「昨日の謁見のあと、一夜の猶予を与えた。
クレア・エルフォルト。
そなたの返答を聞こう」
部屋の空気が、また少し重くなる。
父が、わずかに身を乗り出した。
「はい」と言ってほしい顔。
でも――
クレアは、深く息を吸い、顔を上げた。
「……結論から申し上げます」
一拍置いて、はっきりと言う。
「王都には、残りません」
短く、しかし決定的な言葉。
小さな爆発みたいに、部屋にざわめきが広がった。
「……は?」
「何を……」
「冗談だろう」
ひそひそというより、あからさまな驚きと苛立ちの声。
軍務卿が、テーブルを指でとん、と叩いた。
「昨夜の話を、理解していないのか。
そなたの力は国の……」
「理解しています」
クレアは遮った。
自分で遮っておいて、少し震えた。
それでも、言わなきゃいけないと思った。
「“国は私の力を必要としている。だから、私の意思に関わらずここにいろ”――そういうお話でしたね」
軍務卿は眉をひそめる。
「言い方を歪めるな」
「歪めてはいません」
静かに、しかしはっきりと首を振る。
「そして、その上で――私は、ここには残りません」
父が椅子をきしませて立ち上がった。
「クレア!」
鋭い声。
怒気を含んだ視線。
「お前は、自分が何を――」
「分かっています、お父様」
今度は、きっちりと“父”と呼んだ。
アルベルトの肩が、一瞬ぴくりと揺れる。
「私は、エルフォルト家の娘として生まれました。
それは、変わりません」
その事実を、否定するつもりはない。
「でも――私の人生は、エルフォルト家の所有物ではありません」
空気が、ぴしりと凍る音がした気がした。
“所有物ではありません”。
この家で、その言葉を口にする日が来るとは、自分でも思っていなかった。
父の顔色が、さっと変わる。
「……誰がそんなことを」
「ずっと、そう扱われてきました」
クレアは、淡々と言葉を続ける。
「病弱で、役に立たないと判断されたとき、私は“家のために”辺境に送られました。
森を浄化して、力があると分かった今は、“家のために”“国のために”その力を差し出せと言われています」
目の奥が、じんじんする。
でも、涙はこぼさない。
「そのどちらにも、私の意思はありませんでした」
宰相が、少しだけ眉を寄せた。
「クレア殿。
そなたの言いたいことも、分からぬではない。
しかし、“国”という単位で物事を考えるとき、個人の願いを全て通すわけには――」
「“全て”通せなんて、言っていません」
また遮ってしまった。
でも、ここで飲み込んだら、きっと一生飲み込むことになる。
「ただ、“ひとつだけ”は譲れません」
クレアは、胸に手を当てた。
世界樹の灯りが、そこに在ることを確かめるように。
「私の人生は、私のものです」
ゆっくりと、はっきりと、言葉にする。
「どこで生きるか、誰と生きるか、何のために力を使うか――
それを最初に決める権利だけは、誰にも渡したくない」
“国のため”も、“家のため”も。
全部、否定したいわけじゃない。
世界を旅して、瘴気に苦しむ土地を癒したい気持ちは、本物だ。
「私は、私の意志で世界を旅して、必要な場所を癒したい」
会議室の空気が、また揺れる。
軍務卿が、鼻で笑うような声を上げた。
「好き勝手に国中を歩き回るつもりか。
瘴気が濃い場所は危険だ。魔獣の巣もある。
王家の庇護もなく、勝手な独断で動けば――」
「だからこそ、『行きたい場所』じゃなくて、『行かなきゃいけない場所』を選びます」
クレアは、彼の目を見つめ返した。
その視線の奥に、「あ、この人は戦場しか見てこなかったんだな」と小さな理解が生まれる。
「世界樹の声が届く場所。
大地の嘆きが聞こえる場所。
そこに、私の足で行きます」
「その“声”とやらの真偽は、誰が確かめる」
「私が、です」
「それでは信用が――」
「信用の問題なら、今すぐ実績を積めばいいんじゃないでしょうか」
会議室の窓の外――かすかに見える城下の一角に、意識を向ける。
昨日、城へ来る途中で感じた、小さな“淀み”。
城下町の外れ、小さな貧民街。
そこでは、井戸が半ば枯れかけていた。
クレアは、指先に意識を集中させる。
胸の灯りから、細い糸のような光を、城の石を抜けて、街の地面へ伸ばす。
(……ごめんね。ちょっとだけ)
土の奥で眠っていた水脈を、そっと撫でるように揺らす。
ぎゅっと圧迫されていた流れを、ほんの少しだけほぐす。
会議室の床の下、遠くの土の中で、何かがふっと緩む感覚がした。
同時に――
遠くの井戸の水面が、静かに一段階上がるイメージが伝わってくる。
宰相が、はっとしたように目を見開いた。
「今、何を」
「少しだけ、城下の井戸に水を足しました」
クレアは、何でもないことのように言った。
「酷く枯れていたので。……何日もたせられるかは分かりませんけれど」
軍務卿が、信じられないものを見る目をした。
「馬鹿な……魔法陣も詠唱もなしに――」
「“どこまでできるか”は、私にもまだ分かりません。
だからこそ、色んな場所を見て、試して、学びたいんです」
クレアは、机の上に置かれていた王都地図に目を落とした。
「王都から見て西の山脈、そのふもとの森。
東の荒れ地。
南の干上がった湖。
北の、砂に埋もれた遺跡」
昨夜、胸の中に浮かんだ“光の点”たち。
「その全部を、私は知ってしまいました。
“ここが壊れかけている”って」
世界樹の根を通して見えた景色は、もう忘れられない。
「王都に閉じ込められて、“ここで言われたことだけやれ”と言われるのは――」
ぐっと唇を噛む。
「世界樹の声からも、私自身の願いからも、目を逸らすことになります」
王が、重々しい声で問う。
「そなたは、“国の命令”より、“世界樹の声”を優先するというのか」
「はい」
迷いなく答えた。
部屋の空気が、一段と冷え込む。
「もちろん、“国を傷つけたい”なんて思いは一切ありません。
フィルナの村も、この王都も――“この国の一部”ですから」
守りたい。
守ってもらいたい。
「でも、“国のため”という言葉で、私自身を殺したくはありません」
王と、軍務卿と、宰相と。
そして、エルフォルト家を、順に見渡す。
「もし、私のやり方が気に入らないなら――」
喉の奥が少し震える。
その震えごと、力に変える。
「私を“国の駒”として扱うのではなく、一人の“協力者”として扱ってください」
ざわめきが起きる。
「協力者……?」
「何を――」
クレアは、一歩前に出た。
「私からも、条件を出します」
王の眉が、ぴくりと動く。
「条件、だと?」
「はい」
自分でも、少し信じられなかった。
昨日まで、誰かの条件を飲まされる側だった自分が、今、王の前で条件を口にしている。
「私は、私の意志で世界を旅します。
王都には、常駐しません。
必要なときだけ、私が“そうだ”と感じたときだけ、力を使います」
その代わり、と続ける。
「世界樹の欠片を探し、瘴気に侵された土地を癒した結果は、全部“この国のもの”として報告します。
瘴気の原因や、これから起こり得る危機についても、できる限り王家に共有します」
王の瞳が、慎重な光を宿す。
軍務卿は、腕を組んで目を閉じた。
宰相は、指先で机を軽く叩きながら考え込んでいる。
「それは、つまり――」
宰相がゆっくりと口を開く。
「“管理も拘束もされない代わりに、成果だけは渡す”ということですか」
「乱暴に言えば、そうなりますね」
クレアは認めた。
「ただ、“私を道具として完全に支配したい”のであれば、受け入れられない契約だと思います。
でも、“この国が長く続いてほしい”という意味での“国のため”を本気で考えているなら――」
視線を、王に向ける。
「世界樹の欠片を探して歩く私が、“王都に閉じ込められている状態”より、“動き回っている状態”のほうが、きっと役に立ちます」
沈黙。
エルフォルト家当主が、口を開きかけて――
王の杖が、軽く床を打った音にかき消された。
王は、目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
誰も、口を挟めない。
部屋の中心にいるはずの男が、今、この国全体の「重さ」を、一人で受け止めているように見えた。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
「……そなたは、怖くないのか」
思ってもいなかった問いだった。
「怖い、です」
クレアは即答した。
「世界は広いし、瘴気に沈みかけた土地がどれほど危険かも分かりません。
一歩間違えば、簡単に死ぬと思います」
フィルナの森でさえ、あれだけ怖かった。
あれよりも酷い場所が、この世界にはいくつもある。
「でも、“ここで何もしないまま、自分の意思を殺して生きるほうが怖いです”」
王の瞳が、かすかに揺れた。
軍務卿が、口を開きかけて――
何かを飲み込み、腕を組み直す。
宰相は、深く息を吐き、薄い笑みを浮かべた。
「……まったく。
最近の若者は、宰相泣かせですな」
苦笑いのような言葉。
エルフォルト家当主だけが、なおも納得いかない顔で叫んだ。
「陛下! お言葉ですが、この娘の言い分を認めるのは――」
「黙れ、アルベルト」
王の一喝。
会議室の空気が、一瞬震えた。
アルベルトは、目を見開き、その場で言葉を失う。
王は、ゆっくりとクレアを見つめる。
「……そなたの提案は、王都にとって、決して都合が良いものではない」
「はい」
「だが同時に、“国にとって”悪いものとも言い切れぬ」
世界は広い。
王都から見える部分など、ごく一部。
「我らは、王都の石壁の中に座ったまま、すべてを見通せるわけではない。
世界樹の末裔――そなたが見て、感じる世界は、我々の知らぬ場所にまで及ぶのだろう」
杖が、床を軽く叩く。
「……よかろう」
短い言葉。
会議室の空気が、一瞬止まる。
「クレア・エルフォルト」
王は、言葉を慎重に選びながら続けた。
「王都に残ることを強要はせぬ。
そなたは、そなたの言う通り、自らの意思で世界を旅し、必要な場所を癒すがよい」
「陛下!」
軍務卿の抗議を、王の手が制した。
「ただし――」
王の瞳が、鋭く光る。
「そなたもまた、“この国の民”であることを忘れるな。
世界樹の声だけでなく、この国の声も、時に思い出せ」
その条件は――クレアにとって、重くもあり、嬉しくもあった。
「……はい」
深く頭を下げる。
「必要なときには、必ず戻ってきます」
戻りたい場所は、もう決まっている。
王都ではない。
フィルナだ。
マリアと、ノエルと、あの村の人たちがいる場所。
エルフォルト家当主は、なおも何か言いたげだったが――
王の決定の前では、もはや何も言えなかった。
「家のため」という言葉も、「国のため」という言葉も、
今は、クレアの足を縛る鎖にはならない。
胸の中の世界樹の灯りが、ふっと明るくなった。
会議室の窓の外。
風が、そっと揺れる。
(帰ろう)
心の中で、小さく呟く。
(フィルナに。
“クレア”として、ちゃんと帰ろう)
ざわめきも、怒号も、説得も。
全部がまだ耳の周りでこだましている。
それでも――
クレアの意思は、もう揺れなかった。
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そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
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