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第19話 毒の夜、沈黙が崩れる
しおりを挟む毒の匂いは、甘い。
甘いからこそ、喉の奥に残る。
甘いからこそ、思い出が腐っていく。
そして私は、その匂いを一度、人生の最後に吸っている。
夜。
王城の回廊は、蝋燭の火がゆっくり揺れていた。
揺れ方が穏やかすぎる。
嵐の前の海みたいに、静かすぎる。
私は自室の机で書類に目を通していた。
議会の議事録。
制度案の修正案。
監査機構の独立に関する条文の文言調整。
積み重ねた紙の重みが、私の背中を支える。
その背中に、ルーナの足音が近づいた。
いつもなら軽いのに、今夜は少し硬い。
「姫殿下。……差し入れが届きました」
ルーナは銀の盆を持っていた。
上質な酒瓶。
琥珀色が蝋燭の光を吸い、金みたいに輝いている。
グラスも二つ。
丁寧すぎる演出。
私はその瓶を見た瞬間、胃の底が冷えた。
――前世と同じ。
祝宴。
微笑み。
譲渡の言葉。
妹の手。
温かなワイン。
そして、舌を刺す金属臭。
記憶が鮮やかすぎて、喉がひりつく。
でも、私は息を止めない。
止めたら、過去に戻る。
「誰から?」
私は淡々と問うた。
淡々と問える自分が、少しだけ怖い。
でも淡々でなければ、狙い通りの“弱い女”になる。
ルーナが唇を噛む。
「宰相府から……です。『議会の疲れを癒すために』と」
ほら。
やっぱり。
最後の抵抗。
最後の大技。
制度で追い詰められた男が、最後に選ぶのはいつだって――物理的な沈黙だ。
「……飲みません」
私は即答した。
ルーナがほっとする。
でも、そのほっとした息の裏に、別の恐怖が混じっている。
飲まないなら、次は何をしてくる?
王城の闇は、選択肢が多い。
その瞬間、窓枠に小さな石が当たった。
カツン、という乾いた音。
私は目を上げ、窓辺へ行く。
外は暗い。
庭の植え込みの影が、少しだけ揺れる。
――カイ。
私は窓をほんの僅かに開けた。
冷たい夜気が流れ込む。
同時に、紙片が滑り込んできた。
『飲むな。瓶はもう“替えた”。証拠を取る』
私は紙片を握りしめた。
胸の奥で、静かな火が灯る。
怒りの火じゃない。
生き残るための火。
カイは転生を知らない。
でも彼は、破滅の匂いを嗅ぎ取る男だ。
だから今夜の匂いも、嗅ぎ当てた。
私はルーナに言った。
「その盆、置いて。誰も触らせないで」
「……姫殿下?」
「見張りを立てる。こっちは“飲まない証拠”が必要になる」
ルーナは一瞬戸惑った。
でもすぐに頷く。
「はい」
私は深く息を吸い、吐いた。
今夜、私は飲まない。
でも“飲まない”だけでは足りない。
飲まないことで相手が逃げる道ができる。
逃げ道を作らないために、証拠が要る。
夜更け。
王城の裏の小さな控え室。
カイはそこにいた。
外套の下から、同じ形の瓶を二本出す。
片方は、宰相府から届いたもの。
もう片方は、すでに“すり替えられた”ものだ。
「こっちが届いたやつ」
カイが指で示す。
琥珀色の液体が揺れる。
甘い匂いが、かすかにする。
「こっちは?」
「中身、普通。……姫さんが飲むふり用」
私は眉をひそめる。
「飲むふり?」
「飲まないだけだと、宰相は“たまたま飲まなかった”で逃げる。現行犯に近づけるなら、こっちから釣る」
カイは短く言った。
危ない橋だ。
でも、今の宰相は追い詰められている。
追い詰められた獣は、噛む。
噛んだ瞬間を撮るしかない。
ユリウスも控え室に入ってきた。
護衛を二人連れ、顔は硬い。
「殿下。準備は整っています。医師も待機。解毒薬も。……もしもの時は」
「もしもの時は、来ない」
私は言い切った。
来ないようにする。
それが今世の私のやり方だ。
ユリウスが頷く。
「はい。……では、手順を」
カイが瓶の口を拭う布を取り出す。
「これ。口元の油。指紋の代わりに匂いが残る。誰が触ったか、調べられる」
私は彼の手際を見て、胸の奥が冷たくなる。
影の世界は、こうやって人を狩る。
前世の私は知らなかった。
知っていれば死ななかったかもしれない。
カイが続ける。
「毒は前と同じ。遅効性。喉が焼ける。金属臭がする」
私は頷いた。
その言葉だけで、舌が思い出す。
体が勝手に震えそうになる。
でも私は、机に指を置き、震えを止めた。
震えは今夜の武器じゃない。
「姫さん」
カイが私を見る。
「怖いか」
私は一瞬だけ迷い、それでも正直に答えた。
「怖い。……でも飲まない。もう二度と」
カイが短く息を吐き、口角をほんの僅かに上げた。
星みたいに短い笑み。
「それでいい」
*
翌日、王城の小さな祝宴が用意された。
祝宴と言っても、夜会ほど華やかではない。
“疲れを癒すための私的な席”。
宰相がよく使う言い訳だ。
参加者は最小限。
父王レオニス。
宰相グラディオ。
王太子アレクシス。
そして私。
部屋の天井画は、金箔が散っている。
前世のあの祝宴と同じ構図。
ただし、今夜は音楽がない。
沈黙が音楽の代わりに流れている。
宰相が微笑み、酒瓶を指差した。
「殿下。昨日お届けしたものを、こちらにご用意いたしました。議会の疲れを、少しでも」
私は淡々と頷いた。
そして、用意された瓶は――すり替えられている。
毒の瓶は、別に確保されている。
「お気遣いありがとうございます」
私は礼儀の言葉を置いた。
礼儀は、刃を隠す布にもなる。
こちらも使う。
宰相がグラスを差し出す。
その手は穏やかだ。
穏やかな殺意。
それが一番怖い。
私はグラスを受け取り、鼻先に近づける。
琥珀の匂い。
甘い。
でもこれは、普通の酒だ。
私は唇を触れさせるふりをして、ほんの少しだけ傾けた。
飲まない。
ただ、“飲んだように見える”動作。
その瞬間、宰相の目が僅かに緩んだ。
勝ったと思った目。
その油断が、最期の隙。
カイは部屋の外。
でも彼の手は、ここまで伸びている。
隣室で待機する医師と記録官。
ユリウスの護衛。
すべてが“動いた証拠”を受け止める形になっている。
宰相が微笑む。
「いかがですか。殿下」
「……香りが良いですね」
私は淡々と言った。
同時に、机の下でルーナが用意した布で唇を拭った。
飲んでいない証拠。
唇の内側に、毒の痕跡がない。
そのまま数分、会話が続く。
政治の当たり障りない話。
空気の話。
穏便の話。
父王レオニスはほとんど口を開かない。
沈黙の鎧を着たまま、視線だけが揺れている。
彼も分かっている。
この席が何なのか。
それでも止められない。
止められない自分を、彼自身が一番恨んでいる。
そして合図。
隣室の扉が開き、記録官と医師、そしてユリウスが入ってきた。
唐突な侵入。
しかし手続きは整っている。
「失礼いたします。国王陛下、立会いのもと確認したいものがございます」
ユリウスの声は硬い。
硬いから、嘘が入らない。
宰相グラディオの微笑みが、わずかに固まる。
「これは……何の真似ですか」
私は静かに立ち上がった。
「確認です」
それだけ。
怒鳴らない。
でも逃がさない。
ユリウスが、布に包まれた瓶を机の上に置いた。
それは、宰相府から届いた“本物”の差し入れ。
毒入りの方。
「この瓶を、医師が検分しました。禁制薬草由来の成分が検出されました」
空気が凍る。
凍った空気の中で、王太子アレクシスが息を呑む音がやけに大きい。
父王レオニスが、声を出せないまま宰相を見る。
目が揺れる。
沈黙の鎧が、今にも剥がれそうだ。
宰相は微笑みを貼り直そうとする。
「……誰かが差し入れをすり替えたのでは? 殿下の側が――」
「すり替えました」
私は淡々と言った。
そして、視線を動かさない。
宰相の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「……殿下?」
「すり替えたからこそ、あなたが渡した瓶の中身が“そのまま”残った。逃げ道を作らないために」
言葉が、刃みたいに落ちた。
宰相の論点を先に潰す。
彼が得意な“穏やかな言い逃れ”を、制度と言葉で封じる。
ユリウスが続ける。
「さらに、瓶口の油痕から、宰相府内の特定の人物の接触が疑われます。調査は既に――」
「馬鹿げている」
宰相が低く言った。
微笑みが崩れ始める。
穏便の仮面が割れる音がする。
私は一歩前へ出た。
「馬鹿げているのは、あなたが今も“国のため”と言いながら人を殺そうとすることです」
父王レオニスの肩が震えた。
その震えが、今までの沈黙の重さを語っている。
宰相が父王へ向けて言う。
「陛下! 第一王女殿下は、私を陥れようとして――」
父王レオニスが、ついに立ち上がった。
椅子が軋む。
その音が、王城の“時代”が軋む音に聞こえた。
「……黙れ」
低い声。
初めて聞く父の声だった。
迷いの声じゃない。
決断の声。
宰相の顔が固まる。
「陛下……?」
父王は震えながらも言った。
「私は……国のために黙ってきた。荒立てぬために。穏便のために」
言葉が、喉から擦れ出る。
沈黙を破る言葉は、痛い。
だから父は今まで言えなかった。
「だが……その沈黙は、国を守る鎧ではなかった」
父王の目が、私に向く。
揺れている。
でも逃げない。
「国を壊す沈黙だった」
その言葉で、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
嬉しいわけじゃない。
救われたわけでもない。
ただ、長い間腐っていたものが、やっと空気に触れた感覚。
父王は、ゆっくりと私の前へ歩いてきた。
王としてではない。
父としてでもない。
ひとりの人間として。
そして――頭を下げた。
深く。
深く、深く。
それは謝罪ではなかった。
謝罪なら、言葉が要る。
これは言葉を超えた、降伏に近い形だった。
私は息を止めなかった。
止めたら、崩れるから。
私はただ、父の頭頂部を見つめた。
「……陛下」
私が呼ぶと、父王は顔を上げた。
目が赤い。
でも泣いてはいない。
泣けば王になれないと思っているのだろう。
その不器用さが、痛い。
「セレスティア。……すまない。私は、お前を一人で戦わせた」
言葉が出た。
やっと。
遅すぎる言葉。
でも今、出たことに意味がある。
私は首を振らない。
許すとも言わない。
今ここで必要なのは、感情の決着ではない。
「……これで終わりではありません」
私は静かに言った。
「宰相は失脚しても、仕組みが残れば同じことが起きる。だから、制度を完成させます」
ユリウスが一歩前に出る。
「宰相グラディオ・フェルゼン、拘束を」
護衛が動く。
剣は抜かれない。
抜かなくても、人は縛れる。
それが制度の力だ。
宰相は最後まで微笑もうとした。
でも口角が震え、目が冷たく光る。
「殿下……あなたは、国を壊す」
私は彼を見た。
「壊すのは、あなたが作った穴です。私は塞ぐだけ」
その言葉は、私の中の芯から出た。
復讐じゃない。
激情じゃない。
現実の言葉。
宰相が連れ出される。
扉が閉まる。
その音が、王城の長い夜に区切りをつけた。
毒の夜。
前世で私を殺した夜。
今世で私は、飲まなかった。
飲まないだけじゃなく、証拠を掴んだ。
部屋に残った沈黙は、重い。
でも前の沈黙とは違う。
壊す沈黙ではなく、次へ進むための沈黙だ。
父王レオニスは、まだ私の前に立っていた。
鎧を脱ぎかけた人間の、裸の弱さが見える。
「セレスティア……」
「はい」
父は一瞬、言葉を探し、やっと言った。
「……お前のやり方で、国を守れ」
それは命令じゃない。
委ねる言葉。
そして、彼が初めて選んだ“穏便ではない選択”。
私は小さく頷いた。
「守ります。母の代わりに。……私の代わりに死んだ人たちのために」
喉の奥がひりつく。
でも今夜は毒じゃない。
真実の痛みだ。
真実は甘くない。
だから、生きられる。
窓の外に、夜明け前の色が滲んでいた。
黒が薄くなっていく。
王城が、ゆっくりと朝へ向かう。
私は知っている。
これは終わりじゃない。
ただ、最後の扉が開いた音だ。
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