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第10話:盤上の女王
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夜の帝都は、硝子の盤だった。
黒と白の石畳がつづく大路は、街灯が打つ光の駒を等間隔に並べ、風は見えない指でその駒をつまんでは、音もなく置き直す。私とラドンは、その盤の縁を歩いていた。目的地は議会庁舎の“上でも下でもない場所”──地上階と地下書庫のちょうど間にある、中空のような保管室。ごく少数の人間だけが鍵の存在を知り、さらに少数の人間だけがそこへ至る道を知る。
「手順をもう一度」
ラドンが言う。銀鼠の瞳は、今夜は氷を溶かしかけた水の色をしている。
「一、巡回表の空白を作る。二、記録局の副鍵を“合法のふり”で借りる。三、書庫に入って“目録の裏”を開き、目当ての文書函を抽出。四、函の封緘を切らずに写しを作る。五、戻す。……六、帰る。無傷で」
「よし。七がある」
「七?」
「祝杯。水で」
「縁起でもない」
「縁起担ぎだ」
軽口の背後で、肺は四拍で仕事を続ける。白檀は耳の後ろに一滴。香りは私を正しい高さに引き戻す紐だ。ラドンは火のついていない煙草を咥え、邪魔にならない位置に息を流す。「匂いは記憶を連れてくる。連れてこられたくない夜がある」と、彼はいつだって火を点けない。
庁舎の裏口は二重鍵。鉄と木。いつか見た黒翼の扉と同じ。叩き方は違う。ラドンは指の骨だけで正しい音程を出し、内側の意志を起こす。音は空気の水面を叩き、微細な波紋を作って消えた。
私たちは影に吸い込まれ、長い薄闇の廊下を進む。壁に沿って、番号ではない印が刻まれている。星、花、鹿、皿。皿──指先がそこで一瞬止まり、フィオナの刺繍が脳裏に灯る。横で歩いて、と彼女は言った。今夜は彼女の歩幅の分だけ勇気を借りる。
記録局の小部屋。窓は高く、月が遠い。机上の灯が紙の毛羽立ちを白く浮かび上がらせている。副鍵の保管箱は、帳簿の裏側、さらに薄い板の下。ラドンが紙の順序を一枚もずらさないまま板をあげ、青黒い金属の束を取り出した。
「持つか」
「持つ」
鍵束の重みは“責任”の重さではなく“選択肢”の重さだ。選べる鍵が多いほど、人は鈍る。私は一本、耳で選ぶ。金属が他の鍵と触れ合ったときに鳴る高い音。乾いて、よく通る個体。目当ての扉の“好み”を、私は今日一日、その音で学んできた。
書庫の扉。鍵穴は、私の目より少し低い。息を整え、鍵を挿す。金属の舌が回転し、内部の歯が噛み合う。扉は音を立てないで開いた。中は、紙とインクと革の長い眠りの匂い。部屋の中心に背の低い台があり、その周りを背の高い棚が沈黙で囲む。台の上に“目録の裏”。羊皮紙に数字の森、裏側にだけ小さな孔。
「ここからは、君の指だ」
ラドンが台の反対側に立つ。私は手袋をはめず、指先の油を最小限に意識して、ページをめくる。孔。十二、四、八、六。議会機密の四つ目パターン。刻印の墨は褪せ、代わりに紙自体が記憶している。目当ての函は「継承儀礼補遺・草案」。皇太子アウリスの戴冠準備の名で保管されているが、背の綴じ糸が新しい。最近、誰かが手を入れた。
私は棚へ向かい、番号ではなく“紙の呼吸”で位置を探る。紙は呼吸する。触れたとき、好きな人間には息を合わせ、嫌いな人間には息を乱す。好き嫌いを紙に持ち込むのは間違っている。けれど、こういう夜は、間違いが役に立つ。
函は、あった。浅い呼吸。怯えている紙の箱。持ち上げる。重さは、手首の骨に優しい。中には──封緘金具。つまみの段差が薄い。白孔雀亭の包みと同じ匂い。私は納得の息をひとつ、吐く。
「開けるな」
「わかってる」
函の蓋を、金具を外さずにほんのわずか浮かせ、薄紙を差し入れて、抱え込む文字の輪郭を写す。書体。癖。止めと跳ね。ページをめくらない。紙に、紙で触れる。わずかな摩擦音が、心拍と重なる。
そのときだった。
遠い足音。──早い。巡回の空白が、予定より短い。
ラドンが目で“戻れ”と告げる。私は頷き、薄紙を抜き、函の蓋を戻し──そこで、やった。
金具のつまみを、無意識に指で撫でてしまった。微細なクリック。舌の先で噛み切るほど小さな音。けれど、部屋が音でできている夜には、あまりに大きい。
棚の奥で、見えない針が跳ねる音。
――封緘の微細警報。
まずい。
思考が、氷の表面を走るスケーターみたいに一気に加速する。二歩先の予感、三歩先の破綻。巡回の足音は近い。警報が本格化すれば、廊下の鈴が鳴り、鍵束の存在を説明する前に鎖が下りる。
私が息を吸い間違えた瞬間、視界の端でラドンが動いた。
彼は私の脇をすり抜け、函を片手で抱え、もう片方の手で金具のつまみを押し戻しながら、扉の方へ二歩、逆行する。逆行の姿勢は美しかった。足音の主の存在を“あえて”近づけ、音の発生源を扉際に“ずらす”。同時に、懐から薄い金属片を取り出し、金具の根元に極小の楔を差し込む。微細警報の仕組みを“生かしたまま偽装する”手つきだ。
「……今の、何」
「“間違えて閉め忘れてたのを閉め直した音”に変えた」
「そんなの、どうやって」
「同じ音を、二回続けて出す。人間の耳は、連続したものを『誤差』に分類する。単発は警戒、連続は許容。──ほら」
足音が、扉の前で速度を落とし、また遠ざかっていく。私は肺の底で固まっていた氷を、ゆっくりと溶かす。手の平が遅れて震え始める。
ラドンが函を私に戻し、指先で私の震えを“観察”せず、“共鳴”で止めるように、軽く握る。骨の形で、安心を渡す。
「ごめん」
「謝罪は僕の仕事を減らさない」
「でも、あなたの寿命は減らした」
「明朝、ひとつ余計に果物を食べる」
この人は時々、とんでもなくかっこつける。かっこつけ方が、命に優しいのが腹立たしい。
私は唇を噛み、口内に薄い血の味を作り、それで自分の熱に印をつける。震えは減り、その代わりに“駒を進める”意志が、指に戻る。
「続ける」
「続けよう」
私たちは函を台に置き、写しを最短の線で終わらせ、痕跡を消した。目録の裏を閉じ、“裏の裏”にだけ小さく、孔の配列を逆さに残す。誰かが私の手口を逆算しようとしたとき、必ず迷うように。
帰路。
廊下の角で、一人の男影とすれ違った。祈祷院の古参──仮面舞踏会で“誤配”に狼狽した男。彼は今夜は狼狽えず、まっすぐ歩く。石像のような横顔。胸の高さに手を重ね、何かを守る仕草。彼の背に、薄く、甘い香。白檀ではない。寺院の香木。
彼は私たちを見ない。私たちも彼を見ない。
けれど、ラドンが私の肘に、無言で“印”を刻む。──“覚えろ”。
私は足音の間隔を覚え、靴底の減り方の左右差を覚え、香の濃度の変化を覚える。覚えることは、最低限の復讐だ。
外。
夜気が肺に入る。街灯が、石畳の盤面に光の駒を置く位置を少し変え始めている。時間だ。
私たちは足を止めず、人気のない小さな広場に出ると、ベンチの影で息を整えた。ラドンは函の中身──写しの薄紙を、布張りの封筒に移す。細心の注意で。封はまだしない。中身の“温度”を下げるために。
「中身は?」
「開ける?」
「開ける」
封筒から薄紙一枚を取り出し、街灯の影の“ちょうど暗い”ところで読む。
そこには、継承儀礼の“補遺”という名の、別のものが書かれていた。
皇太子アウリスの戴冠に先立ち、帝国の宗祀に献納されるべき宝物の調達──と見せかけて、国庫経由を回避した“私的献納”の流れ。匿名の寄付。寄付主の名は隠され、しかし、連絡担当の名は残っている。祈祷院、財務院、王城執務局の若い参事。三者の間を結ぶ、同じ筆致の小さな記号。
そして、ページの隅に“別経路”──郊外の関税所。
私の胃の中で、冷たいものが形になった。
これは、ただの“横領”ではない。
戴冠の“血”に、私的な金を混ぜる行為。
帝国の祈りに、偽の数字を据えること。
これを、私は“秩序の顔をした不正”と呼ぶ。
「駒だ」
ラドンが言う。「王手に持っていける駒」
「王手にするには、証人が要る。書式の“外”を知っている人間の舌」
「君は誰を選ぶ」
「鈍い善良」
「第五席の老人」
「うん。彼に“見せる”。彼は見過ごせない」
「それで足りるか」
「足りない。だから“舞台”が要る。公開の場。祝祭の朝。民の前」
「危険だ」
「うん。だから美しい」
言いながら、私は薄紙の下段にある、細い“注記”に目を止めた。
“万一、儀礼の進行に妨げが生じた場合、代理の儀主を立てる。適任候補──”
候補名の欄は、空白。空白が、予備の鍵の場所を示すことがある。
私は薄紙を折り、封筒に戻す。
「これが『駒』。でも、まだ『詰み』じゃない」
「詰みの一手手前が、一番事故る」
「さっき事故りかけた」
「だから、今日はもう事故らない」
「論理の飛躍」
「楽観の戦略」
私は笑い、すぐ真顔に戻る。笑いは、今夜は毒になる。
帰り道、盤面の端で一瞬、歩みを緩める。
ラドンが不意に言った。
「さっきの君のミス。僕は“美しい”と思った」
「は?」
「ミスに、君の『生』が出る。完璧な計画より、救うべきものが見える」
「救われる側が言うことじゃない」
「救った側が言っている」
胸の奥で、何かが苦く、温かく、ほどける。
私は立ち止まり、振り向いた。ラドンの顔は夜の色で、目だけが形を持っている。
「怖かった?」
「少しね」
「僕も」
「嘘」
「半分はね」
笑い合うのに、理由は要らなかった。
理由が要るのは、刃を抜く時だ。今は抜かない。
私は一歩近づき、彼の上着の襟を親指で整えた。癖になりそうな動作。危険な動作。
「……ありがとう」
「謝謝は受けない」
「感謝」
「受け取る」
沈黙。
冬の空気が、二人の間で白く結露する。
私は告げる。
「わたしは、王手をかける。彼に。公正の名で。私の名は出ない。でも、私の手は見える。嫌う?」
「好きだ」
即答だった。反射の速さが、私の心臓に悪い。
「……早すぎる」
「反復横跳びの相方に、遅延は要らない」
「右腕」
「反復横跳び」
私たちは、夜の盤面に戻る。
庁舎から離れたところで、黒翼への階段に至る。地下の灯りが、紙と人の匂いを吸い上げる。広間に入ると、テフロイトが刃を拭き、スファレライトがインク瓶の口を軽く叩き、ゼノタイムが孔の配列を開き、ウィレマイトが線を描く準備をしていた。
私は封筒を台に置き、ラドンが“開けろ”と目で合図する。薄紙が広がり、四人の呼吸が揃う。
「駒、確保」
私が言う。
ラドンが続ける。「王手、設計」
ウィレマイトが関税所の線に印を打ち、スファレライトが祈祷院の書式を並べ、ゼノタイムが財務院の筆致の癖を照合し、テフロイトが当日動線の“足”を描く。
私は第五席老人の“鈍い善良”の時間帯を思い出し、祝祭の朝の“空”を指でなぞる。そこに、私たちの舞台を置く。
盤面に、駒が並ぶ。
私は自分の駒──“微笑み”を、中央に置く。微笑みは駒だ。動き方は女王。直線も、斜線も、距離無制限。
盤上の女王として、私は今夜、初めて自分の“役”を完全に理解する。
「ラドン」
「うん」
「もし、私がまたミスをしたら」
「また、かっこよく解決する」
「自信家」
「経験者」
「……頼りにしてる」
「知ってる」
彼は机の角を指で二回叩き、広間全体にだけ聞こえる合図を送る。
「作戦名、『静かな王手』」
私は肩の力を抜き、白檀を指先で転がし、香を嗅がずにしまう。
香りは記憶を呼ぶ。
記憶は、明日の王手の邪魔になる。
地上へ戻る前に、私は一度だけ、封筒の中の薄紙を指で撫でた。紙は呼吸し、私の指に合わせて拍を刻む。
鼓動。計画。微笑み。
そこに、四拍目──“人”。
今夜、私のミスを“人”が救った。
その事実は、刃を鈍らせない。
むしろ、刃に“選ぶ力”を与える。
外は、夜明け前の色に少しだけ滲んでいる。
私は盤面の端に立ち、遠くの尖塔を見た。
アウリス。
あなたは正しい顔で、間違いに触れた。
私は間違いの顔で、正しさに手を伸ばす。
盤上で会おう。
王手をかける夜、仮面はいらない。
今夜は、仮面で十分。
私はラドンと視線を交わし、何も約束しないで歩き出した。
約束をしない優しさは、毒より安全だ。
それでも、掌にはまだ、彼が掴み上げた時の体温が、うっすら残っていた。
それを“祝杯”の代わりに、胸の奥に仕舞い、私は盤に戻る。
静かな王手のために。
黒と白の石畳がつづく大路は、街灯が打つ光の駒を等間隔に並べ、風は見えない指でその駒をつまんでは、音もなく置き直す。私とラドンは、その盤の縁を歩いていた。目的地は議会庁舎の“上でも下でもない場所”──地上階と地下書庫のちょうど間にある、中空のような保管室。ごく少数の人間だけが鍵の存在を知り、さらに少数の人間だけがそこへ至る道を知る。
「手順をもう一度」
ラドンが言う。銀鼠の瞳は、今夜は氷を溶かしかけた水の色をしている。
「一、巡回表の空白を作る。二、記録局の副鍵を“合法のふり”で借りる。三、書庫に入って“目録の裏”を開き、目当ての文書函を抽出。四、函の封緘を切らずに写しを作る。五、戻す。……六、帰る。無傷で」
「よし。七がある」
「七?」
「祝杯。水で」
「縁起でもない」
「縁起担ぎだ」
軽口の背後で、肺は四拍で仕事を続ける。白檀は耳の後ろに一滴。香りは私を正しい高さに引き戻す紐だ。ラドンは火のついていない煙草を咥え、邪魔にならない位置に息を流す。「匂いは記憶を連れてくる。連れてこられたくない夜がある」と、彼はいつだって火を点けない。
庁舎の裏口は二重鍵。鉄と木。いつか見た黒翼の扉と同じ。叩き方は違う。ラドンは指の骨だけで正しい音程を出し、内側の意志を起こす。音は空気の水面を叩き、微細な波紋を作って消えた。
私たちは影に吸い込まれ、長い薄闇の廊下を進む。壁に沿って、番号ではない印が刻まれている。星、花、鹿、皿。皿──指先がそこで一瞬止まり、フィオナの刺繍が脳裏に灯る。横で歩いて、と彼女は言った。今夜は彼女の歩幅の分だけ勇気を借りる。
記録局の小部屋。窓は高く、月が遠い。机上の灯が紙の毛羽立ちを白く浮かび上がらせている。副鍵の保管箱は、帳簿の裏側、さらに薄い板の下。ラドンが紙の順序を一枚もずらさないまま板をあげ、青黒い金属の束を取り出した。
「持つか」
「持つ」
鍵束の重みは“責任”の重さではなく“選択肢”の重さだ。選べる鍵が多いほど、人は鈍る。私は一本、耳で選ぶ。金属が他の鍵と触れ合ったときに鳴る高い音。乾いて、よく通る個体。目当ての扉の“好み”を、私は今日一日、その音で学んできた。
書庫の扉。鍵穴は、私の目より少し低い。息を整え、鍵を挿す。金属の舌が回転し、内部の歯が噛み合う。扉は音を立てないで開いた。中は、紙とインクと革の長い眠りの匂い。部屋の中心に背の低い台があり、その周りを背の高い棚が沈黙で囲む。台の上に“目録の裏”。羊皮紙に数字の森、裏側にだけ小さな孔。
「ここからは、君の指だ」
ラドンが台の反対側に立つ。私は手袋をはめず、指先の油を最小限に意識して、ページをめくる。孔。十二、四、八、六。議会機密の四つ目パターン。刻印の墨は褪せ、代わりに紙自体が記憶している。目当ての函は「継承儀礼補遺・草案」。皇太子アウリスの戴冠準備の名で保管されているが、背の綴じ糸が新しい。最近、誰かが手を入れた。
私は棚へ向かい、番号ではなく“紙の呼吸”で位置を探る。紙は呼吸する。触れたとき、好きな人間には息を合わせ、嫌いな人間には息を乱す。好き嫌いを紙に持ち込むのは間違っている。けれど、こういう夜は、間違いが役に立つ。
函は、あった。浅い呼吸。怯えている紙の箱。持ち上げる。重さは、手首の骨に優しい。中には──封緘金具。つまみの段差が薄い。白孔雀亭の包みと同じ匂い。私は納得の息をひとつ、吐く。
「開けるな」
「わかってる」
函の蓋を、金具を外さずにほんのわずか浮かせ、薄紙を差し入れて、抱え込む文字の輪郭を写す。書体。癖。止めと跳ね。ページをめくらない。紙に、紙で触れる。わずかな摩擦音が、心拍と重なる。
そのときだった。
遠い足音。──早い。巡回の空白が、予定より短い。
ラドンが目で“戻れ”と告げる。私は頷き、薄紙を抜き、函の蓋を戻し──そこで、やった。
金具のつまみを、無意識に指で撫でてしまった。微細なクリック。舌の先で噛み切るほど小さな音。けれど、部屋が音でできている夜には、あまりに大きい。
棚の奥で、見えない針が跳ねる音。
――封緘の微細警報。
まずい。
思考が、氷の表面を走るスケーターみたいに一気に加速する。二歩先の予感、三歩先の破綻。巡回の足音は近い。警報が本格化すれば、廊下の鈴が鳴り、鍵束の存在を説明する前に鎖が下りる。
私が息を吸い間違えた瞬間、視界の端でラドンが動いた。
彼は私の脇をすり抜け、函を片手で抱え、もう片方の手で金具のつまみを押し戻しながら、扉の方へ二歩、逆行する。逆行の姿勢は美しかった。足音の主の存在を“あえて”近づけ、音の発生源を扉際に“ずらす”。同時に、懐から薄い金属片を取り出し、金具の根元に極小の楔を差し込む。微細警報の仕組みを“生かしたまま偽装する”手つきだ。
「……今の、何」
「“間違えて閉め忘れてたのを閉め直した音”に変えた」
「そんなの、どうやって」
「同じ音を、二回続けて出す。人間の耳は、連続したものを『誤差』に分類する。単発は警戒、連続は許容。──ほら」
足音が、扉の前で速度を落とし、また遠ざかっていく。私は肺の底で固まっていた氷を、ゆっくりと溶かす。手の平が遅れて震え始める。
ラドンが函を私に戻し、指先で私の震えを“観察”せず、“共鳴”で止めるように、軽く握る。骨の形で、安心を渡す。
「ごめん」
「謝罪は僕の仕事を減らさない」
「でも、あなたの寿命は減らした」
「明朝、ひとつ余計に果物を食べる」
この人は時々、とんでもなくかっこつける。かっこつけ方が、命に優しいのが腹立たしい。
私は唇を噛み、口内に薄い血の味を作り、それで自分の熱に印をつける。震えは減り、その代わりに“駒を進める”意志が、指に戻る。
「続ける」
「続けよう」
私たちは函を台に置き、写しを最短の線で終わらせ、痕跡を消した。目録の裏を閉じ、“裏の裏”にだけ小さく、孔の配列を逆さに残す。誰かが私の手口を逆算しようとしたとき、必ず迷うように。
帰路。
廊下の角で、一人の男影とすれ違った。祈祷院の古参──仮面舞踏会で“誤配”に狼狽した男。彼は今夜は狼狽えず、まっすぐ歩く。石像のような横顔。胸の高さに手を重ね、何かを守る仕草。彼の背に、薄く、甘い香。白檀ではない。寺院の香木。
彼は私たちを見ない。私たちも彼を見ない。
けれど、ラドンが私の肘に、無言で“印”を刻む。──“覚えろ”。
私は足音の間隔を覚え、靴底の減り方の左右差を覚え、香の濃度の変化を覚える。覚えることは、最低限の復讐だ。
外。
夜気が肺に入る。街灯が、石畳の盤面に光の駒を置く位置を少し変え始めている。時間だ。
私たちは足を止めず、人気のない小さな広場に出ると、ベンチの影で息を整えた。ラドンは函の中身──写しの薄紙を、布張りの封筒に移す。細心の注意で。封はまだしない。中身の“温度”を下げるために。
「中身は?」
「開ける?」
「開ける」
封筒から薄紙一枚を取り出し、街灯の影の“ちょうど暗い”ところで読む。
そこには、継承儀礼の“補遺”という名の、別のものが書かれていた。
皇太子アウリスの戴冠に先立ち、帝国の宗祀に献納されるべき宝物の調達──と見せかけて、国庫経由を回避した“私的献納”の流れ。匿名の寄付。寄付主の名は隠され、しかし、連絡担当の名は残っている。祈祷院、財務院、王城執務局の若い参事。三者の間を結ぶ、同じ筆致の小さな記号。
そして、ページの隅に“別経路”──郊外の関税所。
私の胃の中で、冷たいものが形になった。
これは、ただの“横領”ではない。
戴冠の“血”に、私的な金を混ぜる行為。
帝国の祈りに、偽の数字を据えること。
これを、私は“秩序の顔をした不正”と呼ぶ。
「駒だ」
ラドンが言う。「王手に持っていける駒」
「王手にするには、証人が要る。書式の“外”を知っている人間の舌」
「君は誰を選ぶ」
「鈍い善良」
「第五席の老人」
「うん。彼に“見せる”。彼は見過ごせない」
「それで足りるか」
「足りない。だから“舞台”が要る。公開の場。祝祭の朝。民の前」
「危険だ」
「うん。だから美しい」
言いながら、私は薄紙の下段にある、細い“注記”に目を止めた。
“万一、儀礼の進行に妨げが生じた場合、代理の儀主を立てる。適任候補──”
候補名の欄は、空白。空白が、予備の鍵の場所を示すことがある。
私は薄紙を折り、封筒に戻す。
「これが『駒』。でも、まだ『詰み』じゃない」
「詰みの一手手前が、一番事故る」
「さっき事故りかけた」
「だから、今日はもう事故らない」
「論理の飛躍」
「楽観の戦略」
私は笑い、すぐ真顔に戻る。笑いは、今夜は毒になる。
帰り道、盤面の端で一瞬、歩みを緩める。
ラドンが不意に言った。
「さっきの君のミス。僕は“美しい”と思った」
「は?」
「ミスに、君の『生』が出る。完璧な計画より、救うべきものが見える」
「救われる側が言うことじゃない」
「救った側が言っている」
胸の奥で、何かが苦く、温かく、ほどける。
私は立ち止まり、振り向いた。ラドンの顔は夜の色で、目だけが形を持っている。
「怖かった?」
「少しね」
「僕も」
「嘘」
「半分はね」
笑い合うのに、理由は要らなかった。
理由が要るのは、刃を抜く時だ。今は抜かない。
私は一歩近づき、彼の上着の襟を親指で整えた。癖になりそうな動作。危険な動作。
「……ありがとう」
「謝謝は受けない」
「感謝」
「受け取る」
沈黙。
冬の空気が、二人の間で白く結露する。
私は告げる。
「わたしは、王手をかける。彼に。公正の名で。私の名は出ない。でも、私の手は見える。嫌う?」
「好きだ」
即答だった。反射の速さが、私の心臓に悪い。
「……早すぎる」
「反復横跳びの相方に、遅延は要らない」
「右腕」
「反復横跳び」
私たちは、夜の盤面に戻る。
庁舎から離れたところで、黒翼への階段に至る。地下の灯りが、紙と人の匂いを吸い上げる。広間に入ると、テフロイトが刃を拭き、スファレライトがインク瓶の口を軽く叩き、ゼノタイムが孔の配列を開き、ウィレマイトが線を描く準備をしていた。
私は封筒を台に置き、ラドンが“開けろ”と目で合図する。薄紙が広がり、四人の呼吸が揃う。
「駒、確保」
私が言う。
ラドンが続ける。「王手、設計」
ウィレマイトが関税所の線に印を打ち、スファレライトが祈祷院の書式を並べ、ゼノタイムが財務院の筆致の癖を照合し、テフロイトが当日動線の“足”を描く。
私は第五席老人の“鈍い善良”の時間帯を思い出し、祝祭の朝の“空”を指でなぞる。そこに、私たちの舞台を置く。
盤面に、駒が並ぶ。
私は自分の駒──“微笑み”を、中央に置く。微笑みは駒だ。動き方は女王。直線も、斜線も、距離無制限。
盤上の女王として、私は今夜、初めて自分の“役”を完全に理解する。
「ラドン」
「うん」
「もし、私がまたミスをしたら」
「また、かっこよく解決する」
「自信家」
「経験者」
「……頼りにしてる」
「知ってる」
彼は机の角を指で二回叩き、広間全体にだけ聞こえる合図を送る。
「作戦名、『静かな王手』」
私は肩の力を抜き、白檀を指先で転がし、香を嗅がずにしまう。
香りは記憶を呼ぶ。
記憶は、明日の王手の邪魔になる。
地上へ戻る前に、私は一度だけ、封筒の中の薄紙を指で撫でた。紙は呼吸し、私の指に合わせて拍を刻む。
鼓動。計画。微笑み。
そこに、四拍目──“人”。
今夜、私のミスを“人”が救った。
その事実は、刃を鈍らせない。
むしろ、刃に“選ぶ力”を与える。
外は、夜明け前の色に少しだけ滲んでいる。
私は盤面の端に立ち、遠くの尖塔を見た。
アウリス。
あなたは正しい顔で、間違いに触れた。
私は間違いの顔で、正しさに手を伸ばす。
盤上で会おう。
王手をかける夜、仮面はいらない。
今夜は、仮面で十分。
私はラドンと視線を交わし、何も約束しないで歩き出した。
約束をしない優しさは、毒より安全だ。
それでも、掌にはまだ、彼が掴み上げた時の体温が、うっすら残っていた。
それを“祝杯”の代わりに、胸の奥に仕舞い、私は盤に戻る。
静かな王手のために。
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