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第9話 王太子ルキアンと、嫉妬するアーク
しおりを挟む王宮の応接室での初対面のあと、話は一度“仕事モード”に切り替わった。
王宮結界の調整、外縁部に増設予定の魔力障壁、その設計の是非。アークとルキアン、そして側近の文官たちが、難しい言葉を交わしていく。
ノワリエは最初こそ真面目に聞こうとしたものの、途中からは半分以上、頭の上を専門用語が飛び交っていくのを眺めるしかなかった。
(魔力出力の周波数帯ってなに……。そんなの私のテスト範囲に入ってない)
そんな中、ふと、ルキアンが会議を切り上げた。
「――続きは、また文書で詰めよう。フェルネウス様を長く拘束するのも悪いし」
文官たちが一礼して部屋を出ていく。
ノワリエはほっと息を吐いた。
(やっと終わった……。難しい話聞き続けるの、魔力使う)
その瞬間だった。
「ねぇ、ノワリエ」
名前を呼ばれる。
顔を上げると、ルキアンが、さっきまでの「王太子モード」より少しだけ砕けた笑みを浮かべていた。
「少し、宮の中を案内してもいい?」
「え、私を?」
「うん。王都に来るのは初めてなんだろう? 王宮の中なんて、そう簡単に入れる場所じゃないし。……興味、ない?」
“ない”と言われても困るような目で見られる。
ノワリエはわたわたした。
「い、いや、興味はめっちゃあるけど! でも、アークは――」
「ノワリエ」
背後から、低い声。
振り向けば、アークが腕を組んで立っていた。目つきがちょっといつもより鋭い。
「仕事は終わった。後は各部署との調整だけだ」
「うん」
「君が王宮を見学したいなら、構わない」
「ホント!?」
ノワリエの顔がぱぁっと明るくなる。
アークは一瞬だけ視線をそらした。
「……ただし、日が暮れる前には戻れ」
「はーい!」
子どもみたいな返事をしてしまった自覚はあったけど、嬉しさが勝った。
ルキアンが、少しだけ得意げに笑う。
「じゃあ、行こうか」
ノワリエの方へ一歩踏み出して――
そのまま、自然な動きで、ノワリエの手を取った。
ひやり、とした感触。
「え」
ノワリエは反射的に固まった。
細く長い指が、自分の指を包んでいる。王族らしい手。剣やペンを持ち慣れているけれど、その皮膚はまだ少年の柔らかさを残していた。
距離が、一気に近づく。
ルキアンは、わざとらしさのない微笑みを浮かべた。
「迷子になったら困るからね」
「いや、そんな迷路みたいなとこ案内するの?」
「王宮は、慣れてないと普通に迷うよ?」
あっけらかん、と言う。
ノワリエは内心ドキドキしながら、ちらっとアークのほうを見た。
――その瞬間、空気が変わった。
アークの表情が、すっと凍る。
金の瞳が、静かにルキアンとノワリエの“繋がれた手”に落ちる。
その視線は、別に燃えているわけでも、怒鳴り散らしそうな“怒り”でもない。
ただ、氷点下まで温度が下がっただけのような、冷たい無表情。
(うわ、空気こわ)
ノワリエは反射的に手を離そうとする――が、ルキアンが先にアークへ微笑みかけた。
「フェルネウス様。少しだけお借りしても?」
「……王宮内ならば、君の庭だろう」
アークは短く答える。
声は静か。けれど、その静けさが逆に怖い。
「ただし、ノワリエ」
「は、はい!」
「何かあったら、すぐに魔力で合図を飛ばせ。俺が来る」
「……うん」
その言い方が、少しだけ過保護で、少しだけ心強かった。
ルキアンは、そんな二人のやりとりを黙って見ていた。
整った横顔が、わずかに愉快そうに歪む。
「……じゃあ、行こうか」
握られた手に、軽く力がこもった。
ノワリエは、ちょっと遅れて歩き出す。
背後で、アークの視線がいつまでも刺さっている気がした。
◇ ◇ ◇
「ここが王族専用の中庭だよ」
ルキアンに連れられて辿り着いたのは、石造りの廊下の先にある、小さな庭だった。
高い壁に囲まれ、外からは見えない。中央には丸い噴水があり、周囲には季節の花が咲き誇っている。
大広間のきらびやかな庭とは違う、静かな空間。
ノワリエは、周りを見回した。
「わぁ……落ち着く」
「気に入った?」
「うん。広すぎないし、うるさくもないし。塔の裏庭とちょっと似てる」
「塔の裏庭?」
「うん、アークと魔法の練習してる場所。もっと質素だけどね。ハーブ畑と焦げた木しかないし」
「焦げた木?」
「私のせい」
「……ああ」
ルキアンは一拍置いてから、クスッと笑った。
「なんか分かる気がする」
「分かってたまるか」
ノワリエはむくれるが、その横顔を見ながら、ルキアンはふと真面目な顔になった。
「――ねえ、ノワリエ」
「ん?」
「さっきも思ったけど」
ルキアンは、少し身をかがめた。
貴族的な距離感。近すぎず、遠すぎず。しかし、声の響きはノワリエの耳だけに届く距離。
「君の目、綺麗だね」
「え」
不意打ちだった。
灰紫の瞳。
それは、前の世界で「不吉」と言われた色だ。曇った空みたいだとか、濁っているとか。面と向かって言われたこともある。
ノワリエは反射的に視線を逸らす。
「いや、そんなことないし」
「あるよ」
ルキアンは即答した。
青い瞳が、まっすぐにノワリエを見つめている。
「アークとは全然違う色だ」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
ルキアンは淡く笑った。
「アークの目は鋭くて、どこまでも届きそうな“刃”みたいな色をしてる。でも、君の目は……」
言葉を探すように一瞬だけ沈黙し、それから続ける。
「雨上がりの空みたいだ」
「……」
ノワリエの心臓が、どくんと跳ねた。
「さっき、君が窓から王都を見てたとき。……あのとき、一瞬だけそう見えた」
「雨上がり……」
その喩えは、前の世界では一度ももらったことのない言葉だった。
ノワリエは頬が熱くなるのを感じて、慌てて視線を逸らす。
「そ、そんな、目の色なんて別に普通だよ。アークと違うのは当たり前だし」
「普通じゃないよ」
今度は、ルキアンの声に少しだけ熱が入った。
「君の目は、すごく……まっすぐだ」
「まっすぐ?」
「さっき、僕の“完璧な笑顔”にムカつくって言ったときの目」
「うわ、覚えてたのそれ」
「忘れないよ。そんなことを本人に言った子、初めてだったから」
ルキアンの口元が、くすぐったそうに緩む。
「みんな、僕のことを“王太子殿下”か、“未来の王”として見てくる。敬意と期待と、ちょっとした恐れを混ぜて」
「まぁ、そうだよね」
「でも、君は違った」
ルキアンは、ふっと声を落とす。
「君は僕を“ちょっとしんどそうな同い年の男の子”として見た。……その目が、なんだか救われる気がして」
ノワリエは、返す言葉に詰まる。
そんなつもりはなかった。ただ、塔で教わってきた通り、自分の目で見たことをそのまま口にしただけだ。
完璧な笑顔は、たしかに綺麗だったけど、同時に窮屈そうで。
そうじゃない顔のほうが、ずっと人間らしくていいと思っただけ。
「だから、君の目、すごく綺麗だと思うよ」
ルキアンは、照れもなく言い切った。
王族として、貴族として、人を褒める術を叩き込まれてきた少年の言葉。
そこには、自然な距離感と、ほんの少しの“好意”と、“探り”が混ざっている。
(うわ、これが……貴族的なやつ……)
ノワリエは、背筋がむず痒くなった。
慣れていない。こんな真っ直ぐな褒め方にも、こんな自然な距離の詰め方にも。
ルキアンは、ノワリエの反応を楽しんでいるようでもあり、本気で興味を持っているようでもあった。
「アークの弟子、か」
ふと、彼の声色が少し変わる。
「アークと一緒にいたら、怖くない? みんな、彼のことを“兵器”だとか“人間じゃない”とか言うけど」
「全然」
ノワリエは即答した。
「家では、ミルク焦がすし、寝癖ついてるし、床で本読んで寝落ちするし、マルタに“片付けなさい!”って怒られてるし」
「……想像と違いすぎるな」
ルキアンが苦笑する。
「でも、そういう話を聞けるの、実は嬉しい」
「なんで?」
「僕が知ってるアークは、いつも“最強の魔導士”だから」
淡い青の瞳に、ふっと影が落ちる。
「僕の前では、弱いところを見せてくれない。……いや、見せる必要もないのかもしれないけど」
王太子としての彼にとって、アークは「頼れる切り札」であり、「国の守りの柱」だ。
個人としてのアークを知る機会は、ほとんどない。
「君は、知ってるんだね」
ルキアンが、少し羨ましそうに微笑んだ。
「アークの弱いところも、だらしないところも、少しだけ子どもっぽいところも」
「うん。いっぱい見てる」
ノワリエは胸を張る。
それは、ちょっとした自慢だった。
アークのことを「兵器」としか見ない人たちに見えない顔を、自分だけが知っているという事実。
ルキアンは、その様子を眺めながら、内心でひとつ結論を出しつつあった。
(……やっぱり、彼女は“鍵”になりそうだ)
アーク・フェルネウスという規格外の存在。
国のために働いているけれど、国の外に一歩踏み出そうとしたら、誰にも止められない力。
その彼が、自ら手を伸ばした存在。
ノワリエ。
彼女の存在を“どう扱うか”は、政治的にも重要になってくる。
だから――
「たくさん話したいな」
ルキアンは、柔らかく笑った。
「君自身のことも。アークのことも。君が見ている世界のことも」
「え、そんなに話すことある?」
「あるよ」
少なくとも、王太子としては山ほど。
だけど、それを今ここで全部顔に出すほど、ルキアンは未熟でも正直でもない。
少年としての憧れと、王太子としての打算。
その境界線の上で、器用に笑ってみせる。
「ねぇ、さっきから手、冷たくない?」
「え」
指先に意識が向く。
ルキアンに握られた自分の手が、少し冷えていることに、今さら気づく。
いつの間にか緊張で血の気が引いていたらしい。
ルキアンは、ノワリエの手を両手で包んだ。
王族の礼儀で言えば、これは“やや距離が近い”行為だ。
でも、二人の年齢と状況を考えれば、ぎりぎり許容範囲。少年らしい気遣いにも見える。
「冷えてる。塔って寒いの?」
「えっ、あ、まぁ、ちょっと。石だし」
「王宮も似たようなものだけどね」
ルキアンの手は、意外と温かかった。
ノワリエは、どうしていいか分からなくて、困ったように笑うしかなかった。
(ち、近い……! 距離感どうなってんのこの人)
そのときだった。
「――ノワリエ」
不意に、後ろから名前を呼ばれた。
ぞくり、と背中が震える。
振り向く。
廊下の影から、アークが立っていた。
さっき別れたときと同じ黒いコート。けれど、その周囲の空気は、少し違う。
王宮に入ったときと同じ、冷たい静けさ。
金の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
ノワリエと、ルキアンと――“繋がれた手”。
視線がそこに落ちた瞬間、空気の温度が、さらに数度下がった気がした。
(ひぃ……)
ノワリエは、心の中で変な悲鳴を上げる。
ルキアンは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それからいつもの笑みを浮かべた。
「フェルネウス様。噂をしていれば、ですね」
「噂?」
「君の弟子が、どれだけ君のことを話してくれたか。……とても興味深かったよ」
アークの視線が、ノワリエに一瞬だけ向く。
「変な話はしていないだろうな」
「えっと、寝癖とかミルク焦がす話とか――」
「全部変な話だ」
即切りされた。
ルキアンが吹き出しそうになるのを堪えている。
でも、その笑いの裏で。
アークの目の奥には、別の感情が渦巻いていた。
(……なんだ、この胸のざわつきは)
ノワリエとルキアン。
年齢的には近い。立場はまったく違う。
だが、さっきまで並んで歩いていた二人の姿は、どこか“似合って”いた。
王宮の庭と、王太子と、塔から出てきた少女。
違和感はない。むしろ、自然な光景。
その、ごく自然であるはずの組み合わせに、アークは妙な違和感を覚えていた。
胸の中に、小さな棘が刺さるような感覚。
それに名前をつけるには、彼は少し、鈍かった。
「……王太子殿下」
アークは、わざと肩書きを強調して呼ぶ。
「殿下の案内は有り難いが」
金の瞳が、再び“繋がれた手”を射抜いた。
「ノワリエに、あまり馴れ馴れしくされるな」
室温が、また二度くらい下がった気がした。
「うわ、言った……!」
ノワリエは心の中で頭を抱えた。
ルキアンは、一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それからゆっくりと目を細めた。
「……馴れ馴れしく、ね」
口元に浮かんだ笑みは、少しだけ意地悪だった。
「フェルネウス様にそう言われるとは思わなかったな。君の弟子に、普通に話しかけただけのつもりだったけど」
「普通に話しかけるのに、手を握る必要はない」
アークの声は相変わらず淡々としている。
だからこそ、逆に怖い。
「ノワリエ」
「は、はい!」
「離れろ」
「は、はいっ!」
反射的にルキアンの手を離してしまう自分が情けない。
ルキアンが、その様子をじっと見ていた。
その青い瞳の奥で、何かがくるくると回る。
(……ああ、そういうことか)
彼は、鋭い。
自分の感情を押し殺すのには慣れているが、人の感情を読むのもまた得意だ。
アークの、わずかに険しくなった眉間。
ノワリエを呼ぶ声の、普段よりほんの少しだけ低いトーン。
“王太子殿下”という呼び方に込められた、距離感。
(これは――)
面白い、とルキアンは思った。
「フェルネウス様」
「何だ」
「安心していい。僕は、君の弟子を変な目で見てはいないよ」
その言い方が、逆に挑発的だった。
「ただ、興味があるだけだ。……王都の外の空気を吸って育った君の弟子が、どういう目でこの世界を見ているのか」
「興味、ね」
「それとも、“王太子”が君の大事な弟子に近づくのは、そんなに気に入らない?」
ルキアンの問いかけは、半分冗談、半分本気だった。
アークは、一瞬だけ返答に詰まる。
気に入らない、という言葉が、妙に胸に刺さった。
「……ノワリエは、まだ未熟だ」
代わりに出てきたのは、もっともらしい理由だった。
「政治の駆け引きに巻き込まれるには、早すぎる」
「心配性だなぁ」
ルキアンは、肩をすくめる。
「僕は別に、彼女を政治に利用するつもりなんてないよ」
(今すぐには、ね)
心の中でだけ、そう付け足す。
「ただ、僕には教えてくれる人がいなかったから」
ふいに、彼の声色が変わる。
「“完璧じゃなくていい”って、“失敗してもいい”って、言ってくれる人が。……君が、ノワリエに言っているみたいに」
アークの瞼が、わずかに震えた。
ノワリエも、息を呑む。
ルキアンは笑っていたけれど、その笑みの奥には、ほんの少しの羨望がにじんでいた。
「だから、少しだけ羨ましいんだ。君の弟子が」
その言葉には、打算も政治的な意図も混ざっていたけれど、同時に、年相応の正直な感情も乗っていた。
アークは、しばし黙る。
自分は、ノワリエには言ってやれても、この少年には同じ言葉を簡単には渡せない。
王太子と最強魔導士。
その立場が、言葉を重くする。
「……殿下」
アークは、少しだけ柔らかい声で言った。
「君は、十分に立派だ」
「慰めはいいよ」
「慰めではない。事実だ」
アークは、金の瞳でルキアンをまっすぐ見た。
「だが、“完璧”である必要はない。――そのことを、君がいつか本当に理解できればいいと思っている」
それは、今この場ではなく、もっと先の未来に向けた言葉だった。
ルキアンは、ふっと笑った。
「……やっぱりフェルネウス様はずるいな」
「何がだ」
「そうやって、ひょいっと大事なこと言っておいて、すぐに話題を変えるところ」
「癖だ」
「直したほうがいいよ」
三人の間に、微妙な空気が流れる。
ノワリエは、いつ話に割って入ればいいのか分からず、ただそわそわと視線を泳がせていた。
(なんか、すごい話になってるけど……)
でも、その中でひとつだけ、はっきりと分かったことがある。
(アーク、ちょっと……いや、かなり、分かりやすくルキアンに警戒してる)
それは、政治的な意味だけじゃない気がした。
ノワリエがルキアンと話しているときの、自分の胸のざわざわに戸惑っていたことに、アーク本人はまだ気づいていない。
それを横で見ているルキアンだけが、薄々察している。
(……面白い)
ルキアンは内心で笑った。
少年らしい好奇心と、王太子としての観察眼。
その真ん中にある感情が、ノワリエには見えない。
「ノワリエ」
アークが、少しだけ苛立ちを含んだ声で呼んだ。
「は、はい!」
「これ以上殿下の時間を奪うのも悪い。――そろそろ戻るぞ」
「あ、うん。ルキアン、案内ありがとう」
「こちらこそ」
ルキアンは、礼儀正しく一礼した。
その仕草は完璧で、“王太子ルキアン・フロース”としての顔そのものだった。
ただ、ノワリエを見るときだけ、その笑みが少し柔らかくなる。
「また会えるといいね、ノワリエ」
「……うん」
ノワリエは、胸の奥が少しだけきゅっとなるのを感じながら頷いた。
アークが、ノワリエの肩に軽く手を置く。
その手の重みは、いつもと同じなのに、今はやけに強く感じた。
(……アーク、なんか怒ってる?)
でも、何に怒っているのか、ノワリエにはまだ分からない。
ただ、塔に帰る馬車の中で、アークがいつもより口数が少なく、窓の外ばかり見ていたことだけは、はっきりと覚えている。
そしてその沈黙の理由が、“嫉妬”という名前の感情だと気づくのは――もう少し先の話だった。
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