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第17話 “役立たず”の再現か、“世界を救う魔女”か
しおりを挟む地下空洞の空気が、きしきしと悲鳴を上げていた。
石の床に刻まれた巨大な魔法陣――世界を裂くための陣式は、まだ完全には起動していない。 けれど、線のひとつひとつが薄く光を帯び始め、じわじわと魔力が流れ込みつつあった。
水を張った器に、少しずつ毒が混ざっていくみたいに。
「……まずいわね」
ミレーユが、額に指を当てながら呟く。
「制御核が、思ったよりも早く動き出してる」
「止められるか?」
ユリウスが、短く問う。
ミレーユは、魔法陣の中心付近――複雑な紋様が重なり合う“心臓部”を睨みつけた。
「理論上は、ギリギリ。……でも、条件がひとつある」
その視線が、ゆっくりとノワリエに向く。
ノワリエは、喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。
「……条件?」
「この魔法陣に溜まり始めてる魔力の総量」
ミレーユは、指先で空間に簡易術式を描き、魔力の流れを可視化させる。
薄い光の線が、地下のあちこちから魔法陣の中心へと引き寄せられていた。
地脈。 王都の魔導インフラ。 人々の生活を支える魔力の川。
それらが、今、水源から無理矢理引っ張られて、一箇所に溜められようとしている。
「これをそのまま放っておけば、“門”が開くわ」
ミレーユの声が低くなる。
「異界の座標に届くほどの魔力が集まる。そうなったら最後、こっちから止めるのはほぼ不可能」
「じゃあ、どうする」
「“逆流させる”しかない」
ミレーユは、迷いなく言った。
「集まってくる魔力の流れを、逆向きに叩き返す。地脈に、王都に、本来あるべき場所に戻していく。……そうやって、この魔法陣を“空の器”にしてしまうの」
「そんなことが……」
ユリウスの目が見開かれる。
ミレーユは、肩をすくめた。
「理論上はね。実際にやるバカは見たことないけど」
そこまで言ってから、彼女ははっきりとノワリエを指差した。
「必要なのは、“この魔法陣全体と同じくらいの魔力量”を持つ存在」
ノワリエの心臓が、どくんと跳ねる。
「……え、ちょっと待って」
「王都全体の魔導インフラから吸い上げられている魔力は、今の時点で、だいたいこのくらい」
ミレーユは、空中に数字を浮かび上がらせた。
その桁数に、ノワリエは目眩を覚える。
「人間ひとりが扱うには常軌を逸してる量よ。……でも」
ミレーユの瞳が、じわりと笑う。
「アークと測ったときのあなたの『最大値』と、同じくらい」
「……」
「つまり、“ノワリエなら、理屈の上では届く”」
深く、深く。
底なし沼のような穴の縁に立たされた気分だった。
(また、これ)
巨大な魔法陣の中心。
そこに立って、膨大な魔力を扱って、“異界”に関わる術式を起動させる――
前の世界で、自分が最後に立っていた場所と、構図があまりにもよく似ている。
「冗談でしょ……」
ノワリエは、思わず呟いた。
足が、震えている。
視界の端が、じわじわと白く滲んでいく。
焼ける痛み。
世界が白く塗りつぶされる前の光。
『ごめんなさい、また、失敗しました……』
あのときの、自分の声。
(いやだ)
胸が、ぎゅっと掴まれる。
(また、あれをやるの?)
今度、失敗したらどうなる。
王都が吹き飛ぶ。
人々の生活が壊れる。
ルキアンも、ミレーユも、ユリウスも、アークも――大切なもの全部を、今度こそ自分の手で壊すかもしれない。
膝が、からんと笑った。
魔力が、ざわざわと暴れ始める。
「ノワリエ」
名を呼ぶ声が、震えを止める唯一の鎖だった。
アークが、すぐ近くにいた。
いつの間にか距離を詰めていた彼は、ノワリエの肩にそっと手を置く。
その手は、熱いのに冷静だった。
「……やらなくていい」
低く、静かな声。
「アーク……」
「ミレーユ」
アークは、視線をミレーユに向ける。
「他の案は」
「“世界を救う案”なら、今のところそれが最善」
ミレーユは、躊躇なく答えた。
「“王都だけ守る案”なら、いくつかあるわ」
過負荷になりそうな区域だけを切り離し、災害を局所化する。
切り捨てる人間は、数百から数千。
地脈を意図的にぶっ壊して、魔法陣全体を“死んだ器”にする。
その場合、王都の魔導文明は数十年単位で後退する。
「どっちにしろ、被害ゼロってわけにはいかない」
ミレーユは、ノワリエに視線を戻した。
「でも、“君がやれば被害を限りなくゼロに近づけられる”って事実は、変わらない」
「……そんな言い方、ずるいよ」
ノワリエは、かすかに笑った。
ずるい。
でも、間違ってはいない。
そのとき、アークがひとつ息を吸った。
ノワリエの肩に置かれた手に、少し力がこもる。
「やらなくていい」
さっきと同じ言葉。
でも、今度は彼女だけに向けられた、真っ直ぐな視線。
「世界がどうなっても、君だけは、僕が守る」
鼓動が、一瞬止まった。
世界がどうなっても。
王都が壊れても。
国が崩れても。
それでも君だけは。
その言葉は、ノワリエの心の一番柔らかいところに、ざくりと突き刺さった。
嬉しい。 嬉しくて、涙が出そうなほどの言葉。
でも同時に――ひどく、酷な言葉だった。
「……アーク」
声が震えた。
「あなたはいつもそう」
ノワリエは、顔を上げた。
涙で滲んだ視界の向こうで、アークの金の瞳がわずかに揺れる。
「いつも、“私が何もしなくてもいい理由”を探す」
「……」
「前もそうだった。王都の襲撃のときも、王宮の仕事のときも。私が何かしようとするたびに、“危ないからやめろ”“守られてろ”って」
喉の奥が熱い。
「あなたはきっと、善意で言ってる」
それは分かる。
分かるからこそ、余計に苦しい。
「でも、そう言われるたびに、私の中の“役立たずだった私”が喜ぶんだよ」
ノワリエは、唇を噛んだ。
前の世界。
小さな森の集落。
何をやっても失敗で、何もさせてもらえなくて、“何もできない子”のまま終わった自分。
『いないほうがいい』 『手を出すと全部壊れる』
そのラベルにしがみついていれば、何も選ばなくていい。
責任を持たなくていい。
誰かのせいにして、何もせずに済む。
「“世界がどうなっても、君だけは守る”?」
ノワリエは、笑った。
笑いながら、涙がぽろぽろ零れた。
「そんなの、私には優しすぎて、残酷すぎる」
アークの指先が、僅かに震える。
「私は――」
ノワリエは、肩に置かれた手を、そっとほどいた。
自分から、一歩、離れる。
「私は、もう“何もできない子”のままでいたくない」
膝は震えている。 心臓はうるさい。 魔力はざわざわと不安定。
それでも、言葉だけはまっすぐだった。
「前の世界で、私は役に立たなくて、最後まで謝ることしかできなかった」
『ごめんなさい』 『また、失敗しました』
「でも、今度は違う」
ノワリエは、自分の胸に手を当てた。
フェルネウスの塔。
エリアナの笑顔。
マルタの怒鳴り声。
ミレーユとユリウス。
ルキアンの疲れた笑い。
そして――アークの、ぶっきらぼうで優しい声。
全部が、この世界にある。
「この世界で、私を拾ってくれたのは、アークだよ」
ノワリエの喉が詰まる。
「あなたが、私に“魔法は怖いものじゃない”って教えてくれた。失敗してもいいって言ってくれた。隣に立ちたいって言ったとき、“いいだろう”って言ってくれた」
あの日の、バルコニー。
“隣に立たせるために、今は守っているだけだ”と、彼は言った。
その言葉に、どれだけ救われたか。
「じゃあ、今ここで何もしないでいたら、あのときの言葉、全部嘘になる」
ノワリエは、ぎゅっと拳を握った。
「私、自分で選びたい」
涙で濡れた瞳で、アークをまっすぐ見上げる。
「前みたいに、誰かに“やれ”って言われてやるんじゃなくて。誰かの期待に縛られて動くんじゃなくて」
自分の意志で。
「“世界を救う魔女”になれるかどうかなんて、分かんない」
そんな大層なものになれる自信はない。
「でも、“役立たずの再現”で終わりたくない」
前の世界で終わった場所から、一歩でも前に進みたい。
その一歩が、今、この足元にある。
ノワリエは、ぐっと息を吸った。
震える足を前に出す。
魔法陣の中心へ――
「待て」
アークの声が、鋭く飛ぶ。
ノワリエは足を止めなかった。
「ノワリエ!」
肩を掴まれる。
強い力。
知らない顔のアークが、すぐそこにいた。
怒りとも、恐怖とも、愛ともつかない感情がごちゃ混ぜになった、ひどく不器用な表情。
「お前は、また自分を犠牲にするつもりか!」
「犠牲になりたいわけじゃない!」
ノワリエも叫び返した。
「“選択肢のひとつ”として、ここに立つって決めたいの!」
喉が裂けそうだ。
「前の私みたいに、“あんたしかいないからやれ”って押し付けられて、失敗したら全部私のせいにされて、そうやって終わるのは嫌!」
アークの手が、少しだけ緩む。
「今度は、“私がやりたいからやる”って言いたい」
涙を拭う。
鼻をすすって、笑う。
「アークが“世界がどうなっても、君だけは守る”って言ってくれるの、すごく嬉しかったよ」
それは、本心だ。
「でも、私――」
胸が苦しくて、息が詰まりそうで。
それでも、最後の一歩を踏み出すための言葉を、どうにか掻き集める。
「私、あなたの隣に立ちたいって言ったよね」
アークの瞳が、大きく揺れた。
「守られてるだけじゃなくて、一緒に戦える私になりたいって、何度も言ったよね」
「……ああ」
「今ここで、何もしないで背中向けたら」
ノワリエは、そっとアークの手を外した。
「一生、自分を許せない」
その一言が、決定打だった。
アークの指先が、力を失う。
掴みかけた袖から、すべり落ちるように手が離れる。
金の瞳が、悲しそうに、苦しそうに歪んだ。
「……君は、本当に」
アークは、額を押さえた。
深く、深く息を吐く。
「どうしようもなく、俺と似ている」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
苦笑に近いものが浮かぶ。
次の瞬間、アークはノワリエの肩を両手で掴んだ。
しっかりと、真正面から。
「――行きたいなら、行け」
ノワリエの目が見開かれる。
「お前が自分で選んだ道を、俺は止めない」
喉が焼ける。
涙がまた溢れる。
「ただし」
アークの指先に、再び力がこもる。
「世界がどうなっても君を守る、という言葉は撤回しない」
「え」
「世界も君も、どっちも守る」
あり得ないことを、真顔で言う人だ。
「無茶言ってるの、自覚してる?」
「している」
でも、その目は本気だった。
「俺は最強の魔導士だからな」
さらっと、とんでもないことを口にする。
「世界くらい、守ってみせる」
「自分で言うんだ……」
笑いながら、涙が止まらない。
こんな人のことを、好きになってしまった。
どうしようもなく、不器用で、無茶で、真っ直ぐで。
ノワリエは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑った。
「……じゃあ、“世界を救う魔女”目指すから」
「目標が大きいな」
「アークが世界守るなら、私もそれくらいじゃないと釣り合わないでしょ」
「釣り合いなど気にするな」
「気にするよ」
アークの口元が、少しだけ和らぐ。
その表情を、胸に刻みつけるように見つめて――ノワリエは、くるりと背を向けた。
魔法陣の中心へ。
一歩。
二歩。
足元の線が、薄く光を帯びる。
近づくほどに、魔力の圧力が強くなる。
皮膚がひりひりする。 骨が軋む。 心臓が、ドクドクとうるさい。
(怖い)
正直な感情が、胸の中で叫ぶ。
(怖い。怖い。怖い)
でも――
(大丈夫)
別の声が、重なる。
アークの声。
エリアナの声。
マルタの声。
ルキアンの声。
ミレーユとユリウスの声。
『失敗してもいい』『隣に立たせるために』『帰っておいで』『君の優しさが欲しい』
全部が、今の自分の背中を押してくれる。
ノワリエは、震える手を伸ばした。
魔法陣の中心――術式の核に、そっと指先を触れさせる。
焼けるような痛み。
前世の記憶が、脳裏をかすめる。
『ごめんなさい』 『また、失敗しました』
その声を、ぐっと押し込めた。
「もう、謝らないから」
小さく、呟く。
今度は、「やらせたくせに」責めるだけの人はいない。
今度は、「やりたい」と言った自分がいる。
そして、「それでも守る」と言ってくれた人がいる。
魔力が、胸の奥で渦を巻く。
――その頃。
王宮の執務室では、ルキアンが地図と報告書に囲まれていた。
「第三区の避難は?」
「ほぼ完了しました。ただし、地下の振動が……」
「地上の被害は、最大限抑える」
ルキアンは、冷静に指示を飛ばす。
頭の中は、常に複数の情報で埋め尽くされていた。
王都の住民。 軍の配置。 地脈の状態。 結界の強度。
(そして――地下)
報告書の端に、小さく書かれた名前。
アーク・フェルネウス。 ノワリエ。
「殿下?」
側近が、不安そうに様子を伺う。
ルキアンは、ペンを置き、窓の外を見た。
空はまだ、静かだ。
でも、足元の世界がどれだけ揺れているかを、彼は理解している。
「……彼女は戻るよ」
ぽつりと、呟いた。
「アークのもとへ」
それは、祈りではない。
確信でもない。
ただ、“そうであってほしい”という願いと、“そうなるだろう”という予感が、ぎりぎりで混ざり合った言葉。
「そのとき、この国がまだ立っているようにするのが、僕の仕事だ」
王太子としての顔に戻る。
ノワリエが“世界を救う魔女”になるかどうかは、彼にも分からない。
ただひとつ分かるのは――
彼女はもう、自分で選ぶしかない場所に立っている、ということだった。
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