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第3話 王の空気、王女の決意
しおりを挟む朝は、残酷なくらい澄んでいた。
窓を開けると、春の匂いが押し寄せてくる。湿った土と若葉の青さ、遠くで焼かれるパンの香り。王城の朝はいつも静かで、鳥の声さえ礼儀正しく聞こえる。昨日の夜、私は死んだ――はずなのに、世界は何ひとつ変わらない顔で朝を迎えている。
その無表情さが、逆に腹立たしい。
でも、同時に救いでもあった。世界が同じなら、私は“知っている”。ここで何が起きるか。誰が何を言うか。誰が笑うか。
鏡の前で髪を整えながら、私は自分の目を見た。
前世の私より、ほんの少しだけ鋭い。
それは恐怖のせいじゃない。決意のせいだ。
「姫殿下、お召し物はこちらでよろしいでしょうか?」
ルーナが、薄い青のドレスを広げて見せる。
この色は、民に親しまれる色だ。空の色。水の色。優しい色。
――前世の私は、今日は白を選んだ。
潔白、純粋、王女の正しさ。
そしてその“正しさ”が、私を殺した。
「青でいい。むしろ青がいい」
「……かしこまりました」
ルーナの目が少し丸くなる。
王女の服の色を変えるだけで、侍女は驚く。ここはそういう場所だ。微細な違いが、権力の波紋になる。
私は深呼吸をして、ドレスに腕を通した。布が肌に触れる感触が、妙にリアルだ。生きてる、という証拠みたいに。
胸元のブローチを留めたとき、ルーナが小声で言った。
「姫殿下……本当に大丈夫ですか? 昨夜は……」
私は少しだけ笑った。
“王女としての微笑み”ではなく、ちゃんと温度のある笑み。
「大丈夫。……ただ、今日は少し変える」
「変える……?」
「うん。私のやり方を」
ルーナは何かを言いかけて、飲み込んだ。
王女の決意に、侍女は口を挟めない。でも、彼女は守りたいのだろう。私はその気配を感じて、胸の奥がきゅっと痛む。
「ルーナ。心配してくれてありがとう。でも、私の後ろに立つなら……覚悟して。今日は、ちょっと面倒な日になる」
ルーナは一瞬だけ唇を噛んで、それから深く頷いた。
「はい。姫殿下のために」
その言葉が、私の背骨を一本増やしたみたいに支えてくれた。
――そして、朝の謁見。
玉座の間へ続く回廊は、いつもより冷たく感じた。大理石の床が足音をはね返し、柱に刻まれた紋章が私の進む先を見下ろしている。衛兵の鎧が擦れる音が、やけに大きい。
扉が開く。
光が差し込む。
玉座の間は、王の空気で満ちている。
父王レオニス・アルヴァリアは、玉座に座っていた。
王冠は軽いものだと聞く。重いのは、王の沈黙だ。父はいつも沈黙が上手い。言葉を抑え、感情を抑え、国のために“動かない”という選択をする。
玉座の脇には、宰相グラディオ・フェルゼン。
穏やかな笑み。柔らかい目。慈悲深いふり。
――あの笑みの裏に、毒がある。
私は一礼した。深く、完璧に。
王女としての礼。
でも心の中では、別の言葉を吐き捨てている。
“さあ、始めようか。脚本通りの朝を”
「セレスティア」
父王の声は低い。柔らかいようで、骨がある。
前世と同じ呼び方。同じ間。
私は心の中で笑った。ほんとに同じ。
「はい、陛下」
返事も、前世と同じにした。
私は最初だけは“脚本に乗る”。
彼らが油断するために。
父王は指先を組んで、静かに言う。
「近頃、城内外の空気が……少し、ざわついている」
来た。
“空気”という名の刃。
国王が“空気”を語るとき、それは世論ではない。貴族の機嫌だ。権力者の気分だ。つまり、私に譲れという前振り。
「ざわつき、ですか」
私はあえて曖昧に返した。
父は続ける。
「第二王女ミレイアの評判が良い。民は彼女の笑顔を求め、貴族も……安心を感じている」
その言葉の裏側が見える。
“お前より妹のほうが都合がいい”
“国はお前を求めていない”
優しい口調で刺してくるのが父のやり方だ。
私は頷くふりをしながら、視線をほんの少しだけ宰相へ向けた。
グラディオは、穏やかに微笑んでいる。
次に彼が話す。これも前世通り。
「姫殿下」
彼は私を“姫殿下”と呼ぶ。
王女ではなく、姫。可憐で守られる存在として扱う呼び方。
その呼び方自体が、私の力を薄める。
「近頃、民の間で……姫殿下に対するお声が少々」
来た。
“冷たい”が来る。
「お声、とは」
「はい。姫殿下は聡明でいらっしゃる。ですが、少し……距離を感じる、と」
彼は申し訳なさそうに眉を下げる。
まるで私のために言っているみたいに。
でも実際は、私の立場を削るための口実だ。
「冷たい、と言われております。民の暮らしを理解されていないのでは、と。……あくまで噂でございますが」
噂。
噂という名の毒。
前世の私はここで、心臓が縮むみたいに痛んだ。私は冷たいのか、と。私は間違っているのか、と。自分を責めて、譲歩への道を自分で敷いた。
今世の私は違う。
私はゆっくり息を吸って、吐いた。
喉の奥がまだ少し痛い。毒の名残。
その痛みが私の舌を鋭くしてくれる。
「なるほど」
私は微笑んだ。
でもその微笑みは、前世の“貼りつけたもの”ではない。
凍った湖面みたいに静かな、冷たい微笑み。
「宰相。確認しますが、その噂を“誰が”言っているのか、具体的な名は把握していますか?」
グラディオの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。
でも私は見逃さない。ここは“脚本”にない質問だから。
「……もちろん、いくつかの報告は上がっておりますが」
「“いくつか”ではなく。誰が、いつ、どこで、どう言ったのか。記録は?」
声のトーンは上げない。
怒りもしない。
ただ、事実を求める。
父王がわずかに眉を動かした。
それが波紋。
私が“感情”ではなく“手続き”で殴ってきたことに驚いたのだ。
グラディオは微笑みを崩さずに、やんわりと返す。
「姫殿下。噂というものは、形のないものです。名を追えば、かえって――」
「形がないなら、噂で王位を動かすべきではありません」
私は言い切った。
自分の口から出た言葉に、自分で少し驚く。
でも、止まらなかった。止めたくなかった。
玉座の間が、一瞬だけ静まった。
衛兵の呼吸音が聞こえるほど。
父王が口を開く。
「セレスティア。言葉を選べ」
柔らかい声。
でもその中には、国王の圧がある。
“これ以上は波風だ”という警告。
私は一礼して、静かに言った。
「失礼いたしました。ですが、陛下。私は民に距離があると言われるのであれば――距離を縮めます」
父王の目が少し細くなる。
グラディオの唇が、微かに笑みを深くする。
“そうだ、謝って従え”
彼らの脚本は、私が反省して、譲歩して、妹へ道を譲る流れ。
私はその流れを、ここで折る。
「私は民の前に立ちます」
言い放った瞬間、空気が変わった。
まるで窓が開いて、外気が流れ込んだみたいに。
「……民の前に?」
父王の声に、初めて迷いが混じる。
「はい。視察を増やします。王都だけではありません。地方も回ります。孤児院も、食糧庫も、市場も。そこで、私の目で見て、私の言葉で答えます」
グラディオが口を挟む。
「姫殿下。お一人で動かれるのは危険です。民の中には、過激な者も――」
「危険だから、行かない?」
私は小さく首を傾げた。
その仕草は、可憐な姫のものに見えるだろう。
でも言葉は刃だ。
「危険を理由に民から距離を取れば、“冷たい”と言われても仕方ない。私はそれを、噂で終わらせたくありません」
父王が沈黙する。
その沈黙が、いつもより重い。
父は今、計算している。私を止めるべきか、止めれば私の評判が上がるのか下がるのか。私が動くことで国が揺れるのか、逆に安定するのか。
私はその計算を見透かしながら、もう一歩踏み込む。
「そして陛下。もし私が民の前に立ち、民の声を直接受け止めた上で、それでも“私は相応しくない”という結果になれば……その時は、私は私の責任で答えを出します」
この言い方が重要だ。
譲るとも譲らないとも言わない。
ただ、“自分で決める”と言う。
それだけで、彼らの脚本は崩れる。なぜなら彼らは私を“決められる側”として扱ってきたから。
グラディオはほんのわずかに目を細めた。
彼の中で何かが引っかかったはずだ。
この王女は、いつもの王女じゃない、と。
父王が、ゆっくりと息を吐いた。
「……好きにしろ、と言いたいところだが」
父の声が少しだけ苦い。
私は胸の奥が痛む。
父は悪人ではない。彼はただ、弱い。国王として“正解”を求めるあまり、娘の人生を手続きにしてしまった。
「護衛を増やせ。宰相、手配を」
父がそう言った。
グラディオが一瞬、言葉を飲み込むのが見えた。
私が止められると思っていたのだろう。
でも父は、今この場で私を止めると“娘を閉じ込める王”になると判断した。世論の空気を読んだ結果だ。
「……承知いたしました、陛下」
グラディオは頭を下げる。
穏やかな仮面のまま。
でもその奥に、少しだけ硬い影が落ちた。
私は一礼して、踵を返した。
玉座の間の空気が背中にまとわりつく。
でも足取りは軽かった。
回廊に出た瞬間、肺の中の空気が少し温かくなる。
ルーナが待っていた。緊張した顔で。
「姫殿下……いかがでしたか?」
私は彼女に向かって、ほんの少しだけ笑った。
「波紋は立ったよ」
「……波紋」
「うん。小さな波。だけど、あの人たちが一番怖がるやつ」
ルーナが戸惑いながらも、私の表情を見て少し安心したように息を吐く。
「姫殿下……お強くなられましたね」
「強くなったんじゃない」
私は歩きながら、窓の外を見た。
王城の庭園。朝日が若葉を照らして、まぶしい。
あの光の下で、私は前世、死んだ。
でも今世は生きている。
「……一回、死んだだけ」
ルーナが息を呑む音がした。
私はすぐに言い足す。彼女に真実を全部は話せない。まだ早い。巻き込みたくない。
「冗談よ。ほら、顔が真っ青」
「ひ、姫殿下……!」
私は肩をすくめた。
現代的に言えば、メンタルの切り替え。
でも本当は冗談じゃない。私は本当に死んだ。だから、もう怖くない。
廊下の先で、衛兵が敬礼する。
その金属音が、昨日の毒の金属臭を一瞬だけ思い出させた。
私は喉の奥に残る痛みを、舌で確かめる。
そして心の中で、静かに宣言する。
――脚本は、破る。
――役は、降りない。
――王位に就く王女は、私だ。
背後の玉座の間は、まだ王の空気で満ちているだろう。
でも私は知っている。
空気は、動かせる。
小さな波紋が、いつか波になる。
そして波は、盤面を洗い流す。
私は歩く。
今日から、民の前に立つために。
誰にも譲らないために。
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