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第8話:罪人たちの宴
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仮面は、顔より正直だ。
帝都の冬祭の名に隠された特別招待──帝国上層部のための仮面舞踏会は、白い霧を纏った湖の畔で開かれた。ガラスの温室を改装した会場は、天井から垂れる蔦の飾りに金の星屑が撒かれ、音楽は絹糸みたいに薄く、甘く、軽い。
私は黒い羽根飾りの仮面を付け、肩の見えない深緑のドレスで、誰でもない女になっていた。胸元には白檀を、ひと滴。香りは私のため、獲物のためではない。
入場口で招待状を示すと、案内役の女が目の端で合図を送ってくる。黒翼の印──蔦に絡みつく黒い小鳥。私は頷き返し、視線だけで会場の地形を拾っていく。
中央のダンスフロア、四隅の楽団、壁沿いの談笑の輪。噴水には葡萄酒の泉。上階の回廊には、仮面の下でも見分けられる肩書きが並ぶ。軍部、財務院、祈祷院、王城執務局。そして、ひときわ明るい灯りの下へ、金の髪が近づいていく。
彼だ。
アウリス・カルスティ。
仮面は白。羽根は薄金。少年のような光のまま、男の輪郭を纏い始めた顔。はじめて手を取った舞踏会より、背が高い。笑う時の顎の角度は、少しだけ深くなった。
胸の内で、忘れたつもりの音が一瞬だけ鳴り、私はその音に蓋をする。四拍で呼吸。冷たく、均等に。
「お連れしましょうか、レディ」
背後。銀鼠の仮面──ラドンだ。目だけで笑い、指先で短く印を切る。「準備完了」。
「合図は三度。音楽が高く入る瞬間に」
「了解。獲物は」
「三人。財務院のテーブル、右から二席目。祈祷院の古参書記。その間に王城執務局の若い参事。尻尾は出ている。君は、切らないまま結ぶ」
「結ぶのは得意」
私はドレスの裾を弧に描いて、フロアへ出る。仮面の世界では視線が刃になりにくい。あらゆる侮蔑と好奇は、光の揺らぎに紛れる。
そして、金の髪がこちらを向いた。
「……お初にお目にかかる、レディ」
彼は一礼し、白手袋の指を差し出す。声の温度は変わらない。変わらないことほど、残酷だ。
私は知らない女の声で答える。
「こちらこそ、殿下」
アウリスが一瞬だけ目を細める。呼吸の拍が半分だけ乱れる。「殿下」を口にする他人の響きに、彼の身体が微細に反応した。
私は手を預け、最初の旋回で、彼の踵の癖を確認する。右足の押しが強い。焦ると踏み込む。嬉しい時にも踏み込む。つまり、彼はいつだって踏み込む。
「お名前を伺っても?」
「仮面に名は不要でしょう」
「舞踏の礼は、名を与えるところから始まる」
「では、仮の名を。……“モスアゲート”とでも」
「苔瑪瑙。落ち着いた美しい石だ」
「石に詳しいのね」
「最近、学ぶことが多いんだ」
彼は昔より、言葉を選ぶ。選べるようになったのか、選ばざるを得ないのか。
私は手を返し、軽く指を立て、三拍遅れて旋回を深くする。彼の呼吸がそれに合わせて伸びる。ダンスは会話のふりをした審問。私は問い、彼は答える。
音楽が一段高く入る。合図の一。
ラドンが上階に、軽い影を滑らせる。
「レディは、どちらのお生まれで?」
「最近は影で暮らしていて」
「影のどこで?」
「光の落ちない場所」
「詩人だ」
「生き残るためよ。詩は、現実を薄める」
「現実が濃すぎるなら、薄めるのは賢明だ」
「賢明を選ぶあなたは、どこで薄めるの?」
「……誰かの笑顔で」
心臓が、悪い習慣を思い出しそうになる。私は踵を少し強く押す。彼の足取りがわずかに乱れ、すぐ戻る。
彼は気づかない。私の毒に。仮面に映る口元のカーブだけを、昔と同じ幸福として受け取る。
「最近、面白い噂を聞きましたの」
「聞かせてほしい」
「帝国の帳簿は、魔法より脆い。そうでしょう?」
「……始末した。そういうことは、今はもう」
「“今は”?」
彼の喉が、内側で固まる音がした。
「過去形が似合うことは少ないの。未来形の方が、あなたには似合う」
「未来?」
「たとえば、“これから”のあなたは、どれほど多くのものを、正しい手で守れるのか」
「守るために、僕はここにいる」
「守るために、壊すことも?」
「必要なら」
「壊す相手の顔を、最後まで見られる?」
「僕は、正面からしか人を見られない」
「それは、弱さでもあるわ」
彼は笑う。笑いは、少年のときと変わらない。
「きみは正面から見ないタイプだ」
「背中は、語るから」
「背中は、逃げ道も語る」
「逃げ道は、招待状に書いてあるもの」
「今夜の招待状には?」
「“罪人たちの宴へようこそ”」
彼の瞳が、仮面の内側でほんのわずかに揺れる。意味を測る脳が動き、けれど、答えは出さない。舞踏の笑顔が答えを先延ばしにする。
音楽がまた高く跳ねる。合図の二。
上階で、財務院の男が杯を置き、祈祷院の古参が席を立ち、若い参事が時計を見る。ラドンの影が、カーテンの波に消えた。
「踊りが上手い」
「嘘が上手い人に褒められると、つい信じたくなる」
「嘘じゃない」
「そう」
「きみは、どこかで会った気がする」
「仮面舞踏会では、全員が昔馴染みよ」
「声が……」
「声は、時々、裏切る」
「目は?」
「目は、嘘が下手」
彼は私の仮面の縁を見つめ、落ちる影を追う。私は視線を外し、肩を半寸下げ、踊りの円を少し広げた。彼の手の力がわずかに強まる。手に人の熱を求めるとき、彼はいつだってこうだ。
昔、書庫でページをめくる音に紛れ、同じ温度で手を重ねた夜の、記憶が、白檀と一緒に鼻の奥を刺す。私は笑い、刃を鞘に戻すふりをして、別の刃を取り出す。
「殿下は、どんな女性が好き?」
「……正直な人」
「あなたに都合よく正直な人?」
「都合のいい正直なんて、ある?」
「ここにいる全員が、いま、その練習をしている」
「仮面の下で?」
「ええ。仮面は、人を正直にする」
「じゃあ、君は正直に言える?」
「言える」
「何を?」
私は彼の耳にだけ届く声で、綺麗に毒を混ぜる。
「あなたは、国に愛される“顔”をしている。だけど、“目”はまだ恋をしてる」
「恋?」
「自分の正しさに」
彼は笑った。意味を取り逃し、音だけ拾う笑い方だ。救われたと思う時、人は笑いやすい。
音楽が、最後に一度、高く跳ねた。合図の三。
上階。祈祷院の古参がテラスへ、財務院の男が葡萄酒の泉へ、若い参事が扉の陰へ。
私は踵を押し、彼の右足を誘導して、回転を一つ、わざと深くする。視界が流れ、仮面がきらめき、私の“影”が三つに分かれて彼らの背後へ滑っていく。
「……ねぇ、レディ」
アウリスが呼び止める。「君は、誰だ」
「罪人のひとり」
「君が?」
「“秩序の顔をした不正”を許せない罪。重罪よ」
「それは罪じゃない」
「帝国では、時々、罪」
「じゃあ──」
彼は言い淀み、選ぶ。
「じゃあ、君は、僕に何をしてほしい」
私は唇を寄せ、仮面の縁で声を細くする。
「踊って。最後まで。私が合図をしない限り、止まらないで」
「合図?」
「私が目を閉じたら。──止まって」
「どうして」
「それが、殿下への最初の“お願い”」
彼は頷く。信じるのは、癖だ。彼の美徳であり、彼の弱点。
私は踊り続ける。回転の度に、視界の端で罠が組み上がっていく。
テラスで祈祷院の古参が受け取る密書は、すでに“孔”の配列が入れ替えられ、誰かの私室へ向かうはずが、公開記録庫の棚を指す。
葡萄酒の泉に杯を沈めた財務院の男の袖口からは、偽の工房名のレターヘッドがすべり落ち、楽師の譜面台の下へ。
扉の陰で若い参事が拾う予定の鍵には、同じ形の“鍵”が二つ。正しい扉に入るのは、五分遅い方。先に回した鍵は、記録室の非常ベルに繋がる。
罠は直接人を傷つけない。けれど、光を集める。
光が当たれば、影の輪郭は整う。
影の輪郭が整えば、“尻尾を見せない者”の輪郭も、その外側で浮いてくる。
「レディ」
彼の声。私は目を閉じない。
「綺麗だ」
「仮面は誰でも綺麗にする」
「君は、仮面がなくても綺麗だと思う」
「……ありがとう」
ありがとう、は、罪深い言葉だ。使い方を間違えると、背中が熱くなる。
音楽が静かに落ち、曲が変わる前の隙間が生まれる。
私は目を閉じた。
アウリスの足が止まり、手がわずかに力を失う。
会場の別の場所で、金属の軽い音。非常ベルの引き金が、囁き声の大きさで鳴る。人は誰も気づかない。黒翼だけが、その音の意味を知っている。
「楽しかったわ、殿下」
「もう終わり?」
「第一幕の終わり」
「第二幕には、僕は?」
「もちろん。あなたが舞台を独占する夜を、私は見たい」
「見に来てくれる?」
「ええ。最前列で」
「君は、僕のことを嫌っていない?」
「嫌い。──でも、見ていられる」
彼は笑う。
気づかない。
毒は甘く、優しい声で投与した方が効く。
私は彼の手を離し、礼をして、回廊の影へ退いた。仮面を少しだけ上げ、冷たい空気を一口。胸の中の毒気が、整う。
上階の欄干に、銀鼠の仮面が現れる。ラドン。指を一度鳴らし、私に見えるように二本指を立てる。「二つ、確定」。
祈祷院の古参が誤配で狼狽え、財務院の男が袖口を押さえ、若い参事が鍵を手に震える。それぞれの“狼狽”が、別々の方向に光を反射する。
私は欄干にもたれ、葡萄酒の泉を見下ろした。液面にゆるい波紋。落とされた杯の金の縁。溺れるのは、いつも水ではない。自分の吐息だ。
「レディ」
背後から、今度は低い声。銀の仮面──王城執務局の古株。
「殿下と踊る女は、いつも噂になる」
「噂は、現実より退屈」
「噂を作る側は、面白い」
「作られた噂は、壊すのも簡単」
「君は、壊す顔だ」
「いいえ。結ぶ顔」
彼は一瞬黙り、ためすように視線を下げた。「結んで、どこへ」
「首の根元に、きれいな蝶々結びを」
笑いが、仮面の内側で乾いた。
「君の名前は──」
「仮面に名は不要」
私はすり抜け、回廊の奥へ。
扉の陰で、若い参事が青い顔で鍵を握りしめている。やがて、非常ベルに繋がれた偽の鍵だと気づき、手を離す。視線の逃げ方が、若い。良心はまだ柔らかい。
祈祷院の古参は、誤配の密書を懐に押し戻し、誰に疑いを向けるべきか迷っている。迷い続けるだろう。
財務院の男は、袖口を押さえて周囲を見回す。偽の工房名が譜面台の下で乾いていく。楽師がそれを拾い、裏の倉庫へ……ウィレマイトの線が、そこに。
罠は動き始めた。
私は仮面の内側で笑う。刃は抜かない。抜かずに、踊らせる。長く、丁寧に。
「ねぇ、レディ」
また、金の髪。アウリスが、息を整えて近づく。
「もう一曲、お願いできる?」
私は首を傾げ、「喜んで」と言い、距離を半歩、遠くにした。
「殿下は、誰と踊っているか分かっている?」
「分からない。だから、楽しい」
「分かったら?」
「もっと、楽しい」
「危険ね」
「危険は、王族の唯一の娯楽だ」
私は彼の手を取らない。
代わりに、視線をまっすぐ彼の眼差しへ走らせ、宣言する。
「いつか、あなたの“正しさ”と、私の“秩序”が、同じ舞台でぶつかる夜が来る。──その夜、私が勝つわ」
仮面の下で、彼の瞳孔がわずかに開く。言葉は意味だけでなく、音の形でも刺さる。
「宣戦布告?」
「挨拶よ」
「君は、僕を嫌っていない」
「だから、宣言しておくの。──私の微笑みは、あなたの味方じゃない」
アウリスは笑った。
やさしい笑い。世界に対して開け放たれたままの笑い。
「君が誰でも、僕は、君の微笑みを信じたくなる。たとえ、それが刃でも」
「それは、良い死に方を選ぶみたいな言い方」
「君の言葉は、いつも詩だ」
「現実を薄めるために」
音楽がまた、フロアを満たす。
私は彼に背を向け、回廊の奥の扉へ向かった。
扉の向こうは、夜の庭。霧と、冷たい水蒸気。足音は苔に吸われ、声は星に吸い上げられる。
ラドンが影から出てきて、仮面を上げる。私も仮面を半分上げ、互いの顔を確認する。任務顔。生存顔。
「合図、完璧」
「あなたの影も、完璧」
「三手先が見える夜だ」
「三手先の先を、明日に回しましょう」
「賛成」
遠くで、非常ベルが、今度は本当の声量で鳴った。人々がざわめき、仮面が振り向き、音楽が一瞬止まる。
私は白檀をほんの少し、指先に擦りつける。香りは、私だけに。
「ラドン」
「うん」
「“尻尾を見せない者”の輪郭、少しは濃くなった?」
「濃くなった。祈祷院と財務院の“間”に立っている。名ではない。位置だ」
「位置は、動く」
「動くから、捕まえられる」
「踊らせ続けましょう。曲が終わるまで」
会場の中で、金の髪が人々に囲まれる。アウリスは微笑み、安心させ、掌をひらき、言葉を撒く。
彼の微笑みは、国を愛する顔。
私の微笑みは、国に刃を当てる顔。
いつか、同じ鏡の前に立つ夜が来る。
その夜、仮面は要らない。
今夜は、仮面で十分。
私は回廊の陰に消え、庭の扉を閉める直前、もう一度だけ振り返った。
白い霧の中、罪人たちは踊り続ける。自分が罪人だと知らないまま。
私は唇の端だけ上げ、ささやく。
「宴は、まだ始まったばかり」
微笑みの裏で仕込んだ罠は、静かに、正確に、動き始めている。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子が、会場のワルツに重なり、夜の帝都の底を、やわらかく震わせた。
帝都の冬祭の名に隠された特別招待──帝国上層部のための仮面舞踏会は、白い霧を纏った湖の畔で開かれた。ガラスの温室を改装した会場は、天井から垂れる蔦の飾りに金の星屑が撒かれ、音楽は絹糸みたいに薄く、甘く、軽い。
私は黒い羽根飾りの仮面を付け、肩の見えない深緑のドレスで、誰でもない女になっていた。胸元には白檀を、ひと滴。香りは私のため、獲物のためではない。
入場口で招待状を示すと、案内役の女が目の端で合図を送ってくる。黒翼の印──蔦に絡みつく黒い小鳥。私は頷き返し、視線だけで会場の地形を拾っていく。
中央のダンスフロア、四隅の楽団、壁沿いの談笑の輪。噴水には葡萄酒の泉。上階の回廊には、仮面の下でも見分けられる肩書きが並ぶ。軍部、財務院、祈祷院、王城執務局。そして、ひときわ明るい灯りの下へ、金の髪が近づいていく。
彼だ。
アウリス・カルスティ。
仮面は白。羽根は薄金。少年のような光のまま、男の輪郭を纏い始めた顔。はじめて手を取った舞踏会より、背が高い。笑う時の顎の角度は、少しだけ深くなった。
胸の内で、忘れたつもりの音が一瞬だけ鳴り、私はその音に蓋をする。四拍で呼吸。冷たく、均等に。
「お連れしましょうか、レディ」
背後。銀鼠の仮面──ラドンだ。目だけで笑い、指先で短く印を切る。「準備完了」。
「合図は三度。音楽が高く入る瞬間に」
「了解。獲物は」
「三人。財務院のテーブル、右から二席目。祈祷院の古参書記。その間に王城執務局の若い参事。尻尾は出ている。君は、切らないまま結ぶ」
「結ぶのは得意」
私はドレスの裾を弧に描いて、フロアへ出る。仮面の世界では視線が刃になりにくい。あらゆる侮蔑と好奇は、光の揺らぎに紛れる。
そして、金の髪がこちらを向いた。
「……お初にお目にかかる、レディ」
彼は一礼し、白手袋の指を差し出す。声の温度は変わらない。変わらないことほど、残酷だ。
私は知らない女の声で答える。
「こちらこそ、殿下」
アウリスが一瞬だけ目を細める。呼吸の拍が半分だけ乱れる。「殿下」を口にする他人の響きに、彼の身体が微細に反応した。
私は手を預け、最初の旋回で、彼の踵の癖を確認する。右足の押しが強い。焦ると踏み込む。嬉しい時にも踏み込む。つまり、彼はいつだって踏み込む。
「お名前を伺っても?」
「仮面に名は不要でしょう」
「舞踏の礼は、名を与えるところから始まる」
「では、仮の名を。……“モスアゲート”とでも」
「苔瑪瑙。落ち着いた美しい石だ」
「石に詳しいのね」
「最近、学ぶことが多いんだ」
彼は昔より、言葉を選ぶ。選べるようになったのか、選ばざるを得ないのか。
私は手を返し、軽く指を立て、三拍遅れて旋回を深くする。彼の呼吸がそれに合わせて伸びる。ダンスは会話のふりをした審問。私は問い、彼は答える。
音楽が一段高く入る。合図の一。
ラドンが上階に、軽い影を滑らせる。
「レディは、どちらのお生まれで?」
「最近は影で暮らしていて」
「影のどこで?」
「光の落ちない場所」
「詩人だ」
「生き残るためよ。詩は、現実を薄める」
「現実が濃すぎるなら、薄めるのは賢明だ」
「賢明を選ぶあなたは、どこで薄めるの?」
「……誰かの笑顔で」
心臓が、悪い習慣を思い出しそうになる。私は踵を少し強く押す。彼の足取りがわずかに乱れ、すぐ戻る。
彼は気づかない。私の毒に。仮面に映る口元のカーブだけを、昔と同じ幸福として受け取る。
「最近、面白い噂を聞きましたの」
「聞かせてほしい」
「帝国の帳簿は、魔法より脆い。そうでしょう?」
「……始末した。そういうことは、今はもう」
「“今は”?」
彼の喉が、内側で固まる音がした。
「過去形が似合うことは少ないの。未来形の方が、あなたには似合う」
「未来?」
「たとえば、“これから”のあなたは、どれほど多くのものを、正しい手で守れるのか」
「守るために、僕はここにいる」
「守るために、壊すことも?」
「必要なら」
「壊す相手の顔を、最後まで見られる?」
「僕は、正面からしか人を見られない」
「それは、弱さでもあるわ」
彼は笑う。笑いは、少年のときと変わらない。
「きみは正面から見ないタイプだ」
「背中は、語るから」
「背中は、逃げ道も語る」
「逃げ道は、招待状に書いてあるもの」
「今夜の招待状には?」
「“罪人たちの宴へようこそ”」
彼の瞳が、仮面の内側でほんのわずかに揺れる。意味を測る脳が動き、けれど、答えは出さない。舞踏の笑顔が答えを先延ばしにする。
音楽がまた高く跳ねる。合図の二。
上階で、財務院の男が杯を置き、祈祷院の古参が席を立ち、若い参事が時計を見る。ラドンの影が、カーテンの波に消えた。
「踊りが上手い」
「嘘が上手い人に褒められると、つい信じたくなる」
「嘘じゃない」
「そう」
「きみは、どこかで会った気がする」
「仮面舞踏会では、全員が昔馴染みよ」
「声が……」
「声は、時々、裏切る」
「目は?」
「目は、嘘が下手」
彼は私の仮面の縁を見つめ、落ちる影を追う。私は視線を外し、肩を半寸下げ、踊りの円を少し広げた。彼の手の力がわずかに強まる。手に人の熱を求めるとき、彼はいつだってこうだ。
昔、書庫でページをめくる音に紛れ、同じ温度で手を重ねた夜の、記憶が、白檀と一緒に鼻の奥を刺す。私は笑い、刃を鞘に戻すふりをして、別の刃を取り出す。
「殿下は、どんな女性が好き?」
「……正直な人」
「あなたに都合よく正直な人?」
「都合のいい正直なんて、ある?」
「ここにいる全員が、いま、その練習をしている」
「仮面の下で?」
「ええ。仮面は、人を正直にする」
「じゃあ、君は正直に言える?」
「言える」
「何を?」
私は彼の耳にだけ届く声で、綺麗に毒を混ぜる。
「あなたは、国に愛される“顔”をしている。だけど、“目”はまだ恋をしてる」
「恋?」
「自分の正しさに」
彼は笑った。意味を取り逃し、音だけ拾う笑い方だ。救われたと思う時、人は笑いやすい。
音楽が、最後に一度、高く跳ねた。合図の三。
上階。祈祷院の古参がテラスへ、財務院の男が葡萄酒の泉へ、若い参事が扉の陰へ。
私は踵を押し、彼の右足を誘導して、回転を一つ、わざと深くする。視界が流れ、仮面がきらめき、私の“影”が三つに分かれて彼らの背後へ滑っていく。
「……ねぇ、レディ」
アウリスが呼び止める。「君は、誰だ」
「罪人のひとり」
「君が?」
「“秩序の顔をした不正”を許せない罪。重罪よ」
「それは罪じゃない」
「帝国では、時々、罪」
「じゃあ──」
彼は言い淀み、選ぶ。
「じゃあ、君は、僕に何をしてほしい」
私は唇を寄せ、仮面の縁で声を細くする。
「踊って。最後まで。私が合図をしない限り、止まらないで」
「合図?」
「私が目を閉じたら。──止まって」
「どうして」
「それが、殿下への最初の“お願い”」
彼は頷く。信じるのは、癖だ。彼の美徳であり、彼の弱点。
私は踊り続ける。回転の度に、視界の端で罠が組み上がっていく。
テラスで祈祷院の古参が受け取る密書は、すでに“孔”の配列が入れ替えられ、誰かの私室へ向かうはずが、公開記録庫の棚を指す。
葡萄酒の泉に杯を沈めた財務院の男の袖口からは、偽の工房名のレターヘッドがすべり落ち、楽師の譜面台の下へ。
扉の陰で若い参事が拾う予定の鍵には、同じ形の“鍵”が二つ。正しい扉に入るのは、五分遅い方。先に回した鍵は、記録室の非常ベルに繋がる。
罠は直接人を傷つけない。けれど、光を集める。
光が当たれば、影の輪郭は整う。
影の輪郭が整えば、“尻尾を見せない者”の輪郭も、その外側で浮いてくる。
「レディ」
彼の声。私は目を閉じない。
「綺麗だ」
「仮面は誰でも綺麗にする」
「君は、仮面がなくても綺麗だと思う」
「……ありがとう」
ありがとう、は、罪深い言葉だ。使い方を間違えると、背中が熱くなる。
音楽が静かに落ち、曲が変わる前の隙間が生まれる。
私は目を閉じた。
アウリスの足が止まり、手がわずかに力を失う。
会場の別の場所で、金属の軽い音。非常ベルの引き金が、囁き声の大きさで鳴る。人は誰も気づかない。黒翼だけが、その音の意味を知っている。
「楽しかったわ、殿下」
「もう終わり?」
「第一幕の終わり」
「第二幕には、僕は?」
「もちろん。あなたが舞台を独占する夜を、私は見たい」
「見に来てくれる?」
「ええ。最前列で」
「君は、僕のことを嫌っていない?」
「嫌い。──でも、見ていられる」
彼は笑う。
気づかない。
毒は甘く、優しい声で投与した方が効く。
私は彼の手を離し、礼をして、回廊の影へ退いた。仮面を少しだけ上げ、冷たい空気を一口。胸の中の毒気が、整う。
上階の欄干に、銀鼠の仮面が現れる。ラドン。指を一度鳴らし、私に見えるように二本指を立てる。「二つ、確定」。
祈祷院の古参が誤配で狼狽え、財務院の男が袖口を押さえ、若い参事が鍵を手に震える。それぞれの“狼狽”が、別々の方向に光を反射する。
私は欄干にもたれ、葡萄酒の泉を見下ろした。液面にゆるい波紋。落とされた杯の金の縁。溺れるのは、いつも水ではない。自分の吐息だ。
「レディ」
背後から、今度は低い声。銀の仮面──王城執務局の古株。
「殿下と踊る女は、いつも噂になる」
「噂は、現実より退屈」
「噂を作る側は、面白い」
「作られた噂は、壊すのも簡単」
「君は、壊す顔だ」
「いいえ。結ぶ顔」
彼は一瞬黙り、ためすように視線を下げた。「結んで、どこへ」
「首の根元に、きれいな蝶々結びを」
笑いが、仮面の内側で乾いた。
「君の名前は──」
「仮面に名は不要」
私はすり抜け、回廊の奥へ。
扉の陰で、若い参事が青い顔で鍵を握りしめている。やがて、非常ベルに繋がれた偽の鍵だと気づき、手を離す。視線の逃げ方が、若い。良心はまだ柔らかい。
祈祷院の古参は、誤配の密書を懐に押し戻し、誰に疑いを向けるべきか迷っている。迷い続けるだろう。
財務院の男は、袖口を押さえて周囲を見回す。偽の工房名が譜面台の下で乾いていく。楽師がそれを拾い、裏の倉庫へ……ウィレマイトの線が、そこに。
罠は動き始めた。
私は仮面の内側で笑う。刃は抜かない。抜かずに、踊らせる。長く、丁寧に。
「ねぇ、レディ」
また、金の髪。アウリスが、息を整えて近づく。
「もう一曲、お願いできる?」
私は首を傾げ、「喜んで」と言い、距離を半歩、遠くにした。
「殿下は、誰と踊っているか分かっている?」
「分からない。だから、楽しい」
「分かったら?」
「もっと、楽しい」
「危険ね」
「危険は、王族の唯一の娯楽だ」
私は彼の手を取らない。
代わりに、視線をまっすぐ彼の眼差しへ走らせ、宣言する。
「いつか、あなたの“正しさ”と、私の“秩序”が、同じ舞台でぶつかる夜が来る。──その夜、私が勝つわ」
仮面の下で、彼の瞳孔がわずかに開く。言葉は意味だけでなく、音の形でも刺さる。
「宣戦布告?」
「挨拶よ」
「君は、僕を嫌っていない」
「だから、宣言しておくの。──私の微笑みは、あなたの味方じゃない」
アウリスは笑った。
やさしい笑い。世界に対して開け放たれたままの笑い。
「君が誰でも、僕は、君の微笑みを信じたくなる。たとえ、それが刃でも」
「それは、良い死に方を選ぶみたいな言い方」
「君の言葉は、いつも詩だ」
「現実を薄めるために」
音楽がまた、フロアを満たす。
私は彼に背を向け、回廊の奥の扉へ向かった。
扉の向こうは、夜の庭。霧と、冷たい水蒸気。足音は苔に吸われ、声は星に吸い上げられる。
ラドンが影から出てきて、仮面を上げる。私も仮面を半分上げ、互いの顔を確認する。任務顔。生存顔。
「合図、完璧」
「あなたの影も、完璧」
「三手先が見える夜だ」
「三手先の先を、明日に回しましょう」
「賛成」
遠くで、非常ベルが、今度は本当の声量で鳴った。人々がざわめき、仮面が振り向き、音楽が一瞬止まる。
私は白檀をほんの少し、指先に擦りつける。香りは、私だけに。
「ラドン」
「うん」
「“尻尾を見せない者”の輪郭、少しは濃くなった?」
「濃くなった。祈祷院と財務院の“間”に立っている。名ではない。位置だ」
「位置は、動く」
「動くから、捕まえられる」
「踊らせ続けましょう。曲が終わるまで」
会場の中で、金の髪が人々に囲まれる。アウリスは微笑み、安心させ、掌をひらき、言葉を撒く。
彼の微笑みは、国を愛する顔。
私の微笑みは、国に刃を当てる顔。
いつか、同じ鏡の前に立つ夜が来る。
その夜、仮面は要らない。
今夜は、仮面で十分。
私は回廊の陰に消え、庭の扉を閉める直前、もう一度だけ振り返った。
白い霧の中、罪人たちは踊り続ける。自分が罪人だと知らないまま。
私は唇の端だけ上げ、ささやく。
「宴は、まだ始まったばかり」
微笑みの裏で仕込んだ罠は、静かに、正確に、動き始めている。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子が、会場のワルツに重なり、夜の帝都の底を、やわらかく震わせた。
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輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
悪役令嬢に仕立て上げたいなら、ご注意を。
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物語内のノーラとデイジーは同一人物です。
王都の小話は追記予定。
修正を入れることがあるかもしれませんが、作品・物語自体は完結です。
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