婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第7話:毒のような優しさ

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 私の仕事は、静かに増えた。
 内部便の孔の配列を読むことから始まり、議会の机の癖を写し取り、関税所の窓口の並び順を一度入れ替えるよう誰にも気づかれない提案書に仕立て、皇都のはずれに眠っていた古い地下道の鍵を「忘れ物」として正規の棚に戻す。誰も傷つかないところから、少しずつ刃を研いでいった。

「速い。正確。無駄がない。君の欠点は?」

「褒め言葉を疑う癖」

「いい欠点だ」

 ラドンは言葉を節約するが、節約の中に余白のような余情を残すのが上手い。
 私が持ち帰る紙片は、彼の机の上で地図に変わり、彼が投げる指示は、私の掌で具体に変わる。
 たとえば、議会の一室で「たった一行」の修正が昼下がりに差し込まれた。日付の数字が一つ、指先ほどずれる。私はそのずれを拾い、出所を洗い、ラドンの示す赤い糸に結ぶ。糸の先は、郊外の倉庫街、名ばかりの慈善組合、そして、匿名の寄付。
 私たちは、誰の名前も口にせず、名前の分だけ線を増やした。

「君の“微笑み”は、意見書に効く」

「毒の代わりに砂糖を混ぜてるだけ」

「砂糖は毒にもなる」

「量で殺す」

「じゃあ、量を見張るのが僕の役目だ」

 黒翼の広間では、私の席が自然にラドンの机の斜向かいになった。視線が斜めに交わる位置。私が紙を置く角度は、彼の手が最短距離で伸びる角度に近づいていった。
 ウィレマイトが通信線の騒ぎを片づけ、スファレライトが記録庫の整理を進め、ゼノタイムが笑いながら細工のレターヘッドを起こし、テフロイトが無言で出入り口の影を見張る。
 私はその真ん中で、呼吸を四拍で整え、立ち方を忘れないように膝を微かに緩める。
 右腕、という言葉は好きではない。だけど、誰かがそう呼んだとき、広間の空気が反対しなかった。それが答えだった。

 仕事帰り、私とラドンは時々、地上の寒い空気を半分こした。
 雨は音を小さくし、雪は匂いを消し、曇りは輪郭をやわらげる。私たちの会話は、いずれの天気にも適応した。必要なことだけを話し、必要でないことは黙る。黙るとき、肩が少し触れない距離を維持する。
 彼は煙草に火を点けない。火が匂いを連れてくるからだと言う。匂いは記憶と結びつく。記憶は、時に取引の邪魔をする。
 私は白檀を極少量だけ、耳の後ろに。香は私のため。誰かのためではない。

「君は、怒っている?」

「いつも少し」

「その少しが、正確だ」

「殴れば早い場面もある」

「殴らず勝つ方が、高くつく」

「高くつけるのは、あなたの仕事」

「分業だね」

 ある夜、倉庫街の屋根の上で、私は滑った。
 錆びた樋の縁が凍っていて、足の裏が一瞬浮いた。世界が斜めになり、夜が下から口を開けた。
 手首を掴む力が、落下より早かった。
 ラドンの手だ。骨の形をしていて、迷いがなかった。私はその手を見上げ、笑った。

「今のは……新任のふり」

「ふりにしては、心臓の音が速い」

「聞こえる?」

「聞こえるくらい近かった」

 引き上げられた私は、膝の埃を払い、呼吸の拍を無理やり四に戻した。
 ラドンは私の手首を一瞬だけ離さず、脈を測るみたいな指の圧で、確かめるように言う。

「君は怒っている顔より、笑ってる顔の方が恐ろしい」

「褒め言葉?」

「警告」

「受け取っておく」

「笑い方が、刃の鞘を思い出させる。抜く前に、もう人が下がる」

「なら、抜く回数が減る」

「そうだ。だから怖い」

 怖い、という単語は、彼の口から出ると温度が変わる。毒を薄めた薬みたいに、効くまでに時間がかかる。
 私は屋根の縁に腰を下ろし、足を宙に投げ出した。夜の空気が膝下を撫でる。
「怖がらせるのが嫌?」
「必要な相手には、怖がってもらうべきだ」
「じゃあ、あなたは?」
「僕は、怖がらない訓練を受けた」
「嘘ね」
「半分はね」

 彼は隣に座り、視線を遠くにやった。倉庫街の向こうで、皇宮の尖塔が黒い鉛筆みたいに空を刺している。
「君の怒りは“秩序のための怒り”だ。君自身のためだけじゃない」
「それが、毒のように見える?」
「うん。薄く、長く効く。甘い匂いがして、飲みやすい」
「あなたは飲む?」
「仕事なら」

 広間に戻ると、皆が自分の音に戻っていった。
 私はひとり、書類の角を合わせながら、指先に残った彼の体温を消すように紙の縁を撫でる。消えない。体温は、意志で消せない。だから私は、別の熱で上書きする。
 復讐の熱。秩序への執着。
 それでも、どこかで別の熱が混ざり始めているのを、私は知っていた。人間が人間に触れるときにだけ生まれる、微小な温度差。
 それは邪魔だ。
 だから、私はそれを「毒のような優しさ」と命名した。名前を与えれば、距離が取れる。

 任務は濃度を増した。
 議会の予算案の行間に潜む私企業の回し書きを剥がし、慈善の皮をかぶった迂回路の寄付金を別の道筋で“返金”させ、王宮附属の音楽隊の楽器購入先から一つだけ偽の工房名を外させる。
 ひとつ剥がせば、ひとつ繋がる。繋がれた先に、尻尾を見せない影がいる。それでも、私は焦らないことを覚えた。焦りは相手の速度に従うこと。私は私の拍で踊る。

 ある晩、ラドンの机に、珍しく酒があった。
 彼はコルクを抜かず、香りだけ嗅いで、コップ二つに水を注いだ。
「乾杯の練習」
「練習?」
「勝ったときの手癖は、負けたときに出る」
「縁起でもない」
「縁起は嫌いじゃない」
 水で、静かに杯を合わせる。音が小さい。
 彼は口の端だけ上げた。「右腕」
「その呼び方、好きじゃない」
「じゃあ、何がいい」
「“反復横跳び”」
「どうして」
「あなたの思考の横に、私の思考を置いて、同時に左右に試すから」
「……気に入った」

 訓練場では、私はテフロイトに短剣の持ち方を叩き込まれた。刃物は好きではない。けれど、刃の重さを知るのは、刃を使わないために必要だ。
 投げれば当たる距離、当ててはいけない距離。
 私は一度だけ、的の中心から指二本分だけ外れたところに刃を刺した。テフロイトが笑う。「そこが一番、相手に効く」
 私は首を傾げる。「死なない」
「だからだ」
 彼の目は優しかった。荒い手が、時々やさしい。やさしさは毒とよく似ている。

 夜更け、広間が静かになった頃、ラドンが私に紙を一枚渡した。
「明朝、議会の第二委員会。配布票の中に“余計な一枚”が紛れている。君が先に気づく。君が、気づいたように見せる」
「余計な一枚?」
「君の名前は出ない。けど、君の“手”は見える」
「見せるの?」
「見せてもいい相手がいる」
「誰」
「第五席の老人。彼は善良で、鈍い。鈍い善良には、たまに刺激が要る」
「人間らしい言い方をするようになったわ」
「君の影響だと思う」

 私たちは視線を合わせ、そのまま目を逸らした。
 逸らす技術が、上達している。
 それを喜ぶべきか、怖がるべきか、決めないでおく。決めないことに、私は最近、救われるようになった。

 翌朝、私は“余計な一枚”を拾い、第五席の老人に「ここ、訂正すべき点が」と静かに示した。老人は驚き、礼を言い、会議を止め、五分の混乱が生まれ、三分の沈黙が流れ、最後に一つの拍手が起こった。誰も私を見なかった。見たのは、ラドンだけ。
 彼は扉の外の影で、指を一度だけ鳴らした。
 合図。
 私は頷き、歩幅を変えずに通り過ぎた。

 フィオナとは、必要最低限しか言葉を交わさないようにしている。それでも、時々、同じ紙の角で指が触れる。触れるたび、昔の台所の匂いが、一瞬だけ現れて、すぐ消える。
 友情は息をしている。けれど、疑念は目を開けたままだ。
 ラドンとの間に芽生えた温度と、フィオナの沈黙の体温は、別々の場所で私を温め、そして、薄く痛める。
 私はその感覚を“毒のような優しさ”ともう一度、胸の内で呼んだ。
 毒は用法用量。
 私は、間違えない。

 その夜、屋上で風に当たりながら、私はふと訊いた。
「ラドン。あなたは、私を何にしたいの?」
「君を?」
「道具、盾、刃、それとも……」
「“君自身”」
「それは、答えになってない」
「答えは、いつも“途中”にある」

 途中。
 復讐の途中、人間らしさの途中、信頼の途中。
 私たちは途中で会い、途中で並び、途中で笑い、途中で別れる準備をしている。
 準備は、痛みを軽くする。
 それでも、まったくの無痛にはならない。
 だから、私は笑う。
 笑いは、麻酔だ。
 麻酔は、時に刃だ。

 ラドンが肩越しに私を見て、静かに言う。
「君は怒っている顔より、笑ってる顔の方が恐ろしい」
 今度は、彼の声の奥に、わずかな安堵が混ざっていた。
「恐ろしい方が、勝つ」
「その“勝つ”の定義を、たまに変えてみるといい」
「どう変えるの」
「誰かが生き残る方へ」

 私は眉を上げ、夜の匂いを吸い込む。
「検討する」
「検討は、準備の親戚」
「家族にするには、まだ早い」
「早いのは、嫌いじゃない」

 ふたりの笑いが、屋上の隅でかすかに重なった。
 冷たい復讐劇の中に、確かに、人間らしさの欠片が芽生え始めている。
 それは役に立つだろうか。足を引くかもしれない。
 けれど、私はその欠片を、いまは捨てないことにした。
 毒は、解毒剤にもなる。
 優しさは、用法を間違えなければ、刃を鈍らせない。
 むしろ、刃を“選んで抜く”理性を、助けてくれる。

 夜が深くなり、黒翼の地下へ戻る階段の上で、ラドンが言った。
「右腕」
「反復横跳び」
「そうだった」
 彼は笑い、私も笑い、そして、何も約束しないで別れた。
 約束をしない優しさは、毒より安全だ。
 私はポケットの中の白檀を指で転がし、香を嗅がずにしまった。
 香りは記憶を呼ぶ。
 記憶は、明日の準備の邪魔になる。

 ──それでも、階段を降りながら、私は一度だけ掌を開いた。
 そこに、かすかな温度が残っていた。
 彼が、私を落ちる前に掴んだときの、あの温度。
 私は笑う。
 自分にだけ聞こえる温度で。
 そして、再び、冷たい拍に身体を合わせる。
 鼓動。計画。微笑み。
 その三拍子に、ひそやかな四つ目の拍が混じるのを、私は認めた。
 ──人間。
 毒のような優しさ。
 用法用量、厳守。
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