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第12話 聖女の涙の味
しおりを挟む風の匂いが、粉砂糖みたいに薄く甘い。けれど舌の奥では金属がきしんでいた。前線の外れ、白幕の並ぶ一角は雪原のように無機質で、足音だけがやけに生々しい。聖印の旗が微風で鳴り、祈りの文言が糸のように空へ昇っている。ロランは無言で歩き、私はその半歩後ろを行く。彼の背筋は真っ直ぐだが、肩甲骨のあたりでわずかに躊躇が揺れ、剣帯の金具が小さく触れ合って鳴った。
「ここだ」
白幕の一つが、内側から泣き声で震えていた。入口の布が聖油で重く、端には“聖域”の印が押されている。ロランが指で簡潔に印を解き、私に目で合図する。入ると、冷たい薬草の匂いと、祈祷で乾いた空気が喉の奥へ刺さってきた。
テントの中央に、白い寝台。そこに座っていたのは、私が知っている少女の影――いや、影より薄い“聖女”だった。エリナ。やせた肩は鳥の骨みたいに軽く、腕には青い痣が点々と星座を作っている。瞳は水で洗い過ぎたガラスのように曇り、鼻筋の下は涙で荒れて赤い。白い指が組まれ、その間に祈りがこぼれ続ける。
「エリナ」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。目が私を見つけて、一瞬だけ、光った。
「……リュシア様?」
声は擦れて、紙の音がした。私は駆け寄り、彼女の両手を包む。骨ばって冷たい。触れた瞬間、鎖骨の刻印がちり、と鳴った。
「来ないでと言われたら帰るつもりだった。でも、来てくれてと言われた気がした」
エリナは小さく首を振り、笑おうとして失敗した。「私、祈っているだけなのに……枢機卿様は“奇跡”が足りないと」
ロランが幕の外へ耳を向け、周囲の気配を測っている。私は彼に任せ、エリナの目の高さに膝を折った。
「奇跡、ね」
「毎夜、儀式が増えます。手を切って血を捧げ、香を焚いて喉を焼き、断食して頭が白くなっても、枢機卿様は言うんです。“まだ足りない。民が見たい光はもっとまぶしい”って」
彼女の言葉は、飴の棒に巻きついた針金みたいに痛い。私は彼女の袖をそっと捲る。青い痣、細い切り傷、聖油で荒れた皮膚のひび。祈りのあとに残るのは、神ではなく、商品だ。奇跡は見世物の照明にされ、涙は供給の水源として絞られる。“悪女”の物語は、その見世物小屋の客寄せポスター。演目の“必要経費”。
胸の奥で、黒い火が静かに燃えた。怒りは熱いのに、冷静だ。私は彼女の手をさらに包み込み、深く息を吸う。刻印が呼吸に合わせて温度を整え、胸の内側で黒い花弁がふわりと開く。
「少し、分けて」
「わける……?」
「痛み。あなたのも、私のも。半分こ」
彼女の瞳が一瞬怯え、それから、諦めではない小さな勇気でうなずいた。私は指先に落ちた黒い花弁を、彼女の手の平へと滑らせる。花弁は光らず、香らず、ただ“ある”。触れた瞬間、ぬるい水が二人の皮膚の間を往復する。花は痛みを喰い、私の神経に痺れを置いて去る。さっきより深い、骨の内側まで届く微震。けれど、エリナの表情がゆっくりと解け、呼吸が楽になるのがわかる。
「……あたたかい」
「あなたの涙の温度よ」
耳の奥で、遠い怒号。ロランが短く低く警告した。「時間がない。見張りが二重になった。枢機卿の私兵がうろついている」
私は頷き、エリナの頬を拭く。涙はしょっぱい。けれど、この味には砂糖が混ざっていない。本物の涙は胃を焼かない。商品の涙は焼く。私は指で自分の唇にその味を写し、喉の奥に刻んだ。忘れないために。
「エリナ。あなた、神に何を言ってる?」
「“ほんとうに助けて”」
即答。美しいほどに、誤魔化しがない。私は少し笑って、それから真顔に戻った。
「じゃあ、今は神の代わりに私を呼んで。あなたの速度で。遅くてもいいから」
「リュシア……」
「私、あなたを“聖女”という名札で呼ばない。人間として呼ぶ。あなたも、私を“悪女”と呼ばないで」
彼女はうなずきかけ――その瞬間だった。テントの外で、乾いた合図の拍。続けて、油の匂い。次の呼吸に間に合わない速さで、炎が布を舐め上げた。白幕は一瞬で黄に、次いで橙に。天蓋の継ぎ目から火の舌が垂れ、入口の聖油が燈心になって燃え上がる。
「火事だ!」
叫び声。だが、叫ぶより早く、私兵の声が重なった。「“二人の密会”だ! 聖女を誘惑する魔の花嫁!」 脚本。灯油の匂いは新しい。用意されていた火。でっち上げの筋書き。
ロランが剣を抜き、幕を斜めに裂いた。炎は空気を吸って一層強くなり、白い布は容易く崩れる。私はエリナの肩を抱え起こす。軽い。軽いという事実が怖い。
「走れる?」
「……走る」
彼女の声は震えたが、足は動いた。私は黒い花弁をもう一枚、彼女の喉元へ滑らせる。痛みを喰わせすぎない。彼女の“怖い”を奪いすぎない。怖さは生存の火だ。消しすぎれば走れない。
外へ出ると、夜の空気が真っ赤に染まっていた。私兵たちが火を背に不意を打つ形で狭い通路を塞ぎ、槍の先が蛇の舌のように揺れる。マルティンの紋章。赤い輪に白鍵の刺繍。彼らの目は“正しさ”で固定され、焦点が合っていない。
「止まれ! 聖女様をお返し――」
ロランの剣がその声を半分に切った。刃は殺さない角度で冑の側面を叩き、男は白目を剥いて崩れた。「道を開けろ!」 ロランの怒鳴り声に兵が一歩怯む。彼の刃はためらわない。ためらいは、さっき私に置いていった。
私兵の列が波打ち、背後で誰かが油瓶を投げた。火の帯が地面を走る。私はエリナの腕を引き、火の向こう側の陰へ身を滑り込ませる。煙が喉を刺し、黒い花弁が反射的に喉の奥でふるえ、毒気を喰ってしぼんだ。指先に新しい痺れが走る。手の甲、肘、肩。対価は上がっていく。払えるぶんだけ払う。計算は冷静に。
「三方から来る!」
ロランが周囲を見切り、短く指示する。「散る。俺が中央を引きつける。リュシアは左の幕裏、境の方角へ。エリナ様は右の杭の影を伝って後退」
「ひとりにしないで」
エリナが私の袖を掴む。指先は怪我で震えている。
「離れた方が生き残れる」
私は彼女の手の甲に息を吹きかけ、小さな花弁を指の間に差し込んだ。
「呼んで。怖くなったら、その花を押す。私に届く」
私兵が新たな列を作る。先頭に、印章を肩につけた男――マルティンの側近の一人だ。顔は祈りで上塗りされ、目だけが冷たい。彼は口角を吊り上げ、指を鳴らす。「証人は十分だ。聖女を穢す者どもを――」
その言葉の上に、私の声を置いた。
「証人は火だものね。火は、言葉をいくらでも焼き直せる」
男は嘲笑う。「魔は口もよく回る」
「あなたの神は、泣いている女の痣が見えないの?」
言ってから、怒りが喉で焼けた。私はそれを飲み込み、冷たい声に変える。
「――見えないなら、神じゃない」
側近の頬がひくついた。彼は指を突き出し、私兵が一斉に踏み込む。ロランが前へ。剣が火の粉を散らし、刃が刃をはじく。私はエリナの肩を押し、左へ滑る。幕と幕の間は狭く、杭と縄が迷路を作る。煙が低く溜まり、目が痛い。守護獣の尻尾があれば、進路は易いのに――と一瞬思い、すぐに自分の呼吸で代用する。吸って、吐いて、音の高い方向へ。
「止めろ!」
背後から私兵の足音。足音のリズムは“正しさ”みたいに整っていて、だから読める。私は杭の影で身を屈め、進行方向にひゅ、と低く息を吹いた。黒い花弁は使わない。風だけで火の帯の向きをわずかに変える。兵の前に熱が立ち、姿勢が崩れる。その隙に、エリナを引いて走る。
「リュシア!」
右手の通路で、ロランが一瞬こちらを見た。彼の頬に煤、額に血。刃はまだ鈍っていない。彼は顎で別の方向を示す。私の左、幕の裂け目。そこから夜風が入り、逆さの星の粉がひとしずく舞い込む。境は近い。
「行け!」
ロランの声に、私はうなずく。エリナの腕の力を確かめ、裂け目へ滑り込む。足元の縄に足先が引っかかり、よろめいた瞬間、背後で矢の音。私はエリナを庇い、肩で幕を受ける。布が焼ける匂い。熱が皮膚を舐める。黒い花弁が喉で小さく鳴り、煙の毒を吸って痩せた。指先の痺れが肩に達し、胸の前で微かな痙攣になる。
――払える。まだ払える。
だが、無駄に払わない。
「こっち!」
低い声。幕の裏の影が手招きする。ラザロだった。いつの間に。彼は境から走ってきた風の線を背中で掴み、私たちの足の影に敷く。「右の通路は塞がれた。左へ十歩、杭二本分で曲がれ」
「ロランは?」
「生きている。殿下が風で抜け道を作る。彼は“任務の影”を持って戻る」
私は頷く。エリナの手に差し込んだ花弁が、かすかに熱を返す。彼女の涙は止まっていないが、呼吸はさっきより長く、深い。私は彼女の耳元で短く告げる。
「あなたの涙は、もう商品じゃない。あなたのものよ」
「……売らない」
「そう。あげない。奪わせない」
背後で、火の塊が破裂し、“密会”の噂を増幅する音が上がる。側近の罵声、私兵の足、祈祷の塵。私は足を止めない。杭二本、左に曲がる。夜風がひとしずく涼しさを置き、逆さの星が指先で弾けた。
散開。
ラザロは影の層をめくって別の路地へ消え、私はエリナを連れて境の薄膜の方角へ、ロランは火と祈りの波を反対側へ引いていく。それぞれの速度、それぞれの呼吸。私の痺れは肘を越え、肩で止まる。止める。ここで止めなきゃ、花は枯れる。花が枯れたら、私の窓は閉じる。
「リュシア」
エリナの声が背で震えた。「こわい。でも、走れる」
「怖いのは生きてる証拠。走れるのは、選べる証拠」
薄幕の前で、私は一瞬だけ振り返る。燃える白幕の向こう、ロランの刃がひときわ高く光り、その向こうで、青の気配が風を抑えていた。ヴァルト。彼は遠くからでも、私たちがここにいると知っている。たぶん、ずっと前から。
「行こう」
私はエリナの手を握り、薄膜へ踏み入れた。霧が肌を舐め、鐘の残響が二種類、耳の奥で交互に鳴る。胸の刻印がひとつ、強く脈打つ。痛みと怒りと優しさが、同じ方向を向く瞬間。世界の縫い目は、こういう拍に針を受け入れる。
――“悪女”の物語は、信仰を商う者が作った商品。
なら、私は破る。包装紙も、値札も、陳列棚も。
破るための火を、すでに持っている。黒い花弁は、痛みで燃え、均衡で熾る。
背後で、白幕が崩れた。呼び鈴が、胸の別の場所で微かに鳴る。次の合図。次の扉。私はエリナの手の熱を確かめ、霧を割って、夜の側へ走った。
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