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第18話「フィルナへの一時帰還と旅立ちの準備」
しおりを挟むフィルナの空は、王都よりずっと、青かった。
いえ、色そのものは同じなのかもしれない。
けれど、見上げたときに胸の奥に入ってくる“感じ”が、まるで違った。
広い。
高い。
息がしやすい。
そんな言葉が、自然と浮かんでくる空だった。
「……帰ってきた」
村のはずれの丘の上。
草を踏みしめながら、クレアはぽつりと呟く。
見慣れた風景が広がっていた。
ちょっと傾いた屋根。
乾いた土と、そこにしがみつくみたいに生えている草。
遠くに見える、浄化されたあとの森。
風が、頬を撫でた。
王都の風よりずっと、泥っぽい。
でも、その泥っぽさが、たまらなく恋しかった。
(ただいま、って言ってもいいかな)
胸の中で、そっと問いかける。
世界樹の灯りが、くすりと笑った気がした。
《言エ》
それだけの、短い、でも背中を押す声。
「……ただいま」
小さく口にして、クレアは村のほうへと歩き出した。
◇ ◇ ◇
最初にクレアに気づいたのは、井戸のそばで水遊びをしていた子どもたちだった。
「――あっ!」
「クレアお姉ちゃんだ!!」
「本物だ!」「“緑の魔女”のお姉ちゃんだ!」
「だからその呼び方やめてって言ったよね!?」
ツッコミが反射で出た。
けれど、走ってくる子どもたちの顔を見た瞬間、胸の奥の激しいツッコミはふにゃりと崩れる。
「クレアお姉ちゃん、帰ってきたの!?」「どこ行ってたの!?」「王都って美味しいの!?」
「最後の質問なに?」
笑いながら、次々飛んでくる質問を受け止める。
子どもたちの手が、クレアの服の裾を引っ張り、袖を掴み、腕にぶら下がる。
その全部が、体温と重さを持って押し寄せてきた。
「ちょ、ちょっと待ってね、一人ずつ――」
「おいおい、戻ってきた途端に取り囲まれてんじゃねえか」
呆れたような声が、井戸の向こうから聞こえた。
振り向く。
そこには、バケツを片手にこちらを見ている青年がいた。
ぼさっとした前髪、やる気なさそうな目つき。
でも、その目の奥には、見慣れた優しさがちゃんとある。
「ノエルさん」
名前を呼んだ瞬間、胸がきゅっとなった。
「……やっぱり逃げてきたか」
最初の一言がそれなのは、ある意味、期待通りだった。
ノエルは、にやにやしながらバケツを井戸の縁に置き、歩み寄ってくる。
「王都で優雅に暮らすって話はどうした? ドレス着てダンスして“まあ素敵だわ陛下”とかやるんじゃなかったのかよ」
「一言もそんなこと言ってません」
「俺の中ではそういうイメージだった」
「ノエルさんの脳内フィルム書き換えたいです」
くだらないやりとりをしているくせに、ノエルの目はじんわり潤んでいた。
「……でもまあ」
ぼそっと、声が落ちる。
「帰ってきたってことはさ。
“あっちよりこっちのほうがマシだ”って判断してくれたってことでいいんだよな」
「“マシ”どころか、“ずっといい”ですよ」
即答したら、ノエルはばつが悪そうに頭をかいた。
「そ、そうかよ。……そりゃ、よかった」
それから、わざとらしく肩をすくめる。
「次は置いてくなよな」
「……え?」
「当たり前みたいな顔して“一人で行ってきます”とかやめろ。
心配して損した。めちゃくちゃ心配した」
最後の数単語に、明らかに涙が混じっていた。
クレアは、胸がぎゅっとなって、反射的に頭を下げる。
「……ごめん、なさい」
ほんとうに。
何も言わずに出ていった。
「自分で決めたい」という、それだけの理由で。
心配されて、当たり前だ。
「でも――」
顔を上げる。
「ちゃんと帰ってきました」
ノエルは、しばらく無言でクレアを見ていた。
そして、不意に、ぐしゃぐしゃとクレアの頭を撫でた。
「……おかえり」
それは、驚くほど優しい声だった。
子どもたちが、それを聞いてさらに騒ぐ。
「クレアお姉ちゃん、おかえりー!!」
「魔女お姉ちゃん、おかえり!!」
「魔女じゃないけど、おかえりはありがとう!」
笑い声が、井戸のあたりに溢れていく。
そのときだった。
「騒がしいと思ったら――」
低い声が、背中から飛んできた。
背筋が、ぴしりと伸びる。
「……隊長」
振り向く。
そこに立っていたのは、見慣れた鎧姿の女だった。
黒髪をひとつに束ね、腰には剣。
無駄な装飾は一切ない。
でも、その佇まいだけで場の空気を締めることができる人。
「……戻ったか」
マリアが、ほんの少しだけ目を細めた。
「はい。ただいま戻りました、マリア隊長」
気がついたら、「隊長」をつけていた。
それが何だかくすぐったくて、でもしっくりもきた。
マリアは大股で歩み寄ると、クレアの前でぴたりと立ち止まった。
「……王都は」
短く問う。
クレアは、息をひとつ吐いてから答えた。
「えっと……大きくて、綺麗で、空気が重かったです」
「重かった、か」
「はい」
言葉を選びながら続ける。
「たぶん、王都の人たちにとっては、あれが当たり前なんだと思います。
でも、わたしには……」
視線が、自然と村のほうへ向く。
片方が崩れかけた家。
ちょっと泥だらけの子ども。
井戸の周りに干してある洗濯物。
「ここにある空気のほうが、ずっと息がしやすいです」
マリアは、じっとクレアを見ていた。
その視線は、鋭いけれど、責める色はない。
「……そうか」
ぽつりと漏れる。
「王都で、お前がどう扱われたか。だいたい想像はつく」
“だいたい”と言いつつ、たぶんほぼ正解に近いだろう。
「だが、生きて戻ってきた。……それで十分だ」
「マリアさん……」
「戻ってこなかったら――」
マリアは、拳を握りしめた。
「本気で王都に殴り込みに行くところだった」
「それはやめて正解です。色んな意味で」
ノエルが速攻でツッコミを入れる。
「隊長、一応ここ、王国の領土なんで。反乱分子やめてもろて」
「仮定の話だ」
「『ぶん殴る相手が増えるだけだ』って前も言ってましたよね?」
「黙れノエル」
「はい」
即座に黙るノエル。
でもその顔は、どうしても笑いを堪えきれていない。
クレアは、そんな二人を見て、胸がじんわり熱くなった。
(ああ、本当に……帰ってきたんだ)
王都の冷たい石。
香水と蝋燭の匂い。
作り物の笑顔。
そこには、こんなふうに遠慮なくやりあう空気なんてなかった。
「で――」
マリアは、クレアに一歩近づいた。
拳を握り、ぐっと振り上げる。
クレアは、反射で目をぎゅっと閉じた。
「バカ」
こつん、と軽い衝撃。
頭に拳骨が落ちる――寸前で止まって、指先で軽く小突かれた。
「……っ」
驚いて目を開ける。
マリアは、ほんの少しだけ口角を上げていた。
「心配させるな」
それだけ。
でも、その一言に、どれだけの感情が詰まっているか、クレアには分かった。
ノエルが、横からぼそっと付け足す。
「隊長、昨晩ずっとそわそわしててさ。“王都から何かあったらどうする”って」
「していない」
「してました」
「してない」
「めちゃくちゃしてました」
「ノエル」
「はい黙ります」
二度目の即黙り。
子どもたちがくすくす笑う。
クレアは、溢れそうな涙をこっそり袖で拭った。
「……ただいま、戻りました」
もう一度、ちゃんと言う。
マリアは、大きくうなずいた。
「おかえり」
その一言で、ああ、ここは本当に「帰ってくる場所」なんだ、と胸の奥からじんと実感が湧いてくる。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
駐屯地の中庭には、大きな焚き火が焚かれていた。
炎がぱちぱちと薪を食べ、火の粉が夜空に弾ける。
鍋がひとつ、ふつふつと煮立っている。
中身は、村でとれた野菜と、兵士たちが狩ってきた獣肉の煮込みスープ。
食堂に入りきらないぶんは、こうして外で“どんちゃん騒ぎ”になるのがフィルナ流だった。
「おい、クレア! これも食え!」
「そんなによそったらスプーン沈みますって!」
「いいから食え! 痩せてる! 王都の飯足りてねえだろ!」
「王都のご飯は普通に美味しかったですよ!? ただ空気がマズいだけで!」
「空気がマズい飯って致命傷じゃねえか!」
あちこちから笑い声が起きる。
マリアは焚き火の向こう側で腕を組みながら、時々「飲みすぎるな」「明日も訓練だ」と釘を刺していたが、その顔はいつもより柔らかかった。
ノエルはと言えば、樽の横で器用にカップを配りながら、やたらとクレアの隣にいる率が高い。
「でさ、王都の連中は?」
スープをすすりながら、ノエルが聞く。
焚き火の火が、彼の横顔をちらちらと照らしていた。
クレアは、器を両手で包み込み、ゆっくりと口を開く。
「……綺麗でした。街も、城も、人も」
「“綺麗でした”のあとに続く“けど”の匂いしかしねえな」
「“けど”、息苦しかったです」
素直に続ける。
「最初は褒めてくれました。“君の力は素晴らしい”“英雄になれる”って。
でも、具体的な話になると――」
スープの表面に映る炎を見つめながら、言葉を選んだ。
「“専用の施設で暮らすこと”“常に護衛がつくこと”“勝手な行動は慎むこと”……
全部、“安全のため”って言われましたけど」
「実際は、“管理のため”だな」
マリアが、焚き火越しに言う。
「はい」
クレアは頷いた。
「“国のために”“家のために”って言葉で、私の意思を塗りつぶそうとする感じが……前と、何も変わっていませんでした」
エルフォルト家の応接室。
父の、「お前は家の誇りだ」という軽い言葉。
リーゼの、「全部エルフォルト家の功績なんだから」という囁き。
胸の奥が、ひやりと冷えるのを思い出す。
「ここには、“国のため”に戦ってる人たちもいますけど」
クレアは、マリアや兵士たちを見渡した。
「でも、誰も私に“家のために”“国のために”って言いませんでした」
ノエルが、鼻の頭をかきながら笑う。
「そりゃあな。“お前はお前”って言ったあとに“家のため”とか言い出したら、ただの矛盾だろ」
「うん」
胸の奥が、じんとする。
焚き火の煙が、少しだけ目にしみた。
「だから、決めました」
クレアは、器を膝の上に置いて、まっすぐ前を見た。
焚き火の向こうで、マリアの瞳がわずかに細められる。
隣で、ノエルが身構える気配がした。
「……私、旅に出ようと思うの」
焚き火が、ぱち、と音を立てた。
兵士たちのざわめきが、少しだけ静かになる。
「世界樹の分枝を探して、傷んだ場所を癒して回りたい」
言葉にした瞬間――自分の中の“覚悟”が、ちゃんと形になった気がした。
「フィルナの森は、もう大丈夫だと思います。でも、他にも……」
世界樹の欠片が見せたイメージ。
山脈のふもとの枯れかけた森。
砂に埋もれた遺跡。
干上がった湖。
ひび割れた大地。
「そういう場所を、世界樹の根みたいに、一つ一つ繋ぎ直していきたいんです。
“国の命令”じゃなくて、“私の意志”で」
「……危険だぞ」
マリアが、ぽつりと言った。
その声音には、押しつけがましい説教ではなく、純粋な心配が乗っていた。
「瘴気が濃い場所は、魔獣が巣を作りやすい。
人の手が届かない場所ならなおさらだ。
誰の護衛もなしに、女一人で歩き回るなんて――」
「護衛がいたほうがいいなら、連れていけばいいんじゃないっすか」
ノエルが、あっさりと割り込んだ。
「……お前、自分で言っていて分かっているか」
「分かってますよ。“めんどくさいことを自分から増やしてるな俺”って」
全く悪びれない笑み。
「でもまあ、隊長が行かねえなら、俺がついてってもいいかな、とは思ってます」
「待て、誰も“誰かついてこい”とは言ってない」
「クレアはどうだ?」
ノエルは、隣のクレアを覗き込む。
「“世界樹の末裔ひとり旅”と、“世界樹の末裔+口の悪い兵士のおまけ付き旅”、どっちがいい?」
「おまけって言いましたよね今」
「自覚はある」
「自覚してるなら直してください」
思わずツッコみながらも――胸の奥が、あたたかくなる。
「……もちろん、一人で全部は怖いです」
正直に言う。
「でも、誰かを巻き込んでいいのかも、分からない。
危険な場所に連れていくことになるし」
「お前なあ」
ノエルは、あからさまに眉をひそめた。
「“連れていく”じゃねえだろ。“一緒に行くかどうか”は、それぞれが決めることだろ」
「……!」
その言葉は、どこか、王都で聞いた何かを真逆から殴りつけるみたいだった。
「王都の連中は、“お前の力は国のものだ”“お前の人生は家のものだ”って顔してたのかもしれねえけどさ」
ノエルは、焚き火を見ながら続ける。
「隊長も俺も、村の連中も。“それぞれの足は、それぞれのもんだ”って思ってる。
お前が旅に出るって言うなら、“じゃあ俺はどうしようかな”って、自分で考える」
マリアが、肩をすくめた。
「……そいつの言うことも、一理ある」
「隊長が認めたぞ」
「調子に乗るな」
「はい」
即答してから、ノエルはクレアにウインクを投げる。
「まあ、なんだ。
“帰る場所くらい残しといてやるよ”って話だ」
「……え?」
「お前が“世界のどこかで何かしてくる”ならさ。
フィルナは、“帰ってくる場所”でありゃいいだろ。
『あー疲れた』『ヤバい魔獣いた』とか言いながら、お前がいつでも戻ってこれる場所」
焚き火の光が、ノエルの横顔を照らす。
普段はちゃらんぽらんに見えるのに、こういうときだけ妙に真っ直ぐな目をする。
「だから――」
わざとらしく視線を逸らしながら言う。
「勝手に世界救ってこいよ。
その代わり、たまにはこっちの皿洗いもやりに戻ってこい」
「……はい」
クレアの声は、少し震えていた。
「戻ってきます。絶対に」
マリアも、深く息を吐いた。
「お前なら、そう言うと思ってた」
「え?」
「世界樹の末裔だのなんだのと言われて、森を浄化するほどの力を持っていて――」
焚き火越しに、マリアはクレアを見つめる。
「“この村で皿洗いだけして、一生終わります”なんて言う女じゃない」
「……そんなふうに見えてました?」
「見えてた」
きっぱり。
「怖がりで、慎重で、すぐ『すみません』って言うくせに――
いざというときは、自分から森の奥に入るような女だ」
「……否定、できない」
クレアは苦笑した。
たしかに、自分でも「めんどくさい性格だな」と思う。
「だから、正直に言えば心配だ。
危険な場所に行くほど、戻ってくる確率は下がるかもしれない」
マリアの言葉は、生々しく現実的だった。
だからこそ、その次の一言が、胸に深く刺さる。
「それでも、“お前の人生だ”。
王都に閉じ込められるより、死ぬ可能性があっても、自分の足で歩いたほうがマシだと思うなら――私は、その選択を尊重する」
「尊重」という言葉。
この家でも、この国でも、ほとんど使われなかったそれを、マリアがすごく自然に口にした。
クレアは、器を置いて、両手を膝の上でぎゅっと握った。
「……ありがとうございます」
炎が、目の前で揺れる。
涙も、じわじわと揺れた。
焚き火の煙のせいにするには、ちょっと量が多かった。
「泣くな」
マリアが、ぶっきらぼうに言う。
「出発前から泣いていたら、縁起が悪い」
「そうですよ、クレア。
涙は、帰ってきてから“号泣タイム”に使いましょう」
「“号泣タイム”ってなんですか」
「歓迎会第二弾。“生きて帰ったクレアを泣きながら出迎える会”」
「そんな会あるんですか……?」
「今決めた」
ノエルは真顔で頷いた。
「隊長も泣きますよ、たぶん」
「泣かん」
「絶対泣きます」
「泣かん」
そのやりとりに、周りの兵士や村人たちからも笑いが起きる。
焚き火の炎が高くなり、鍋のスープがぐつぐつと音を立てる。
誰かが歌い始め、誰かが手拍子を打つ。
そのど真ん中で――クレアは、ぽつりと、でもしっかりと、心の中で誓った。
(行く)
世界樹の分枝を探しに。
傷んだ場所を癒しに。
「世界樹の末裔」としてではなく、「クレア」として。
(そして――必ず、戻ってくる)
フィルナに。
マリアに。
ノエルに。
この村に。
焚き火の火が、ぱちぱちと夜空に弾ける。
星が、その上で瞬いている。
王都のバルコニーから見た整った夜景とは違う。
ここは、ちょっといびつで、泥臭くて、でもたまらなく愛しい。
こうして。
煮込みスープの匂いと、焚き火の煙と、笑い声に包まれながら――
クレアの“旅立ち”は、静かに、けれど確かに祝われていた。
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そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
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