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第6話 魔導士の塔での新生活
しおりを挟むフェルネウスの塔は、遠くから見るとただの「黒い棒」だった。
王都から少し離れた丘の上。見上げるほど高く、空を突き刺すみたいに真っ直ぐ立っている黒い塔。周囲には家一軒ない。人の気配も薄く、近づく馬車もほとんどいない。
王都の人間は言う。
「あそこには、最強の魔導士が籠もってる」 「怒らせたら国ごと吹き飛ぶって噂だぞ」 「だから近づかないほうがいい」
そんなふうに恐れられている場所――その最上階の一室が、今は小さな命の寝床になっていた。
◇ ◇ ◇
「……よし。これでいいはずだ」
アークは、真剣な顔で鍋とにらめっこしていた。
塔の中腹にある、小さなキッチン。研究室の一角を無理やり改造した場所だ。壁には魔道具やら薬草やらが雑多に掛けられ、その場に似つかわしくない小さな哺乳瓶と布おむつの山が置かれている。
鍋の中で、白い液体がゆらゆらと揺れていた。
ミルク。
……のはず。
「温度は……このくらいか?」
アークは自分の指先に魔力を通し、液体の温度を測る。思っていたより熱い。少し魔法で冷やす。今度は冷やしすぎてぬるくなる。また温める。
そのたびに、鍋の中でミルクの表面がぷるぷると震えた。
背後から、澄んだ泣き声が聞こえてくる。
「……あー……」
アークは眉をひそめた。背中で泣いている小さな存在を、気にしないふりができるほど鈍感ではない。
けれど、今鍋から目を離したら、ミルクが焦げる未来がはっきり見える。
「もうちょっと待て。今、ちゃんとしたやつを作っている」
腕の中ではなく、部屋の隅の揺りかごから、ノワリエの声が上がる。
「……ふ、ぎゃ……っ……」
泣きたいけど頑張って堪えているみたいな、微妙に遠慮がちな泣き方だった。
生後数ヶ月。
まだ言葉は一切しゃべれないくせに、「空気を読もうとしてる感」があるのが、この子の厄介で愛おしいところだ。
アークは、ため息を一つつくと、魔法で火加減を調整しながらミルクを哺乳瓶へと移した。
トレーに乗せて持ち上げ、そのまま振り返る。
揺りかごの中で、ノワリエはちいさく手足をばたつかせていた。
枕元には、塔の魔法布で作った小さな毛布。窓から差し込む光が、黒髪と灰紫の瞳を淡く照らしている。
ノワリエは、アークの姿を認識すると、ぱちぱちと瞬きをして、口をへの字に曲げた。泣きそうなのを必死に我慢している顔。
「……泣いてもいいんだぞ?」
つい、そんなことを言ってしまう。
「泣くのは、赤ん坊の仕事だ」
ノワリエは意味なんて分かっていないはずなのに、「え、本当に?」みたいな顔をして、ふにゃっと表情を緩めた。
次の瞬間。
「……う、ぁ……ぎゃああああ!!」
盛大に泣いた。
「そうそう。そうやって主張しろ」
アークは苦笑しながら、ノワリエを抱き上げる。肩と首を支える角度も、ようやく少し慣れてきた。
とはいえ、最初の数日は散々だった。
抱き上げようとして頭を支え損ねて「ひっ……!」とこっちが心臓を止めそうになったり、ミルクの温度を間違えて「ぎゃーー!!」と全力拒否されたり、おむつ替えのタイミングが分からなくて部屋がちょっとした惨事になったり。
最強魔導士の称号を持つ男が、哺乳瓶一つ前にして真剣に悩んだことなど、かつてあっただろうか。
「ほら、飲めるか?」
ノワリエの唇に、そっと哺乳瓶の先を近づける。
最初は「それなに?」という顔をしていたが、一度口に含んで味を確かめると、すぐにちゅうちゅうと飲み始めた。
喉が、こくり、こくり、と動く。
小さな手が、哺乳瓶にそっと触れる。その指は、まだきちんと掴むこともできないのに、「これは大事なものだ」と本能で理解しているみたいだ。
(……すごいな)
アークは変なところで感動していた。
生きようとする本能。
前の世界でどんな最期を迎えてきたかなんて、この世界の誰も知らない。本人ですら、もう細かいところは思い出せないかもしれない。
それでも、この身体はちゃんと「生きる」ことを選んでいる。
ミルクの匂い。
それは、ノワリエにとっても新鮮だった。
(あったかい)
前世で、こんなふうに温かな飲み物を、誰かに用意してもらった記憶はほとんどない。魔女の村では、基本的に自分のことは自分でやるのが当たり前で、失敗すれば怒られた。
今、目の前の人は。
ミルクを焦がしたり、ぬるくしすぎたり、色々やらかしているくせに、「失敗した」と笑ってもう一回作ってくれる。
(変な人)
でも、嫌じゃない。
ミルクが喉を通るたびに、お腹の底がじんわりと温まっていく。胸の奥に溜まっていた冷たい石みたいなものが、少しずつ溶けていく感覚。
「……よし。全部飲んだな」
アークは哺乳瓶を引き、ノワリエを肩に担ぎ直す。
「げっぷ、だっけな」
育児書を魔法で複製して読んだ結果、「ミルクのあとはげっぷをさせろ」と書いてあった。子どもの身体の構造は、魔法陣よりよほど複雑な気がする。
アークが背中を優しくぽんぽん叩くと、ノワリエが小さなげっぷを一つ。
「……おお」
妙な達成感があった。
「最強魔導士、げっぷひとつに感動してどうするのよ」
呆れた女の声が、部屋の入口から飛んできた。
アークが振り向くと、扉のところにひとりの女性が立っていた。
肩までの明るい茶髪を後ろでまとめ、緑のローブをゆるく羽織っている。瞳は柔らかな琥珀色。腰には治癒用の杖とポーションポーチ。
治癒魔導士、エリアナ・ブレイク。
アークの幼なじみであり、数少ない「友人」と呼べる存在のひとりだ。
「来たか、エリアナ」
「“来たか”じゃないわよ。急ぎの伝令で“赤ん坊を拾った”って書いてあったときは、目を疑ったんだからね」
エリアナは額に手を当てて、大げさにため息をついた。
「で、その子がその赤ちゃんなわけ? ……って、あら」
ノワリエと目が合う。
ノワリエはきょとんとした。新しい人だ。魔力の匂いが、アークとは違う。やわらかくて、包帯みたいな感触。
「わ、かわいい顔してるじゃない。ねぇ、この目の色、珍しいわね」
エリアナが近づいてきて、覗き込む。
ノワリエはその顔をじーっと見上げた。
(やさしそう)
そんな印象が、ふわりと浮かぶ。
エリアナは、その視線に気づいて微笑んだ。
「私、エリアナ。あなたの……なんだろ。保険係? 怪我したり熱出したりしたら、私が治す係。よろしくね」
もちろん、ノワリエは意味なんて分からない。
でも、「よろしく」という音の響きが、アークのときと少し似ていて、胸の奥がくすぐったくなった。
「他にもう一人、呼んである。マルタは?」
「下で荷ほどきしてる。塔の掃除が大変だって文句言ってたわよ。“男の一人暮らしの跡は戦場です”って」
「……否定はしない」
アークの生活空間は、本と書類と魔導具と実験器具で埋め尽くされていた。そこにさらに乳児用品が増えたことで、混沌はもはや芸術の領域に達している。
その混沌を、きっちり整えてくれるのが、マルタ・グラン。
元々貴族家に仕えていたベテラン家政婦で、今は半引退状態だったのを、エリアナ経由で頼み込んで連れてきてもらった。
「でもさ」
エリアナは腕を組み、じろりとアークを睨む。
「本気なの? この子、育てる気なんでしょ」
「本気でなきゃ、わざわざ君に連絡はしない」
アークは端的に返す。
「俺ひとりじゃどうにもならないことは、分かっている」
「そこは素直に認めるのね」
「最強なのは戦場だけだ。家事と育児は完全に未踏の領域だ」
「胸張って言うことじゃないからね?」
ぐさっとツッコミが刺さる。
エリアナは、ふっと表情を和らげた。
「でも、正直ちょっと安心した」
「何がだ」
「アンタが“誰かを家に入れる気になった”ってことよ」
その言葉に、アークの肩がぴくりと動く。
エリアナは続けた。
「今まで、誰が何を言っても、塔に住むのは自分だけって決め込んでたでしょ。“俺は人を巻き込みたくない”ってさ」
「……事実だ」
「そのアンタが、自分から赤ん坊拾って、“助けてくれ”って私たち呼んだんだもの。……変わったなって思うわけ」
変わった。
それは、アーク自身もうっすら自覚している。
塔の中に、こんな笑い声が響く日が来るなんて、数ヶ月前の自分に言っても信じなかっただろう。
エリアナは、ノワリエのほっぺを指でつついた。
「この子が変えたんだね。――ねぇ、おちびさん。アンタ、けっこう罪深いことしてくれたわよ」
「……あー」
ノワリエは適当に返事をした。
意味なんて分かっていない、はずなのに。胸の奥がじんわり熱くなるのは、さっきから変わらない。
◇ ◇ ◇
「アーク様、上がってもよろしいですかい?」
階段のほうから、年季の入った落ち着いた声が響いた。
ドアがノックされる前に、声だけが届いたのは、長年の家政婦経験で「いきなりドアを開けて事故現場を目撃しない」ための知恵だろう。
「どうぞ」
アークが答えると、慎重にドアが開く。
入ってきたのは、ふくよかな体格の中年女性。白髪混じりの髪をきっちりとひとつにまとめ、エプロンをきゅっと締めた姿は、いかにも「家のことは全部任せなさい」と言わんばかりだ。
「マルタ。遠いところ悪かったな」
「ほんとですよ。あたしゃ引退した身だったはずなんですけどね」
口では文句を言いながらも、マルタの動きはきびきびしている。部屋の様子を一目見て、「あーこれは重症だわ」とでも言うように小さく肩をすくめた。
そして、すぐにノワリエに視線を移す。
「あらまぁ……」
目が細められる。頬が、少しだけ緩んだ。
「こいつが例の嬢ちゃんかい」
「ノワリエだ」
「ノワリエ嬢ちゃんね。……はい、こんにちは」
マルタが近づいてきて、ノワリエのほっぺを軽くつつく。
ノワリエは、マルタの匂いをくんと嗅いだ。
(あったかい匂い)
エプロンに染みついた洗剤の匂い、パンみたいな小麦の匂い、古い木の床の匂い。全部が混ざって、「家」のにおいになっている。
「よしよし。こんなちっちゃい子を、アンタひとりで見てたのかい」
マルタがアークをじろりと睨む。
「……ミルクは作れるようになった」
「ほう?」
「昨日は半分こぼした」
「ダメじゃないか」
即答で切り捨てられた。
「おむつ替えは?」
「戦場より難しい」
「アンタの感覚がおかしいんだよ」
エリアナが笑いを堪えきれずに吹き出す。
マルタはため息をひとつついて、腕まくりをした。
「はい、じゃあ今日からあたしが家のことと嬢ちゃんの基本的な世話を仕切りますよ。アーク様は、戦争だの魔導研究だののついでに、ちょこちょこ父親みたいな顔してればいいんです」
「ついで……?」
「ええ、“最強魔導士”様の本職はそっちでしょう。子育てはプロに任せなさい」
言い切られて、アークは何も言えなかった。
確かに、自分にはプロの経験がない。素直に任せるべきだと分かっている。
それでも、ノワリエを他人に預けっぱなしにする気にもなれない。矛盾した気持ちが、胸の奥でぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
ノワリエはそんな大人たちの事情など知らず、マルタの腕の中に移されると、「あ、安心できる人だ」と本能で判断して、あっさりと力を抜いた。
「あら、もう寝そうじゃないですか」
「さっきミルクを飲んだばかりだ」
「ほうほう。じゃあ、お腹も満たされて、腕の中は温かくて、眠くもなりますよねぇ」
マルタは軽く体を揺らしながら、窓のほうへと歩いていく。
窓からは、やわらかな光が差し込んでいた。
フェルネウスの塔は黒い石でできているけれど、最上階のこの部屋だけは大きな窓があり、外の景色がよく見える。
王都の屋根。遠くの森。空を漂う雲。
ノワリエはその光景を、ぼやけた視界で眺めていた。
(……明るい)
前の世界の、自分の小屋を思い出す。
魔女の村の中でも、端っこに押しやられた古い小屋。窓は小さくて、いつも半分は布で塞がれていた。光は隙間から少し入るだけで、部屋の中はいつも薄暗かった。
今は違う。
光が、ちゃんと部屋の中を照らしている。床の模様も、マルタのエプロンも、アークの黒いコートも、全部がきちんと見える。
布団も違う。
前は薄っぺらい毛布一枚だったのに、今はふかふかの敷布と柔らかい掛け布団。抱き上げられたときに触れる腕の感触も、聞こえてくる声も全部違う。
(ここは……違う)
言葉はないのに、理解だけはしっかりと落ちてくる。
ここは、あの寒々しい小屋じゃない。
「いないほうがいい」と言われ続けた場所でもない。
「さ、ノワリエ嬢ちゃん。お昼寝の時間ですよ」
マルタが優しく囁く。
エリアナが、それを見ながらアークに耳打ちした。
「ねぇアーク」
「何だ」
「この子、アンタのこと、ちゃんと“安心していい相手”って認識してるよ」
「根拠は」
「泣き方」
エリアナは即答した。
「最初に塔に来たときは、すぐ泣きやんだりしなかったの。今は、アンタが抱いてミルク飲ませて、マルタが腕に抱いたら、もう眠そうな顔してる」
ノワリエを見る。
灰紫の瞳は、半分閉じかけている。睫毛が震えて、その影が頬に落ちる。
「安心してない子は、寝ないわよ。体って正直だから」
エリアナは、少しだけ真面目な顔をした。
「アンタが思ってる以上に、この子の世界には、もうアンタが中心にいるの」
「……中心、ね」
そう言われると、妙に照れ臭かった。
塔の中心は、ずっと自分だと思っていた。本棚も魔法陣も研究も、すべてが自分のためのものだった。
そこに、今は小さなベッドと、小さな玩具と、小さな衣服が加わっている。
中心が、少しずつ変わっていく。
◇ ◇ ◇
夜。
塔の中は静かだった。
マルタは下の階の自室に下り、エリアナは久々の王都の空気を吸いに外へ出ていった。
最上階の部屋には、アークとノワリエだけ。
窓の外には星が瞬き、遠くの王都の灯りがちらちらと見えている。
ノワリエは、小さなベビーベッドに寝かされていた。
すやすやと寝息を立てていたが――アークが椅子を引いて座ると、気配を感じたのか、うっすらと目を開ける。
「起こしたか?」
「……あー……」
文句とも、あいさつともつかない声。
アークは「悪い」と小さく言って、膝の上に分厚い本を広げた。
魔力制御理論――と書かれた、魔導士用の専門書だ。難しい数式と魔法陣の図がびっしり並んでいるそれは、本来なら赤ん坊のそばで広げるようなものではない。
けれど、アークには習慣があった。
声に出して本を読むと、理解が深まりやすい。
学生時代、眠れない夜や、不安で胸がざわつくとき、そうやって本を読んで自分を落ち着かせてきた。
今、その相手が、ひとり増えただけだ。
「……第十二章。魔力の波形と心理状態の相関について」
低い声が、部屋に満ちる。
アークの声は、どこか音楽的だった。発音ははっきりしていて、ところどころ抑揚がつく。
ノワリエは、その声を聞きながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
(なんて言ってるか、全然分かんないけど)
でも、嫌じゃない。
昔、魔女の村で聞かされていた声は、いつも棘があった。
叱責。苛立ち。期待と失望が入り混じった、重い声。
今、耳に届いている声は違う。
淡々としているのに、どこか落ち着く。心地いい波形で鼓膜を撫でていく。
「魔力は、その保持者の心理状態に大きく影響を受ける。恐怖、不安、怒りは波形を乱し、暴走の原因となる――」
アークは文章を追いながら、ちらりとノワリエを見る。
小さな手が、毛布の端を掴んだまま、ゆるゆると動いている。
灰紫の瞳は、だんだんと重くなってきたようだ。まぶたが落ちかけては持ち上がり、また落ちる。
「特に幼少期における環境の影響は顕著であり――」
そこで、アークはふと言葉を噛んだ。
幼少期。
環境。
それは、今ここで眠ろうとしている小さな命に、これから与えていくものだ。
自分の過去を思い出す。
血と煙の匂い。怒号。悲鳴。魔力の炸裂。夜の冷たさ。
そんなものを、この子に味わわせたくはない。
アークは、ページから目を外し、ノワリエに視線を落とした。
ノワリエは、半分夢の中に足を突っ込んでいる。
意識はぼんやりとしているのに、耳だけはしっかりと声を追いかけていた。
(この声、すき)
言葉の意味なんて分からない。でも、声の響きだけで、胸の奥がやわらかくなる。
前の世界で、誰かが怒っていない声で長く話してくれたことなんて、どれだけあっただろう。
怒鳴る声じゃない。
諦めのため息じゃない。
ただ、そこにある声。
(……おやすみって、言われてるみたい)
勝手に、そう解釈する。
アークは本を閉じた。
読みかけのページにしおりを挟みながら、静かに言う。
「ノワリエ」
その名を呼ぶと、ノワリエのまぶたが一度だけぴくっと動いた。
「ここは、お前の家だ」
それは、誰にも聞かせるつもりのない宣言だった。
「俺の塔で、お前の寝床で、お前の居場所だ。……誰にも、文句は言わせない」
最強魔導士の言葉には、それなりの効力がある。
王だろうが貴族だろうが、この塔の中に口を出すことはできない。アークがそうと決めれば、それが“ルール”になる。
だからこそ、アークは決めた。
「ここで、ちゃんと育ててみせる」
誰に向けたのか分からない意地が、その声には滲んでいた。
ノワリエは、半分眠りながらも、その言葉の端っこだけを掴む。
(ここは……私の場所)
ふわふわした意識の中で、そのフレーズだけがやけにはっきりと光る。
今まで、自分の居場所だと言い切れる場所はなかった。
魔女の村の小屋は、「仕方なく置かれていた場所」だった。
ここは違う。
「いていい」と、誰かが決めてくれた場所。
その当たり前が、当たり前じゃなかった自分にとっては、涙が出るほどの奇跡だった。
小さな胸が、すうっと上下する。
眠りの波が、静かにやってくる。
アークは椅子から立ち上がり、ベビーベッドの横へと歩み寄る。
そっと毛布を直し、小さな額にかかった髪を払う。
「おやすみ、ノワリエ」
囁くような声。
ノワリエの口元が、うっすらと笑った気がした。
前世では決してもらえなかった「おやすみ」が、今はこんなにも自然に降ってくる。
こうして、フェルネウスの塔での新生活が始まる。
最強魔導士と、世界から零れ落ちた小さな魔女。
二人の静かな日常は、まだ物語の“序章”に過ぎない。
けれど――この塔で積み重ねられる温度のひとつひとつが、後に彼らを救う“土台”になっていくことを、このときの彼らはまだ知らなかった。
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