婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第9話:揺れる侍女

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 帝国議会の裏庭は、午後の光を節約する場所だ。石畳の格子に冬の陽が斜めに落ち、剪定された生垣が几帳面に影を並べる。風は薄く、紙を一枚めくるような手つきで頬を撫でていく。私はその影の列の四番目に立ち、白檀をひと呼吸分だけ胸に沈めた。

 フィオナ・モルガナイト──今の名札は「モルガン」──が角から現れた。ベージュの事務服、低い位置でまとめた髪、耳を半分隠すいつもの結い方。けれど、歩幅が半拍だけ短い。迷いは、かかとに宿る。

「……昼、ここ、空いてるって、誰かが」

「誰かは、風の名前でしょうね」

 私が冗談を言うと、彼女は小さく笑って、それから真面目な顔に戻った。笑顔は彼女の第一言語。真顔は第二言語。今は第二で話したいらしい。

「セ……ヘマタイトさん」

 名前の上で、彼女の舌が一度だけ躓く。呼び慣れた名前を飲み込むのは、骨が喉を通るみたいな痛みだと知っている。

「モルガンさん」

 私たちは並んで歩き出す。生垣の影がスカートの裾に縞模様を置き、鳥の気配が遠くで細く鳴る。互いに横顔だけ。正面は、今はまだ強すぎる。

「この前の仮面舞踏会、行きました?」

「噂だけ。葡萄酒の泉が本物だったとか」

「嘘です。薄めてあります」

「あなたらしい」

「褒めてます」

 軽い言葉で足元を均しながら、彼女の指先がハンカチを握り直すのを、私は見逃さない。白い布の角に、小さな皿の刺繍。子どもの頃から変わらない私印。割った皿の代わりに、毎日ひとつ刺して増やしてきた「ごめんね」の数え棒。

「……最近、あなた、よく眠れてますか」

「眠りは贅沢。節約してる」

「節約しすぎると、心が乾きます」

「乾いたら、軽くなる」

「でも、割れやすくもなる」

 踏み込んでくる。彼女にしては珍しい速度。私は歩を緩め、生垣の切れ目で足を止めた。そこには、古い石のベンチ。冬の冷気が蓄積して白く光る。私たちは並んで座り、指先で石の縁を撫でた。冷たさは真実だ。嘘を混ぜにくい。

「あなたが……いえ、“ヘマタイトさん”が、この議会に来た本当の理由を、わたし、たぶん知ってます」

「仕事」

「もちろん。でも、仕事の名前に隠れている“もうひとつの名前”。」

 彼女はハンカチを握り直し、皿の刺繍を親指で撫でる。目はまっすぐ、私の肩と空の間のどこかに固定された。

「復讐、でしょう?」

 言葉は静かに落ちた。水ではなく、砂に吸われる音。私は呼吸を四拍に戻す。吸って、止めて、吐いて、止める。肺が規律に従う。心は従わない。

「誰に?」

「“秩序の顔をした不正”に」

 ……皿の刺繍から、よく見えるところまで来ている。

「あなた、笑うとき、今は少しだけ歯を見せるようになった。昔は見せなかった。歯を見せる笑いは“攻め”の笑い。人から奪う準備ができている笑い。お茶の席の笑みじゃない」

「観察魔」

「あなたに教わった」

 やわらかく責める人のやり方。彼女は短剣ではなく、麻の紐で人を拘束する。気づけば動けなくなるやり方だ。

「……ねぇ、本当にそれがあなたの望む未来なの?」

 その問いは、風に乗らず、胸に沈んだ。私の中の何かが、わずかに軋む。壊れたわけではない。油をさしていない蝶番が身じろぎをしただけ。けれど、音は耳に残る。

「望む、の定義は?」

「あなたが夜、目を閉じた時に、胸の中で“これでいい”って言える未来」

「“これでいい”を言う時間を、わたしは節約してる」

「節約が過ぎると、いつか払うときに利子がつく」

「あなた、ほんと、家計簿の鬼ね」

「あなたがわたしに教えたんです」

 彼女は微笑む。悲しみの味を砂糖で薄めた笑い。私はベンチの角に指をかけ、爪で石の粒を押した。硬いものに触れていると、やわらかい自分をごまかせる。

「わたしね、セ……ヘマタイトさん。あなたを元の場所に戻す道を、ずっと探してた」

「“元の場所”?」

「屋敷。領地。朝の紅茶。午後の読書。夜のピアノ。あなたの“日常”。」

 日常、という言葉が胸の奥を擦過した。紙の端で皮膚をひっかいた時みたいな、鋭くて小さな痛み。私は目を伏せる。

「戻って、どうするの」

「元の続きから、生きる」

「続きなんて、ない」

「作ればいい」

「粘土じゃないのよ、人生は」

「じゃあ、繕えばいい」

「糸が見える繕い目は、わたし、嫌い」

「わたしは好き。繕い目がある方が、あなたが生き延びた証拠になるから」

 フィオナは正面から嘘をつかない。だから、疲れる。だから、救われる。私は鼻で短く笑い、空を見た。薄い雲が、羊の背中みたいに並び、寒さの在庫を数えている。

「復讐は、あなたを食べるよ」

「食べさせてるのは、わたしよ」

「そう。だから余計に怖い」

「怖がってるの、あなた?」

「ううん。わたしは、覚悟がある人を怖がらない。怖いのは、覚悟の“燃料”が切れた後のあなた」

 彼女の声が、ほんの少し震えた。私の名前を古い呼び方で呼ばなかったのは、最後の節約か、礼儀か、抗いか。私は唇を噛み、味のない血の味を確かめてから、言った。

「燃料は、ひとつじゃない」

「怒り以外に、何を」

「侮辱された秩序への執着。寒さに耐える訓練。あなたの『皿』」

 彼女の肩が、すこしだけ揺れる。「皿?」

「あなたが昔、割った皿の刺繍。あれを毎日ひとつ増やしていくのを見て、わたしは『失敗に形を与える』っていう技術を覚えた。失敗をなかったことにしない。刺繍の端を結んで、次の日の糸を通す。そのやり方を、今、わたしは別の布でやってるだけ」

 話しながら、気づく。声の底で、迷いが、かすかに息をしていた。迷いは悪いものじゃない。方向転換の前にだけ、きちんと現れる道標。けれど、迷いは長居すると、足元をぬかるみにする。

「……戻ろうよ」

 フィオナが言う。「屋敷じゃなくていい。小さな部屋でもいい。朝、わたしが湯を沸かす。あなたは書物を開く。午後は散歩。夜はスープ。眠れないなら、わたしが歌う」

「子守唄、下手じゃない」

「練習したから」

「わたしのために?」

「うん」

 短い肯定が、胸に刺さる。やわらかい刃。私は視線を逸らした。正面から見ると、目が濡れる気がする。

「それ、誰のための未来?」

「……わたしのため」

「正直」

「あなたのためでもあると、思ってる」

「そこが、問題」

「どうして」

「わたしの“ため”は、今は“復讐のため”に吸収される。矛盾する『ため』は、一緒に住めない」

「住ませようよ。狭いけど、押し入れひとつ空けて。わたしの『ため』とあなたの『ため』を交代で入れる」

「押し入れ、湿気る」

「乾かす」

 思わず笑ってしまう。涙と笑いは、案外同じ筋肉を使う。だから、時々混ざる。フィオナはその混ざり方をよく知っている。私が崩れない範囲で、わざと混ぜる。

「……フィオナ」

 名前を出してしまった。彼女の瞳が一瞬大きくなる。彼女も、わたしの名を言いそうになって、飲み込む。二人の喉に、昔の呼び名が一羽ずつ留まった。

「あなたが“戻る道”を整えてくれてるの、知ってる。でも、それは“わたしが選ばなかった道”になる。選ばない道は、誰かの善意ほど、あとで重くなる」

「善意が、重荷?」

「時々ね」

「じゃあ、わたしが善意を薄める。三分の一に」

「薄めるなら、責任も薄まる?」

「薄めない。責任はわたしが全部持つ」

「ずるい」

「あなたに教わったんです。ずるさの正しい使い方」

 彼女の強情が、私の強情に向き合って立っている。二つの強情は、並べると棚になる。上に物が置ける。置いた物は、重い判断だ。

「言わせて」

 彼女が深く息を吸う。冷たい空気で肺を満たし、胸骨が薄く広がる。

「……ねぇ、本当にそれがあなたの望む未来なの?」

 二度目の同じ問い。今度は、逃げ道を残さずに正面から。私は目を閉じてみる。闇の内側に浮かぶのは、仮面舞踏会の光、葡萄酒の泉、非常ベルの針の音、ラドンの銀鼠の瞳、テフロイトの刃の重さ、ゼノタイムの笑わない目、スファレライトのインクの匂い。彼らの音が、私の三拍子──鼓動、計画、微笑み──と同じリズムで脈打っている。

 そして、もっと古い場面が割り込む。屋敷の朝。フィオナが湯を沸かし、私が詩集を開き、窓が薄く震え、白い湯気が両手を温める。母の指輪。父の咳。アウリスの横顔。
 “戻る”。
 戻ったとして、その続きに、わたしは座れるだろうか。椅子はそこにあるだろうか。座った瞬間、椅子が粉砂糖みたいに崩れて、また新しい冷たさで頬を打つのではないか。
 復讐を終えたとして、その後の私が空っぽになるのではないか。空っぽを怖がるなら、今ここで引き返す選択もある。
 迷いが、ひと息分だけ膨らむ。薄い風船。指で弾けば割れる。割れば、音がする。音が、記憶になる。記憶が、燃料になる。

 私は目を開いた。冬の光が戻り、生垣の影が規則正しく並ぶ。フィオナの瞳は、泣く寸前の湖みたいにきらきらしている。私は彼女の手に触れた。指先だけ。温度の交換は最小限に。

「……望む未来、ね」

「うん」

「“選べる未来”が先」

「選んだ先に、あなたが笑う?」

「笑い方は、私が決める」

「怒ってる顔より、笑ってる顔の方が恐ろしいって、誰かが言ってた」

「賢い誰かね」

「賢い誰かは、あなたの笑顔を怖がらない」

「なら、問題ない」

 私は立ち上がり、スカートの裾を払う。石の粉が薄く宙に舞い、すぐ落ちる。フィオナが立とうとして、ハンカチを落とした。私が拾い、皿の刺繍を一秒だけ見て、渡す。

「ありがとう」

「皿、増えた?」

「うん。昨日、ひとつ増やした」

「何を割ったの」

「勇気」

「割れて、どうしたの」

「繕った」

「……上手」

 私の口元が、勝手に温度を上げる。その温度をすぐに冷ますために、私は少しだけ毒を混ぜる。

「フィオナ。あなたは“戻る道”を整えて。誰かが戻りたくなった時、迷わないように。それは、あなたの戦い」

「戦い、ね」

「わたしの戦いは、別の場所にある。交わる夜は来る。でも、今夜じゃない」

「わたしは、あなたの背中を押す? それとも、袖を引く?」

「どちらも、しないで。横で歩いて」

 彼女は瞬きを忘れ、次に大きく一回した。「横で、歩く」

「そう。時々、歌って。下手でも」

「練習する」

「子守唄は要らない」

「行進曲にする」

 笑い合う。短く。壊れない距離で。私は生垣の影から光へ一歩出る。光は冷たい。けれど、輪郭がはっきりする。

「ラ……」

 彼女が言いかけ、飲み込んだのは別の名。私も飲み込む。互いに守るべき沈黙の重さを、今さら数え直す必要はない。

「仕事に戻るわ」

「わたしも」

 背中合わせに歩き始め、角まで来たところで、彼女の声が追いかけた。

「セ……ヘマタイトさん」

「なに」

「戻るための鍵、いつでも預けるから」

「預け口は、皿の刺繍の裏でいい?」

「うん」

「了解」

 私は角を曲がり、影に戻る。足音が乾いて、均等に響く。ラドンが廊下の奥で腕を組んでいた。目だけで問う。「どうだった?」

「皿が、ひとつ増えた」

「それは良い」

「それから、わたしの迷いも、ひとつ増えた。でも、すぐに割れた」

「音は?」

「小さかった。けれど、覚えた」

「燃料にできる?」

「なる」

 彼は頷き、余計な言葉を付けない。その無言が、やさしさの正しい用法だと知っている人間の顔。

 机に戻り、私は議事の余白に“孔”と“皿”の印を小さく並べ、線を一本引いた。線は未来へ向かう矢印ではなく、今ここで私を貫通する杭だ。杭があれば、風が吹いても立てる。

 夕刻、窓の外の空が錫色に沈む頃、私は短く目を閉じる。仮面舞踏会の光、葡萄酒の泉、非常ベルの囁き、フィオナの皿、ラドンの銀鼠、テフロイトの刃、ゼノタイムの鉛筆、スファレライトのインク。全部、私の拍に合わせて並べ直す。

 望む未来は、遠くに置かない。
 選べる未来を、ここに作る。
 選んで、奪う。奪って、返す。返して、正す。
 その手順で、私は生きる。
 誰に見られても、誰にも見られなくても。

 ベンチの冷たさがまだ指に残っている。
 その冷たさに、私は微量の熱を足す。
 鼓動。計画。微笑み。
 そこに、もう一拍──“迷いを割った音”。
 四拍子で、私は歩き始める。

 復讐を疑う声を、私は忘れない。
 疑った上で、選ぶ。
 それが、わたしの“望む未来”への最短距離だと、今は信じる。
 そして、その信じるという行為に、フィオナが横で息を合わせていることを、私は確かに感じていた。
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