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第4話 別世界の空の下で
しおりを挟む最初に感じたのは、やわらかい空気だった。
焼けるような熱も、骨を軋ませる痛みもない。皮膚を撫でる風はあたたかくて、鼻の奥には、湿った土と草の匂いがふわりと入り込んでくる。
(……さっきまで、燃えてたのに)
肺が焼けて、喉が潰れて、世界が白く塗りつぶされて。
「ごめんなさい、また失敗しました」なんて。どうしようもなくみっともない言葉を最後に残して、全部終わったはずなのに。
なのに。
「――おぎゃああああ!」
自分の口から飛び出したのは、聞いたこともないくらい素っ頓狂な泣き声だった。
(え、なに、今の声)
しゃがれた謝罪じゃない。高くて、小さくて、世界に産まれましたって主張してるみたいな、赤ん坊の声。
そんなことを思った瞬間――自分の思考のほうがおかしいと気づいた。
(……いや、待って。考えてることはいつもの私なのに、身体が変)
手足がうまく動かない。というか、うまく動かそうとしても、ふにゃっとした感触しかない。指を一本一本動かすことさえ、ものすごく大変だ。
視界はぼやけたまま、世界がにじんでいる。光が強すぎて、輪郭がうまく掴めない。
その中で、影がひとつ、近づいてきた。
大きい。
本当に、大きい。
空の半分以上を、そのシルエットが埋め尽くしていく。黒いコートの裾、長い脚、がっしりとした肩。その上に乗っている顔の輪郭は、まだよく見えない。
けれど、その人影の周りにまとわりついている「空気」だけは、はっきりと分かった。
冷たい。静か。凍てついた湖みたいに、ぴたりと止まった空気。
孤独を長い間放置した結果、音や色が全部そぎ落とされてしまったような、そんな気配。
(……さむ)
風が冷たいわけじゃないのに、背筋がぞわりとした。
でも、その大きな影がすっと腕を伸ばした瞬間――世界が、がらっと変わる。
赤ん坊の身体が、ふわりと持ち上げられる。
胸の下に、硬いけれど確かな腕の感触。布越しにも分かる、温度。大人の男の体温って、こんなに熱いんだと、変なところで冷静に感心してしまう。
ぐるり、と視界が動いた。さっきまで斜めに見ていた木々が、逆さになって、またひっくり返る。
その真ん中に――顔があった。
黒髪。前髪が無造作に額に落ちていて、鋭い金の瞳。その目は、油断するとなんでも焼き切りそうなくらいの冷たさを宿しているのに、今はほんの少しだけ驚いていた。
「……赤ん坊?」
低い声が、空気を震わせる。
赤ん坊。そう、私は今、赤ん坊なんだ。
(いやいやいや、待ってよ。どういうこと……?)
頭の中のツッコミはいつも通りなのに、口から出るのは「おぎゃー」しかない。もどかしさで暴れたいのに、手足はうまく動かない。
男は、腕の中の小さな存在――つまり私――を、じっと見つめていた。
その瞳の奥には、警戒と、観察と、ほんのわずかな困惑。
「……ここは危険地帯のはずだがな」
独り言のように呟く。
「魔力の亀裂のど真ん中から、赤ん坊が落ちてくるなんて、聞いたことがない」
魔力の――亀裂。
その単語に、胸の奥がざわりと動いた。
あの白い光の中心。世界が裂けるみたいに眩しくて、痛くて、怖かったあの瞬間。その向こう側から、ここに落とされた?
(もしかして、私……別の世界に来た?)
考えた途端、さっきまでふわふわしていた意識が、少しだけはっきりする。
さっきまで見ていた森とは、匂いが違う。湿り気も、木々のざわめきも、風の流れも。魔力の“匂い”も、まるで違う。
ここは、ノクターンの集が隠れていた森じゃない。
別の場所。別の世界。
「……泣き止まないあたり、生きる力は強そうだな」
男が、少しだけおかしそうに片方の口角を上げた。笑っている――と言うにはぎこちないけれど、少なくとも完全な無表情ではなくなった。
「おぎゃあああ!」
(いや、だって、こっちはパニックだし!?)
赤ん坊の喉は、そんなツッコミを形にしてくれない。ただ泣くだけだ。それしかできないのが、情けなくて、悔しくて、でも――どこか、安心もしていた。
だって。
腕の中が、あたたかかったから。
さっきまで、誰にも惜しまれずに死んでいった感覚が、まだ骨のあたりに残っている。世界から丸ごと拒絶されて、「厄介ごとが片付いた」と背を向けられたあの最後。
それと比べれば、今は。
知らない人に抱き上げられているとはいえ、“捨てられている”感覚ではなかった。
(……変なの)
自分で自分の感情に首をかしげる。
怖い。知らない場所、知らない人、知らない空。
だけど、腕の抱き方は、乱暴じゃなかった。落とさないように、ちゃんと支えてくれている。肩と首の角度を気遣ってくれているのが、赤ん坊の身体越しでも分かる。
男は、しばらくの間ただ黙って私を見つめていた。
それから、ふいに目を細める。
「……妙だな」
低く呟く。
「魔力の波が、おさまっている」
そう言って、自分の胸に手を当てた。
男の周囲の空気が、少しだけ変わる。
さっきまで、冷たさと静けさで固まっていた空気が、わずかに柔らかくなる。重く押し込められていた何かが、少しだけ緩むみたいに。
男――この世界で後に「最強魔導士」と呼ばれることになるアーク・フェルネウスは、自分の中で渦巻いていた魔力の“ノイズ”が、急に静かになっていることに気づいていた。
いつもなら、呼吸をするたびに魔力がきしむ。
ちょっと気を抜けば、周囲の空気ごと凍らせてしまいそうで、ずっと力を入れて生きてきた。
それが――腕の中で泣き叫ぶ、ちっぽけな赤ん坊を抱えた瞬間だけ、ぴたりと静まった。
まるで、今まで暴れていた魔力が、「あ、今は騒がないほうがいいや」とでも言うように、おとなしくなっている。
「……なんだ、この感覚は」
思わず、口から漏れた。
赤ん坊は、まだ泣いている。小さな顔をぐしゃぐしゃにして、目をぎゅっと閉じて。真っ赤になった頬には、涙がいくつも伝っている。
いや、よく見ると、その泣き方は――普通の赤ん坊のそれとは、どこか違うように見えた。
初めてこの世に出た子どもは、もっと無防備で、理由なんか知らずに泣き喚くものだ。
けれど、この子の泣き方は、どこか「恐怖」と「戸惑い」と「罪悪感」が混ざっているように見えた。
ありえないと思いながらも、アークはそう感じた。
(……罪悪感? 赤ん坊が?)
頭がおかしくなったのかと、自分で自分を疑う。
だが、腕の中の存在から伝わってくるのは、確かにそこだけ妙に大人びた感情の揺れだった。
アークは目を細める。
「君は……どこから、落ちてきた?」
言ったところで、相手が理解するはずもない。それは分かっている。
それでも、聞かずにはいられなかった。
赤ん坊はもちろん答えない。
代わりに――胸の奥で、ノワリエの意識が、ひそりと反応した。
(どこからって……たぶん、“前の世界”から)
はっきりとした記憶じゃない。白い光と、焼ける痛みと、「失敗しました」と謝りながら消えていった自分。
その断片の向こうに、“あの森”が、ぼんやりと浮かんでいる。
黒いローブ、冷たい瞳、焦げた匂い。
サナリア。
魔女たち。
「……ごめんなさい」
心の中で呟く。
(また、迷惑、かけたかもしれない)
魔法陣を暴走させて、周りを巻き込んで、最後に爆発して。
死んだあとまで、何かを壊しているかもしれない。ここに落ちてきたことだって、この世界の誰かにとっての“迷惑”かもしれない。
そんなことを考えた瞬間。
アークは、胸の奥に、ひどく歪な違和感を覚えた。
(……なんだ、この胸のざわつきは)
腕の中の子どもから、直接伝わってくるような、ひどく自己否定的な感情の波。
アークは舌打ちしたくなる衝動を飲み込んだ。
「迷惑、ね」
ぽつりと呟く。
「迷惑をかけて生きているのは、俺も同じだが?」
この力を持ってしまった時点で、もうまともな生き方なんてできなかった。
戦争で家族も故郷も失い、才能ゆえに兵器として扱われ続けた日々。生きているだけで世界のバランスを崩しかねない、と後ろ指をさされる日常。
そんな自分にとって、“迷惑だから存在するな”なんて言葉は、聞き飽きていた。
「……」
アークは、腕の中の小さな命を、少しだけ抱き直す。
驚いたように、赤ん坊の泣き声が一瞬途切れた。
代わりに、か細い息の音が、胸元で震える。
アークは、自分でも驚くくらい優しい声で問いかけていた。
「そんなふうに震えるな。……お前は、何も悪くない」
それは、半分は自分に向けた言葉でもあった。
誰かにそう言われたかったのかもしれない。あの地獄みたいな戦場で、力だけを求められて、心なんて見てもらえなかった頃に。
腕の中の子は、もちろん言葉の意味なんて分からない。
だけど。
泣き声は、少しだけ弱まった。
大きく口を開けて泣き叫んでいたのが、ひっく、ひっく、と嗚咽まじりの泣き方に変わる。
それを見て、アークは、ふっと微笑んだ。
「……そうだ。泣くだけ泣けばいい」
自分に許されなかったものを、この子には許そうと、そんなことをふと思った。
空を見上げる。
さっきまで暴れていた魔力の亀裂は、ほとんど消えかけている。薄いひびのような痕跡だけが、空の一部を曇らせていた。
「本来なら、ここで浄化して、記録だけ残して終わるつもりだったが……」
アークは小さく息を吐く。
「……予定は変えるか」
この子を置いていく選択肢は、もうなかった。
腕の中の重みは、まだ軽い。少し力を入れれば簡単に手放せる。地面に置いて、森に任せることだってできる。
でも、それをした瞬間、今静まっている自分の魔力が、また荒れ狂う気がした。
孤独に戻るのは、簡単だ。
簡単で、そして――もう嫌だった。
「まったく。俺は、何をやっているんだろうな」
自嘲気味に笑いながら、アークは決める。
「……まあいい。拾ってしまったものは、最後まで面倒を見る主義だ」
そんな主義、今生まれたばかりだけど、って心の中でツッコむ自分もいた。
赤ん坊の額に、風が当たらないように、自分のコートの襟をそっと上げる。冷えないように、胸元に抱き寄せる。
ノワリエは、くしゃくしゃの顔のまま、胸の鼓動の音を聞いていた。
どく、どく、どく。
大きくて、規則的で、少しだけ早い。
(……生きてる音だ)
当たり前だけど、その当たり前が、胸の奥に深く響いた。
自分の心臓の音も聞こえる。小さくて、早くて、必死に生きようとしている音。
さっきまで、「もう終わりだ」と手放しかけていたのに。今は、ちゃんと動いている。
(……二回目の人生、ってやつ?)
そんな、ライトノベルみたいな単語が頭をよぎる。
転生。異世界。生まれ変わり。
どれも、あの世界では絵空事の話だった。でも今は、その“絵空事”の真っ只中にいる。
(また、失敗するかもしれない)
魔法も、うまくいかないかもしれない。誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それでも。
腕の中の温度が、今だけは、その恐怖を少しだけ遠ざけてくれていた。
(この人は、今のところ、私を“厄介ごと”って顔で見てない)
それが不思議で、くすぐったくて、怖くて。
胸の奥で、小さな決意が生まれる。
(……今度こそ。今度こそ、誰かの役に立てるように、生きたいな)
たとえまた失敗しても、また立ち上がればいい。
前の世界でできなかったやり直しを、この世界で。
アークは歩き出す。
森の奥へ。自分の住処――王都の外れに建つ「フェルネウスの塔」へと、静かに足を向ける。
冷たい風が吹いた瞬間、アークは腕の中の子を守るように、少しだけ抱きしめる力を強くした。
ノワリエの意識は、もう半分眠りかけていた。疲れと安心と、さっきまでの痛みの名残で、意識がとろとろと溶けていく。
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