婚約破棄された悪役令嬢、復讐のために微笑みながら帝国を掌握します

タマ マコト

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第6話:計算された接近

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 帝国議会の朝は、紙と靴音の匂いで始まる。
 石畳を磨いたばかりの廊下に、低く長い影が縞を作り、ランプの煤がまだわずかに漂っている。書記官の制服は地味な紺。襟は固く、袖は少し長い。私──セラフィナ・ロジウムではない、今日の私は「セレーネ・ヘマタイト──臨時書記官」が、その紺に身体を通し、呼吸の拍に合わせて布を馴染ませる。

 鏡のない更衣室の壁に、私は“立ち方”を映す。
 膝は緩めすぎない。肩はわずかに落とす。視線は相手の眉間より半寸下へ。ラドンが教えた通り、立ち方は身分であり、身分は鍵だ。鍵穴は、いつも人の目の高さにある。

「新任かい?」

 入口で、灰色の髭を撫でる古株の書記が言う。名札には「カッパー」。声は銅のように鈍く温かい。
 私は名刺を差し出す。「ヘマタイト、臨時配属です」
 カッパーは名刺の角を軽く弾く。弾いた後の紙の揺れ方で、その人が紙を使い慣れているか分かる。彼は馴れている。
「机はあの列の端だ。規程は……知ってる顔だな」
「似た顔は多いのです、官庁には」
「ま、そうだ」

 机は窓から二列目。光は強すぎず、紙の目が見える角度で落ちてくる。引き出しには鉛筆三本、羽根ペン一本、砂、判子、糊。すべてが定位置。秩序はやさしい。やさしい秩序ほど、壊されやすい。

 午前の仕事は、議事の下読みと配布票の仕分け。
 私は行替えの癖を統一しながら、内容より“指先の跡”を追う。文書は喋る。書き手の睡眠時間、怒りの温度、口調の硬さ。紙端の擦れから、誰の机で何度置かれたのかが見える。
 ひとつ、気になる票があった。監査委員会提出の修正票。筆圧は軽いのに、止めが強い。止めで押す癖。印の位置が定規から半分だけズレる。──ヘミモルファイトの“系統”だ。本人ではない。誰かが、同じ手癖を学んだ。あるいは、同じ机を使っている。

 机と紙を往復していると、斜向かいに新顔が座った。
 ベージュの事務服、髪は低い位置でまとめ、耳を半分隠す。白い手袋。動きは速く正確、けれど、封筒を開く前に必ず爪で角を軽く押す癖がある。角が私に見える位置になるよう、ほんの一度だけ封筒を回す──ここで、胸の奥が小さく鳴った。
 知っている。

 息を一拍、遅らせる。視線を上げない。視線は嘘を暴く。代わりに、耳の後ろの髪の流れを数える。結び目の位置がわずかに低すぎる。仕事の途中で直したから。
 彼女が顔を上げた。瞳の奥で、春の湖みたいな色が一瞬だけ揺れる。
「……あなた、新任?」
 口元だけで笑う、その声。
 フィオナ・モルガナイト。私の侍女──だった人。今ここでは「フィオナ」ではない顔。名札は「モルガン」。部署は「資料整備」。おそらく、正体を偽っているのは私だけではない。

「はい、臨時のヘマタイトです」
「私は、資料整備のモルガン。よろしく」
「よろしくお願いします」

 距離は、机二つ分。言葉は、書類一枚分。
 彼女の視線が、私の羽根ペンの角度で止まる。私は一拍遅れて、砂箱の置き方を直す。二人の間の空気が、僅かに密度を増す。
 彼女は私のカップに目をやる。
「紅茶は……砂糖、一つ?」
「いいえ。入れません」
「そう……」
 フィオナは視線を紙へ戻す。いつもの彼女なら「寒いから入れた方がいいですよ」と言う。言わない。ここでは“言わないこと”が合図になる。

 午前の鐘が鳴る。廊下を挟んだ向かいの扉から、議員たちの声が漏れる。早口の人間は、秘密を短い言葉に詰める。ゆっくり喋る人間は、言葉の間に秘密を隠す。私は呼吸を四拍で刻みながら、資料を配る列に入る。
 配る先の一つ、第四会議室。扉を押すと、机についたままの男が一人、議事次第を手で扇いでいた。
「新しい書記か。そこに置いて」
「こちらで失礼します」
 机に置いた瞬間、男の袖口から覗く印章が目に入る。石座、ヘリオドール。刻印の摩耗の仕方が不自然。偽物の可能性。頭の片隅にピンを立てる。線は引かない。引くのは早い。

 戻りの廊下で、私はわざと歩幅を半歩狭める。背後の足音が合うか確かめるため。合った。
「……あなた、どうしてここに?」
 声は背中に刺さってきた。彼女だ。フィオナ。
 私は振り返らない。歩幅を戻す。角で止まる。壁に掲げられた古い議会の肖像画が、埃の下で笑っている。
「仕事です」
「わたしもです」
 二人の声は他人のふりをして、同じ場所に落ちる。

 角を曲がる直前、私たちは同時に歩みを止めた。
 同時に息を吸う。同時に薬指で紙屑を摘む仕草をする。同時に、何かに気づいたふりをして、目を伏せる。
 同じだった。
 フィオナが小さく笑った。
「……本当に、似てる人が多いんですね、官庁には」
「ええ」
 私は同じ温度で返す。「似てる人に、仕事は任せやすいから」

 昼の鐘。食堂へ向かう列に混ざる。
 食堂の窓辺へ、私とフィオナは別々のルートで到達した。“偶然”を作るのは面倒だが、偶然に見せるのは簡単だ。お盆には、黒パンと薄いスープ。彼女はいつも通り、パンの端からではなく、真ん中から小さく千切る。私はわざと端から齧る。彼女はわざと真ん中を残す。
 目は合わない。
 話さない言葉が、スプーンの底で鈍く反射した。

「ヘマタイトさんは、どちらの出身?」
「北です」
「寒いのは平気?」
「慣れています」
「砂糖、入れないのに?」
「入れないから、平気になったのかも」
「理屈っぽい」
「仕事柄」
「そう」

 フィオナの手が、テーブルの下で膝を探すふうに動いた。いつも、彼女はそこに私の手があるか確かめてきた。今日はない。
 肩の高さがわずかに上がる。強がる時の彼女の癖。
「午後は第四会議室?」
「そうです」
「わたしは記録庫。インクの匂いが強いと、夢見が悪くなるのに」
「夢を見る時間が、仕事になっているのですね」
「そう。夢は、現実の裏面に孔を開けるから」

 その一言で、私の背骨が一段、冷えた。
 孔。裏面。白孔雀亭。昨日の薄紙。
 フィオナ。あなたは、何をどこまで知っているの。

 午後の仕事は、議事録の一次起案。耳で拾い、目で整え、指で刻む。
 第四会議室の空気は乾いていて、声がよく響く。私は机の角度を変え、反射で相手の顔が見えないように調整する。字は、素直に走る。耳は、必要な音だけ拾う。
 途中、扉の隙間から紙束が差し入れられた。差し入れた手。手袋の縫い目の幅。──フィオナ。
 私は受け取り、端の止め方を見て、わざと一枚、角を少し折る。合図。ラドンと私の間で取り決めた「見られているか」の信号。少しして、返ってきた紙束の角に、同じ折り。
 見られている。
 誰に。
 彼女に。
 彼女の背後の、誰かに。

 小休止に、私は資料庫に寄る。冷えた紙の匂い。背の高い棚が並び、インクが眠り、埃が古い歌を歌っている。
 奥の列に、フィオナがいた。
 何も言わず、彼女は引き出しから小さな瓶を出し、私に差し出す。白檀。極少量。
「ここ、乾燥するから」
「ありがとう」
 瓶に触れた指先が、互いの体温を測る。
 彼女は棚に背を預け、目を伏せた。
「……あなた、どうしてここに?」
 やっと、真正面から。
 私は、棚のラベルを読むふりをして、声の温度を均す。
「仕事をしに」
「そう。わたしも」
「あなたはずっと、仕事をしていた」
「ええ。仕事は裏切らないから」
「人は?」
「時々、裏切らない」
「優しい言い方」

 フィオナは笑う。笑いは、安堵と警告の半分ずつ。
「あなたの歩幅、少し変わった」
「立ち方を習ったの」
「いい先生?」
「うるさい先生」
「うるさい人は、だいたい優しい」
「あなたがうるさいのは、知っている」

 沈黙が落ちた。錆びない、軽い沈黙。
 彼女の指が、瓶の蓋を一度だけ回す。香が、紙の匂いに細く混ざる。
「これ以上、聞かない」
「賢い」
「聞かない代わりに、覚えておく」
「何を」
「あなたが、ここに来た理由を、わたしが知らないという事実を」
「怖い?」
「少し」
「わたしも」

 棚の向こうで、床板が一枚だけ鳴った。風か、人か。
 フィオナは瓶を引き出しに戻し、私の肩を一瞬、指先で撫でた。昔の癖。人前で抱きしめられない時に、肩で「ここにいる」と合図する癖。
「戻るわ。インクが待ってる」
「ええ」

 午後は粛々と過ぎ、夕刻の鐘が鳴る。
 議事録の一次起案を束ね、署名欄を下げ、私は机を整える。隣の机のフィオナは既に姿を消していた。帰り支度が速い。昔からそうだ。泣きそうな日ほど、帰り支度が速かった。

 退出印を押した時、受付の陰から紙片が滑ってきた。
 表は無地。裏に、孔。十二、四、八、八──見慣れたリズムではない。新しい歌。
 紙片の端に、小さな“皿”の印。
 皿。
 フィオナが子どものころ、私に宛てる落書きにいつも描いていた印。食器棚の皿を一枚割った日、彼女はずっと泣いて、翌日から手紙の隅に皿を描いた。「割らないように、気をつける」おまじない。

 私は紙片を鞄の底に沈め、出口に向かう。
 外は、雨上がりの匂い。街灯に濡れた石の肌が光り、空気が少しだけ甘い。
 ラドンは角の陰に立ち、煙草に火を点けていない。火を点けない煙草は、嘘の匂いが少ない。

「どうだった」

「“偶然”は、よく働いたわ」
「彼女は?」
「知らないふりをして、知っていた」
「どこまで」
「私の歩幅と、立ち方と、香の量と、沈黙の種類。……そして、多分、今の私が『誰かのために動いている』ことまで」
「その『誰か』が僕だと、彼女は思っている?」
「思っていない。たぶん『私自身のため』だと」
「それは、半分正しい」

 私は鞄から紙片を取り出し、孔の列をラドンに見せた。
 彼は目だけで数え、指でなぞる。「十二、四、八、八。議会内連絡の“内部便”の孔だ。誰かが君に、内部便の線を渡した」
「皿の印」
「彼女の私印だろうね。昔からの」
「あなた、いつも知ってる」
「職業病」

 ラドンは紙片を返し、肩をすくめる。
「友情と疑念は、よく似てる。どちらも近づかないと働かない。近づきすぎると壊れる。君たちは今、ちょうどいい距離にいる」
「ちょうどいい距離は、長続きしない」

「だから、走る。今日できた線は何だ」
「監査の“系統”が、議会の机にまで育っている。印の癖が同じ。机か、人か。……そして、フィオナは、その線を知っている」
「彼女は敵か味方か」
「どちらでもない。私の“鏡”」
「鏡は、光の角度で嘘をつく」
「嘘をつかせない角度を選ぶのが、私の仕事」

 ラドンは短く笑い、街灯の下で腕時計を叩いた。
「明日、内部便の倉庫に入る。例の孔の配列を一度、原本で確かめよう。君が今日拾った“皿”も、棚のどこに並ぶべきか見る」
「了解」

 別れ際、彼がふと真顔になった。
「セラフィナ。捨てたものは忘れていいが、捨てた『ふり』をしたものは忘れるな」
「……フィオナのこと?」
「うん。彼女は君の“燃料”にも“刃”にもなる。どちらにするかは、君が選ぶ」

 私は頷き、雨上がりの匂いを肺の奥に押し込む。
 空は薄く開き、夜がゆっくり降りてくる。
 議会の塔の上に灯る小さな光は、私たちの会話など知らないふりだ。知らないふりは、秩序の最古の術。
 私は足元の水溜まりを避け、石の上に音を置く。
 鼓動。計画。微笑み。
 その合間に、もう一つ──謎。
 謎は、次の夜のためのパン屑だ。

 背後で、軽い足音。振り返らない。
 「おやすみなさい、ヘマタイトさん」
 風に乗って届く声。フィオナ。
 私は振り返らず、同じだけの風で返す。
 「おやすみなさい、モルガンさん」

 互いに正体を偽ったまま、やり取りは完了する。
 彼女は“皿”を、私は“孔”を、胸の内にそれぞれしまい込む。
 友情は息をし、疑念は目を開ける。
 明日、どちらが先に声を上げるのかは、まだ決めない。
 決めないという選択が、今夜のいちばん強い防具だ。
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