王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

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第13話 王太子の孤城

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 王都の輪郭は、昔より薄く見えた。城壁は同じ高さで立っているのに、夜気が石の間から抜け、灯(あか)りの芯が小さく震えている。非常令の布告で門は重く閉ざされ、橋は鎖で縛られ、見張り台の角笛は三拍子で近づく者の名を問う。遠く、鐘楼は鳴らない。鳴らす役の手が、今夜は別の鎚を握っているのだろう。

 私たちは四人。ラザロ、セラ、私、そして影のように付く守護獣が二匹。ヴァルトは来ない。「風は殺す。行ってこい」と短く告げ、境の向こうで夜の弦を張った。番はずるい。見えない場所で、見えない刃を抜く。

「人間、になります」

 城壁の影でラザロが言い、表情を一度ぜんぶ捨てた。背骨の節がほどけ、肩幅がわずかに狭まり、髪は栗色に、瞳は灰に。頬の骨の角度が少し丸くなる。人間になったラザロは、宮廷の書記にしか見えない。手の甲にはインクの滲み、指先には紙の切り傷。匂いは革表紙。

「似合うわね、裏切りの匂い」

 セラが囁き、扇をひとあおぎ。淡い粉が門の灯火に溶け、門番の瞼が重たく落ちる。幻惑ではない。眠りだ。扇の骨が鳴る。守護獣が尻尾で足場の石の段差を合図し、私は幼いころの記憶の引き出しを開けた。

 ――抜け道は、ここ。

 王都の子どもは、礼儀の前に城を覚える。庭の池の縁石三つ目の裏、鍵穴のない扉、衛兵が喫煙する角の陰、祈祷室の床石の欠け。小さな身をくぐらせるのに、身体はもう大きいけれど、骨は覚えている。どの角で息を潜め、どの扉で足音を殺すか。私はドレスの裾に見えない印をつけ、セラがその印に幻を重ねて、足取りを薄くする。

「心拍、安定」

 ラザロが低く報告する。書記の声。私は頷き、石壁と同じ方向へ呼吸を置く。城門の影から城内へ一気に滑り込み、回廊の柱を数える。八、九、十――十一で左。月のない夜の廊。壁の燭台は半分が消され、残った火はばつの悪さを隠せない小さな揺れ方をしている。非常令の夜は、光さえ怯える。

「こちら」

 ラザロがきびすを返し、庁舎の脇の階段へ。公務用の石段は泣きやすい。踏むと小さく鳴く。私は幼いころの癖を思い出し、足の裏の外側だけで降りる。守護獣が先に降り、尾で段差を撫で、セラが最後で風を逆流させて足音を上へ投げる。

 玉座の間の裏へ続く、薄い廊。壁の両側に簿冊室の扉が並ぶ。金具は冷たく、鍵穴は口を閉ざしている。ラザロが掌を置き、唇で古い印字をなぞる。鍵は彼の呼吸で自分を思い出し、音もなく舌を引いた。扉が開く。紙の匂いが溢れ出る。乾いた小麦粉と、埃と、皮革。そこに、鉄の匂いが混じっている。血。最近の血。

「時間がない」

 セラが扇を閉じ、私に目で合図を送る。「紙はあなたの得意分野」

 簿冊室は狭い。棚の背が近く、背表紙の金箔が薄い月光を返す。私は手袋を外し、指先で背表紙の厚みを測る。寄付金、会計、軍需、祭祀。母に手を添えられて覚えた順番。王妃教育の最初の小枝。ここが、私の檻の一部だったと思うと、笑えてくる。檻の木材を、今夜は薪にする。

 寄付金台帳。王国暦の数字は整っている。整いすぎている。列に汗がない。金は汗の匂いを持つはずだ。私は指で行間を撫でる。紙は息を吐く。数字の端がほんの少し滲む。――上書き。追記。印の重ね。

「ラザロ、光を」

 ラザロが掌に小さな灯を載せた。紙の繊維が浮き、修正の跡が蛇のようにうねる。寄付は教会から王家へ、王家から教会へ、同額で行って戻っている。行って、戻って、帳面の上だけで回り続ける。循環の美、と呼ぶには吐き気がした。

「ここ。数字が“丸い”」

 セラが私の肩越しに覗き、扇の先で一桁を指す。「偶然が続きすぎると、それは作り話」

「祝祭月の寄付が突出。内訳に“祈祷見舞金”」

「祈祷で見舞うの」

 扇の骨が笑う。

 捏造された呪詛証明の簿冊は、思ったより奥にあった。背表紙に黒い糸の綴じ。“呪祓検分”。私はそれを開く。中は整然と、淡々と、冷酷だった。聖女エリナへの“呪詛の兆候”は列挙され、日付と時刻と祈祷師の署名が順に並ぶ。彼女が病むたび、“悪女”の名で埋められた枠。私の名前はその枠の穴にぴたりと合うよう、最初から抜かれていた。

 証明書。羊皮紙。角は――濡れている。乾いた血が、指の腹にざらりと移る。角を切って印を貼り直した痕。印章は王家の百合と教会の聖鍵。アレクシスとマルティンの印が並ぶ。金と朱の重みは、紙を重くする。紙が重ければ、真実になるとでも思っているのか。

 私は呼吸を細くし、紙に近い場所で息を吐く。紙は私の吐息を嫌がらない。紙は、真実を持っていない。ただ、運ぶだけだ。運ぶ手が書いた方向へ、重さを偏らせる。

「癒着の図」

 セラが呟いて笑わない。扇の影が紙の上を滑り、線と線が勝手に結ばれる。寄付の行方、軍需の抜け穴、聖具の購入名目で回る金の輪。輪の中心で、教会と王家の紋が重なる。そこに、私の名の縁取り。綺麗な円。吐き気がするほどの幾何学。

「証拠として十分です」

 ラザロの声が僅かに首筋を冷やす。「しかし、これを持ち出すには時間を要します。写しを作るか、印影だけ取るか」

「両方。原本は置く。持ち出せば“盗難”で正当化される。写しは……」

「任せて」

 セラが扇の要をひねり、骨の間に薄い光を挟む。扇が頁を撫でるたび、紙の上の文字が骨の隙間に映り込む。幻の写し。重さはないが、形は狂わない。私は印影を粘土に落とし、細い針で癖をなぞる。アレクシスの百合はわずかに左が短く、マルティンの鍵は歯の数がひとつ多い。癖はその人だ。改める努力をしない癖は、権力の言語だ。

 紙束の下に、もう一枚。厚い。羊皮紙ではない。皮膚。――いや、動物の皮だ。私は手を止める。鉄の匂いが強くなる。角に、乾いた血。誰かの血で角が濡れている。触れた指が赤く、薄く染まる。

「それは何」

 セラの声が低くなる。私はめくる。封じられた決議書。非常令の原稿。王太子署名欄に重い線。『反逆予防規定』――反対派の定義が、曖昧な穴の中で自由に膨らむ。教会の“奉仕”を拒む者、聖女の“奇跡”に疑義を呈する者、王妃教育の“逸脱”を助長する者。誰でも入る箱。箱の蓋に釘。釘の頭に祝福の聖油。

「……檻だ」

 口の中が鉄の味になった。檻に火を入れよ、とロランに言った声が、少し遅れて戻る。ここだ。ここが、火の入れる場所。

「この部屋ごと焼く?」

 セラが軽く笑って見せる。扇の先に青い火が一匙、すでに揺れている。「証拠は持った。灰は灰で語る」

「だめ」

 私の声は、予想よりも低く出た。「焼いたら、物語になる。『魔王の花嫁が証拠を焼いた』。美しい脚本。燃え方まで、想像できる」

「――正解」

 ラザロが頷き、扉に耳をつける。「足音。……一人。重さは軽い。靴音は二種類。王太子」

 心臓が、ひとつ高く打った。石壁が息を詰める。簿冊室は狭い。隠れる場所は少ない。ラザロが棚と棚の隙間に私を押し、セラは影の層を紙の上に薄く掛けた。守護獣が尻尾を丸め、息を細い針にする。私は指先の痺れを探す。――ない。今夜は、花を出していない。出すな。ここで出したら、彼の物語に色がつく。

 扉の金具が鳴る。鍵は回されない。王太子は鍵を持たない。扉は彼の前で勝手に開くように作られている。

 アレクシスが入ってきた。

 彼は夜の服ではなく、庭園の昼に似合う軽い上衣を着ていた。色は白。襟は少し開いていて、喉に汗が光る。目の下に薄い影。焦りは化粧で隠せない。指先が書架を撫で、紙に触れてすぐ離す。紙は彼に噛みつかない。彼は紙に信頼されている。紙は権力に忠実だ。

「……どこだ」

 独り言。彼は棚を一つずつ、順に見ない。知っているから。目的の場所を。簿冊室の地図は彼の頭の中にある。寄付金台帳。軍需。祭祀。呪祓検分。彼の指が“呪祓検分”で止まり、背表紙を撫でる。撫でる手は、昔ピアノの蓋を撫でたときの手と同じ角度。喉が乾いた。私は自分の舌で唾液を作り、音を殺す。

「足りない」

 アレクシスは呟いた。「奇跡が、足りない。民は光を愛する。暗い夜のあいだは、光の方が正しい。……マルティン、急がせるか」

 扇の骨が指先で折れそうになるのを、セラが我慢する気配がした。ラザロは動かない。彼は今、人間の書記だ。彼の呼吸さえ、紙に紛れる。

「リュシア……」

 突然、彼は私の名を呼んだ。ひとり言なのに、呼ぶ声は正確に私の輪郭をなぞる。背骨が氷で締められる。彼は笑った。優しい笑い。庭園で、私が花の名を忘れたときに向けた笑い。

「戻ってくれば、全部、君のものだったのに」

 紙が小さく鳴る。彼は“非常令”の皮紙を引き出し、印章の位置を確かめた。印の上に指を置き、力をこめる仕草。印はもう押されているのに、彼は押し続ける。印の跡が皮に沈み直る。神経質な丁寧さ。罪悪感の代替行為。

「聖女は、泣いている」

 彼の声がわずかに滲む。「あれは演技ではない。……知っている。だけど、民は“物語”を求める。物語のために、登場人物は泣く。泣かせたくない。けれど、私は王太子だ。王太子は、物語の中で、正しい顔をしなければならない」

 その言葉は、昔なら私を泣かせたろう。今は、違う。怒りでもない。哀れみでもない。――判断。

「間違えたら、間違えたと、言えばいいのに」

 口の中で呟く。声は外に出ない。守護獣が私の足首に尾を巻き、落ち着けと合図を送る。鎖骨の刻印が、熱を保つ。呼吸を置く場所を、間違えるな。

 アレクシスは“呪祓検分”の書を開き、最後の頁に指を滑らせた。指が止まる。角の血に触れたのだ。彼は一瞬だけ顔をしかめ、指を布で拭った。鉄の匂いが部屋に濃くなる。痕跡は彼の手に移り、彼の肌はそれを“汚れ”としか認識しない。意味は持たない。

 私は出るべきか、伏せるべきか、瞬間で何度も選んだ。出れば、話ができる。伏せれば、証拠が取れる。出れば、刃が向く。伏せれば、背に刃が育つ。均衡の秤が体の中で揺れ、皿の端がカチリと鳴った。――出る。

 私は棚の影から、一歩、出た。

 アレクシスの目が、私を捉えた。驚きは一瞬だ。彼は笑う。いつもの角度。完璧な挨拶。昔の私が何度も答えた角度。

「リュシア」

 彼は名を言い、手を広げた。「来ていたのか。……心から、嬉しい」

「嬉しい?」

 私は笑い、笑いをすぐ消した。「簿冊室で?」

「君は聡い。話が早い場所を選ぶ」

「私は窓。あなたは箱」

 私の言葉に、彼の瞳がわずかに細くなった。彼は扉の方を見ない。助けを呼ばない。呼ぶ必要がないと思っている。ここは彼の孤城だ。書と印と数字が、彼の壁。

「非常令の原稿、拝見したわ」

「国家の安全のためだ」

「国家は、誰?」

 さっきロランに向けた問いが、今度は別の刃で返る。彼は答えない。答えると、崩れるから。彼の肩に乗る王国は、紙の上の王国だ。紙の上の民は、泣かない。泣き声はインクで塗り潰せる。

「聖女は、泣いている」

 私が言うと、彼は眉を寄せた。その瞬間、彼の顔に少年が戻る。

「知っている。……君が、泣かせたからだ」

 紙の縁で手を切るみたいに、浅く痛い。私は首を横に振る。

「泣かせているのは、あなたの“物語”。あなたの怒りじゃない。あなたの愛でもない。あなたは脚本の都合で、彼女の涙を選んでいる」

「脚本がなければ、民は散る」

「脚本があれば、泣かせてもいい?」

 沈黙。彼は視線を落とし、指で印章を撫でた。癖だ。彼は自分の癖を知らない。癖は、真実だ。私は一歩、近づく。セラが影で扇を揺らし、ラザロが扉の方を見張る。守護獣が尾で床を叩く――二回。急げ。

「アレクシス」

 私は彼の名を正しく呼んだ。王太子ではない。人の名。

「あなたの孤城は、紙でできている」

「紙は燃えにくい」

「火は紙を怖れない。火は“物語”に宿る。どの物語に火がつくか、あなたは選べる」

「君は、魔に染まった」

「私は、呼吸を覚えた」

 彼が顔を上げる。目の浅瀬に、短い波が立つ。迷いの波。彼は一瞬、私に手を伸ばしかけ、止めた。止めた手は空中に残り、行き場を失って指先が震える。躊躇の震え。ロランの刃と同じ震え。

「戻ってくれば――」

「戻らない」

「君を救える」

「救われるのは、もう飽きたの」

 彼の唇が薄く開き、吸い込む息が少し乱れる。外で角笛が短く鳴り、遠くの広場で誰かが叫ぶ。非常令の夜には、叫びの種類が増える。私は紙束から目を離さず、声を落とす。

「証拠は取った。寄付の循環、捏造の呪詛、癒着の輪。あなたの印の癖も、覚えた」

「それで、何をする」

「物語を剥がす。数字で。声で。――あなたを、嫌うためじゃない。あなたに選び直させるために」

「……選び直す?」

「間違えない、という言葉ほど信用できないものはない。――言ったでしょう。間違えたら、間違えたと、言えばいいのに」

 彼は笑うでも怒るでもなく、少しだけ目を閉じた。瞼の裏で、何かが崩れる音。すぐに、立て直す音。彼は私ではなく、扉へ半歩だけ身を引きかけ――扉の向こうで足音が重なった。

「殿下。枢機卿猊下がお越しです」

 低い声。扉の向こうの影が増える。マルティン。赤い輪と白鍵の紋が、脳裏に浮かぶ。セラの扇が微かに震え、ラザロが私に目だけで合図する。守護獣が尾で床を三度叩く――急げ、と。

 私は紙束を閉じ、扇の影の写しをセラへ渡し、粘土に押した印影をラザロの袖の裏に滑り込ませた。アレクシスはそれを見ている。止めない。止められないのか、止めないのか。彼の目の底で、少年と王太子が綱引きをする。

「殿下?」

 扉の向こうで、マルティンの声が甘く、薄く、金属のように響く。「お時間です。“奇跡”が、お待ちです」

 エリナの痩せた肩、青い痣、祈りで割れた唇。怒りは燃える。けれど、燃やす場所は選ぶ。私はアレクシスを見た。彼は私を見ない。紙を見ている。印を見ている。扉の影を見ている。孤城だ。孤城の住人は、窓の外の風を怖れる。

「さよなら、アレクシス」

 私が言うと、彼はようやく顔を上げた。目の色は浅瀬のまま。浅瀬は、美しい。けれど、溺れる。

「さよなら、は言うな」

「じゃあ、また」

 私は踵を返し、影へ身を滑り込ませた。セラが扇で純黒の幕を一枚だけ降ろし、ラザロが扉の前に出て、書記の顔で深く礼をした。「殿下。写本の整理は後ほど」

 扉が開く。赤い祭服。白い鍵。笑っていない笑い。鉄の匂いが濃くなる。私は影の内側で息を殺し、守護獣の尾のリズムに合わせて足を運ぶ。石壁の脈が早く、天井の梁が低く唸る。孤城の骨が軋む音は、祈りの声では隠せない。

 廊に出ると、風がひとしずく、頬に触れた。冬の泉。――ヴァルト。ずるい番が、風だけで“よくやった”と告げる。私は頷かない。ただ、歩く。紙の重さはなく、写しの軽さだけが袖に残る。

 王都の夜は、まだ鳴らない鐘を喉に詰まらせたまま、息をしていた。非常令の札が風に揺れ、火の粉がそれを焦がす。遠くで太鼓が二度、低く鳴る。攻防の幕は開いたまま。次は、舞台を変える番だ。

 ――王太子の孤城は、紙でできている。
 紙は燃えにくい。けれど、火は物語に宿る。
 どの物語に火を入れるか、選ぶのは、いま。
 私は指先で耳の蕾を確かめ、胸骨に呼吸を置き、石の階段を一段、また一段と降りた。
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