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第10話 “守られているだけ”からの一歩
しおりを挟む王都滞在、最後の日だった。
朝から空はやけに澄んでいて、雲は高く薄く伸びている。塔の窓から見る王都とは違って、王宮の窓から見る街は、どこか“近い”。
ノワリエは、王宮の客間の窓辺で思い切り伸びをした。
「ふあぁ……帰るのちょっと名残惜しいなぁ」
「そうか?」
椅子に腰を下ろし、報告書にざざっと目を通していたアークが顔も上げずに返す。
「塔のほうが落ち着くだろう」
「落ち着くのはそうなんだけどさ。あの屋台の甘いパンもう一回食べたかったし、ルキアンに中庭の別エリアも見せてもらう約束だったのに」
「王太子殿下をあだ名で呼ぶな」
「ルキアンが“殿下って呼ばれるの疲れるから名前でいい”って言ったんだよ?」
「……あいつはすぐそうやって距離を縮める」
アークが小さく舌打ちを飲み込んだのを、ノワリエは気づいてないふりをした。
王都に来てから数日。ノワリエは初めて「塔の外の世界」を生で見て、浮かれて、戸惑って、ちょっとだけ成長した気がしていた。
自分の魔法がまだ未熟なのは分かっている。でも、アークの横を歩いて王宮までたどり着いたことも、王太子とまともに話したことも、ノワリエにとっては小さくない“一歩”だった。
(次、来るときには、もっとちゃんと魔法使えるようになってるといいな)
そんなことをぼんやり考えていた、まさにそのときだった。
――どん、と。
遠くで何かが爆ぜるような音がした。
床が、ほんのかすかに震える。
「……え?」
ノワリエは窓辺から身を乗り出した。
王宮の外、少し離れた位置にある塔のような建物。その上空に、黒い煙がふわりと立ち上っているのが見える。
次の瞬間。
ぞわり、と肌が粟立った。
(魔力……)
空気そのものが震えている。塔で感じたアークの全力魔法とは違う、雑で、棘だらけの魔力の波。
アークが、ガタンと椅子を引いた。
「……今のは」
金の瞳が、窓の外を鋭く射抜く。
彼の表情が、ほんの一瞬で“戦場の顔”に切り替わった。
「ノワリエ」
「な、なに、今の音――」
「魔導士団本部のほうだ」
アークは即座に言い当てる。
「魔力障壁が一部破られている。……何者かの襲撃だ」
「えっ」
王都の心臓部、その中でもさらに核に近い場所が狙われたということだ。
ノワリエの背中を、冷たいものが駆け上がる。
その間にも、外から悲鳴に近いざわめきが聞こえてきた。
「警備隊を回せ!」 「負傷者が――!」 「魔導士団から救援要請!」
廊下が、一気に騒がしくなる。
アークは窓から視線を戻し、ノワリエを見た。
「ノワリエ」
「……うん」
名前を呼ばれただけで、状況が分かった。
戦いが起きる。
アークはそこに行く。
自分は、たぶん――
「君は、塔に戻れ」
予想通りの言葉。
喉の奥が、きゅっと詰まった。
「王宮の避難路は把握しているな」
「う、うん。昨日ルキアンに、もしものときはここから地下の──」
「そこから外に出て、フェルネウスの塔に戻れ。エリアナとマルタには、俺から連絡する」
アークの声は冷静で、命令だった。
「……分かった」
ノワリエは、ぎゅっと拳を握る。
頭では分かっている。今の自分の力じゃ、邪魔になるだけだ。アークや魔導士団の足を引っ張るわけにはいかない。
でも。
(また、“守られてるだけ”か)
心の奥で、かすかな悔しさがうずく。
それでも、今ここで逆らっても意味がないことも理解していた。
「必ず戻る」
アークはそれだけ言うと、黒いコートを翻した。
扉に向かう背中。
ノワリエは、その背中に向かって叫んだ。
「――気をつけて!」
一瞬、アークの足が止まる。
振り返りはしなかった。でも、肩がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「ああ」
短く、それだけ返して、アークは駆け出した。
廊下に、彼の足音が遠ざかっていく。
ノワリエは、しばらくその音を追いかけるように耳を澄ませていた。
(……行かなきゃ)
自分に言い聞かせる。
「地下通路、だよね」
王宮には、緊急時用の避難経路がいくつもある。そのうちのひとつを、ルキアンに教えてもらっていた。
ノワリエは急いで荷物を掴み、部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇
避難路へ続く廊下は、思ったよりも混乱していた。
侍女や兵士が行き交い、誰かが泣いていて、誰かが怒鳴っている。遠くからは爆発音が続けざまに響いてきて、そのたびに天井がびりびりと震えた。
(こんなとき、私はただ逃げるだけでいいの?)
自分の足が、石畳を叩く。
塔で鍛えた脚力は、前よりずっと強くなっているはずだ。それでも、心がついていかない。
曲がり角を曲がり、地下へ続く階段へと急ごうとした、そのとき。
「っぐ……!」
かすかなうめき声が、耳に引っかかった。
廊下の陰。大きな柱の影に、誰かが倒れている。
ノワリエは反射的に足を止めた。
「だ、誰か──」
言いかけて、その“誰か”の服装に気づく。
深緑のローブ。胸元には王宮魔導士団の紋章。
(魔導士団の……見習い?)
少年だった。
ノワリエと歳はあまり変わらないだろう。茶色の髪が血と汗で額に張りついている。顔色は悪く、ローブの脇腹のあたりが真っ赤に染まっていた。
「ちょっと、大丈夫!? ねぇ!」
ノワリエは駆け寄り、少年の肩を揺さぶる。
少年がきしむような声を漏らし、ゆっくりと目を開けた。
「……あ……」
濁った視線が、ノワリエを捉える。
ノワリエは思わず息を呑んだ。
その目の奥には、「痛み」と「恐怖」と「焦り」がごちゃ混ぜになっていた。
「だ、大丈夫? 今、誰か呼んで──」
「……だめだ……」
少年は、苦しそうに首を振る。
「み……んな……下に、行けって……言われてる……っ」
「でも、あなたこのままだと──」
「友達が……」
少年のかすれた声が、ノワリエの言葉を遮る。
喉の奥から搾り出すような声だった。
「友達が……まだ、中に……」
“中”。
少年が震える指で指したのは、王宮の外、さっき煙が上がっていたほう――魔導士団本部の方向だった。
「一緒に……いたのに……僕だけ、逃げて……」
くしゃりと顔が歪む。
涙と血と汗でぐちゃぐちゃになったその表情は、見ているこっちが胸を抉られるほどだった。
「お願いだ……誰か、助けて……っ」
その言葉に、ノワリエの足が、ぴたっと止まった。
(……誰か)
今、自分が何をするべきか。
頭では分かっている。
自分は避難しなきゃいけない。アークは単独で戦っている。そこにたどり着く前に、自分がここで何かするのは、正直危険だ。
でも。
(“誰か”って、誰?)
今、この場にはノワリエしかいない。
周囲は混乱していて、誰かを呼びに行ったとしても、戻ってくるまでに時間がかかる。少年の出血は多い。時間をかければかけるほど、命が遠のいていく。
「……」
喉の奥が、きゅっと詰まった。
頭の中で、過去の声が反響する。
“役立たず” “いないほうがいい” “また失敗したのね”
(やめて)
今じゃないのに。
前世の記憶は、断片的になっていたはずなのに、こういうときだけ、鮮明に刺さってくる。
魔法を使おうとするとき。
誰かの命がかかっているとき。
そのたびに、「あなたは失敗する」「あなたは壊す」と言われ続けた声が、頭の中でがんがん鳴り出す。
「……私、は」
ノワリエは、自分の手を見下ろした。
震えている。
掌がじんじんと熱い。魔力が、ざわざわと動き始めているのが分かる。
(ここで、魔法を使ったら)
前のように暴走するかもしれない。
治そうとして、もっと悪化させるかもしれない。
少年にとどめを刺してしまうかもしれない。
――それが、いちばん怖かった。
「お、お願い……」
少年の指が、ノワリエのローブを掴む。
その力は弱いのに、伝わってくる必死さは重かった。
「僕……あいつに、“また一緒に訓練しよう”って……言ったまま……」
それ、って。
もう二度と果たせない約束なんて、嫌だ。
ノワリエは、奥歯を噛んだ。
(ここで逃げたら)
アークはきっとこう言うだろう。
「無茶をするな」「お前が傷ついたら意味がない」。
エリアナもマルタも、自分の身を守れと言うだろう。
それは正しい。頭の中の“現実的な自分”は、それを繰り返し唱えている。
でも、胸の奥の別の自分は叫んでいた。
(ここで逃げたら、また“守られてるだけ”だ)
アークに拾われてから、ずっと守られてきた。
魔法の練習も、生活も、心も、その全部を支えてもらってきた。
少しずつ成長はしているはず。でも、ここぞという場面で、いつも「避難していてください」と言われるだけの自分。
小さな火を灯せるようになった。治癒の基礎も、少しだけできるようになった。
それなのに。
(ここでも逃げたら、永遠に“避難させられる側”から抜け出せない気がする)
喉の奥が、焼けるように熱くなる。
「……っ」
ノワリエは、震える息を飲み込んだ。
怖い。
怖くてたまらない。
でも――
「……ねぇ、君」
ノワリエは、どうにか声を絞り出した。
「名前、なんて言うの」
「……カイル……」
少年が答える。
「カイル・ロイド……魔導士団見習い……」
「カイル」
ノワリエは、その名前をしっかりと口の中で転がした。
「私、ノワリエ。アークの弟子」
「アーク……って……あの、“最強の”……?」
「そう」
ノワリエは、1回だけ笑った。
「その弟子が、ここにいる」
カイルの目が、ぼんやりと見開かれる。
「だから」
ノワリエは、震える手をカイルの傷口の上にそっとかざした。
「ここで、何もしないで逃げるのは、私が私を許さないから」
それは、誰に向けた宣言でもなく、自分への宣言だった。
怖い。失敗が怖い。嫌われるのが怖い。
でも、「怖いからやらない」を選び続けていたら、一生変われない。
(アーク、怒るかな)
少しだけ、彼の顔が頭をよぎる。
(でも、アークに怒られても、ここで何もしないほうが、私にはずっと怖い)
ノワリエは目を閉じた。
息を吸って、吐く。
胸の奥の魔力に触れる。
(落ち着いて。私、治癒の訓練、ちゃんとしてきたんだから)
エリアナに教わった基礎治癒。
“失われた器官は戻せないけれど、傷の広がりを抑えたり、血流を一時的に落ち着かせたりする応急処置”。
大それたことは、できない。
でも、今必要なのは、“完璧な治癒”じゃない。
“今死なせないこと”。
ノワリエは、胸の魔力を掌に集めていく。
ざわざわと動く魔力。
こわい。
でも、“観察”する。怖がって目をそらすんじゃなくて、ちゃんと見る。
丸く、丸く。
アークの声が、頭の中でよみがえる。
魔力を球にして、その表面だけをすくって指先へ。
指先が、じん、と熱を持つ。
傷口からはまだ血が滲んでいる。ローブがべっとりと濡れていて、鉄の匂いが鼻を刺す。
(血管を……少しだけ閉じるイメージ)
エリアナが何度も言っていた。
傷の周りの血管に、柔らかい布を巻き付けるイメージで、血の流れをゆるめてあげる。
ノワリエは、そのイメージを必死に追いかけた。
魔力が、掌からカイルの体内へと染み込んでいく。
熱が、ノワリエの手を通じて彼の体に移っていく。
「……っ、あ」
カイルが、かすかにうめいた。
ノワリエは歯を食いしばる。
「ごめん、ちょっと痛いかも。でも、耐えて」
「っだ……だいじょうぶ……」
少年は、震えながら笑ってみせた。
(すごいな、この子)
こんな状態でも、「大丈夫」と言える。
ノワリエは、その強さに少しだけ励まされる。
(私も、ちゃんとやらなきゃ)
魔力の流れが、少し落ち着いてきたのを感じる。
暴れそうだった魔力の“端っこ”を、なんとか手綱でつかまえて、必要な分だけ送り続ける。
額に汗がにじむ。
呼吸が荒くなっていく。
魔力は、いまだノワリエの中で“完璧な従順さ”なんて持っていない。それでも、訓練の成果か、以前よりずっとマシにはなっていた。
やがて。
カイルの顔色が、ほんの少しだけ戻ってきた。
血の流れがおさまり、ローブの赤い染みの広がりが止まる。
ノワリエは、ゆっくりと魔力の供給を落としていった。
(……これ以上やると、こっちが倒れる)
息を吐く。
手を傷口から離す。
カイルが、はぁ、と大きく息を吐いた。
「……あ……」
さっきまで荒く乱れていた呼吸が、少し落ち着いている。
目の焦点も、さっきよりはっきりしている。
「動ける?」
ノワリエは、慎重に問う。
カイルは、ゆっくりと身体を起こそうとした。
「っ……まだ……痛いけど……」
「無理しないで」
「でも……さっきより、全然……」
カイルは、自分の脇腹に手を当てた。
血の量は確かに減っている。完全に塞がったわけではないが、応急処置としては十分だ。
「……すごい……」
少年が、ぽつりと言った。
「僕……本当に、もうダメだと思ってたのに……」
「いや、まだ全然足りないよ。ちゃんと治癒師のところに行かなきゃ」
「それでも……」
カイルは、ノワリエを見上げた。
その目に浮かんでいたのは、さっきまでの“恐怖”だけではない。
感謝と、安堵と、驚き。
「ありがとう、ノワリエさん」
「……っ」
胸の奥が、じん、と熱くなった。
“ありがとう”。
前の世界で、その言葉を魔法に対して向けられたことは、どれくらいあっただろう。
失敗すれば責められ、成功しても「やっと普通にできた」としか扱われなかった。
今、自分の魔法が――不完全で、ぎこちなくて、完璧には程遠い治癒が――誰かの命を、ほんの少しだけ遠ざけた。
(……私)
まだ息が荒い。膝も震えている。
それでも。
(今、“誰かの役に立った”)
実感が、胸の奥で小さな灯りをともした。
それは、第七話で掌に灯した火と同じくらい小さい。でも、それと同じくらい、確かな熱を持っていた。
「カイル」
ノワリエは、できるだけ真剣な声で言った。
「今すぐ、治癒師のところまで一緒に行こう。私も、避難路そこ通るし」
「でも……君も避難しなきゃ……」
「避難ルートの途中に治癒師の詰め所あるんだって、ルキアンが言ってた。そこまでなら、行ける」
うろ覚えの地図を頭の中で引っぱり出す。
自分の魔力も、もうそう長くは持たない。でも、“途中まで一緒に行く”ことくらいはできる。
「君の友達のところには――」
ノワリエは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
今から自分が魔導士団本部に行くのは、現実的じゃない。
アークがいる。魔導士団もいる。王都の守りの要が、そこに集中している。
自分にできるのは、その前の“手前の仕事”。
無理な約束はできない。
「必ず、誰かが向かってる」
だから、代わりにそう言った。
「君がここで生きてることだって、大事だよ」
カイルの目が、また潤む。
「……うん」
かすかな声で頷く。
ノワリエは、彼の肩を貸して立たせた。
自分の足も震えていたけれど、“二人で歩く”と決めた瞬間、不思議と一歩が軽くなった。
◇ ◇ ◇
治癒師の詰め所にカイルを引き渡したあと、ノワリエはようやく自分の膝が笑っていることに気づいた。
「ふ、ふぅ……」
誰にも見られていない廊下の片隅で、壁にもたれて座り込む。
体中がだるい。頭も少しクラクラしている。
(やっぱり、まだまだ体力足りないなぁ)
情けないけれど、少し笑ってしまう。
そのとき。
「ノワリエ!」
聞き慣れた声が、廊下の向こうから響いた。
顔を上げると、銀髪が目に飛び込んできた。
「ルキアン!」
ルキアン・フロースが、数人の騎士を引き連れながら駆けつけてくる。
息が少し上がっていて、礼服の裾には薄く埃がついている。
「無事?」
「うん、一応」
「一応ってなに」
「魔力ちょっと使いすぎただけ」
「それを“ちょっと”って言わないんだよ……」
ルキアンは呆れたように言いつつも、視線をすっとノワリエの全身に走らせた。
怪我はない。疲労の色はあるが、致命傷ではない。
彼は、安堵を深く吐き出した。
「魔導士団本部のほうは?」
ノワリエが尋ねると、ルキアンは眉をひそめた。
「まだ完全には鎮圧できてない。けど――」
青い瞳に、一瞬だけ感情が灯る。
「アークが入った。……あの人が本気を出せば、すぐに片がつく」
ノワリエの胸が、少しだけ軽くなる。
そうだ。アークがいるなら、大丈夫だと、自然に思ってしまう。
その“信頼”に、自分でも少し驚きながら。
「君は?」
ルキアンの視線が、ノワリエの手に落ちる。
血の跡が残っていた。カイルを支えたときについたものだ。
「怪我じゃない。さっき、見習いの子に会って」
ノワリエは簡単に事情を話した。
廊下で倒れていたこと。友達を心配していたこと。応急処置をしたこと。治癒師のところまで一緒に行ったこと。
話している途中で、ルキアンの表情が、少しずつ変わっていった。
最後まで聞いたあと、彼は小さく息を吐いた。
「……君って」
青い瞳が、まっすぐにノワリエを見ている。
「本当に、バカなんだね」
「えぇぇ!?」
いきなりの評価に、ノワリエは素で叫んだ。
「そこで“バカ”来る!?」
「褒めてるよ」
ルキアンは、苦笑しながら続ける。
「普通なら、逃げる。王宮の避難命令が出てるんだから。……それを無視して見知らぬ見習いを助けて、治癒師のところまで運んで、自分はヘトヘトになって座り込んでる」
「やめて、言語化されると恥ずかしい」
「本当は、こう言いたかった」
ルキアンは、少しだけ声を落とした。
「君は……優しいんだね」
そのひと言は、ひどく慎重に置かれた。
ノワリエは、どう返せばいいか分からなくて、視線をそらす。
「優しいって、そんな大層な……」
「大層だよ」
ルキアンは静かに言う。
「僕の周りには、“正しさ”で動く人はたくさんいるけど、“優しさ”で無茶する人はあまりいない」
「無茶認定された……」
「だって無茶だもん」
ルキアンは苦笑しつつも、その瞳には、ほんの少し憧れのような色が混じっていた。
「でも、ありがとう」
「え?」
「君みたいな人が、アークのそばにいてくれることが」
その言葉に、ノワリエの心臓がどくんと跳ねた。
「アークは、ずっと“守る側”に立ち続けてきたから」
ルキアンは、遠くを見るように言う。
「誰かに守られることに、不慣れなんだと思う。……君が、“守られているだけ”じゃなくて、こうやって誰かを守ろうとする人なら」
青い瞳が、少し笑った。
「きっと、あの人の世界も、変えてくれる」
「おっきいこと言うね」
ノワリエは苦笑した。
自分ひとりで何かを変えられるなんて、そんな大それた自信はない。
でも――胸の奥で、小さく灯った火が、「それも悪くない」と囁いている。
そのとき、廊下の奥から足音が響いた。
聞き慣れた、重みのある足音。
「ノワリエ!」
振り向く前に、名前を呼ばれた。
アークが、黒いコートをはためかせて歩いてくる。
コートの裾はところどころ焦げていて、髪も少し乱れている。額には汗。だが、その瞳ははっきりとしていた。
「アーク!」
ノワリエは思わず立ち上がりかけて、膝ががくっと笑った。
「わっ」
よろけた肩を、ルキアンが支える。
アークの視線が、一瞬でそこに突き刺さる。
ルキアンは手を離し、気まずそうに笑った。
「今のは純粋に支えただけだから、フェルネウス様」
「……そうか」
アークは短く返し、すぐにノワリエのほうへ歩み寄ってきた。
真っ先に見るのは、怪我の有無。
腕。足。顔。ローブ。
血の跡を見つけた瞬間、表情がぴくりと変わる。
「その血は」
「ち、違う、私のじゃない!」
ノワリエは慌てて両手を振った。
「廊下で見習いの子に会って、その子の……カイルって言うんだけど、怪我がひどくて、それで……」
また事情を説明することになった。
アークは黙って聞いていた。
最後まで話を聞き終わり、その場に沈黙が落ちる。
空気が、ぴん、と張りつめた。
「……君は」
アークの声は低かった。
「馬鹿か」
「二人目!?」
ノワリエは涙目になった。
「なんで今日みんな私のことバカって言うの!?」
「褒めている」
「褒め方のクセ!」
ルキアンとアークの評価が妙に一致しているのが、余計に腹立たしい。
アークは、額に手を当てて、小さく息を吐いた。
「避難しろと言ったはずだ」
「うん」
「それなのに、見知らぬ見習いの応急処置をして、治癒師まで運んで、自分はそこで膝を笑わせて座り込んでいたということか」
「要約うますぎない?」
「事実を整理しただけだ」
アークは目を閉じ、一拍置いてから再び開いた。
その瞳には、怒りだけではないものが宿っていた。
「二度と、無茶はするな」
その言葉は、思ったよりもずっと重かった。
ノワリエは唇を噛む。
「……ごめん」
「謝れとは言っていない」
「じゃあどうすればいいの」
「次からは、俺を呼べ」
アークは、きっぱりと言った。
「見習いが血を流して倒れていたのなら、その時点で魔力を飛ばして俺を呼べ。治癒師を呼べ。君ひとりで抱え込むな」
「でも──」
ノワリエは言いかけて、ぐっと飲み込む。
“でも、何もしないのは嫌だった”。
それを言えば、またアークを困らせることになる気がした。
アークは、少しだけ目を細める。
「……君が誰かを助けたいと思ったことを、責めるつもりはない」
その言葉に、ノワリエの喉がきゅっと鳴った。
「あの見習いが助かったのなら、それは君の行動のおかげだ。誇っていい」
「……」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
認められた。
自分の魔法が、誰かの命に届いたことを。
「だが」
アークは続ける。
「君の命が、俺にとってどれだけ重いかも、少しは理解してほしい」
その声は、いつになく生々しかった。
ルキアンが、ふっと視線をそらす。
ノワリエは、一瞬で顔が熱くなった。
「それは――」
言葉が出てこない。
自分の命が“重い”なんて言われたことは、ほとんどなかった。
前の世界では、「いると危ない」「いないほうがいい」と言われ続けたのに。
「無茶をするなと言っているのは、君を“閉じ込めておきたい”からじゃない」
アークは言葉を選ぶように続ける。
「隣に立たせるために、今はまだ守っているだけだ」
ノワリエの心臓が、どくん、と跳ねた。
「……隣に」
反射的に復唱してしまう。
アークは、少し視線を外した。
「今の君が戦場に出れば、俺は戦いに集中できなくなる」
「ひどい理由きた」
「事実だ」
アークは、小さく苦笑した。
「だから、“守られているだけ”だと思うなら、それは誤解だ」
ノワリエは、息を呑んだ。
(誤解)
自分で勝手に決めつけていた。
自分は守られているだけで、アークの役に立てていないと。
でも、アークの中では、少し違う絵が描かれていた。
「君がそばにいるから、俺は塔に帰る理由を持てた」
アークの声が、少しだけ柔らかくなる。
「昔は、戦場に出て、そのまま戻らなくてもいいと思っていた時期もあった」
ルキアンが、わずかに目を見開く。
それは、王太子として、聞いたことのない心情だった。
「でも今は、君が塔で待っている」
アークは、ノワリエの目を見る。
金と灰紫。
視線が絡まる。
「だから、“守られているだけ”なんかじゃない」
その言葉に、ノワリエの胸の中で何かがほどけた。
ずっと、どこかで引っかかっていた棘。
自分だけが受け取って、返せていない気がしていた借り。
それが、少し形を変える。
それでも。
「……私」
ノワリエは、ゆっくりと口を開いた。
喉が震える。でも、今言わなきゃ、一生言えない気がした。
「私、あなたに守られているだけじゃなくて」
一度、息を吸う。
アークの顔が、真剣にこちらを見ている。
ルキアンは、気を利かせて一歩後ろに下がった。
「ちゃんと、隣に立てるようになりたい」
言葉が、やっと形になる。
自分でも驚くくらい、すっと出てきた。
「アークが戦うとき、いつも遠くに避難してるんじゃなくて」
拳を握りしめる。
「いつか、“一緒にいてくれて助かった”って言われたい」
それは、前の世界でずっと欲しかった言葉だった。
「いてくれてよかった」「お前がいて助かった」。
その言葉を、今度こそ、アークからもらえるようになりたい。
守る側と守られる側じゃなくて。
並んで歩く側に、自分も立ちたい。
アークは、その言葉を黙って聞いていた。
沈黙が、少し続く。
(あ、これ、言いすぎたかな)
不安が胸をよぎる。
その不安を、アークの大きな手が、そっと頭の上から押さえた。
ぽん、と優しく乗せられる。
「……欲張りだな」
彼は、少しだけ笑った。
「守られることも拒否して、守る側にも立ちたいと?」
「やっぱ欲張りかな」
「いいだろう」
意外な言葉。
ノワリエは、ぱちぱちと瞬きをした。
「君が本気でそう望むなら、俺はそのための訓練を用意する」
「え」
「今日のことも、その一環として数えておく」
アークは、ほんの少しだけ誇らしげに言った。
「誰かを守ろうとして、ちゃんと一人救った。それは立派な一歩だ」
「……アーク」
「ただし」
手が、少しだけ強く頭を押さえる。
「今日みたいな無茶は、もう二度とするな」
「……はい」
条件付きの約束。
ノワリエは笑って頷いた。
守られているだけの自分から。
誰かを守れる自分へ。
まだまだ道のりは遠い。
でも、その道を一緒に歩いてくれる“最強の魔導士”がいて、彼を遠くから見てくれている“完璧な王太子”がいて。
ノワリエは、初めて心の底から思った。
(この世界でなら、きっと……前みたいに“役立たず”で終わらない)
王都滞在最後の日。
爆煙と叫びと、血と魔力の渦の中で。
ノワリエは、小さな一歩を確かに踏み出した。
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王宮から捨てられた元聖騎士の私、隣国の黒狼王に拾われて過保護にされまくる
タマ マコト
ファンタジー
追放の夜、庶民出身の唯一の女性聖騎士レイアは、王太子派の陰謀によって冤罪を着せられ、王宮から無慈悲に捨てられる。
雨の中をさまよう彼女は、生きる理由すら見失ったまま橋の下で崩れ落ちるが、そこで彼女を拾ったのは隣国ザルヴェルの“黒狼王”レオンだった。
冷徹と噂される獣人の王は、傷ついたレイアを静かに抱き上げ、「お前はもう一人じゃない」と連れ帰る。
こうして、捨てられた聖騎士と黒狼の王の出会いが、運命を揺さぶる物語の幕を開ける。
悪役令嬢の独壇場
あくび。
ファンタジー
子爵令嬢のララリーは、学園の卒業パーティーの中心部を遠巻きに見ていた。
彼女は転生者で、この世界が乙女ゲームの舞台だということを知っている。
自分はモブ令嬢という位置づけではあるけれど、入学してからは、ゲームの記憶を掘り起こして各イベントだって散々覗き見してきた。
正直に言えば、登場人物の性格やイベントの内容がゲームと違う気がするけれど、大筋はゲームの通りに進んでいると思う。
ということは、今日はクライマックスの婚約破棄が行われるはずなのだ。
そう思って卒業パーティーの様子を傍から眺めていたのだけど。
あら?これは、何かがおかしいですね。
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