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第11話 檻に火を入れよ
しおりを挟む朝でも夜でもない、境の時間。霧は薄く、星の川は鈍く、空のどこかで鐘が鳴る前の吸いこむ息が長かった。最初の衝撃は、音より先に皮膚に来た。空気の膜が裏返り、鳥肌がいっせいに立つ。ついで、光――聖印で強化された投石が、紋の尾を引きながら魔界の門を叩く。石は石の顔をしていない。表面に祈りの針金を巻かれ、金の粉で祝福を塗され、飛びながら“正しさ”を叫んでいる。
「来たぞォッ!」
将軍ガルドの吠え声が、石庭から稜線へ突き刺さる。前衛が走り出す。鎧は黒、槍は鈍く、咆哮は温い。聖光が門を掠めた瞬間、セラが扇をひらいた。空中に見えない陣が幾重にも花開き、白い光を受け止めては撓み、撓んでは熱を逃がす。対奇跡障壁――均衡の側からの、反詩。
「祝詞(のりと)には祝詞で返すの。言葉が歌うなら、歌を殺さず、調(しら)べをずらす!」
彼女の声と同時に、障壁の輪郭がわずかに濃くなり、火花が青へ落ちる。投石は障壁にキィンと鳴って砕け、祈りの針金はねじ切れて砂になる。反響が遅れて胸骨を叩き、内臓が一度だけ上下する。
「後方支援、配置完了!」
ラザロが報告する。私は頷き、黒薔薇の冠ではなく、耳元の蕾を指先で確かめた。花は今朝から開いていない。開くのは帰ってから――そう決めた。
私は後方へ走る。救護と補給、視界と風の調整、兵の士気の釘打ち――“窓”の仕事は、どれも地味で、どれも急だ。守護獣たちが私の足元で拍を刻み、どの幕舎から泣き声が溢れているか、どの矢が“悪い言葉”を運んでいるか、尻尾で指し示す。
聖印の投石は止まない。空を走る祈りの線は、美しい。美しいものほど残酷だ。ガルドの前衛が押し返す。彼の腕は橋、膝は岩、吠え声は雷。聖騎兵は祈りを甲冑に編み込み、斬り結ぶたび光の鱗粉が散る。セラの障壁は歌の調子をずらし続け、相手の聖句を半音だけ下げ、祈りを祈りの外側へ滑らせる。
幕舎の一角で、甲高い泣き声が上がった。小鬼だ。背丈は膝ほど、耳は葉っぱ、歯は砂糖。脇腹を聖印の破片で裂かれ、血が砂の上に濃い輪を作っている。泣き声に混ざるのは、恐怖だけじゃない。生きたい、の音。
「手当てを!」
私は膝をついた。手は震えていない。震える暇がない。包帯、薬草、冷や水。だが傷は“祈りの縫い目”で汚れて、普通の糸目を拒む。白い糸が皮膚の内側をいやがり、肉が応えられず痙攣する。
「……待って」
喉の奥で、刻印が鳴った。鎖骨の上の薄い熱が、今だけは頼りに思える。私は右手の中指で空をなぞる。見えない五線譜。そこへ、心の中の最低音を置く。黒い音。音は花になる。胸の内側から、ひとひら、黒い花弁が生まれ、指の腹に乗った。
花弁は光らない。なのに見える。
花弁は香らない。なのに甘い。
私はその花弁を、小鬼の傷口にそっと置いた。
喰う――
花は痛みを喰う。小鬼の呼吸がひゅっと落ち、目の裏の恐怖の針が一本抜ける。痛みの代わりに、私の指先が痺れた。針が移ってくる。冷たい蟻が骨の上を歩くような、嫌な痺れ。花は二口、三口と痛みを噛み砕き、やがて萎れた。薄紙みたいに細くなって、風のない場所でそっと崩れる。
小鬼の傷口は閉じきらないが、血は止まり、肉は呼吸を覚えた。私は包帯を巻きながら、痺れの位置を確認する。指先から手首へ、少しずつ上がってくる。心臓には届いていない。届かせない。
「……代わりに、もらうのね」
呟くと、セラの声が背に落ちた。いつからここに。戦場で、彼女は音を消す。
「“対価”。均衡の術は、必ず支払いを求める。あなたの花は痛みを喰って、あなたの神経に痺れを置く。上手に払えば、破産しない。下手に払えば、破綻する」
「上手に払うには?」
「無駄に優しくしないこと」
冷たいのに、正しい。私は頷き、小鬼の額を軽く叩いた。生きて、走れ、と。小鬼は涙でべたべたの顔で頷き、短い足で幕舎の奥へ跳ねていく。守護獣のひとりが見送り、尻尾で私の手首を軽く叩く。痺れがそこまで来ているのを、確認するみたいに。
戦況は、拮抗。
押し、押し返され、光が走り、花が萎れ、砂が焼ける。投石は数を減らさない。祈りは息切れしない。人間の“正しさ”は、燃料が多い。私は障壁の薄い場所に風を送り、楽師に太鼓の拍を変えさせ、兵の喉に水を流し、走って走って、また走る。
「補給線、右の二番――切れます!」
ラザロの声。私は返事より先に体をそちらへ向けた。目の端でガルドの影が伸び、槍が聖騎兵の肩ごと祈りを地に叩きつける。祈りは埃に戻り、埃は雨を待っている。セラは扇を閉じ、素手で印をちぎり、歌を逆再生にして無効化した。
補給の幕を張り直す途中、ふたたび泣き声。今度は傷は浅く、恐怖が深い。小鬼ではない、若い魔族の娘。肩に切り傷、目の奥に凍った“たった今、死に方を想像してしまった”影。私は膝をつき、包帯を出した。花は出さない。痺れは肘のあたりで鈍く光り、手を握ると星の砂がこぼれるみたいに“しびしび”と鳴る。
「痛い?」
「いたい……でも、こわいほうが、もっと」
「怖いのは正常。怖がれたら、走れる」
私は彼女の頬に指二本で触れ、視線を自分の目に固定させる。
「見て。呼吸。吸う、吐く。吸う、吐く。……上手。立てる?」
「う、うん」
「立って、見える? ガルドの背中。あそこが“生き残る方向”。ついて行きなさい。背を見失ったら、風の音の高い方へ」
彼女は頷き、走り去る。私は痺れを振り払い、兵の列の隙間に黒い石を置いて足を滑らせないようにし、矢の雨の方向を見て走る。花は出しすぎない。痛みは全部は喰わない。選ぶ。残す。残された痛みは、次の判断を鋭くする。そういう種類の痛みも、ある。
空気の密度が変わるのは、ほんの一秒前触れだった。首筋を冷たい爪が撫で、背中の骨の間に“来る”が走る。私は振り向く。遅い。――矢。いや、矢ではない。祈りに形を与えた鋼糸。弧を描いて、私の喉に来る。
風が切れた。
ヴァルトの影が、そこにいた。
青い瞳が細くなり、指先が空間の布目をつまんで引き寄せる。鋼糸は“何かに引っかかった顔”をしてピンと鳴り、弾けた。私の頬に、細い線が残る。熱い。血は出ない。彼は私の目を一度だけ見る。問い。“動けるか”。
私は頷く。
「動ける」
彼はそれだけで次の場所へ消えた。番は、ずるい。必要なときにだけ現れる。
日が傾かない空で、音が変わった。太鼓が低くなり、角笛が短く、鋭く。合図。戦は“形”を変える。突撃の波の隙間から、白い外套がひとつ、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。馬はいない。旗もない。剣だけが、彼の名刺。
聖騎士ロラン。
彼は勝手知ったる様子で、聖印の雨の間を歩く。歩幅は一定、肩はぶれない。礼にかなう距離で立ち止まり、私は彼の目を見る。牢の鉄格子越しに見た目。任務に自分の思考を混ぜない、と言いながら、混ぜないことの罪を知っている目。
「――一騎打ちを」
ロランは硬く言った。声は大きくないが、戦場の音が勝手に脇へ避ける。
ガルドが吠える。「相手は我だ!」
「違う」
ロランは首を横に振り、まっすぐ私を見る。「伴侶殿。……いや、リュシア=フィオーレ。俺は任務に従う。だが、任務の陰は薄くしたい」
セラが扇を半分だけ開く。「罠の匂い」
私は扇の影を斜めに避ける。
「わかってる。でも、これは誰かが受けなきゃいけない“物語”」
私は前に出た。痺れは手首で止まっている。剣は持たない。私の刃は、言葉と、間と、花。ロランは剣を抜く。刃は白、縁は金糸。祈りが薄く流れ、刃が歌う。
「始めよ!」
声がどこからか落ちる。ロランが踏み込む。速い。剣の軌跡が私の肩口に隙を見つけ、突き入ってくる。私は半歩だけ遅れて身を捻り、裾だけを切らせる。布が軽く泣く。――躊躇の震え。彼の刃先が、ほんの一寸だけ迷った。殺すための角度と、生かすための角度の間で。
「ロラン」
「……任務だ」
彼の目は真っ直ぐだ。真っ直ぐなのに、千鳥足みたいに揺れる。祈りの文言が刃の側面で滲み、汗が額の端で冷える。私は指を上げる。花は出さない。花は治すためにある。今は斬る番――いや、確かめる番。
「あなたは、誰のために“正しい”の?」
刃が、紙一重で私の喉を掠め、空を切る。髪が数本落ちる。ロランの目が小さく潤む。彼は一度だけ大きく息を吸い、吐いた。
「俺は、国のために正しくありたい」
「国は、誰?」
「……民」
「民は、泣いてる」
「知っている」
刃が下がる。次の瞬間、上がる。震えが、刃の芯にまで響く。躊躇は弱さではない。躊躇は、賢さの副作用。私は半歩前に出て、彼の剣の内側に肩を滑り込ませ、耳元に囁く。
「檻に火を入れよ」
言った自分の声に、胸が震えた。
檻。
これは檻だ。祈りで組んだ鉄、高く積んだ正しさ、聖女の涙で錆を隠した牢。火を――入れろ。燃やすのは相手ではない。檻そのもの。檻のルール。檻の脚本。
ロランの肩がわずかに震え、刃が一寸下がる。彼の喉が鳴り、言葉が血に混じる。
「……俺は、かつて、君を処刑すると告げた」
「知ってる」
「今、俺は君を救いたいと、思う」
「知ってる」
剣が、さらに下がる。周囲の音が戻ってくる。ガルドの吠え声、セラの扇の乾いた刃、ラザロの数字。聖印の投石はまだ降り続け、障壁は歌の位置をずらし続ける。私はロランの手首を軽く押し、刃の向きを地面へ導いた。彼の握力はまだ強い。半分は任務、半分は本音。半分ずつの戦場。
「……この一騎打ちは、見せ物にしない。私が勝ったことにして。あなたは“躊躇の震え”で剣を落とした。私は命を奪わない。あなたは“光の裏側”を見に戻る」
「俺は、嘘が下手だ」
「本当のことだけ言えばいい。“刃が滑った”。事実よ」
彼は目を閉じ、開いた。
「ありがとうは言わない」
「言わないで」
「任務の影は、薄くする」
「うん」
彼は剣を落とした。地面が鳴る。砂が跳ね、祈りの粉が舞う。周囲の兵がどよめく前に、セラの扇がひらりと光を切り、視線を一瞬散らす。ラザロが短い合図を二つ。ガルドが吠えた。「敵、退くぞォ!」
私はロランの肩から半歩下がり、痺れた手首を握る。痺れはまだ上がらない。払った対価は、まだ払える。――払うばかりでは、いけない。取り戻すための手も、覚えなきゃ。
バルコニーの方角で、青がちらりと光った。ヴァルトだ。遠くからでも、彼の視線はわかる。問い。“息はあるか”。答え。私は頷く。息はある。走れる。選べる。
「檻に火を入れよ」
もう一度、私自身に向けて呟く。
戦況は拮抗。けれど、檻に火が入れば、秩序は一度、燃え、灰になり、肥やしになる。次の芽のために。
聖印の光が薄れる一瞬、風がこちらを向いた。
私はその風に、最初の火を乗せた。
花は出さない。今は、歌だ。低い、骨で鳴らす歌。均衡の歌。
躊躇の震えを許し、対価の重さを測り、檻の梁に火を回しながら、私は前へ出る。
攻防の幕は上がっている。燃やすのは、まだ人でなく、“仕組み”だ。
その火加減を、私はこれから覚える。生きたまま。燃え尽きないように。燃やし足りないまま終わらないように。
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