15 / 20
第15話 急ぎすぎた一手
しおりを挟む王城の空気が、変な音を立てていた。
目には見えないのに、確かに聞こえる。
磨かれた石の床の下で、歯車が噛み合わないまま回り始める音。
誰かが焦っている音。
焦りは匂いになる。
焦りは足音になる。
焦りは紙の擦れる音になる。
私はその音を、廊下の角を曲がった瞬間に感じ取った。
侍従がいつもより深く頭を下げる。
侍女が目を合わせない。
衛兵の配置が、微妙に変わっている。
王城は、何も言わずに“何かが始まった”ことを告げてくる。
ルーナが小声で言った。
「姫殿下……宰相府の人間が、書庫に出入りしています」
「どの書庫?」
「……第二書庫です。王妃様の……古い医療記録が保管されている場所」
「……どの棚?」
「王妃様の医療記録が保管されている棚です」
胸の奥が冷えた。
母の記録。
封じられ、触れられないはずだった場所。
そこに誰かが触れた。
「……来たね」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
怖いのに。
怖いからこそ、落ち着く。
私はもう、嵐の中に立つことに慣れ始めている。
その日の昼、ユリウスから短い書簡が届いた。
『侍医長の側近が、昨夜、王都を出た形跡。行き先不明。宰相府が動いている』
そして夕方、カイからも紙片が飛んできた。
『貴族が裏で動き始めた。封印が破られた。宰相、焦ってる。匂いが濃い』
私は椅子に深く腰掛け、息を吐いた。
――ああ、そうか。
彼は気づいたのだ。
盤面が、もう整えられないことに。
封印したはずの母の記録に誰かが触れ、口を塞いだはずの侍医が消え、沈黙していたはずの貴族が、水面下でざわつき始めている。
つまり真実は静かに、だが確実に外へ滲み出している。
私は知っている。
宰相グラディオは、完璧な準備を好む男だ。完璧に整えた盤面でしか勝負しない。
勝てる形を作り、逃げ道を塞ぎ、相手が動けなくなってから刃を振るい、最後に「国のため」と笑う。
だからこそ、今の状況は彼にとって最悪だった。
――もう時間がない。
――整える前に、盤そのものが崩れる。
盤面を整える前に、盤そのものがひっくり返る。
だから彼は、急ぐ。
急ぎすぎる。
私は夜、ユリウス邸に向かうふりをして、王城の裏口から出た。
本当の目的は、東塔の旧回廊。
カイとの合流。
旧回廊は相変わらず冷たかった。
窓の隙間から入る風が、頬を撫でる。
その冷たさが、むしろありがたい。
熱があると、人は間違える。
冷えは、頭を冴えさせる。
影が、壁から剥がれ出る。
「姫さん」
カイが現れた。
目がいつもより鋭い。
夜が濃い。
「宰相、動く」
「どんな?」
「大技。派手。面倒。……だから証拠が動く」
カイは短く言い、紙片を私に渡した。
そこには、宰相府から王城内に出された指示の写しが書かれている。
『第一王女の反逆の疑い。関係者の招集。文書の提出。証言の準備』
『婚約譲渡の即時宣言に伴う式典準備。貴族院への通達』
私は息を吸った。
反逆者に仕立て上げる裁判。
そして婚約譲渡の即時宣言。
同時進行。
急ぎすぎた一手。
「……来た」
私の声が、石壁に吸い込まれる。
カイが続ける。
「反逆裁判をやるには、人が要る。書類が要る。証人が要る。偽造も要る。隠蔽も必要だ。……つまり、動かしたくないものを動かす」
「動かしたくないものって?」
「王妃の記録。薬の調合記録。侍医の署名。宰相府の紙。……全部」
私は頷いた。
そうだ。
隠すために動けば、隠していたものが外気に触れる。
外気に触れれば、匂いが漏れる。
その匂いを嗅ぐのが、カイの仕事だ。
「準備は?」
私が問うと、カイは口角を上げないまま言った。
「俺はずっと待ってた。この瞬間」
言葉は淡々としているのに、少しだけ熱がある。
彼は“間に合わなかった”過去を抱えている。
だから今は、間に合わせるために生きている。
「情報網を一斉に走らせる。書庫も、記録室も、侍医の周辺も」
「私は?」
「表で受け止めろ。影は、表がなきゃ意味を失う」
私は頷いた。
「分かった。私は、手続きを握る」
影が裏を動かすなら、私は表で受け止める。
表で受け止める人間がいなければ、裏の証拠は握り潰される。
「ユリウス卿に連絡する。貴族院の動きも押さえる。裁判が始まる前に、手続きを逆手に取る」
カイが頷く。
「いい。……それで、守れる」
守る。
この言葉が、私の中で芯になってきている。
誰かを踏むためじゃなく、守るために使う権力。
その使い方が、宰相を一番苛立たせる。
翌朝。
王城の鐘が鳴った。
いつもと同じ音のはずなのに、今日は違って聞こえる。
“始まり”の鐘だ。
私は謁見の間に呼び出された。
父王レオニスの前。
宰相グラディオの前。
貴族たちの前。
大広間の空気は甘い。
甘いのに、喉に刺さる。
毒じゃない。恐怖の甘さだ。
グラディオはいつも通り穏やかに微笑み、柔らかい声で言った。
「第一王女セレスティア殿下。あなたには……国を揺るがす疑いがございます」
疑い。
反逆。
王家を裏切った。
民を煽った。
貴族を分断した。
そういう言葉が、絹の布みたいに滑らかに並べられる。
私はその滑らかさに、前世なら溺れた。
今世は、溺れない。
なぜなら私は知っている。
滑らかさは、刃を隠すための布だ。
「疑い、とは具体的に?」
私は静かに問うた。
挑発ではなく、手続きの問い。
手続きは私の味方になる。
グラディオの眉が、ほんの少しだけ動いた。
焦りが、ほんの一滴落ちる。
「あなたが独断で、配給制度を変えたこと。監査を王女直属にしたこと。貴族の権益を侵害したこと……」
「侵害ではなく、再配分です」
私は淡々と訂正した。
言葉を整える。
言葉を整えるだけで、相手の勢いは落ちる。
勢いが落ちれば、急ぎが露呈する。
父王レオニスが眉をひそめる。
「セレスティア……」
その声には迷いがある。
迷いは弱さ。
でも父は悪人ではない。
ただ、決断できない。
グラディオが父の迷いを利用しようとする。
しかし今日は、彼の方が急いでいる。
「さらに――」
グラディオが続けようとしたその瞬間、謁見の間の扉が開いた。
ざわめき。
場違いな開扉。
その“場違い”こそ、急ぎの証拠だ。
入ってきたのは、王城の書庫係だった。
顔が青い。
手には封印付きの書類束。
震える手で、宰相の方へ差し出そうとしている。
「宰相閣下……第二書庫の封印記録が……」
グラディオの微笑みが、一瞬だけ止まった。
止まって、すぐに戻る。
でも私は見逃さない。
氷が割れる一瞬。
――証拠が動いている。
カイの情報網が走っている。
走っているから、書庫係が“余計なもの”を持ってきてしまった。
宰相は今、この場で裁判の流れを作りたい。
でも証拠が勝手に現場へ溢れ始める。
策略が動くほど、真実が漏れ出す。
私は一歩前へ出た。
王女としてではなく、手続きを握る者として。
「その書類、こちらへ」
グラディオが即座に言う。
「殿下、それは――」
「反逆の疑いを問う場で、封印記録が動いているなら、その場で確認するべきです。違いますか?」
私は穏やかに、でも逃げ道なく言った。
“国のため”という言葉が好きな宰相は、手続きの正論に弱い。
正論を否定すれば、自分の仮面が剥がれる。
グラディオの口角が、ほんの少しだけ引きつる。
「……もちろん。国のために」
言った。
言わざるを得なかった。
書庫係の手から書類束が私の方へ渡される。
封印の蝋。
その印に見覚えがある。
母の遺品保管庫で見たものと同じ系統の封印だ。
胸が痛む。
でも、私は今は封印を破らない。
ここで破れば、宰相は“暴走する王女”を演じさせる。
彼の望む形になる。
だから私は、ゆっくりと顔を上げ、宣言した。
「これは正式な手続きで開封します。貴族院立会い。記録官立会い。監査官立会い。……今この場で、裁判を急ぐ理由はありません」
ざわめきが広がる。
貴族たちが互いに顔を見合わせる。
彼らも嗅ぎ取ったのだ。
――宰相が、急いでいる、と。
グラディオの目が細くなる。
怒りではない。
焦りだ。
だから今は、芽を見せるだけでいい。
急の気配を、全員の鼻に染み込ませるだけでいい。
グラディオが、穏やかな声で言った。
「殿下……あなたは、何をお望みですか」
その問いは、脅しに似ていた。
でも脅しは、焦りの裏返し。
私は静かに答えた。
「望むのは一つ。真実が、手続きの中で生き残ること」
彼が急げば急ぐほど、
動かせば動かすほど、
隠していたものは外に滲み出る。
私はそれを、拾うだけだ。
廊下に戻ると、空気がさらに重くなっていた。
だが同時に、確かな音が聞こえる。
崩れ始めた、足元の音だ。
宰相は、もう止まれない。
急ぎすぎた一手は、連鎖的に歪みを生む。
私は歩きながら、心の中で静かに告げた。
――もう、引き返せないのは、あなただ。
策略が動くほど、
真実は、必ず漏れ出す。
その瞬間を、私は待っている。
96
あなたにおすすめの小説
両親に溺愛されて育った妹の顛末
葉柚
恋愛
皇太子妃になるためにと厳しく育てられた私、エミリアとは違い、本来私に与えられるはずだった両親からの愛までも注ぎ込まれて溺愛され育てられた妹のオフィーリア。
オフィーリアは両親からの過剰な愛を受けて愛らしく育ったが、過剰な愛を受けて育ったために次第に世界は自分のためにあると勘違いするようになってしまい……。
「お姉さまはずるいわ。皇太子妃になっていずれはこの国の妃になるのでしょう?」
「私も、この国の頂点に立つ女性になりたいわ。」
「ねえ、お姉さま。私の方が皇太子妃に相応しいと思うの。代わってくださらない?」
妹の要求は徐々にエスカレートしていき、最後には……。
言いたいことはそれだけですか。では始めましょう
井藤 美樹
恋愛
常々、社交を苦手としていましたが、今回ばかりは仕方なく出席しておりましたの。婚約者と一緒にね。
その席で、突然始まった婚約破棄という名の茶番劇。
頭がお花畑の方々の発言が続きます。
すると、なぜが、私の名前が……
もちろん、火の粉はその場で消しましたよ。
ついでに、独立宣言もしちゃいました。
主人公、めちゃくちゃ口悪いです。
成り立てホヤホヤのミネリア王女殿下の溺愛&奮闘記。ちょっとだけ、冒険譚もあります。
【完結】虐げられて自己肯定感を失った令嬢は、周囲からの愛を受け取れない
春風由実
恋愛
事情があって伯爵家で長く虐げられてきたオリヴィアは、公爵家に嫁ぐも、同じく虐げられる日々が続くものだと信じていた。
願わくば、公爵家では邪魔にならず、ひっそりと生かして貰えたら。
そんなオリヴィアの小さな願いを、夫となった公爵レオンは容赦なく打ち砕く。
※完結まで毎日1話更新します。最終話は2/15の投稿です。
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています。
【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。
るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」
色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。
……ほんとに屑だわ。
結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。
彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。
彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。
殺された伯爵夫人の六年と七時間のやりなおし
さき
恋愛
愛のない結婚と冷遇生活の末、六年目の結婚記念日に夫に殺されたプリシラ。
だが目を覚ました彼女は結婚した日の夜に戻っていた。
魔女が行った『六年間の時戻し』、それに巻き込まれたプリシラは、同じ人生は歩まないと決めて再び六年間に挑む。
変わらず横暴な夫、今度の人生では慕ってくれる継子。前回の人生では得られなかった味方。
二度目の人生を少しずつ変えていく中、プリシラは前回の人生では現れなかった青年オリバーと出会い……。
とある伯爵の憂鬱
如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。
二度目の人生は離脱を目指します
橋本彩里(Ayari)
恋愛
エレナは一度死に戻り、二度目の人生を生きることになった。
一度目は親友のマリアンヌにあらゆるものを奪われ、はめられた人生。
今回は関わらずにいこうと、マリアンヌとの初めての顔合わせで倒れたのを機に病弱と偽り王都から身を遠ざけることにする。
人生二度目だから自身が快適に過ごすために、マリアンヌと距離を取りながらあちこちに顔を出していたら、なぜかマリアンヌの取り巻き男性、死に戻り前は髪色で呼んでいた五人、特に黒いのがしつこっ、……男たちが懐いてきて。
この五人、お返ししてもいいですか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる