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第5話 最強魔導士の決意と、ノワリエの新しい名
しおりを挟む森を抜ける道は、思ったより静かだった。
鳥の声も、虫の音もする。木々のざわめきも、風の音もちゃんとある。けれど、そのどれもが、どこか遠くに聞こえる。
アークの意識が、腕の中の小さな存在に集中しているせいだった。
赤ん坊は、さっきまであれだけ激しく泣き叫んでいたくせに、今はぐずぐずと小さく啼くだけになっている。息を吸うたびに、胸元で喉がきゅうと鳴る感触が伝わってきた。
白い布に包まれた身体は軽い。落とすまいと腕に力を込めると、コートの中で心臓の鼓動がぴくりと跳ねる。
アークは歩みを緩めた。
森の切れ目。木々の影が薄くなり、空がひらける。そこから少し先に、黒い塔の頭が見えた。
フェルネウスの塔。王都の外れ、丘の上にひとりで屹立する、それなりに有名な「変人魔導士の巣」。
「……本気で、俺の家に連れていくつもりか」
自分で自分にツッコミを入れたくなる。
赤ん坊がいる生活なんて、一度も想定したことがなかった。
そもそも、人と一緒に暮らすこと自体、長い間避けてきた。
力が強すぎる。
感情が乱れれば、周囲の魔力まで引きずって暴走させる。何度そうなりかけたか、数えるのも馬鹿らしい。
だから、アークはひとりになった。
家族を失ったあと、戦場から解放されたあと、褒美として与えられた領地や屋敷も全部手放して、塔だけ残した。
塔と、本と、魔法と、静かな時間。
それだけあればいいと思っていたはずだ。
なのに――今、腕の中には、小さな命が収まっている。
アークは歩を止め、ゆっくりと樹の根に腰を下ろした。
森と塔の境目。風が通り、光が木漏れ日になって落ちてくる場所。
膝の上で赤ん坊を慎重に抱え直す。
「……さて」
改めて、顔を覗き込んだ。
さっきは泣き顔でぐしゃぐしゃだった顔が、少しだけ落ち着いている。けれど、瞼はまだ腫れていて、頬は涙の筋が残って赤くなっている。
丸い額。小さな鼻。少し尖った、意外と意志の強そうな口元。
アークは人の顔を見る癖があまりない。戦場では敵の“位置”と“武器”のほうが重要で、日常では本のほうをよく見ているからだ。
それでも、この顔は、一度見たら忘れない気がした。
「目を……開けてみろ」
独り言のように呟く。
もちろん、赤ん坊がその指示に従うわけもない――はずだったのだが、タイミングよく、むずっと小さな身体が動き、瞼がぴくりと震えた。
ゆっくりと、灰色の睫毛が持ち上がる。
覗いたのは、灰紫色の瞳。
ほんのりと紫が混ざった、曇り空みたいな、雨上がりみたいな色。その奥に、何かが沈んでいた。
怯え。
諦め。
そして、年齢不相応な“疲れ”。
アークの喉が、勝手に鳴った。
「……なんだ、それは」
思わず、低く漏れる。
赤ん坊の目に浮かぶには、不釣り合いな影だった。普通の赤ん坊なら、好奇心や不安はあっても、ここまで「自分を責める」色は宿さない。
アークは、その瞳をじっと見つめる。
視線が絡む。
腕の中の子は、ぼやけた視界の中でも、目の前の存在を必死に捉えようとしていた。
(この人……目の色、きれい)
まだ焦点も合わないくせに、そんなことを思ってしまう自分に苦笑したくなる。
金色。鋭くて、冷たくて、でもどこか火の粉みたいな熱も潜んでいる目。
きれいだな、と素直に思った。
それと同時に――怖かった。
(また、私、変なとこに落ちてきちゃったのかな)
白い光。焼ける痛み。崩れる魔法陣。謝り続けた最後。
あの世界で、「厄介ごと」として片付けられた自分。
ここでも、同じだったらどうしよう。
拾ってくれた今はいいとしても、「やっぱり面倒だ」と思われて、すぐにどこかに置き去りにされるかもしれない。
怖くて、でも目をそらせない。
怯えと、諦めと、期待を捨てきれない自分への苛立ち。ぐちゃぐちゃの感情が、灰紫の瞳の奥で渦を巻いていた。
アークは、その全部を、うっすらと“感じ取って”いた。
はっきりと言葉として理解できるわけじゃない。だが、魔力を通して伝わる感情の波のようなものが、直接胸にぶつかってくる。
「君は……」
言葉が、自然とこぼれた。
「捨てられたのか? それとも、世界から零れ落ちたのか」
赤ん坊は答えない。
ただ、金色の瞳に映る自分の顔を見つめ返している。その視線には、やっぱり少しだけ、「ごめんなさい」という色があった。
アークは苦笑する。
「赤ん坊に聞くようなことじゃないな」
そもそも、自分だって、世界から零れ落ちたような存在だ。
戦争で家族を失い、国のために戦い続けて、“最強の魔導士”なんてありがたくもない称号を押しつけられて。平穏な日常に戻る道も、どこかで閉ざしてしまった。
そうやって、塔に籠もることを選んだのは、自分自身だ。
人を助けることにも、慣れていない。
助けた先で、その人が傷つく姿を見るのも、もううんざりだった。
(もし、こいつに関わって、そのせいでこいつが傷ついたら)
脳裏に、嫌な未来が浮かぶ。
俺の周りには、いつだってトラブルが集まってくる。力を欲しがる国や貴族、恨みを抱えた敵、くだらない権力争い。そこに、無防備な赤ん坊を巻き込むことになるかもしれない。
それは、正直、怖かった。
怖くて、足がすくむくらいに。
だから、アークは迷う。
腕の中の重みを、そっと見下ろす。
ここで手放せばいい。
森に寝かせて、どこかの村人に拾わせるなり、教会に預けるなり――自分じゃない誰かに託してしまえば楽だ。
そうすれば、自分が傷つくことも、この子が自分のせいで傷つくことも、少しは減るかもしれない。
それでも。
その選択肢を取った瞬間、自分が一生後悔する未来が、ひどく鮮明に見えた。
胸の中に空いている穴が、今はほんの少しだけ埋まっている。その感覚に、アークは気づいてしまっていた。
魔力が静まっている。
耳鳴りみたいに聞こえていた魔力のざわめきが、今はピタリと止んでいる。
ずっと続いていた頭痛が、少し和らいだときみたいな、微妙な違和感。
「……厄介だな」
心からの本音が、ぽつりと漏れる。
「俺は、静かな生活のために、全部手放したはずだったのに」
人付き合いをやめ、肩書きから逃げ、戦場から背を向けて。
塔と本と魔法だけ抱えて生きるつもりだった。
その計算が、今、腕の中の七、八キロにも満たない重みで、あっさりと崩されている。
アークは、目を閉じる。
深く息を吸って、吐く。
冷静になろうとした。
でも、ダメだった。
理屈で考えれば考えるほど、「ここで手放したら一生後悔する」という確信だけが、妙にクリアになっていく。
後悔は、もうたくさんだ。
助けられなかった仲間も、守りきれなかった故郷も、全部、心の中に棘みたいに刺さって残っている。
これ以上、新しい棘を増やしたくはなかった。
「……分かった」
目を開ける。
自分で自分に向けて、小さく頷く。
「君を手放したら、たぶん一生後悔する」
それは、赤ん坊への宣言であり、自分への宣告だった。
アークは、かすかに笑う。
いつも塔の中でひとりごちる皮肉な笑いとは違って、どこか投げやりで、でも少しだけ柔らかい笑い。
「だから、連れていく。俺の世界に」
灰紫の瞳が、ぱちぱちと瞬く。
意味なんて分かっていないはずなのに、その瞳の奥の怯えが、少しだけ溶けた気がした。
アークは、赤ん坊の頬にかかっていた布をそっと直す。
風がまた吹いた。森の匂いと、遠くの土の匂い。どこか懐かしい匂いが混ざっている気がした。
「……そうだな。まず、名前だ」
世界に受け入れる第一歩。それは、「名前を与えること」だと、誰かが昔言っていた。
名前があるからこそ、その存在は“誰か”になる。
アークは、空を見上げた。
今は昼。だが、彼の頭の中には、“夜”のイメージが浮かんでいた。
黒い夜。
世界が終わったように真っ暗で、何も見えない、あの夜の戦場。血と煙と、焼けた鉄の匂いだけが充満していた、凍りつくような夜。
そこに、ひとすじだけ光が差した瞬間があった。
誰かの焚いた小さな灯り。
それは、全てを救ったわけじゃない。戦況をひっくり返したわけでもない。でも、その瞬間だけは、「まだ生きていていい」と思えた。
あの感覚を、アークは忘れていない。
「黒い夜に差す、ひとすじの光」
呟きながら、自分の言語体系を組み合わせていく。
古い魔導語で夜を意味する「ノワール」。光を意味する「ルミエール」。
その二つを、口の中で転がして、形を変えて。
「ノワールと、ルミエール。合わせて……」
金の瞳が、腕の中の子をまっすぐに見つめる。
「ノワリエ」
しっくりきた。
黒い夜の底で、かすかに輝く、小さな光みたいな響き。
「今日から、お前はノワリエだ」
名を告げる声は、思っていたよりも優しかった。
自分で驚くくらい、柔らかかった。
ノワリエ――前の世界での自分の名前を、そのまま聞いた瞬間。
(……え)
胸が、きゅっと締め付けられた。
言葉そのものの意味は分からない。けれど、その響きには聞き覚えがあった。
魔女の村で、文句とため息の前につけられ続けていた名前。
「ノワリエ、また失敗したの」「ノワリエ、離れてて」「ノワリエ、あなたは器が歪んでる」
呼ばれるたびに、胸の奥が重くなっていった、その音。
その名前を、今、まるで違う温度で呼ばれている。
「ノワリエ」
もう一度、アークが呼ぶ。
「ここから先、お前はその名で生きる。黒い夜に差す、ひとすじの光。……君は、そんな存在になれる気がする」
黒い夜。
それは、ノワリエにとっても馴染み深いものだった。
役立たずと言われ続けた日々も、最後の白い光も、そのあとに訪れた暗闇も、全部“夜”のようなものだった。
でも、「そこに光になれる」と言われたことは、一度もなかった。
(私、光なんかじゃなかったよ)
心のどこかで、反射的に否定しそうになる。
でも、アークの声は、そんな否定を一つひとつ包み込むみたいに、あたたかかった。
優しい。
無条件に。
何かをしていないのに。役に立っていないのに。「名前を与えられて、受け入れられている」という感覚。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……あ)
そこで、初めて気づいた。
これは、多分、安堵というやつだ。
前の世界では、ほとんど味わったことのない感情。
認められたわけでも、褒められたわけでもないのに、「ここにいていい」と言われた気がした瞬間に、胸の底から湧き上がってくる、あたたかいもの。
言葉は分からない。
でも、魂が先に反応する。
ノワリエの目から、涙が一粒、するりとこぼれた。
アークが驚いて眉をひそめる。
「……おいおい。名前が気に入らなかったか?」
冗談めかして言いながらも、声には本気で心配が滲んでいた。
ノワリエはもちろん、「違うよ」と言葉で返せない。
代わりに、小さな指が、アークのコートの布をぎゅっと掴んだ。
それは、精一杯の「離れたくない」というサインだった。
アークは一瞬目を見開き、それから小さく笑った。
「……そうか。なら、よかった」
その笑顔は、決して完璧じゃない。
どこかぎこちなくて、笑い慣れていないのが丸わかりで、それでも――とても、優しかった。
「よろしくな、ノワリエ」
新しい名前。
新しい世界。
新しい“拾い主”。
ノワリエは、眠気に引きずられながら、その声を何度も何度もリピート再生していた。
(よろしく、だって)
そんなふうに言われたのは、たぶん初めてだ。
(今度こそ、ちゃんと……この人の役に立てるようになりたいな)
まだ何もできない赤ん坊が、そんな身の丈に合わない願いを抱いていることなんて、誰も知らない。
アークはノワリエを胸に抱いたまま、立ち上がる。
目の前に、黒い塔がそびえていた。
長い間、アークひとりの居場所だった場所。
「――ただいま」
誰にともなく呟く。
ノワリエには、その言葉の意味は分からなかった。
でも、「これから一緒に帰るんだ」という感覚だけは、しっかりと伝わってきた。
フェルネウスの塔へ向かうその背中が、ゆっくりと歩き出す。
役立たずと見捨てられた魔女ノワリエは、別世界で最強魔導士アークに拾われた。
世界規模で見れば塵みたいな、小さな選択。
それでも、この瞬間が、二人の人生と、この世界の未来を大きく変える“最初の一歩”になる。
このときの彼らは、まだ知らない。
自分たちの物語が、どれほど甘く、苦く、そして鮮烈なものになるのかを――。
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