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第11話:崩壊の始まり
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最初の石は、音を立てなかった。
帝都の朝刊の三段目、目立たない囲み記事に、ひとつの数字が置かれた。関税所の「誤差」。誤差は祈祷院の帳面へと滲み、その墨の端が財務院の予備費に触れる。触れた先に、匿名の献納ルート。匿名の指紋。匿名の善意。──匿名は、真実よりずっと饒舌だ。
正午、王城の回廊では、誰もが噂を否定し、否定の仕方で噂を増やしていた。
夕刻、議会の喫煙所では、一本の煙草が火を伝染させるように、別の男の名前へ移動した。
夜、広場の噴水の縁で、吟遊詩人が古い歌の調べに合わせて、新しい韻を差し込む。
翌朝、祈祷院の古参が、知らないはずの文書の“孔”を開いた指の跡を問われ、答えられずに礼を二度繰り返した。
「最初の一日で、十分」
黒翼の広間で、ラドンが地図の端に赤い印を置く。彼の指先は、弓の弦の張りのように無駄がなく、弾けば音が出る。
私は印の上に、薄い紙で影を重ねた。影は数字より速く走る。私はその速度を、正しい場所に導くだけ。
「二日目で、誰が最初に崩れると思う?」
「祈祷院の古参。彼は“善良”を自負している。善良には責任が重いから、逃げる先が狭い」
「予想は?」
「半日遅れて、財務院の男。袖口が乾く前に。」
「若い参事は?」
「最後。彼は“上”を信じすぎている。信じる人間は、疑いに時間がかかる」
印は一つずつ、地図の上で“温度”を持ちはじめる。
ウィレマイトは電話線の先に、中立の耳を置き、スファレライトは閲覧室への予約帳に“偶然”の余白を作り、ゼノタイムは偽の工房名の活字を静かに溶かしていく。テフロイトは巡回路を一歩だけ長くし、角で待つ影の位置を半歩ずらす。
私は、新聞の三段目と、午后の小さな会議の傍聴席と、王城の小食堂を往復する。手に持つのは書類ではなく、呼吸と“間”。
情報操作と密告──言葉は乱暴だけれど、実際の手つきは繊細だ。人の良心に爪を立てず、追い込まれた理屈だけを、そっと鏡に映す。
夕べ、王城の広廊で、最初の崩れ目は音を立てた。
皇太子アウリスが、側近に向けて短く声を荒らげたのだ。いつも穏やかな音程が半音、下がった。その半音は、他人の胸骨に残りやすい。
彼の足音には苛立ちが混ざり、靴のかかとが石を強く打つ。美徳の人間が怒るとき、世界は「正しさで殴られる」ような痛みを覚える。
彼の妻アデルは、廊下の端で待っていた。薄いラベンダー色の衣。両手を胸に重ね、息を整える仕草。
「殿下……」
アウリスは彼女の前で足を止める。
「心配するな」
「心配して、いけませんか」
「僕は正しいことをした。正しいことは、いつだって……」
言葉が途切れる。その途切れに、彼自身が驚いた。
アデルの指が震え、けれど彼女は笑う。彼女は、笑い方をまだ覚えきれていない。
「わたし、信じています。殿下の、正しさを」
「ありがとう」
その「ありがとう」が、薄く、硬い。礼儀の骨だけで立つ言葉。アデルは、ほんの少し右に一歩ずれた。彼の正しさが、彼女の肩に当たらないように。
宮廷の空気は、そこから加速度的に乾いた。
裏切られた側近たちは、正義の言葉を口にしながら、各自の安全を計算する。それは裏切りなのか、それとも生活なのか──名付けを先延ばしにしたまま、人は“離反”という無音の移動を続ける。
王城の厨房では、塩の分量が僅かに減り、厨房頭は「節制」を掲げる。小さな節制は、大きな疑いの影を作る。
祈祷院の鐘は、三回鳴るべきを二回にし、誰も理由を言わない。
議会の廊下で、紙が落ちた。拾う手は四本。手の温度は皆違った。冷たい手が、最後に引っ込む。
「崩壊の始まりは、いつだって綺麗だな」
夜、屋上の縁で、ラドンが呟く。街の灯りが遠くに散り、風が彼の襟を整える。私は欄干に肘を置き、指先で石の粒を撫でた。
「綺麗だから、見逃すのよ」
「君は見逃さない」
「見逃さないふりはできる」
「ふりでも、効く」
私たちは言葉の間に、薄い沈黙を挟んだ。沈黙は合図の受け渡しに使う。ラドンは煙草に火を点けず、私は白檀を嗅がない。
下で、王城の尖塔が鈍く光る。私の指先は、空気の盤面の上で駒を動かす。
祈祷院の古参が、自分の書棚の鍵を忘れたふりをした。その「ふり」を見た会計官が、鍵を貸し、翌朝から彼の机は誰にも触れられない場所へ移動する。誰も触れられない机は、誰も守れない。
財務院の男が袖口をきつく留めるほど、袖口の中の紙は汗で波打ち、波打った紙は軽く反る。反りは、紙束の中で一枚だけ違う高さを作る。違いは、書記官の目にだけ映る。
若い参事は、上司の顔色を読むのに忙しく、階段の段差を踏み外す。落ちるのは階段ではない。順番だ。誰が先に疑われ、誰が最後に名を呼ばれるか。順番は、崩壊の速度を決める。
アウリスは、夜毎に“忙しい”。忙しい人間は、やがて誰かを責める。責める相手が「不正」なら英雄、相手が「影」なら臆病、相手が「自分」なら──沈黙。
彼の沈黙の時間が長くなるほど、アデルの沈黙の種類が変わっていく。最初は祈り、次に休息、やがて観察。観察は、愛の一部だが、時に別のものも含む。
第三夜、宮廷の会食で、アウリスは杯を置く音を強くした。
「これは、陰謀だ」
彼の目は真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、曲がっているものの曲がり具合を測れない。
向かいに座る老侯爵は、静かに言った。
「殿下。陰謀は、陰の者だけではできませぬ。陽の信頼が肥料でございます」
「僕は、信頼を裏切っていない」
「裏切りは、裏切る者が決めるのではなく、裏切られた者が決めます」
その言葉に、アウリスの顎が固まった。美徳に堆肥をかけるような会話は、彼の胃袋に合わない。彼は席を立ち、アデルは彼の背中を目で追った。追いながら、追わなかった。
廊下。
「ついてこなくていい」
「わたしは殿下の妻です」
「だからだ」
「……殿下が正しいなら、わたしも正しい」
「そうやって言うのを、やめてくれ」
アウリスは、目を閉じた。アデルの手が、宙で止まり、閉じた瞼に触れられず、空気に触れた。空気は、何も約束しない。
私は王城の裏手の庭で、その会話の余韻が冷えるのを待った。
芝は霜を含み、足音が細かい音符を刻む。夜気の中で息が白くほどけ、ほどけた白は噴水の水面に降りる。水面は黙って受け入れる。
ラドンが隣に来た。
「奥へ入るのは、今夜か」
「あと一夜。善良が口を開くまで待つ」
「第五席」
「うん」
翌朝、第五席の老人は、議会の廊下で私を呼び止めた。
「ヘマタイト君」
「はい」
「君の“余計な一枚”のおかげで、私は、紙を見る目が少し戻ったよ」
「紙は、見られるのが好きです」
「うむ。……この献納の“補遺”、君は、見たかね」
彼は決して「持っている」と言わない。慎みの言葉で、真実の一歩手前を示す。
「見ては、いません」
「そうか。私は、見た気がする」
見た気がする。善良の方便は、時々、私の胸に温かい。
「祝祭の朝、私の隣に座りなさい」
「その席は、家族のためでは」
「家族は、正しい時にも間違う。私は、間違わない人間を隣に置きたい」
「私は、間違います」
「間違い方を、知っている人がいい」
私の指先が、息を吸うみたいにわずかに開いた。盤面が、王手へ一歩近づく。
黒翼の広間で、私はラドンに報告する。
「第五席、舞台をくれた」
「王手の線が引ける」
「補助の駒、準備は?」
「祈祷院の古参は、明日には“無言”に入る。財務院の男は、袖口の紙を自分で燃やそうとして、灰だけ残す。若い参事は、母親の家に帰る。どれも、予測の範囲内だ」
「アウリスは?」
「孤立していく。彼の周りの空気が薄くなる。空気が薄い場所では、声が高くなる」
「高くなれば、届く距離が短くなる」
「そうだ」
その夜、屋根の上で、ラドンは空の輪郭をたどる手つきをやめ、私の頬にかかる髪を指で払った。
彼の指は、いつも通りの実務的な形をしているのに、その一瞬だけ、実務から離れていた。
「乾杯は、まだ先だ」
「王手の後。詰みの前」
「復讐が完了したら」
「水でいい?」
「うん。氷はいらない」
私がそう言うと、ラドンが目の端で笑う。
「温かい水で」
「それはお茶」
「じゃあ、お茶だ」
彼の肩に、私は額をほんの少しだけ預けた。預けるのは、重さの半分。残りは自分で持つ。
「セラフィナ」
名前を呼ばれるたび、私の中の“令嬢”と“策士”が、薄く手を繋ぎ直す。
「君の指先ひとつで、帝国の歯車が狂い始めた」
「歯車は、どれも歯の数が違う。だから、噛み合わせを一枚ずらすだけで、音が変わる」
「音は、王城にも届く」
「届かせる」
王城の中庭では、アウリスがアデルと向き合っていた。
「君は僕を疑っているのか」
「疑っていません。……ただ、殿下が疑いの中で、ひとりで立っているのが怖い」
「僕はひとりではない」
「では、わたしはどこに立てばいい?」
「そこに」
アウリスは指で、彼女の足元を示した。そこに──何もない。
アデルの目が、ほんの少しだけ細くなった。彼女の中で“観察”が“決意”に、温度を上げ始める。
私は窓の影から、その光景を射抜き、視線を外した。感情に焦点を合わせすぎると、手先が鈍る。
黒翼へ戻る階段で、ラドンが言う。
「君は、彼を憎んでいる?」
「嫌っている。憎むと、私が壊れる」
「嫌い方が、上手い」
「あなたに教わった」
「僕は、誰も嫌い方を教えた覚えはない」
「優しい、という毒をくれた」
「用法用量、守っている?」
「たぶん」
机に向かい、私は王手の配置を最終確認する。
祝祭の朝、第五席の老人が読む祈りの後、献納目録の“補遺”が人前に開かれる。その場に、祈祷院の古参は現れない。財務院の男は、袖口を押さえる余裕を失い、若い参事は、母から渡された古いロザリオを手に、まっすぐ前を見る。
そこで、第五席の老人は“偶然”を声に出す。
「この行の、数字が……」
偶然は、規程を呼ぶ。規程は、証人を呼ぶ。証人は、空白を呼ぶ。空白には、名が書かれる──匿名の献納者の“位置”。
その位置は、王城と祈祷院の間。誰の名も書かれていないのに、誰かの影が立つ。
影の輪郭は、皇太子の戴冠という光の中で、いちばん濃くなる。
私は息を整え、紙の角で指を切らないように、ゆっくり目を閉じた。
アデルの“観察”が彼女を連れていく先も、間接の光で見える。彼女は私の敵ではない。彼女は、私を鏡に映す人間のひとり。鏡は、見たいものだけ映すわけではない。
それでいい。
私が進むのは、映りの良い道ではなく、選んだ道だ。
「乾杯の練習、する?」
ラドンがカップに水を注ぐふりをして、空のまま私に渡した。
私は空のカップを持ち上げる。
「空の音、好き」
「期待の音がする」
「約束の音もしない」
「安全だ」
私たちは、空のカップをコツ、と合わせた。音は小さい。
復讐は、まだ完了していない。
だからこそ、祝福し合える。
「ここまで来た」という事実に。
「まだ終われない」という覚悟に。
窓の外、帝都の夜が、静かに色を深める。
盤上では、女王が中央に立ち、王の斜め前に影を落とす。
王手まで、あと一歩。
私は指先を軽く曲げ、盤面の冷気を掌に覚えさせる。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子に、四拍目の音がそっと混ざる。
──「乾杯は、最後に」。
それを合図に、私は目を開けた。
崩壊は、もう始まっている。
終わらせ方を、私が決める。
帝都の朝刊の三段目、目立たない囲み記事に、ひとつの数字が置かれた。関税所の「誤差」。誤差は祈祷院の帳面へと滲み、その墨の端が財務院の予備費に触れる。触れた先に、匿名の献納ルート。匿名の指紋。匿名の善意。──匿名は、真実よりずっと饒舌だ。
正午、王城の回廊では、誰もが噂を否定し、否定の仕方で噂を増やしていた。
夕刻、議会の喫煙所では、一本の煙草が火を伝染させるように、別の男の名前へ移動した。
夜、広場の噴水の縁で、吟遊詩人が古い歌の調べに合わせて、新しい韻を差し込む。
翌朝、祈祷院の古参が、知らないはずの文書の“孔”を開いた指の跡を問われ、答えられずに礼を二度繰り返した。
「最初の一日で、十分」
黒翼の広間で、ラドンが地図の端に赤い印を置く。彼の指先は、弓の弦の張りのように無駄がなく、弾けば音が出る。
私は印の上に、薄い紙で影を重ねた。影は数字より速く走る。私はその速度を、正しい場所に導くだけ。
「二日目で、誰が最初に崩れると思う?」
「祈祷院の古参。彼は“善良”を自負している。善良には責任が重いから、逃げる先が狭い」
「予想は?」
「半日遅れて、財務院の男。袖口が乾く前に。」
「若い参事は?」
「最後。彼は“上”を信じすぎている。信じる人間は、疑いに時間がかかる」
印は一つずつ、地図の上で“温度”を持ちはじめる。
ウィレマイトは電話線の先に、中立の耳を置き、スファレライトは閲覧室への予約帳に“偶然”の余白を作り、ゼノタイムは偽の工房名の活字を静かに溶かしていく。テフロイトは巡回路を一歩だけ長くし、角で待つ影の位置を半歩ずらす。
私は、新聞の三段目と、午后の小さな会議の傍聴席と、王城の小食堂を往復する。手に持つのは書類ではなく、呼吸と“間”。
情報操作と密告──言葉は乱暴だけれど、実際の手つきは繊細だ。人の良心に爪を立てず、追い込まれた理屈だけを、そっと鏡に映す。
夕べ、王城の広廊で、最初の崩れ目は音を立てた。
皇太子アウリスが、側近に向けて短く声を荒らげたのだ。いつも穏やかな音程が半音、下がった。その半音は、他人の胸骨に残りやすい。
彼の足音には苛立ちが混ざり、靴のかかとが石を強く打つ。美徳の人間が怒るとき、世界は「正しさで殴られる」ような痛みを覚える。
彼の妻アデルは、廊下の端で待っていた。薄いラベンダー色の衣。両手を胸に重ね、息を整える仕草。
「殿下……」
アウリスは彼女の前で足を止める。
「心配するな」
「心配して、いけませんか」
「僕は正しいことをした。正しいことは、いつだって……」
言葉が途切れる。その途切れに、彼自身が驚いた。
アデルの指が震え、けれど彼女は笑う。彼女は、笑い方をまだ覚えきれていない。
「わたし、信じています。殿下の、正しさを」
「ありがとう」
その「ありがとう」が、薄く、硬い。礼儀の骨だけで立つ言葉。アデルは、ほんの少し右に一歩ずれた。彼の正しさが、彼女の肩に当たらないように。
宮廷の空気は、そこから加速度的に乾いた。
裏切られた側近たちは、正義の言葉を口にしながら、各自の安全を計算する。それは裏切りなのか、それとも生活なのか──名付けを先延ばしにしたまま、人は“離反”という無音の移動を続ける。
王城の厨房では、塩の分量が僅かに減り、厨房頭は「節制」を掲げる。小さな節制は、大きな疑いの影を作る。
祈祷院の鐘は、三回鳴るべきを二回にし、誰も理由を言わない。
議会の廊下で、紙が落ちた。拾う手は四本。手の温度は皆違った。冷たい手が、最後に引っ込む。
「崩壊の始まりは、いつだって綺麗だな」
夜、屋上の縁で、ラドンが呟く。街の灯りが遠くに散り、風が彼の襟を整える。私は欄干に肘を置き、指先で石の粒を撫でた。
「綺麗だから、見逃すのよ」
「君は見逃さない」
「見逃さないふりはできる」
「ふりでも、効く」
私たちは言葉の間に、薄い沈黙を挟んだ。沈黙は合図の受け渡しに使う。ラドンは煙草に火を点けず、私は白檀を嗅がない。
下で、王城の尖塔が鈍く光る。私の指先は、空気の盤面の上で駒を動かす。
祈祷院の古参が、自分の書棚の鍵を忘れたふりをした。その「ふり」を見た会計官が、鍵を貸し、翌朝から彼の机は誰にも触れられない場所へ移動する。誰も触れられない机は、誰も守れない。
財務院の男が袖口をきつく留めるほど、袖口の中の紙は汗で波打ち、波打った紙は軽く反る。反りは、紙束の中で一枚だけ違う高さを作る。違いは、書記官の目にだけ映る。
若い参事は、上司の顔色を読むのに忙しく、階段の段差を踏み外す。落ちるのは階段ではない。順番だ。誰が先に疑われ、誰が最後に名を呼ばれるか。順番は、崩壊の速度を決める。
アウリスは、夜毎に“忙しい”。忙しい人間は、やがて誰かを責める。責める相手が「不正」なら英雄、相手が「影」なら臆病、相手が「自分」なら──沈黙。
彼の沈黙の時間が長くなるほど、アデルの沈黙の種類が変わっていく。最初は祈り、次に休息、やがて観察。観察は、愛の一部だが、時に別のものも含む。
第三夜、宮廷の会食で、アウリスは杯を置く音を強くした。
「これは、陰謀だ」
彼の目は真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、曲がっているものの曲がり具合を測れない。
向かいに座る老侯爵は、静かに言った。
「殿下。陰謀は、陰の者だけではできませぬ。陽の信頼が肥料でございます」
「僕は、信頼を裏切っていない」
「裏切りは、裏切る者が決めるのではなく、裏切られた者が決めます」
その言葉に、アウリスの顎が固まった。美徳に堆肥をかけるような会話は、彼の胃袋に合わない。彼は席を立ち、アデルは彼の背中を目で追った。追いながら、追わなかった。
廊下。
「ついてこなくていい」
「わたしは殿下の妻です」
「だからだ」
「……殿下が正しいなら、わたしも正しい」
「そうやって言うのを、やめてくれ」
アウリスは、目を閉じた。アデルの手が、宙で止まり、閉じた瞼に触れられず、空気に触れた。空気は、何も約束しない。
私は王城の裏手の庭で、その会話の余韻が冷えるのを待った。
芝は霜を含み、足音が細かい音符を刻む。夜気の中で息が白くほどけ、ほどけた白は噴水の水面に降りる。水面は黙って受け入れる。
ラドンが隣に来た。
「奥へ入るのは、今夜か」
「あと一夜。善良が口を開くまで待つ」
「第五席」
「うん」
翌朝、第五席の老人は、議会の廊下で私を呼び止めた。
「ヘマタイト君」
「はい」
「君の“余計な一枚”のおかげで、私は、紙を見る目が少し戻ったよ」
「紙は、見られるのが好きです」
「うむ。……この献納の“補遺”、君は、見たかね」
彼は決して「持っている」と言わない。慎みの言葉で、真実の一歩手前を示す。
「見ては、いません」
「そうか。私は、見た気がする」
見た気がする。善良の方便は、時々、私の胸に温かい。
「祝祭の朝、私の隣に座りなさい」
「その席は、家族のためでは」
「家族は、正しい時にも間違う。私は、間違わない人間を隣に置きたい」
「私は、間違います」
「間違い方を、知っている人がいい」
私の指先が、息を吸うみたいにわずかに開いた。盤面が、王手へ一歩近づく。
黒翼の広間で、私はラドンに報告する。
「第五席、舞台をくれた」
「王手の線が引ける」
「補助の駒、準備は?」
「祈祷院の古参は、明日には“無言”に入る。財務院の男は、袖口の紙を自分で燃やそうとして、灰だけ残す。若い参事は、母親の家に帰る。どれも、予測の範囲内だ」
「アウリスは?」
「孤立していく。彼の周りの空気が薄くなる。空気が薄い場所では、声が高くなる」
「高くなれば、届く距離が短くなる」
「そうだ」
その夜、屋根の上で、ラドンは空の輪郭をたどる手つきをやめ、私の頬にかかる髪を指で払った。
彼の指は、いつも通りの実務的な形をしているのに、その一瞬だけ、実務から離れていた。
「乾杯は、まだ先だ」
「王手の後。詰みの前」
「復讐が完了したら」
「水でいい?」
「うん。氷はいらない」
私がそう言うと、ラドンが目の端で笑う。
「温かい水で」
「それはお茶」
「じゃあ、お茶だ」
彼の肩に、私は額をほんの少しだけ預けた。預けるのは、重さの半分。残りは自分で持つ。
「セラフィナ」
名前を呼ばれるたび、私の中の“令嬢”と“策士”が、薄く手を繋ぎ直す。
「君の指先ひとつで、帝国の歯車が狂い始めた」
「歯車は、どれも歯の数が違う。だから、噛み合わせを一枚ずらすだけで、音が変わる」
「音は、王城にも届く」
「届かせる」
王城の中庭では、アウリスがアデルと向き合っていた。
「君は僕を疑っているのか」
「疑っていません。……ただ、殿下が疑いの中で、ひとりで立っているのが怖い」
「僕はひとりではない」
「では、わたしはどこに立てばいい?」
「そこに」
アウリスは指で、彼女の足元を示した。そこに──何もない。
アデルの目が、ほんの少しだけ細くなった。彼女の中で“観察”が“決意”に、温度を上げ始める。
私は窓の影から、その光景を射抜き、視線を外した。感情に焦点を合わせすぎると、手先が鈍る。
黒翼へ戻る階段で、ラドンが言う。
「君は、彼を憎んでいる?」
「嫌っている。憎むと、私が壊れる」
「嫌い方が、上手い」
「あなたに教わった」
「僕は、誰も嫌い方を教えた覚えはない」
「優しい、という毒をくれた」
「用法用量、守っている?」
「たぶん」
机に向かい、私は王手の配置を最終確認する。
祝祭の朝、第五席の老人が読む祈りの後、献納目録の“補遺”が人前に開かれる。その場に、祈祷院の古参は現れない。財務院の男は、袖口を押さえる余裕を失い、若い参事は、母から渡された古いロザリオを手に、まっすぐ前を見る。
そこで、第五席の老人は“偶然”を声に出す。
「この行の、数字が……」
偶然は、規程を呼ぶ。規程は、証人を呼ぶ。証人は、空白を呼ぶ。空白には、名が書かれる──匿名の献納者の“位置”。
その位置は、王城と祈祷院の間。誰の名も書かれていないのに、誰かの影が立つ。
影の輪郭は、皇太子の戴冠という光の中で、いちばん濃くなる。
私は息を整え、紙の角で指を切らないように、ゆっくり目を閉じた。
アデルの“観察”が彼女を連れていく先も、間接の光で見える。彼女は私の敵ではない。彼女は、私を鏡に映す人間のひとり。鏡は、見たいものだけ映すわけではない。
それでいい。
私が進むのは、映りの良い道ではなく、選んだ道だ。
「乾杯の練習、する?」
ラドンがカップに水を注ぐふりをして、空のまま私に渡した。
私は空のカップを持ち上げる。
「空の音、好き」
「期待の音がする」
「約束の音もしない」
「安全だ」
私たちは、空のカップをコツ、と合わせた。音は小さい。
復讐は、まだ完了していない。
だからこそ、祝福し合える。
「ここまで来た」という事実に。
「まだ終われない」という覚悟に。
窓の外、帝都の夜が、静かに色を深める。
盤上では、女王が中央に立ち、王の斜め前に影を落とす。
王手まで、あと一歩。
私は指先を軽く曲げ、盤面の冷気を掌に覚えさせる。
鼓動。計画。微笑み。
その三拍子に、四拍目の音がそっと混ざる。
──「乾杯は、最後に」。
それを合図に、私は目を開けた。
崩壊は、もう始まっている。
終わらせ方を、私が決める。
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失われた名誉、隠された真実、そして予期せぬ恋。断罪された「悪役令嬢」が、自分の物語を自らの手で紡いでいく、爽快復讐ファンタジー。
乙女ゲームの悪役令嬢に転生したけど何もしなかったらヒロインがイジメを自演し始めたのでお望み通りにしてあげました。魔法で(°∀°)
ラララキヲ
ファンタジー
乙女ゲームのラスボスになって死ぬ悪役令嬢に転生したけれど、中身が転生者な時点で既に乙女ゲームは破綻していると思うの。だからわたくしはわたくしのままに生きるわ。
……それなのにヒロインさんがイジメを自演し始めた。ゲームのストーリーを展開したいと言う事はヒロインさんはわたくしが死ぬ事をお望みね?なら、わたくしも戦いますわ。
でも、わたくしも暇じゃないので魔法でね。
ヒロイン「私はホラー映画の主人公か?!」
『見えない何か』に襲われるヒロインは────
※作中『イジメ』という表現が出てきますがこの作品はイジメを肯定するものではありません※
※作中、『イジメ』は、していません。生死をかけた戦いです※
◇テンプレ乙女ゲーム舞台転生。
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇なろうにも上げてます。
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