役立たずの魔女、転生先で最強魔導士に育てられ、愛されて困ってます

タマ マコト

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第10話 “守られているだけ”からの一歩

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 王都滞在、最後の日だった。

 朝から空はやけに澄んでいて、雲は高く薄く伸びている。塔の窓から見る王都とは違って、王宮の窓から見る街は、どこか“近い”。

 ノワリエは、王宮の客間の窓辺で思い切り伸びをした。

「ふあぁ……帰るのちょっと名残惜しいなぁ」

「そうか?」

 椅子に腰を下ろし、報告書にざざっと目を通していたアークが顔も上げずに返す。

「塔のほうが落ち着くだろう」

「落ち着くのはそうなんだけどさ。あの屋台の甘いパンもう一回食べたかったし、ルキアンに中庭の別エリアも見せてもらう約束だったのに」

「王太子殿下をあだ名で呼ぶな」

「ルキアンが“殿下って呼ばれるの疲れるから名前でいい”って言ったんだよ?」

「……あいつはすぐそうやって距離を縮める」

 アークが小さく舌打ちを飲み込んだのを、ノワリエは気づいてないふりをした。

 王都に来てから数日。ノワリエは初めて「塔の外の世界」を生で見て、浮かれて、戸惑って、ちょっとだけ成長した気がしていた。

 自分の魔法がまだ未熟なのは分かっている。でも、アークの横を歩いて王宮までたどり着いたことも、王太子とまともに話したことも、ノワリエにとっては小さくない“一歩”だった。

(次、来るときには、もっとちゃんと魔法使えるようになってるといいな)

 そんなことをぼんやり考えていた、まさにそのときだった。

 ――どん、と。

 遠くで何かが爆ぜるような音がした。

 床が、ほんのかすかに震える。

「……え?」

 ノワリエは窓辺から身を乗り出した。

 王宮の外、少し離れた位置にある塔のような建物。その上空に、黒い煙がふわりと立ち上っているのが見える。

 次の瞬間。

 ぞわり、と肌が粟立った。

(魔力……)

 空気そのものが震えている。塔で感じたアークの全力魔法とは違う、雑で、棘だらけの魔力の波。

 アークが、ガタンと椅子を引いた。

「……今のは」

 金の瞳が、窓の外を鋭く射抜く。

 彼の表情が、ほんの一瞬で“戦場の顔”に切り替わった。

「ノワリエ」

「な、なに、今の音――」

「魔導士団本部のほうだ」

 アークは即座に言い当てる。

「魔力障壁が一部破られている。……何者かの襲撃だ」

「えっ」

 王都の心臓部、その中でもさらに核に近い場所が狙われたということだ。

 ノワリエの背中を、冷たいものが駆け上がる。

 その間にも、外から悲鳴に近いざわめきが聞こえてきた。

「警備隊を回せ!」 「負傷者が――!」 「魔導士団から救援要請!」

 廊下が、一気に騒がしくなる。

 アークは窓から視線を戻し、ノワリエを見た。

「ノワリエ」

「……うん」

 名前を呼ばれただけで、状況が分かった。

 戦いが起きる。

 アークはそこに行く。

 自分は、たぶん――

「君は、塔に戻れ」

 予想通りの言葉。

 喉の奥が、きゅっと詰まった。

「王宮の避難路は把握しているな」

「う、うん。昨日ルキアンに、もしものときはここから地下の──」

「そこから外に出て、フェルネウスの塔に戻れ。エリアナとマルタには、俺から連絡する」

 アークの声は冷静で、命令だった。

「……分かった」

 ノワリエは、ぎゅっと拳を握る。

 頭では分かっている。今の自分の力じゃ、邪魔になるだけだ。アークや魔導士団の足を引っ張るわけにはいかない。

 でも。

(また、“守られてるだけ”か)

 心の奥で、かすかな悔しさがうずく。

 それでも、今ここで逆らっても意味がないことも理解していた。

「必ず戻る」

 アークはそれだけ言うと、黒いコートを翻した。

 扉に向かう背中。

 ノワリエは、その背中に向かって叫んだ。

「――気をつけて!」

 一瞬、アークの足が止まる。

 振り返りはしなかった。でも、肩がほんの少しだけ緩んだ気がした。

「ああ」

 短く、それだけ返して、アークは駆け出した。

 廊下に、彼の足音が遠ざかっていく。

 ノワリエは、しばらくその音を追いかけるように耳を澄ませていた。

(……行かなきゃ)

 自分に言い聞かせる。

「地下通路、だよね」

 王宮には、緊急時用の避難経路がいくつもある。そのうちのひとつを、ルキアンに教えてもらっていた。

 ノワリエは急いで荷物を掴み、部屋を飛び出した。

   ◇ ◇ ◇

 避難路へ続く廊下は、思ったよりも混乱していた。

 侍女や兵士が行き交い、誰かが泣いていて、誰かが怒鳴っている。遠くからは爆発音が続けざまに響いてきて、そのたびに天井がびりびりと震えた。

(こんなとき、私はただ逃げるだけでいいの?)

 自分の足が、石畳を叩く。

 塔で鍛えた脚力は、前よりずっと強くなっているはずだ。それでも、心がついていかない。

 曲がり角を曲がり、地下へ続く階段へと急ごうとした、そのとき。

「っぐ……!」

 かすかなうめき声が、耳に引っかかった。

 廊下の陰。大きな柱の影に、誰かが倒れている。

 ノワリエは反射的に足を止めた。

「だ、誰か──」

 言いかけて、その“誰か”の服装に気づく。

 深緑のローブ。胸元には王宮魔導士団の紋章。

(魔導士団の……見習い?)

 少年だった。

 ノワリエと歳はあまり変わらないだろう。茶色の髪が血と汗で額に張りついている。顔色は悪く、ローブの脇腹のあたりが真っ赤に染まっていた。

「ちょっと、大丈夫!? ねぇ!」

 ノワリエは駆け寄り、少年の肩を揺さぶる。

 少年がきしむような声を漏らし、ゆっくりと目を開けた。

「……あ……」

 濁った視線が、ノワリエを捉える。

 ノワリエは思わず息を呑んだ。

 その目の奥には、「痛み」と「恐怖」と「焦り」がごちゃ混ぜになっていた。

「だ、大丈夫? 今、誰か呼んで──」

「……だめだ……」

 少年は、苦しそうに首を振る。

「み……んな……下に、行けって……言われてる……っ」

「でも、あなたこのままだと──」

「友達が……」

 少年のかすれた声が、ノワリエの言葉を遮る。

 喉の奥から搾り出すような声だった。

「友達が……まだ、中に……」

 “中”。

 少年が震える指で指したのは、王宮の外、さっき煙が上がっていたほう――魔導士団本部の方向だった。

「一緒に……いたのに……僕だけ、逃げて……」

 くしゃりと顔が歪む。

 涙と血と汗でぐちゃぐちゃになったその表情は、見ているこっちが胸を抉られるほどだった。

「お願いだ……誰か、助けて……っ」

 その言葉に、ノワリエの足が、ぴたっと止まった。

(……誰か)

 今、自分が何をするべきか。

 頭では分かっている。

 自分は避難しなきゃいけない。アークは単独で戦っている。そこにたどり着く前に、自分がここで何かするのは、正直危険だ。

 でも。

(“誰か”って、誰?)

 今、この場にはノワリエしかいない。

 周囲は混乱していて、誰かを呼びに行ったとしても、戻ってくるまでに時間がかかる。少年の出血は多い。時間をかければかけるほど、命が遠のいていく。

「……」

 喉の奥が、きゅっと詰まった。

 頭の中で、過去の声が反響する。

 “役立たず”  “いないほうがいい”  “また失敗したのね”

(やめて)

 今じゃないのに。

 前世の記憶は、断片的になっていたはずなのに、こういうときだけ、鮮明に刺さってくる。

 魔法を使おうとするとき。

 誰かの命がかかっているとき。

 そのたびに、「あなたは失敗する」「あなたは壊す」と言われ続けた声が、頭の中でがんがん鳴り出す。

「……私、は」

 ノワリエは、自分の手を見下ろした。

 震えている。

 掌がじんじんと熱い。魔力が、ざわざわと動き始めているのが分かる。

(ここで、魔法を使ったら)

 前のように暴走するかもしれない。

 治そうとして、もっと悪化させるかもしれない。

 少年にとどめを刺してしまうかもしれない。

 ――それが、いちばん怖かった。

「お、お願い……」

 少年の指が、ノワリエのローブを掴む。

 その力は弱いのに、伝わってくる必死さは重かった。

「僕……あいつに、“また一緒に訓練しよう”って……言ったまま……」

 それ、って。

 もう二度と果たせない約束なんて、嫌だ。

 ノワリエは、奥歯を噛んだ。

(ここで逃げたら)

 アークはきっとこう言うだろう。

 「無茶をするな」「お前が傷ついたら意味がない」。

 エリアナもマルタも、自分の身を守れと言うだろう。

 それは正しい。頭の中の“現実的な自分”は、それを繰り返し唱えている。

 でも、胸の奥の別の自分は叫んでいた。

(ここで逃げたら、また“守られてるだけ”だ)

 アークに拾われてから、ずっと守られてきた。

 魔法の練習も、生活も、心も、その全部を支えてもらってきた。

 少しずつ成長はしているはず。でも、ここぞという場面で、いつも「避難していてください」と言われるだけの自分。

 小さな火を灯せるようになった。治癒の基礎も、少しだけできるようになった。

 それなのに。

(ここでも逃げたら、永遠に“避難させられる側”から抜け出せない気がする)

 喉の奥が、焼けるように熱くなる。

「……っ」

 ノワリエは、震える息を飲み込んだ。

 怖い。

 怖くてたまらない。

 でも――

「……ねぇ、君」

 ノワリエは、どうにか声を絞り出した。

「名前、なんて言うの」

「……カイル……」

 少年が答える。

「カイル・ロイド……魔導士団見習い……」

「カイル」

 ノワリエは、その名前をしっかりと口の中で転がした。

「私、ノワリエ。アークの弟子」

「アーク……って……あの、“最強の”……?」

「そう」

 ノワリエは、1回だけ笑った。

「その弟子が、ここにいる」

 カイルの目が、ぼんやりと見開かれる。

「だから」

 ノワリエは、震える手をカイルの傷口の上にそっとかざした。

「ここで、何もしないで逃げるのは、私が私を許さないから」

 それは、誰に向けた宣言でもなく、自分への宣言だった。

 怖い。失敗が怖い。嫌われるのが怖い。

 でも、「怖いからやらない」を選び続けていたら、一生変われない。

(アーク、怒るかな)

 少しだけ、彼の顔が頭をよぎる。

(でも、アークに怒られても、ここで何もしないほうが、私にはずっと怖い)

 ノワリエは目を閉じた。

 息を吸って、吐く。

 胸の奥の魔力に触れる。

(落ち着いて。私、治癒の訓練、ちゃんとしてきたんだから)

 エリアナに教わった基礎治癒。

 “失われた器官は戻せないけれど、傷の広がりを抑えたり、血流を一時的に落ち着かせたりする応急処置”。

 大それたことは、できない。

 でも、今必要なのは、“完璧な治癒”じゃない。

 “今死なせないこと”。

 ノワリエは、胸の魔力を掌に集めていく。

 ざわざわと動く魔力。

 こわい。

 でも、“観察”する。怖がって目をそらすんじゃなくて、ちゃんと見る。

 丸く、丸く。

 アークの声が、頭の中でよみがえる。

 魔力を球にして、その表面だけをすくって指先へ。

 指先が、じん、と熱を持つ。

 傷口からはまだ血が滲んでいる。ローブがべっとりと濡れていて、鉄の匂いが鼻を刺す。

(血管を……少しだけ閉じるイメージ)

 エリアナが何度も言っていた。

 傷の周りの血管に、柔らかい布を巻き付けるイメージで、血の流れをゆるめてあげる。

 ノワリエは、そのイメージを必死に追いかけた。

 魔力が、掌からカイルの体内へと染み込んでいく。

 熱が、ノワリエの手を通じて彼の体に移っていく。

「……っ、あ」

 カイルが、かすかにうめいた。

 ノワリエは歯を食いしばる。

「ごめん、ちょっと痛いかも。でも、耐えて」

「っだ……だいじょうぶ……」

 少年は、震えながら笑ってみせた。

(すごいな、この子)

 こんな状態でも、「大丈夫」と言える。

 ノワリエは、その強さに少しだけ励まされる。

(私も、ちゃんとやらなきゃ)

 魔力の流れが、少し落ち着いてきたのを感じる。

 暴れそうだった魔力の“端っこ”を、なんとか手綱でつかまえて、必要な分だけ送り続ける。

 額に汗がにじむ。

 呼吸が荒くなっていく。

 魔力は、いまだノワリエの中で“完璧な従順さ”なんて持っていない。それでも、訓練の成果か、以前よりずっとマシにはなっていた。

 やがて。

 カイルの顔色が、ほんの少しだけ戻ってきた。

 血の流れがおさまり、ローブの赤い染みの広がりが止まる。

 ノワリエは、ゆっくりと魔力の供給を落としていった。

(……これ以上やると、こっちが倒れる)

 息を吐く。

 手を傷口から離す。

 カイルが、はぁ、と大きく息を吐いた。

「……あ……」

 さっきまで荒く乱れていた呼吸が、少し落ち着いている。

 目の焦点も、さっきよりはっきりしている。

「動ける?」

 ノワリエは、慎重に問う。

 カイルは、ゆっくりと身体を起こそうとした。

「っ……まだ……痛いけど……」

「無理しないで」

「でも……さっきより、全然……」

 カイルは、自分の脇腹に手を当てた。

 血の量は確かに減っている。完全に塞がったわけではないが、応急処置としては十分だ。

「……すごい……」

 少年が、ぽつりと言った。

「僕……本当に、もうダメだと思ってたのに……」

「いや、まだ全然足りないよ。ちゃんと治癒師のところに行かなきゃ」

「それでも……」

 カイルは、ノワリエを見上げた。

 その目に浮かんでいたのは、さっきまでの“恐怖”だけではない。

 感謝と、安堵と、驚き。

「ありがとう、ノワリエさん」

「……っ」

 胸の奥が、じん、と熱くなった。

 “ありがとう”。

 前の世界で、その言葉を魔法に対して向けられたことは、どれくらいあっただろう。

 失敗すれば責められ、成功しても「やっと普通にできた」としか扱われなかった。

 今、自分の魔法が――不完全で、ぎこちなくて、完璧には程遠い治癒が――誰かの命を、ほんの少しだけ遠ざけた。

(……私)

 まだ息が荒い。膝も震えている。

 それでも。

(今、“誰かの役に立った”)

 実感が、胸の奥で小さな灯りをともした。

 それは、第七話で掌に灯した火と同じくらい小さい。でも、それと同じくらい、確かな熱を持っていた。

「カイル」

 ノワリエは、できるだけ真剣な声で言った。

「今すぐ、治癒師のところまで一緒に行こう。私も、避難路そこ通るし」

「でも……君も避難しなきゃ……」

「避難ルートの途中に治癒師の詰め所あるんだって、ルキアンが言ってた。そこまでなら、行ける」

 うろ覚えの地図を頭の中で引っぱり出す。

 自分の魔力も、もうそう長くは持たない。でも、“途中まで一緒に行く”ことくらいはできる。

「君の友達のところには――」

 ノワリエは言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 今から自分が魔導士団本部に行くのは、現実的じゃない。

 アークがいる。魔導士団もいる。王都の守りの要が、そこに集中している。

 自分にできるのは、その前の“手前の仕事”。

 無理な約束はできない。

「必ず、誰かが向かってる」

 だから、代わりにそう言った。

「君がここで生きてることだって、大事だよ」

 カイルの目が、また潤む。

「……うん」

 かすかな声で頷く。

 ノワリエは、彼の肩を貸して立たせた。

 自分の足も震えていたけれど、“二人で歩く”と決めた瞬間、不思議と一歩が軽くなった。

   ◇ ◇ ◇

 治癒師の詰め所にカイルを引き渡したあと、ノワリエはようやく自分の膝が笑っていることに気づいた。

「ふ、ふぅ……」

 誰にも見られていない廊下の片隅で、壁にもたれて座り込む。

 体中がだるい。頭も少しクラクラしている。

(やっぱり、まだまだ体力足りないなぁ)

 情けないけれど、少し笑ってしまう。

 そのとき。

「ノワリエ!」

 聞き慣れた声が、廊下の向こうから響いた。

 顔を上げると、銀髪が目に飛び込んできた。

「ルキアン!」

 ルキアン・フロースが、数人の騎士を引き連れながら駆けつけてくる。

 息が少し上がっていて、礼服の裾には薄く埃がついている。

「無事?」

「うん、一応」

「一応ってなに」

「魔力ちょっと使いすぎただけ」

「それを“ちょっと”って言わないんだよ……」

 ルキアンは呆れたように言いつつも、視線をすっとノワリエの全身に走らせた。

 怪我はない。疲労の色はあるが、致命傷ではない。

 彼は、安堵を深く吐き出した。

「魔導士団本部のほうは?」

 ノワリエが尋ねると、ルキアンは眉をひそめた。

「まだ完全には鎮圧できてない。けど――」

 青い瞳に、一瞬だけ感情が灯る。

「アークが入った。……あの人が本気を出せば、すぐに片がつく」

 ノワリエの胸が、少しだけ軽くなる。

 そうだ。アークがいるなら、大丈夫だと、自然に思ってしまう。

 その“信頼”に、自分でも少し驚きながら。

「君は?」

 ルキアンの視線が、ノワリエの手に落ちる。

 血の跡が残っていた。カイルを支えたときについたものだ。

「怪我じゃない。さっき、見習いの子に会って」

 ノワリエは簡単に事情を話した。

 廊下で倒れていたこと。友達を心配していたこと。応急処置をしたこと。治癒師のところまで一緒に行ったこと。

 話している途中で、ルキアンの表情が、少しずつ変わっていった。

 最後まで聞いたあと、彼は小さく息を吐いた。

「……君って」

 青い瞳が、まっすぐにノワリエを見ている。

「本当に、バカなんだね」

「えぇぇ!?」

 いきなりの評価に、ノワリエは素で叫んだ。

「そこで“バカ”来る!?」

「褒めてるよ」

 ルキアンは、苦笑しながら続ける。

「普通なら、逃げる。王宮の避難命令が出てるんだから。……それを無視して見知らぬ見習いを助けて、治癒師のところまで運んで、自分はヘトヘトになって座り込んでる」

「やめて、言語化されると恥ずかしい」

「本当は、こう言いたかった」

 ルキアンは、少しだけ声を落とした。

「君は……優しいんだね」

 そのひと言は、ひどく慎重に置かれた。

 ノワリエは、どう返せばいいか分からなくて、視線をそらす。

「優しいって、そんな大層な……」

「大層だよ」

 ルキアンは静かに言う。

「僕の周りには、“正しさ”で動く人はたくさんいるけど、“優しさ”で無茶する人はあまりいない」

「無茶認定された……」

「だって無茶だもん」

 ルキアンは苦笑しつつも、その瞳には、ほんの少し憧れのような色が混じっていた。

「でも、ありがとう」

「え?」

「君みたいな人が、アークのそばにいてくれることが」

 その言葉に、ノワリエの心臓がどくんと跳ねた。

「アークは、ずっと“守る側”に立ち続けてきたから」

 ルキアンは、遠くを見るように言う。

「誰かに守られることに、不慣れなんだと思う。……君が、“守られているだけ”じゃなくて、こうやって誰かを守ろうとする人なら」

 青い瞳が、少し笑った。

「きっと、あの人の世界も、変えてくれる」

「おっきいこと言うね」

 ノワリエは苦笑した。

 自分ひとりで何かを変えられるなんて、そんな大それた自信はない。

 でも――胸の奥で、小さく灯った火が、「それも悪くない」と囁いている。

 そのとき、廊下の奥から足音が響いた。

 聞き慣れた、重みのある足音。

「ノワリエ!」

 振り向く前に、名前を呼ばれた。

 アークが、黒いコートをはためかせて歩いてくる。

 コートの裾はところどころ焦げていて、髪も少し乱れている。額には汗。だが、その瞳ははっきりとしていた。

「アーク!」

 ノワリエは思わず立ち上がりかけて、膝ががくっと笑った。

「わっ」

 よろけた肩を、ルキアンが支える。

 アークの視線が、一瞬でそこに突き刺さる。

 ルキアンは手を離し、気まずそうに笑った。

「今のは純粋に支えただけだから、フェルネウス様」

「……そうか」

 アークは短く返し、すぐにノワリエのほうへ歩み寄ってきた。

 真っ先に見るのは、怪我の有無。

 腕。足。顔。ローブ。

 血の跡を見つけた瞬間、表情がぴくりと変わる。

「その血は」

「ち、違う、私のじゃない!」

 ノワリエは慌てて両手を振った。

「廊下で見習いの子に会って、その子の……カイルって言うんだけど、怪我がひどくて、それで……」

 また事情を説明することになった。

 アークは黙って聞いていた。

 最後まで話を聞き終わり、その場に沈黙が落ちる。

 空気が、ぴん、と張りつめた。

「……君は」

 アークの声は低かった。

「馬鹿か」

「二人目!?」

 ノワリエは涙目になった。

「なんで今日みんな私のことバカって言うの!?」

「褒めている」

「褒め方のクセ!」

 ルキアンとアークの評価が妙に一致しているのが、余計に腹立たしい。

 アークは、額に手を当てて、小さく息を吐いた。

「避難しろと言ったはずだ」

「うん」

「それなのに、見知らぬ見習いの応急処置をして、治癒師まで運んで、自分はそこで膝を笑わせて座り込んでいたということか」

「要約うますぎない?」

「事実を整理しただけだ」

 アークは目を閉じ、一拍置いてから再び開いた。

 その瞳には、怒りだけではないものが宿っていた。

「二度と、無茶はするな」

 その言葉は、思ったよりもずっと重かった。

 ノワリエは唇を噛む。

「……ごめん」

「謝れとは言っていない」

「じゃあどうすればいいの」

「次からは、俺を呼べ」

 アークは、きっぱりと言った。

「見習いが血を流して倒れていたのなら、その時点で魔力を飛ばして俺を呼べ。治癒師を呼べ。君ひとりで抱え込むな」

「でも──」

 ノワリエは言いかけて、ぐっと飲み込む。

 “でも、何もしないのは嫌だった”。

 それを言えば、またアークを困らせることになる気がした。

 アークは、少しだけ目を細める。

「……君が誰かを助けたいと思ったことを、責めるつもりはない」

 その言葉に、ノワリエの喉がきゅっと鳴った。

「あの見習いが助かったのなら、それは君の行動のおかげだ。誇っていい」

「……」

 胸の奥が、じん、と熱くなる。

 認められた。

 自分の魔法が、誰かの命に届いたことを。

「だが」

 アークは続ける。

「君の命が、俺にとってどれだけ重いかも、少しは理解してほしい」

 その声は、いつになく生々しかった。

 ルキアンが、ふっと視線をそらす。

 ノワリエは、一瞬で顔が熱くなった。

「それは――」

 言葉が出てこない。

 自分の命が“重い”なんて言われたことは、ほとんどなかった。

 前の世界では、「いると危ない」「いないほうがいい」と言われ続けたのに。

「無茶をするなと言っているのは、君を“閉じ込めておきたい”からじゃない」

 アークは言葉を選ぶように続ける。

「隣に立たせるために、今はまだ守っているだけだ」

 ノワリエの心臓が、どくん、と跳ねた。

「……隣に」

 反射的に復唱してしまう。

 アークは、少し視線を外した。

「今の君が戦場に出れば、俺は戦いに集中できなくなる」

「ひどい理由きた」

「事実だ」

 アークは、小さく苦笑した。

「だから、“守られているだけ”だと思うなら、それは誤解だ」

 ノワリエは、息を呑んだ。

(誤解)

 自分で勝手に決めつけていた。

 自分は守られているだけで、アークの役に立てていないと。

 でも、アークの中では、少し違う絵が描かれていた。

「君がそばにいるから、俺は塔に帰る理由を持てた」

 アークの声が、少しだけ柔らかくなる。

「昔は、戦場に出て、そのまま戻らなくてもいいと思っていた時期もあった」

 ルキアンが、わずかに目を見開く。

 それは、王太子として、聞いたことのない心情だった。

「でも今は、君が塔で待っている」

 アークは、ノワリエの目を見る。

 金と灰紫。

 視線が絡まる。

「だから、“守られているだけ”なんかじゃない」

 その言葉に、ノワリエの胸の中で何かがほどけた。

 ずっと、どこかで引っかかっていた棘。

 自分だけが受け取って、返せていない気がしていた借り。

 それが、少し形を変える。

 それでも。

「……私」

 ノワリエは、ゆっくりと口を開いた。

 喉が震える。でも、今言わなきゃ、一生言えない気がした。

「私、あなたに守られているだけじゃなくて」

 一度、息を吸う。

 アークの顔が、真剣にこちらを見ている。

 ルキアンは、気を利かせて一歩後ろに下がった。

「ちゃんと、隣に立てるようになりたい」

 言葉が、やっと形になる。

 自分でも驚くくらい、すっと出てきた。

「アークが戦うとき、いつも遠くに避難してるんじゃなくて」

 拳を握りしめる。

「いつか、“一緒にいてくれて助かった”って言われたい」

 それは、前の世界でずっと欲しかった言葉だった。

 「いてくれてよかった」「お前がいて助かった」。

 その言葉を、今度こそ、アークからもらえるようになりたい。

 守る側と守られる側じゃなくて。

 並んで歩く側に、自分も立ちたい。

 アークは、その言葉を黙って聞いていた。

 沈黙が、少し続く。

(あ、これ、言いすぎたかな)

 不安が胸をよぎる。

 その不安を、アークの大きな手が、そっと頭の上から押さえた。

 ぽん、と優しく乗せられる。

「……欲張りだな」

 彼は、少しだけ笑った。

「守られることも拒否して、守る側にも立ちたいと?」

「やっぱ欲張りかな」

「いいだろう」

 意外な言葉。

 ノワリエは、ぱちぱちと瞬きをした。

「君が本気でそう望むなら、俺はそのための訓練を用意する」

「え」

「今日のことも、その一環として数えておく」

 アークは、ほんの少しだけ誇らしげに言った。

「誰かを守ろうとして、ちゃんと一人救った。それは立派な一歩だ」

「……アーク」

「ただし」

 手が、少しだけ強く頭を押さえる。

「今日みたいな無茶は、もう二度とするな」

「……はい」

 条件付きの約束。

 ノワリエは笑って頷いた。

 守られているだけの自分から。

 誰かを守れる自分へ。

 まだまだ道のりは遠い。

 でも、その道を一緒に歩いてくれる“最強の魔導士”がいて、彼を遠くから見てくれている“完璧な王太子”がいて。

 ノワリエは、初めて心の底から思った。

(この世界でなら、きっと……前みたいに“役立たず”で終わらない)

 王都滞在最後の日。

 爆煙と叫びと、血と魔力の渦の中で。

 ノワリエは、小さな一歩を確かに踏み出した。
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