婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第11話:崩壊の始まり

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 最初の石は、音を立てなかった。
 帝都の朝刊の三段目、目立たない囲み記事に、ひとつの数字が置かれた。関税所の「誤差」。誤差は祈祷院の帳面へと滲み、その墨の端が財務院の予備費に触れる。触れた先に、匿名の献納ルート。匿名の指紋。匿名の善意。──匿名は、真実よりずっと饒舌だ。

 正午、王城の回廊では、誰もが噂を否定し、否定の仕方で噂を増やしていた。
 夕刻、議会の喫煙所では、一本の煙草が火を伝染させるように、別の男の名前へ移動した。
 夜、広場の噴水の縁で、吟遊詩人が古い歌の調べに合わせて、新しい韻を差し込む。
 翌朝、祈祷院の古参が、知らないはずの文書の“孔”を開いた指の跡を問われ、答えられずに礼を二度繰り返した。

「最初の一日で、十分」

 黒翼の広間で、ラドンが地図の端に赤い印を置く。彼の指先は、弓の弦の張りのように無駄がなく、弾けば音が出る。
 私は印の上に、薄い紙で影を重ねた。影は数字より速く走る。私はその速度を、正しい場所に導くだけ。

「二日目で、誰が最初に崩れると思う?」

「祈祷院の古参。彼は“善良”を自負している。善良には責任が重いから、逃げる先が狭い」

「予想は?」

「半日遅れて、財務院の男。袖口が乾く前に。」

「若い参事は?」

「最後。彼は“上”を信じすぎている。信じる人間は、疑いに時間がかかる」

 印は一つずつ、地図の上で“温度”を持ちはじめる。
 ウィレマイトは電話線の先に、中立の耳を置き、スファレライトは閲覧室への予約帳に“偶然”の余白を作り、ゼノタイムは偽の工房名の活字を静かに溶かしていく。テフロイトは巡回路を一歩だけ長くし、角で待つ影の位置を半歩ずらす。
 私は、新聞の三段目と、午后の小さな会議の傍聴席と、王城の小食堂を往復する。手に持つのは書類ではなく、呼吸と“間”。
 情報操作と密告──言葉は乱暴だけれど、実際の手つきは繊細だ。人の良心に爪を立てず、追い込まれた理屈だけを、そっと鏡に映す。

 夕べ、王城の広廊で、最初の崩れ目は音を立てた。
 皇太子アウリスが、側近に向けて短く声を荒らげたのだ。いつも穏やかな音程が半音、下がった。その半音は、他人の胸骨に残りやすい。
 彼の足音には苛立ちが混ざり、靴のかかとが石を強く打つ。美徳の人間が怒るとき、世界は「正しさで殴られる」ような痛みを覚える。

 彼の妻アデルは、廊下の端で待っていた。薄いラベンダー色の衣。両手を胸に重ね、息を整える仕草。
「殿下……」
 アウリスは彼女の前で足を止める。
「心配するな」
「心配して、いけませんか」
「僕は正しいことをした。正しいことは、いつだって……」
 言葉が途切れる。その途切れに、彼自身が驚いた。
 アデルの指が震え、けれど彼女は笑う。彼女は、笑い方をまだ覚えきれていない。
「わたし、信じています。殿下の、正しさを」
「ありがとう」
 その「ありがとう」が、薄く、硬い。礼儀の骨だけで立つ言葉。アデルは、ほんの少し右に一歩ずれた。彼の正しさが、彼女の肩に当たらないように。

 宮廷の空気は、そこから加速度的に乾いた。
 裏切られた側近たちは、正義の言葉を口にしながら、各自の安全を計算する。それは裏切りなのか、それとも生活なのか──名付けを先延ばしにしたまま、人は“離反”という無音の移動を続ける。
 王城の厨房では、塩の分量が僅かに減り、厨房頭は「節制」を掲げる。小さな節制は、大きな疑いの影を作る。
 祈祷院の鐘は、三回鳴るべきを二回にし、誰も理由を言わない。
 議会の廊下で、紙が落ちた。拾う手は四本。手の温度は皆違った。冷たい手が、最後に引っ込む。

「崩壊の始まりは、いつだって綺麗だな」

 夜、屋上の縁で、ラドンが呟く。街の灯りが遠くに散り、風が彼の襟を整える。私は欄干に肘を置き、指先で石の粒を撫でた。

「綺麗だから、見逃すのよ」

「君は見逃さない」

「見逃さないふりはできる」

「ふりでも、効く」

 私たちは言葉の間に、薄い沈黙を挟んだ。沈黙は合図の受け渡しに使う。ラドンは煙草に火を点けず、私は白檀を嗅がない。
 下で、王城の尖塔が鈍く光る。私の指先は、空気の盤面の上で駒を動かす。
 祈祷院の古参が、自分の書棚の鍵を忘れたふりをした。その「ふり」を見た会計官が、鍵を貸し、翌朝から彼の机は誰にも触れられない場所へ移動する。誰も触れられない机は、誰も守れない。
 財務院の男が袖口をきつく留めるほど、袖口の中の紙は汗で波打ち、波打った紙は軽く反る。反りは、紙束の中で一枚だけ違う高さを作る。違いは、書記官の目にだけ映る。
 若い参事は、上司の顔色を読むのに忙しく、階段の段差を踏み外す。落ちるのは階段ではない。順番だ。誰が先に疑われ、誰が最後に名を呼ばれるか。順番は、崩壊の速度を決める。

 アウリスは、夜毎に“忙しい”。忙しい人間は、やがて誰かを責める。責める相手が「不正」なら英雄、相手が「影」なら臆病、相手が「自分」なら──沈黙。
 彼の沈黙の時間が長くなるほど、アデルの沈黙の種類が変わっていく。最初は祈り、次に休息、やがて観察。観察は、愛の一部だが、時に別のものも含む。

 第三夜、宮廷の会食で、アウリスは杯を置く音を強くした。
「これは、陰謀だ」
 彼の目は真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて、曲がっているものの曲がり具合を測れない。
 向かいに座る老侯爵は、静かに言った。
「殿下。陰謀は、陰の者だけではできませぬ。陽の信頼が肥料でございます」
「僕は、信頼を裏切っていない」
「裏切りは、裏切る者が決めるのではなく、裏切られた者が決めます」
 その言葉に、アウリスの顎が固まった。美徳に堆肥をかけるような会話は、彼の胃袋に合わない。彼は席を立ち、アデルは彼の背中を目で追った。追いながら、追わなかった。

 廊下。
「ついてこなくていい」
「わたしは殿下の妻です」
「だからだ」
「……殿下が正しいなら、わたしも正しい」
「そうやって言うのを、やめてくれ」
 アウリスは、目を閉じた。アデルの手が、宙で止まり、閉じた瞼に触れられず、空気に触れた。空気は、何も約束しない。

 私は王城の裏手の庭で、その会話の余韻が冷えるのを待った。
 芝は霜を含み、足音が細かい音符を刻む。夜気の中で息が白くほどけ、ほどけた白は噴水の水面に降りる。水面は黙って受け入れる。
 ラドンが隣に来た。
「奥へ入るのは、今夜か」
「あと一夜。善良が口を開くまで待つ」
「第五席」
「うん」

 翌朝、第五席の老人は、議会の廊下で私を呼び止めた。
「ヘマタイト君」
「はい」
「君の“余計な一枚”のおかげで、私は、紙を見る目が少し戻ったよ」
「紙は、見られるのが好きです」
「うむ。……この献納の“補遺”、君は、見たかね」
 彼は決して「持っている」と言わない。慎みの言葉で、真実の一歩手前を示す。
「見ては、いません」
「そうか。私は、見た気がする」
 見た気がする。善良の方便は、時々、私の胸に温かい。
「祝祭の朝、私の隣に座りなさい」
「その席は、家族のためでは」
「家族は、正しい時にも間違う。私は、間違わない人間を隣に置きたい」
「私は、間違います」
「間違い方を、知っている人がいい」

 私の指先が、息を吸うみたいにわずかに開いた。盤面が、王手へ一歩近づく。
 黒翼の広間で、私はラドンに報告する。
「第五席、舞台をくれた」
「王手の線が引ける」
「補助の駒、準備は?」
「祈祷院の古参は、明日には“無言”に入る。財務院の男は、袖口の紙を自分で燃やそうとして、灰だけ残す。若い参事は、母親の家に帰る。どれも、予測の範囲内だ」
「アウリスは?」
「孤立していく。彼の周りの空気が薄くなる。空気が薄い場所では、声が高くなる」
「高くなれば、届く距離が短くなる」
「そうだ」

 その夜、屋根の上で、ラドンは空の輪郭をたどる手つきをやめ、私の頬にかかる髪を指で払った。
 彼の指は、いつも通りの実務的な形をしているのに、その一瞬だけ、実務から離れていた。
「乾杯は、まだ先だ」
「王手の後。詰みの前」
「復讐が完了したら」
「水でいい?」
「うん。氷はいらない」
 私がそう言うと、ラドンが目の端で笑う。
「温かい水で」
「それはお茶」
「じゃあ、お茶だ」

 彼の肩に、私は額をほんの少しだけ預けた。預けるのは、重さの半分。残りは自分で持つ。
「セラフィナ」
 名前を呼ばれるたび、私の中の“令嬢”と“策士”が、薄く手を繋ぎ直す。
「君の指先ひとつで、帝国の歯車が狂い始めた」
「歯車は、どれも歯の数が違う。だから、噛み合わせを一枚ずらすだけで、音が変わる」
「音は、王城にも届く」
「届かせる」

 王城の中庭では、アウリスがアデルと向き合っていた。
「君は僕を疑っているのか」
「疑っていません。……ただ、殿下が疑いの中で、ひとりで立っているのが怖い」
「僕はひとりではない」
「では、わたしはどこに立てばいい?」
「そこに」
 アウリスは指で、彼女の足元を示した。そこに──何もない。
 アデルの目が、ほんの少しだけ細くなった。彼女の中で“観察”が“決意”に、温度を上げ始める。

 私は窓の影から、その光景を射抜き、視線を外した。感情に焦点を合わせすぎると、手先が鈍る。
 黒翼へ戻る階段で、ラドンが言う。
「君は、彼を憎んでいる?」
「嫌っている。憎むと、私が壊れる」
「嫌い方が、上手い」
「あなたに教わった」
「僕は、誰も嫌い方を教えた覚えはない」
「優しい、という毒をくれた」
「用法用量、守っている?」
「たぶん」

 机に向かい、私は王手の配置を最終確認する。
 祝祭の朝、第五席の老人が読む祈りの後、献納目録の“補遺”が人前に開かれる。その場に、祈祷院の古参は現れない。財務院の男は、袖口を押さえる余裕を失い、若い参事は、母から渡された古いロザリオを手に、まっすぐ前を見る。
 そこで、第五席の老人は“偶然”を声に出す。
「この行の、数字が……」
 偶然は、規程を呼ぶ。規程は、証人を呼ぶ。証人は、空白を呼ぶ。空白には、名が書かれる──匿名の献納者の“位置”。
 その位置は、王城と祈祷院の間。誰の名も書かれていないのに、誰かの影が立つ。
 影の輪郭は、皇太子の戴冠という光の中で、いちばん濃くなる。

 私は息を整え、紙の角で指を切らないように、ゆっくり目を閉じた。
 アデルの“観察”が彼女を連れていく先も、間接の光で見える。彼女は私の敵ではない。彼女は、私を鏡に映す人間のひとり。鏡は、見たいものだけ映すわけではない。
 それでいい。
 私が進むのは、映りの良い道ではなく、選んだ道だ。

「乾杯の練習、する?」
 ラドンがカップに水を注ぐふりをして、空のまま私に渡した。
 私は空のカップを持ち上げる。
「空の音、好き」
「期待の音がする」
「約束の音もしない」
「安全だ」

 私たちは、空のカップをコツ、と合わせた。音は小さい。
 復讐は、まだ完了していない。
 だからこそ、祝福し合える。
 「ここまで来た」という事実に。
 「まだ終われない」という覚悟に。

 窓の外、帝都の夜が、静かに色を深める。
 盤上では、女王が中央に立ち、王の斜め前に影を落とす。
 王手まで、あと一歩。
 私は指先を軽く曲げ、盤面の冷気を掌に覚えさせる。
 鼓動。計画。微笑み。
 その三拍子に、四拍目の音がそっと混ざる。
 ──「乾杯は、最後に」。
 それを合図に、私は目を開けた。
 崩壊は、もう始まっている。
 終わらせ方を、私が決める。
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