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第7話 魔法との再会、小さな成功
しおりを挟むフェルネウスの塔の裏庭は、王都の喧騒からも離れた、小さな世界みたいな場所だった。
石畳が半分だけ敷かれ、その先は土のまま。端にはマルタが手入れしたハーブ畑と、エリアナが植えた薬草の列。真ん中だけが、不自然なほど何もない、ぽっかりと空いた空間になっている。
そこが、アークにとっての――そして、今はノワリエにとっての――魔法訓練場だった。
「……緊張してるね」
アークの低い声が、背後から落ちてくる。
ノワリエはびくっと肩を揺らした。
十歳になったばかりのノワリエは、赤ん坊のころの面影を残しつつも、すっかり「少女」の輪郭をまとっていた。細い手首、伸び始めた黒髪、少しだけ背が伸びて、アークの腰あたりまで届くようになった額の位置。
けれど、灰紫色の瞳だけは、昔とあまり変わらない。
よく笑うようになったけれど、ふとした拍子に、その奥底で怯えが顔を出すことがある。
今が、まさにそうだった。
「べ、別に……緊張なんてしてないし」
ノワリエは、わざとそっぽを向いてみせる。
両手の指が、ぎゅっと握られているのを、アークは見逃さなかった。
「嘘をつくとき、人はだいたい耳が赤くなる」
「えっ、なにそれ知らない」
「今、君の耳は見事に赤い」
「うるさいなぁ!」
ノワリエは両手で耳を押さえた。
自分でも、心臓がうるさいくらい鳴っているのが分かる。鼓動が指先まで伝わって、手のひらがじんじんする。
(だって……今日、とうとう“これ”なんだもん)
目の前の空間に、白い石がひとつ置かれている。魔力の反応を測定するための、特製の魔力計測石だ。
そして、ノワリエの足元には、簡易的な魔法陣が描かれていた。
魔力を流し込み、出力を測る。
それだけのこと。
それだけのはずなのに、ノワリエの頭の中では、嫌な映像がちらついていた。
焦げた匂い。割れた魔法陣。白い光。
(……怖い)
前世の記憶は、もう霧の向こう側だ。顔も、名前も、輪郭も、ほとんど思い出せない。
それでも、「大きな魔法陣の中心に立って、魔力を流して、全部壊した」という“感覚”だけは、身体に染みついている。
失敗すると、嫌われる。
失敗すると、いらないって言われる。
その恐怖は、十年経ってもなかなか消えてくれなかった。
「ノワリエ」
アークの声が、刺々しくなりかけた思考にそっと割り込む。
「まずは、測るだけだ。攻撃魔法を撃てと言っているわけじゃない」
「でも、暴発したら……ここ、吹っ飛んだりしない?」
「吹っ飛ぶ前に止める」
アークはきっぱりと言い切る。
塔の裏庭には、いくつもの防御結界が張られている。アークが自分の訓練のために築いた、強固な層だ。
「それに、今日は“全力をぶつけろ”とは言わない。あくまで、君の魔力の“器”を測るだけ」
「……器」
その単語に、ノワリエの肩がぴくっと震えた。
器が歪んでいる――そう言われ続けた前世の記憶が、断片的に蘇る。冷たい視線。ため息。諦め。
アークは、その反応に気づいて、わざと少しだけトーンを落とした。
「ノワリエ」
「……なに」
「ここで言う“器”は、誰かが勝手につけたレッテルじゃない。君の持っている可能性の“量”だ」
ノワリエは、思わずアークを見上げた。
アークの金色の瞳が、まっすぐに自分を見ている。
「多すぎて困るくらいの可能性があるのか、それとも普通くらいなのか。それを知るための測定だ」
「……多すぎて困る、ってなにその言い方」
「そのままの意味だよ」
アークは苦笑した。
「さぁ、始めよう。――手を、ここに」
彼が指したのは、魔力計測石の表面だった。
ノワリエは、ごくり、と喉を鳴らす。
掌を、そっと石に乗せる。
ひんやりした感触が皮膚を撫で、その冷たさが神経を通って腕の奥まで滑り込んでくるような気がした。
「目を閉じて」
アークの声が、少しだけ優しくなる。
「呼吸に意識を向ける。吸って……吐いて」
「……すー……はー……」
ノワリエは素直に従った。
肺に空気が入り、胸が膨らむ。その動きを、意識的に感じ取る。
「もう一度。吸って……吐いて」
「すー……はー……」
呼吸を繰り返すうちに、心臓の音が少しだけ落ち着いてきた。耳の中で鳴っていたざわざわが、静かになっていく。
「次は、身体の感覚だ」
アークが続ける。
「足の裏が地面に触れている感覚。土の硬さ。靴の中の重さ」
ノワリエは下半身に意識を落とす。
足裏。靴底。石畳と土の境目。少し湿った空気。
「膝。太もも。腰。肩。首。頭のてっぺん」
アークの声が、ゆっくりと身体をなぞるみたいに導いていく。
「それから――胸のあたり」
ノワリエは、胸の中に意識を戻した。
そこには、まだ少しだけ緊張が残っている。固い塊みたいな不安が、ちゃぷんちゃぷんと揺れている。
でも、その下に。
もっと深いところに、ざわざわした“それ”が、確かにあった。
(……魔力)
生まれたときからずっと、自分の中にあるもの。
前の世界では「暴れ者」と呼ばれ、今の世界ではまだちゃんと触れ合ったことのない、“自分の一部”。
ノワリエは、そのざわめきを、今までより少しだけ丁寧に眺めようとした。
怖い。
近づけば近づくほど、「また暴れ出すんじゃないか」という恐怖が増していく。
「怖くなったら、俺の声だけ聞いて」
アークの声が、すぐそばで響いた。
「いいか。魔力は、君の一部だ。得体の知れない怪物じゃない」
「……でも、暴れるし」
「子どもみたいなものだよ」
アークはあっさりと言う。
「放っておけば駄々をこねるし、構いすぎても拗ねる。だから“観察する”んだ。怖がって目をそらすんじゃなくて、ちゃんと見てやる」
観察する。
それは、前の世界で誰にも教わらなかったスタンスだった。
いつも、「抑えろ」「出すな」「危ない」と怒られてばかりで、魔力を“見る”余裕なんてなかった。
「……できる、かな」
「できなくてもいい」
アークは即答した。
ノワリエは思わず目を開ける。金の瞳と目が合った。
「できなくてもいいから、“やってみる”」
アークの言葉は、ゆっくりと、ノワリエの胸に降りてくる。
「失敗したら、そのとき考えればいい。成功したかどうかを気にするのは、やってからでも遅くない」
「でも、失敗したら……」
嫌われるんじゃないか。
役立たずだって思われるんじゃないか。
その続きは、喉に引っかかって言えなかった。
アークは、少しだけ目を細める。
「失敗しても、俺は怒らない」
その言葉は、なんの飾りもなく、ただそこに置かれた。
「前にも言ったはずだ。“失敗してもいい”って。ここで君を怒鳴ることがあったとしたら、それは君が“自分を嫌う理由”を探し始めたときだけだ」
「……え」
「魔法の失敗より、自分を嫌うほうが、よっぽど危険だからね」
ノワリエは、瞬きも忘れてアークを見上げた。
(自分を嫌うほうが、危険)
そんなふうに言ってくれた大人は、今までひとりもいなかった。
「だから、失敗してもいい。暴発しそうになったら、俺が止める。――それが嫌なら、俺のことをもっと信用しなさい」
「なにその言い方」
「教師からのささやかな圧だよ」
アークが肩をすくめる。
冗談めかした言い回しに、ノワリエの口元がそっと緩んだ。
少しだけ、息がしやすくなった気がする。
「……分かった」
ノワリエは、もう一度目を閉じた。
胸の奥の魔力に、そっと意識を向ける。
ざわざわと、熱が動く。
怖い。でも、さっきよりはっきりと形が見える気がした。
(丸く、丸く)
アークから教わったイメージトレーニング。
角のあるものじゃなくて、丸い球体を思い浮かべる。トゲトゲしていた魔力の粒を、ぺたぺたと撫でて丸くしていくようなイメージ。
ゆっくりと、それを掌へ送る。
魔力計測石が、かすかに光る。
「よし、そのまま。――今は“全体の量”が知りたい。抑え込もうとせず、自然な流れをそのまま通すんだ」
「し、自然って……」
それが一番怖い。自然に任せたら、全部ぶち壊しになりそうで。
「大丈夫」
アークの声が重なる。
「俺がいる」
たったそれだけの言葉で、ノワリエの中の何かが、少しだけ緩んだ。
(……そっか。ひとりじゃないんだ)
前の世界では、いつもひとりで立っていた。誰も守ってなんかくれなかった。
今は違う。
後ろに、アークがいる。
その事実を心の中で繰り返す。
魔力が、掌に集まっていく。
計測石が、徐々に明るさを増していく。
最初は淡い青。次第に、それが濃くなり、紫がかり、やがて眩しい白に近づいて――
「……ちょっと待て」
アークがぼそっと言った。
「え、なに、やっぱりダメ?」
「いや、そうじゃない」
アークは、計測石の側に置いてある表示板に目をやる。
そこには、魔力出力値を示す数値が、魔導文字で刻まれていた。
ぐん、ぐん、ぐん、と数値が跳ね上がっていく。
普通の成人魔導士なら、一桁台から二桁台。優秀な宮廷魔導士でも、三桁に届くかどうか。
今、表示板には――
「……四桁?」
アークが固まった。
「ちょ、どういう顔それ」
目を閉じたままでも、ノワリエには分かった。アークの声が、珍しく真剣に驚いている。
「まさか、こんなに……」
アークは、眉間に皺を寄せながらも、すぐに自分を立て直す。
「ノワリエ」
「なに?」
「君は――やっぱり普通じゃない」
「え、それ今言う?」
ノワリエの声が裏返る。
“普通じゃない”という言葉は、前の世界では悪口だった。
魔力が歪んでいるから。器が異常だから。君は普通じゃない。だから危険。だから役に立たない。
嫌というほど聞いたフレーズ。
なのに、今、同じ言葉が、まるで違う温度で投げかけられている。
アークは、少し笑って続けた。
「……最高の意味で、ね」
その一言で、胸の奥の“普通じゃない”の意味が、音を立ててひっくり返る。
「君の魔力量は、王都の魔導士たちと比べても異常だ。見習いどころか、大陸でも上位に入るレベルだろう」
「……そんな、ヤバいの?」
「ヤバいくらいの“才能”がある」
才能。
その言葉が、前世で欲しかった言葉のひとつだったことを、ノワリエの身体は覚えていた。
「もちろん、量があるからといって、制御できなければただの厄介ごとだ」
「はい出た辛辣」
「事実だろう?」
アークは苦笑しながらも、続ける。
「でも、“量”があること自体は、悪いことじゃない。君は、まだ“使い方”を知らないだけだ」
ノワリエは、そっと息を吐いた。
(使い方を知らないだけ)
自分そのものを否定されているんじゃなくて、「今の技術が足りないだけ」と言われている。
そんな当たり前の事実さえ、今まで誰にも教えてもらえなかった。
「計測はこれでいい」
アークが、優しく言う。
「手を離していいぞ」
ノワリエはゆっくりと掌を石から離した。光がすっと弱まる。
「疲れた?」
「……ちょっと」
正直、息が上がっていた。
初めての全身運動みたいな疲労感。膝が少し笑う。
アークは、不意にノワリエの頭に手を乗せた。
大きな掌が、前髪をくしゃっと撫でる。
「よく頑張った」
「……え」
思ってもみなかった言葉に、ノワリエは変な声を出した。
叱られる覚悟はしていた。何かしらダメ出しされると思っていた。「もっとこうしろ」「全然ダメだ」と。
なのに、出てきたのは「頑張った」のひと言。
灰紫の瞳が、大きく見開かれる。
アークは、その顔を見て、少しだけ胸が痛くなった。
(――どんな育ち方をしたら、“頑張った”でこんな反応になるんだ)
知っている。
前世で何があったのか、具体的なことは知らないけれど、この子の反応ひとつひとつが、それを物語っている。
「これからだ、本番は」
アークは手を離し、指先で軽く空中に魔法陣を描いた。
小さな光の円が、ノワリエの目の前に浮かぶ。
「基礎中の基礎からやる。呼吸。身体の感覚。魔力の流れ。それを“怖がらずに観察する”ことから」
「……うん」
「まずは、指先に小さな火を灯す練習だ」
その言葉に、ノワリエの喉がひくりと動いた。
(火)
大規模魔法陣の暴走が、脳裏の奥でちらりと顔を出す。
燃える匂い。爆発音。白い光。
アークは、その動揺を読み取ったように、言葉を付け足した。
「大丈夫。ここは塔の裏庭だ。あのときとは違う」
「……あのとき?」
「知らなくていい」
アークはあっさりと言った。
「君の前世で何があったか、俺は全部を知るつもりはない。ただ、今の君が怖がっていることだけ、ちゃんと見る」
ノワリエは、ぎゅっと唇を噛んだ。
前世の記憶を、誰かに説明したことはない。
断片的な悪夢の形でしか浮かんでこないそれを、言葉にするのも怖かった。
それを、「知らなくていい」と言ってくれることが、少し嬉しかった。
「いいか。火は、便利で、危険で、綺麗だ」
アークは言う。
「火そのものが悪いわけじゃない。扱う側が“どう付き合うか”だ」
「……うん」
「だから、まずは“見る”ところから始める」
アークは指を鳴らした。
彼の指先に、小さな炎がぼっと灯る。
ロウソクの火と同じくらいの大きさ。オレンジ色に揺れるそれは、裏庭の空気を柔らかく照らした。
ノワリエは、息を呑む。
炎は、確かに熱そうだった。でも、今まで見てきた爆発とは違う。静かに、そこに在る。
「見てみろ」
アークが促す。
「火の形。揺れ方。どのくらいの大きさで、どのくらいの熱を持っているか。――君の中の魔力も、こうやって“観察”する」
「……観察」
ノワリエは、恐る恐る一歩近づいた。
炎が、風に揺れる。
その揺れは、不思議と落ち着いていた。暴れ狂っているわけじゃなく、呼吸しているみたいに、一定のリズムで揺れている。
じっと見つめると、自分の心臓の鼓動も、少しそのリズムに合わせて落ち着いてきた。
「いつか、君の魔法も、こんなふうに静かに灯せるようになる」
アークは炎を消した。
「その“いつか”のために、今から練習を始める」
◇ ◇ ◇
それからの日々は、地味で、遠回りで、でも確実に進む訓練の連続だった。
ノワリエは、足を肩幅に開いて立ち、両手を前に出す。
「吸って、吐いて」
「すー……はー……」
「胸の奥にある魔力を、丸い球としてイメージする」
「……丸く、丸く」
「指先に、その球の“端っこ”だけを送る。全部じゃない。ほんのひとすじだけ」
何度も、何度も繰り返す。
最初は、魔力を送ろうとすると、一気にどばっと溢れ出しそうになって、そのたびにアークの防御結界がひとつ光った。
「ストップ」
「ご、ごめんなさい……!」
「謝るな。今のは“ここで止まる感覚”を知ったってことだ。むしろ進歩だ」
失敗しても、怒鳴られない。
それどころか、「今どこまでできたのか」を一緒に分析してくれる。
その積み重ねが、ノワリエの中の「失敗=終わり」という図式を、少しずつ書き換えていった。
エリアナやマルタも、時々訓練場に様子を見に来た。
「おー、やってるやってる」
エリアナがひょいとハーブ畑の陰から顔を出す。
「どう? 火事にはなってない?」
「今のところ、被害は背後の木が焦げたくらいだ」
「え、それわりと大きくない?」
マルタは、井戸から水を汲みながら呆れたように言う。
「焦がしたら、ちゃんと自分で鎮火しなさいよ、ノワリエ嬢ちゃん」
「はーい……」
ノワリエは肩を落としながらも、バケツリレーの手伝いをする。
そんな失敗も、今ではちょっとした笑い話になりつつあった。
◇ ◇ ◇
そして、その日は唐突に訪れた。
夕方。
空がオレンジ色に染まり始めたころ、アークとノワリエはいつものように裏庭に立っていた。
「今日も、やる?」
アークが問いかける。
ノワリエは、ぐっと拳を握って頷いた。
「やる」
もう、「怖いからやめたい」と言う選択肢は浮かばなかった。
怖いのは怖い。でも、その先に何かがあるのを、この数ヶ月で知ってしまったから。
いつものように、呼吸を整える。
「吸って……吐いて」
「すー……はー……」
胸の奥の魔力に触れる。
ざわざわとしたそれは、前よりも輪郭がはっきりしていた。
乱暴な波ではなく、少し整えられた形をしている。
(丸く、丸く)
ノワリエは、球の中心を撫でるイメージで意識を動かした。
魔力の表面が、少しだけ滑らかになる。
その“端っこ”を、指先へ。
ほんのひとすじだけ。
掌が、じんわりと熱を持つ。
今までは、ここで怖くなって手を引っ込めていた。でも、今日は。
(大丈夫。暴れそうになったら、アークが止めてくれる)
それを信じることにした。
指先に、熱が集まる。
空気が、少しだけ震えた。
「……ノワリエ」
アークが、小さく呼ぶ。
「目を開けてごらん」
ノワリエは、そっと瞼を持ち上げた。
そこに――あった。
「……」
掌の上。
何度も夢に見てきたそれが、そこにいた。
小さな、小さな火の灯り。
ろうそくの炎よりも小さく、マッチの火と同じくらいの、頼りないオレンジ色の光。
それでも、その火は。
――暴発していなかった。
ノワリエの掌の上で、静かに、ちゃんと「灯って」いた。
「……え」
声が出なかった。
火が、揺れる。
少しだけ風にふれて、ふわりと形を変える。
けれど、爆発しない。広がらない。周囲の草を焦がす気配もない。
ただ、そこにいて、暖かさだけを手のひらに残している。
「や……」
喉の奥から、何かがこみ上げてくる。
視界がじわりと滲んだ。
「や……やった……?」
自分で言って、自分で信じられなくて、笑いそうになる。
だけど、笑う前に。
涙が、ぼろっと零れた。
「や、やだ……ちょっと待って、なんで泣いてんの私……」
ノワリエは片方の目を腕でごしごし擦る。
けれど、擦っても擦っても、涙はあとからあとから出てくる。
火が、揺れた。
涙が掌に落ちる前に、ノワリエは慌てて魔力を引っ込めた。
小さな火は、ふっと消える。
その消え方も、爆発ではなく、ろうそくを吹き消したみたいに静かだった。
アークが、一歩近づいてきた。
ノワリエは、涙と笑いのごちゃまぜの顔で彼を見上げた。
「見た!? 今の、見たよね!? ちゃんと……ちゃんと、ついてたよね、火!」
「見た」
アークは短く答える。
金の瞳が、ほんの少し柔らかくなっていた。
「暴発もしなかった」
「ね、ね、ね、ねっ!?」
ノワリエは興奮して、言葉がうまく繋がらない。
「爆発してないよね! 周りも焦げてないし、誰も燃えてないし、アークの髪も無事だし!」
「そこはまず俺より自分の心配をしたほうがいい気もするが」
アークは小さく笑い、それから――ノワリエの頭に、そっと手を置いた。
くしゃり、と黒髪を撫でる。
「……ほら」
低く、穏やかな声。
「できるだろ」
ノワリエの喉が詰まる。
「君は、“できない子”なんかじゃない」
その言葉は、ゆっくりと、ノワリエの中の古い傷に染み込んでいく。
“できない子”。
前の世界で、何度も言われた言葉。
魔法がうまくいかないたびに、「やっぱりダメ」「やっぱり向いてない」「いないほうがいい」。
そのたびに、胸の奥で何かが少しずつ死んでいった。
今、同じ場所に、まったく逆の言葉が置かれた。
できない子なんかじゃない。
君は、できる。
「……っ」
堰が切れたみたいに、涙が溢れた。
ノワリエは、子どもみたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、それでも笑った。
「――できた……!」
「できたな」
「やっと、できた……!」
「最初の一歩だ」
アークの声も、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。
ノワリエは、自分の掌を見つめる。
さっきまで、そこに火があった場所。
もう何もないのに、まだじんわりと温かい。
(私、やっと……)
誰かの役に立てるところまでは、まだ遠い。
世界を救うなんて話は、もっともっと先の話だ。
でも――
(やっと、“スタート地点”に立てた気がする)
今まで、自分だけ少し後ろに立っていた。列に混ざっているふりをしながら、実は誰とも同じ場所にいなかった。
今日、初めて。
「魔法が使える側」の列に、自分の足で一歩踏み込めた。
「ノワリエ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
アークの金の瞳が、まっすぐにノワリエを捉えていた。
「ここから先、もっと難しいことを教える。もっと怖いものも、たくさん見ることになる」
「……うん」
「それでも、“自分はできない”って決めつけるのはやめなさい」
その声音には、強い意志が込められていた。
「君は、できる。――それを、俺が保証する」
ノワリエの胸がきゅっとなった。
誰かに保証してもらえること。
それは、前の人生では一度も許されなかった贅沢だった。
「……ありがと」
かすれた声で、どうにかそれだけ絞り出す。
アークは、「どういたしまして」も言わず、ただノワリエの頭をもう一度撫でた。
日が沈みかけた裏庭で。
小さな火はもう消えている。
だけど、その日ノワリエの胸に灯った火は、簡単には消えない。
失敗と恐怖の記憶の向こう側に、初めて手に入れた、「自分にもできることがある」という実感。
それは、これから長い時間をかけて、彼女とアークの未来を、少しずつ明るく照らしていくことになる。
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