9 / 20
第9話:揺れる侍女
しおりを挟む
帝国議会の裏庭は、午後の光を節約する場所だ。石畳の格子に冬の陽が斜めに落ち、剪定された生垣が几帳面に影を並べる。風は薄く、紙を一枚めくるような手つきで頬を撫でていく。私はその影の列の四番目に立ち、白檀をひと呼吸分だけ胸に沈めた。
フィオナ・モルガナイト──今の名札は「モルガン」──が角から現れた。ベージュの事務服、低い位置でまとめた髪、耳を半分隠すいつもの結い方。けれど、歩幅が半拍だけ短い。迷いは、かかとに宿る。
「……昼、ここ、空いてるって、誰かが」
「誰かは、風の名前でしょうね」
私が冗談を言うと、彼女は小さく笑って、それから真面目な顔に戻った。笑顔は彼女の第一言語。真顔は第二言語。今は第二で話したいらしい。
「セ……ヘマタイトさん」
名前の上で、彼女の舌が一度だけ躓く。呼び慣れた名前を飲み込むのは、骨が喉を通るみたいな痛みだと知っている。
「モルガンさん」
私たちは並んで歩き出す。生垣の影がスカートの裾に縞模様を置き、鳥の気配が遠くで細く鳴る。互いに横顔だけ。正面は、今はまだ強すぎる。
「この前の仮面舞踏会、行きました?」
「噂だけ。葡萄酒の泉が本物だったとか」
「嘘です。薄めてあります」
「あなたらしい」
「褒めてます」
軽い言葉で足元を均しながら、彼女の指先がハンカチを握り直すのを、私は見逃さない。白い布の角に、小さな皿の刺繍。子どもの頃から変わらない私印。割った皿の代わりに、毎日ひとつ刺して増やしてきた「ごめんね」の数え棒。
「……最近、あなた、よく眠れてますか」
「眠りは贅沢。節約してる」
「節約しすぎると、心が乾きます」
「乾いたら、軽くなる」
「でも、割れやすくもなる」
踏み込んでくる。彼女にしては珍しい速度。私は歩を緩め、生垣の切れ目で足を止めた。そこには、古い石のベンチ。冬の冷気が蓄積して白く光る。私たちは並んで座り、指先で石の縁を撫でた。冷たさは真実だ。嘘を混ぜにくい。
「あなたが……いえ、“ヘマタイトさん”が、この議会に来た本当の理由を、わたし、たぶん知ってます」
「仕事」
「もちろん。でも、仕事の名前に隠れている“もうひとつの名前”。」
彼女はハンカチを握り直し、皿の刺繍を親指で撫でる。目はまっすぐ、私の肩と空の間のどこかに固定された。
「復讐、でしょう?」
言葉は静かに落ちた。水ではなく、砂に吸われる音。私は呼吸を四拍に戻す。吸って、止めて、吐いて、止める。肺が規律に従う。心は従わない。
「誰に?」
「“秩序の顔をした不正”に」
……皿の刺繍から、よく見えるところまで来ている。
「あなた、笑うとき、今は少しだけ歯を見せるようになった。昔は見せなかった。歯を見せる笑いは“攻め”の笑い。人から奪う準備ができている笑い。お茶の席の笑みじゃない」
「観察魔」
「あなたに教わった」
やわらかく責める人のやり方。彼女は短剣ではなく、麻の紐で人を拘束する。気づけば動けなくなるやり方だ。
「……ねぇ、本当にそれがあなたの望む未来なの?」
その問いは、風に乗らず、胸に沈んだ。私の中の何かが、わずかに軋む。壊れたわけではない。油をさしていない蝶番が身じろぎをしただけ。けれど、音は耳に残る。
「望む、の定義は?」
「あなたが夜、目を閉じた時に、胸の中で“これでいい”って言える未来」
「“これでいい”を言う時間を、わたしは節約してる」
「節約が過ぎると、いつか払うときに利子がつく」
「あなた、ほんと、家計簿の鬼ね」
「あなたがわたしに教えたんです」
彼女は微笑む。悲しみの味を砂糖で薄めた笑い。私はベンチの角に指をかけ、爪で石の粒を押した。硬いものに触れていると、やわらかい自分をごまかせる。
「わたしね、セ……ヘマタイトさん。あなたを元の場所に戻す道を、ずっと探してた」
「“元の場所”?」
「屋敷。領地。朝の紅茶。午後の読書。夜のピアノ。あなたの“日常”。」
日常、という言葉が胸の奥を擦過した。紙の端で皮膚をひっかいた時みたいな、鋭くて小さな痛み。私は目を伏せる。
「戻って、どうするの」
「元の続きから、生きる」
「続きなんて、ない」
「作ればいい」
「粘土じゃないのよ、人生は」
「じゃあ、繕えばいい」
「糸が見える繕い目は、わたし、嫌い」
「わたしは好き。繕い目がある方が、あなたが生き延びた証拠になるから」
フィオナは正面から嘘をつかない。だから、疲れる。だから、救われる。私は鼻で短く笑い、空を見た。薄い雲が、羊の背中みたいに並び、寒さの在庫を数えている。
「復讐は、あなたを食べるよ」
「食べさせてるのは、わたしよ」
「そう。だから余計に怖い」
「怖がってるの、あなた?」
「ううん。わたしは、覚悟がある人を怖がらない。怖いのは、覚悟の“燃料”が切れた後のあなた」
彼女の声が、ほんの少し震えた。私の名前を古い呼び方で呼ばなかったのは、最後の節約か、礼儀か、抗いか。私は唇を噛み、味のない血の味を確かめてから、言った。
「燃料は、ひとつじゃない」
「怒り以外に、何を」
「侮辱された秩序への執着。寒さに耐える訓練。あなたの『皿』」
彼女の肩が、すこしだけ揺れる。「皿?」
「あなたが昔、割った皿の刺繍。あれを毎日ひとつ増やしていくのを見て、わたしは『失敗に形を与える』っていう技術を覚えた。失敗をなかったことにしない。刺繍の端を結んで、次の日の糸を通す。そのやり方を、今、わたしは別の布でやってるだけ」
話しながら、気づく。声の底で、迷いが、かすかに息をしていた。迷いは悪いものじゃない。方向転換の前にだけ、きちんと現れる道標。けれど、迷いは長居すると、足元をぬかるみにする。
「……戻ろうよ」
フィオナが言う。「屋敷じゃなくていい。小さな部屋でもいい。朝、わたしが湯を沸かす。あなたは書物を開く。午後は散歩。夜はスープ。眠れないなら、わたしが歌う」
「子守唄、下手じゃない」
「練習したから」
「わたしのために?」
「うん」
短い肯定が、胸に刺さる。やわらかい刃。私は視線を逸らした。正面から見ると、目が濡れる気がする。
「それ、誰のための未来?」
「……わたしのため」
「正直」
「あなたのためでもあると、思ってる」
「そこが、問題」
「どうして」
「わたしの“ため”は、今は“復讐のため”に吸収される。矛盾する『ため』は、一緒に住めない」
「住ませようよ。狭いけど、押し入れひとつ空けて。わたしの『ため』とあなたの『ため』を交代で入れる」
「押し入れ、湿気る」
「乾かす」
思わず笑ってしまう。涙と笑いは、案外同じ筋肉を使う。だから、時々混ざる。フィオナはその混ざり方をよく知っている。私が崩れない範囲で、わざと混ぜる。
「……フィオナ」
名前を出してしまった。彼女の瞳が一瞬大きくなる。彼女も、わたしの名を言いそうになって、飲み込む。二人の喉に、昔の呼び名が一羽ずつ留まった。
「あなたが“戻る道”を整えてくれてるの、知ってる。でも、それは“わたしが選ばなかった道”になる。選ばない道は、誰かの善意ほど、あとで重くなる」
「善意が、重荷?」
「時々ね」
「じゃあ、わたしが善意を薄める。三分の一に」
「薄めるなら、責任も薄まる?」
「薄めない。責任はわたしが全部持つ」
「ずるい」
「あなたに教わったんです。ずるさの正しい使い方」
彼女の強情が、私の強情に向き合って立っている。二つの強情は、並べると棚になる。上に物が置ける。置いた物は、重い判断だ。
「言わせて」
彼女が深く息を吸う。冷たい空気で肺を満たし、胸骨が薄く広がる。
「……ねぇ、本当にそれがあなたの望む未来なの?」
二度目の同じ問い。今度は、逃げ道を残さずに正面から。私は目を閉じてみる。闇の内側に浮かぶのは、仮面舞踏会の光、葡萄酒の泉、非常ベルの針の音、ラドンの銀鼠の瞳、テフロイトの刃の重さ、ゼノタイムの笑わない目、スファレライトのインクの匂い。彼らの音が、私の三拍子──鼓動、計画、微笑み──と同じリズムで脈打っている。
そして、もっと古い場面が割り込む。屋敷の朝。フィオナが湯を沸かし、私が詩集を開き、窓が薄く震え、白い湯気が両手を温める。母の指輪。父の咳。アウリスの横顔。
“戻る”。
戻ったとして、その続きに、わたしは座れるだろうか。椅子はそこにあるだろうか。座った瞬間、椅子が粉砂糖みたいに崩れて、また新しい冷たさで頬を打つのではないか。
復讐を終えたとして、その後の私が空っぽになるのではないか。空っぽを怖がるなら、今ここで引き返す選択もある。
迷いが、ひと息分だけ膨らむ。薄い風船。指で弾けば割れる。割れば、音がする。音が、記憶になる。記憶が、燃料になる。
私は目を開いた。冬の光が戻り、生垣の影が規則正しく並ぶ。フィオナの瞳は、泣く寸前の湖みたいにきらきらしている。私は彼女の手に触れた。指先だけ。温度の交換は最小限に。
「……望む未来、ね」
「うん」
「“選べる未来”が先」
「選んだ先に、あなたが笑う?」
「笑い方は、私が決める」
「怒ってる顔より、笑ってる顔の方が恐ろしいって、誰かが言ってた」
「賢い誰かね」
「賢い誰かは、あなたの笑顔を怖がらない」
「なら、問題ない」
私は立ち上がり、スカートの裾を払う。石の粉が薄く宙に舞い、すぐ落ちる。フィオナが立とうとして、ハンカチを落とした。私が拾い、皿の刺繍を一秒だけ見て、渡す。
「ありがとう」
「皿、増えた?」
「うん。昨日、ひとつ増やした」
「何を割ったの」
「勇気」
「割れて、どうしたの」
「繕った」
「……上手」
私の口元が、勝手に温度を上げる。その温度をすぐに冷ますために、私は少しだけ毒を混ぜる。
「フィオナ。あなたは“戻る道”を整えて。誰かが戻りたくなった時、迷わないように。それは、あなたの戦い」
「戦い、ね」
「わたしの戦いは、別の場所にある。交わる夜は来る。でも、今夜じゃない」
「わたしは、あなたの背中を押す? それとも、袖を引く?」
「どちらも、しないで。横で歩いて」
彼女は瞬きを忘れ、次に大きく一回した。「横で、歩く」
「そう。時々、歌って。下手でも」
「練習する」
「子守唄は要らない」
「行進曲にする」
笑い合う。短く。壊れない距離で。私は生垣の影から光へ一歩出る。光は冷たい。けれど、輪郭がはっきりする。
「ラ……」
彼女が言いかけ、飲み込んだのは別の名。私も飲み込む。互いに守るべき沈黙の重さを、今さら数え直す必要はない。
「仕事に戻るわ」
「わたしも」
背中合わせに歩き始め、角まで来たところで、彼女の声が追いかけた。
「セ……ヘマタイトさん」
「なに」
「戻るための鍵、いつでも預けるから」
「預け口は、皿の刺繍の裏でいい?」
「うん」
「了解」
私は角を曲がり、影に戻る。足音が乾いて、均等に響く。ラドンが廊下の奥で腕を組んでいた。目だけで問う。「どうだった?」
「皿が、ひとつ増えた」
「それは良い」
「それから、わたしの迷いも、ひとつ増えた。でも、すぐに割れた」
「音は?」
「小さかった。けれど、覚えた」
「燃料にできる?」
「なる」
彼は頷き、余計な言葉を付けない。その無言が、やさしさの正しい用法だと知っている人間の顔。
机に戻り、私は議事の余白に“孔”と“皿”の印を小さく並べ、線を一本引いた。線は未来へ向かう矢印ではなく、今ここで私を貫通する杭だ。杭があれば、風が吹いても立てる。
夕刻、窓の外の空が錫色に沈む頃、私は短く目を閉じる。仮面舞踏会の光、葡萄酒の泉、非常ベルの囁き、フィオナの皿、ラドンの銀鼠、テフロイトの刃、ゼノタイムの鉛筆、スファレライトのインク。全部、私の拍に合わせて並べ直す。
望む未来は、遠くに置かない。
選べる未来を、ここに作る。
選んで、奪う。奪って、返す。返して、正す。
その手順で、私は生きる。
誰に見られても、誰にも見られなくても。
ベンチの冷たさがまだ指に残っている。
その冷たさに、私は微量の熱を足す。
鼓動。計画。微笑み。
そこに、もう一拍──“迷いを割った音”。
四拍子で、私は歩き始める。
復讐を疑う声を、私は忘れない。
疑った上で、選ぶ。
それが、わたしの“望む未来”への最短距離だと、今は信じる。
そして、その信じるという行為に、フィオナが横で息を合わせていることを、私は確かに感じていた。
フィオナ・モルガナイト──今の名札は「モルガン」──が角から現れた。ベージュの事務服、低い位置でまとめた髪、耳を半分隠すいつもの結い方。けれど、歩幅が半拍だけ短い。迷いは、かかとに宿る。
「……昼、ここ、空いてるって、誰かが」
「誰かは、風の名前でしょうね」
私が冗談を言うと、彼女は小さく笑って、それから真面目な顔に戻った。笑顔は彼女の第一言語。真顔は第二言語。今は第二で話したいらしい。
「セ……ヘマタイトさん」
名前の上で、彼女の舌が一度だけ躓く。呼び慣れた名前を飲み込むのは、骨が喉を通るみたいな痛みだと知っている。
「モルガンさん」
私たちは並んで歩き出す。生垣の影がスカートの裾に縞模様を置き、鳥の気配が遠くで細く鳴る。互いに横顔だけ。正面は、今はまだ強すぎる。
「この前の仮面舞踏会、行きました?」
「噂だけ。葡萄酒の泉が本物だったとか」
「嘘です。薄めてあります」
「あなたらしい」
「褒めてます」
軽い言葉で足元を均しながら、彼女の指先がハンカチを握り直すのを、私は見逃さない。白い布の角に、小さな皿の刺繍。子どもの頃から変わらない私印。割った皿の代わりに、毎日ひとつ刺して増やしてきた「ごめんね」の数え棒。
「……最近、あなた、よく眠れてますか」
「眠りは贅沢。節約してる」
「節約しすぎると、心が乾きます」
「乾いたら、軽くなる」
「でも、割れやすくもなる」
踏み込んでくる。彼女にしては珍しい速度。私は歩を緩め、生垣の切れ目で足を止めた。そこには、古い石のベンチ。冬の冷気が蓄積して白く光る。私たちは並んで座り、指先で石の縁を撫でた。冷たさは真実だ。嘘を混ぜにくい。
「あなたが……いえ、“ヘマタイトさん”が、この議会に来た本当の理由を、わたし、たぶん知ってます」
「仕事」
「もちろん。でも、仕事の名前に隠れている“もうひとつの名前”。」
彼女はハンカチを握り直し、皿の刺繍を親指で撫でる。目はまっすぐ、私の肩と空の間のどこかに固定された。
「復讐、でしょう?」
言葉は静かに落ちた。水ではなく、砂に吸われる音。私は呼吸を四拍に戻す。吸って、止めて、吐いて、止める。肺が規律に従う。心は従わない。
「誰に?」
「“秩序の顔をした不正”に」
……皿の刺繍から、よく見えるところまで来ている。
「あなた、笑うとき、今は少しだけ歯を見せるようになった。昔は見せなかった。歯を見せる笑いは“攻め”の笑い。人から奪う準備ができている笑い。お茶の席の笑みじゃない」
「観察魔」
「あなたに教わった」
やわらかく責める人のやり方。彼女は短剣ではなく、麻の紐で人を拘束する。気づけば動けなくなるやり方だ。
「……ねぇ、本当にそれがあなたの望む未来なの?」
その問いは、風に乗らず、胸に沈んだ。私の中の何かが、わずかに軋む。壊れたわけではない。油をさしていない蝶番が身じろぎをしただけ。けれど、音は耳に残る。
「望む、の定義は?」
「あなたが夜、目を閉じた時に、胸の中で“これでいい”って言える未来」
「“これでいい”を言う時間を、わたしは節約してる」
「節約が過ぎると、いつか払うときに利子がつく」
「あなた、ほんと、家計簿の鬼ね」
「あなたがわたしに教えたんです」
彼女は微笑む。悲しみの味を砂糖で薄めた笑い。私はベンチの角に指をかけ、爪で石の粒を押した。硬いものに触れていると、やわらかい自分をごまかせる。
「わたしね、セ……ヘマタイトさん。あなたを元の場所に戻す道を、ずっと探してた」
「“元の場所”?」
「屋敷。領地。朝の紅茶。午後の読書。夜のピアノ。あなたの“日常”。」
日常、という言葉が胸の奥を擦過した。紙の端で皮膚をひっかいた時みたいな、鋭くて小さな痛み。私は目を伏せる。
「戻って、どうするの」
「元の続きから、生きる」
「続きなんて、ない」
「作ればいい」
「粘土じゃないのよ、人生は」
「じゃあ、繕えばいい」
「糸が見える繕い目は、わたし、嫌い」
「わたしは好き。繕い目がある方が、あなたが生き延びた証拠になるから」
フィオナは正面から嘘をつかない。だから、疲れる。だから、救われる。私は鼻で短く笑い、空を見た。薄い雲が、羊の背中みたいに並び、寒さの在庫を数えている。
「復讐は、あなたを食べるよ」
「食べさせてるのは、わたしよ」
「そう。だから余計に怖い」
「怖がってるの、あなた?」
「ううん。わたしは、覚悟がある人を怖がらない。怖いのは、覚悟の“燃料”が切れた後のあなた」
彼女の声が、ほんの少し震えた。私の名前を古い呼び方で呼ばなかったのは、最後の節約か、礼儀か、抗いか。私は唇を噛み、味のない血の味を確かめてから、言った。
「燃料は、ひとつじゃない」
「怒り以外に、何を」
「侮辱された秩序への執着。寒さに耐える訓練。あなたの『皿』」
彼女の肩が、すこしだけ揺れる。「皿?」
「あなたが昔、割った皿の刺繍。あれを毎日ひとつ増やしていくのを見て、わたしは『失敗に形を与える』っていう技術を覚えた。失敗をなかったことにしない。刺繍の端を結んで、次の日の糸を通す。そのやり方を、今、わたしは別の布でやってるだけ」
話しながら、気づく。声の底で、迷いが、かすかに息をしていた。迷いは悪いものじゃない。方向転換の前にだけ、きちんと現れる道標。けれど、迷いは長居すると、足元をぬかるみにする。
「……戻ろうよ」
フィオナが言う。「屋敷じゃなくていい。小さな部屋でもいい。朝、わたしが湯を沸かす。あなたは書物を開く。午後は散歩。夜はスープ。眠れないなら、わたしが歌う」
「子守唄、下手じゃない」
「練習したから」
「わたしのために?」
「うん」
短い肯定が、胸に刺さる。やわらかい刃。私は視線を逸らした。正面から見ると、目が濡れる気がする。
「それ、誰のための未来?」
「……わたしのため」
「正直」
「あなたのためでもあると、思ってる」
「そこが、問題」
「どうして」
「わたしの“ため”は、今は“復讐のため”に吸収される。矛盾する『ため』は、一緒に住めない」
「住ませようよ。狭いけど、押し入れひとつ空けて。わたしの『ため』とあなたの『ため』を交代で入れる」
「押し入れ、湿気る」
「乾かす」
思わず笑ってしまう。涙と笑いは、案外同じ筋肉を使う。だから、時々混ざる。フィオナはその混ざり方をよく知っている。私が崩れない範囲で、わざと混ぜる。
「……フィオナ」
名前を出してしまった。彼女の瞳が一瞬大きくなる。彼女も、わたしの名を言いそうになって、飲み込む。二人の喉に、昔の呼び名が一羽ずつ留まった。
「あなたが“戻る道”を整えてくれてるの、知ってる。でも、それは“わたしが選ばなかった道”になる。選ばない道は、誰かの善意ほど、あとで重くなる」
「善意が、重荷?」
「時々ね」
「じゃあ、わたしが善意を薄める。三分の一に」
「薄めるなら、責任も薄まる?」
「薄めない。責任はわたしが全部持つ」
「ずるい」
「あなたに教わったんです。ずるさの正しい使い方」
彼女の強情が、私の強情に向き合って立っている。二つの強情は、並べると棚になる。上に物が置ける。置いた物は、重い判断だ。
「言わせて」
彼女が深く息を吸う。冷たい空気で肺を満たし、胸骨が薄く広がる。
「……ねぇ、本当にそれがあなたの望む未来なの?」
二度目の同じ問い。今度は、逃げ道を残さずに正面から。私は目を閉じてみる。闇の内側に浮かぶのは、仮面舞踏会の光、葡萄酒の泉、非常ベルの針の音、ラドンの銀鼠の瞳、テフロイトの刃の重さ、ゼノタイムの笑わない目、スファレライトのインクの匂い。彼らの音が、私の三拍子──鼓動、計画、微笑み──と同じリズムで脈打っている。
そして、もっと古い場面が割り込む。屋敷の朝。フィオナが湯を沸かし、私が詩集を開き、窓が薄く震え、白い湯気が両手を温める。母の指輪。父の咳。アウリスの横顔。
“戻る”。
戻ったとして、その続きに、わたしは座れるだろうか。椅子はそこにあるだろうか。座った瞬間、椅子が粉砂糖みたいに崩れて、また新しい冷たさで頬を打つのではないか。
復讐を終えたとして、その後の私が空っぽになるのではないか。空っぽを怖がるなら、今ここで引き返す選択もある。
迷いが、ひと息分だけ膨らむ。薄い風船。指で弾けば割れる。割れば、音がする。音が、記憶になる。記憶が、燃料になる。
私は目を開いた。冬の光が戻り、生垣の影が規則正しく並ぶ。フィオナの瞳は、泣く寸前の湖みたいにきらきらしている。私は彼女の手に触れた。指先だけ。温度の交換は最小限に。
「……望む未来、ね」
「うん」
「“選べる未来”が先」
「選んだ先に、あなたが笑う?」
「笑い方は、私が決める」
「怒ってる顔より、笑ってる顔の方が恐ろしいって、誰かが言ってた」
「賢い誰かね」
「賢い誰かは、あなたの笑顔を怖がらない」
「なら、問題ない」
私は立ち上がり、スカートの裾を払う。石の粉が薄く宙に舞い、すぐ落ちる。フィオナが立とうとして、ハンカチを落とした。私が拾い、皿の刺繍を一秒だけ見て、渡す。
「ありがとう」
「皿、増えた?」
「うん。昨日、ひとつ増やした」
「何を割ったの」
「勇気」
「割れて、どうしたの」
「繕った」
「……上手」
私の口元が、勝手に温度を上げる。その温度をすぐに冷ますために、私は少しだけ毒を混ぜる。
「フィオナ。あなたは“戻る道”を整えて。誰かが戻りたくなった時、迷わないように。それは、あなたの戦い」
「戦い、ね」
「わたしの戦いは、別の場所にある。交わる夜は来る。でも、今夜じゃない」
「わたしは、あなたの背中を押す? それとも、袖を引く?」
「どちらも、しないで。横で歩いて」
彼女は瞬きを忘れ、次に大きく一回した。「横で、歩く」
「そう。時々、歌って。下手でも」
「練習する」
「子守唄は要らない」
「行進曲にする」
笑い合う。短く。壊れない距離で。私は生垣の影から光へ一歩出る。光は冷たい。けれど、輪郭がはっきりする。
「ラ……」
彼女が言いかけ、飲み込んだのは別の名。私も飲み込む。互いに守るべき沈黙の重さを、今さら数え直す必要はない。
「仕事に戻るわ」
「わたしも」
背中合わせに歩き始め、角まで来たところで、彼女の声が追いかけた。
「セ……ヘマタイトさん」
「なに」
「戻るための鍵、いつでも預けるから」
「預け口は、皿の刺繍の裏でいい?」
「うん」
「了解」
私は角を曲がり、影に戻る。足音が乾いて、均等に響く。ラドンが廊下の奥で腕を組んでいた。目だけで問う。「どうだった?」
「皿が、ひとつ増えた」
「それは良い」
「それから、わたしの迷いも、ひとつ増えた。でも、すぐに割れた」
「音は?」
「小さかった。けれど、覚えた」
「燃料にできる?」
「なる」
彼は頷き、余計な言葉を付けない。その無言が、やさしさの正しい用法だと知っている人間の顔。
机に戻り、私は議事の余白に“孔”と“皿”の印を小さく並べ、線を一本引いた。線は未来へ向かう矢印ではなく、今ここで私を貫通する杭だ。杭があれば、風が吹いても立てる。
夕刻、窓の外の空が錫色に沈む頃、私は短く目を閉じる。仮面舞踏会の光、葡萄酒の泉、非常ベルの囁き、フィオナの皿、ラドンの銀鼠、テフロイトの刃、ゼノタイムの鉛筆、スファレライトのインク。全部、私の拍に合わせて並べ直す。
望む未来は、遠くに置かない。
選べる未来を、ここに作る。
選んで、奪う。奪って、返す。返して、正す。
その手順で、私は生きる。
誰に見られても、誰にも見られなくても。
ベンチの冷たさがまだ指に残っている。
その冷たさに、私は微量の熱を足す。
鼓動。計画。微笑み。
そこに、もう一拍──“迷いを割った音”。
四拍子で、私は歩き始める。
復讐を疑う声を、私は忘れない。
疑った上で、選ぶ。
それが、わたしの“望む未来”への最短距離だと、今は信じる。
そして、その信じるという行為に、フィオナが横で息を合わせていることを、私は確かに感じていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
悪役令嬢に仕立て上げたいなら、ご注意を。
潮海璃月
ファンタジー
幼くして辺境伯の地位を継いだレナータは、女性であるがゆえに舐められがちであった。そんな折、社交場で伯爵令嬢にいわれのない罪を着せられてしまう。そんな彼女に隣国皇子カールハインツが手を差し伸べた──かと思いきや、ほとんど初対面で婚姻を申し込み、暇さえあれば口説き、しかもやたらレナータのことを知っている。怪しいほど親切なカールハインツと共に、レナータは事態の収拾方法を模索し、やがて伯爵一家への復讐を決意する。
聖女を追い出しても平気だと思っていた国の末路
藤原遊
ファンタジー
聖女が国を去った日、神官長は分かっていた。
この国は、彼女を軽く扱いすぎたのだと。
「聖女がいなくても平気だ」
そう言い切った王子と人々は、
彼女が“何もしていない”まま国が崩れていく現実を、
やがて思い知ることになる。
――これは、聖女を追い出した国の末路を、
静かに見届けた者の記録。
悪役令嬢ですか?……フフフ♪わたくし、そんなモノではございませんわ(笑)
ラララキヲ
ファンタジー
学園の卒業パーティーで王太子は男爵令嬢と側近たちを引き連れて自分の婚約者を睨みつける。
「悪役令嬢 ルカリファス・ゴルデゥーサ。
私は貴様との婚約破棄をここに宣言する!」
「……フフフ」
王太子たちが愛するヒロインに対峙するのは悪役令嬢に決まっている!
しかし、相手は本当に『悪役』令嬢なんですか……?
ルカリファスは楽しそうに笑う。
◇テンプレ婚約破棄モノ。
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇なろうにも上げてます。
宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです
ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」
宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。
聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。
しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。
冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる