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第14話 君のための嘘
しおりを挟む玉座の間は、いつもより広く見えた。燭台の火は数を絞られ、壁の金箔は薄く乾き、赤い絨毯はわずかに波打っている。人払いのあとに残る空気は、劇が終わった舞台の匂いに似ていた。観客の温度が消え、台詞の残滓だけが天井で薄く回る。
扉が閉じる音は、祈りより静かで、命令より重い。私とアレクシスのあいだに、誰もいなかった。護衛も、書記も、司祭も。彼は玉座の前の段に片手を置いて、少しだけ背を丸め、こちらを見た。微笑の仮面はなかった。代わりに、長い夜を抱き込んだ男の顔――額の浅い皺、目の下の影、唇の乾き。
「……来てくれたのか」
「来たわ。話を終わらせに」
アレクシスは短く笑い、それが笑いであることを自分で確認するように喉に触れた。指先が小さく震え、口元に戻る。
「僕は王になる。君は聡明だ、わかるだろう? 教会に楯突けば王国は潰される。金も祈りも、人心も、あそこに握られている。だから、物語が必要だった」
物語。彼がその語を口にするたび、空気の密度が変わる。言い訳ではない。選択の説明。合理の骨格。そこに血を通わせるのが、彼の才覚だった。
「君は……聡い。人並みに鋭く、美しく育てられた。王妃教育は、僕が望んだ以上に君を“正答”へと磨き上げた。君を、選んだのは正しかった。だが」
“だが”。言葉が刃物の柄のように彼の手に馴染む。
「聖女が現れた。教会はそれを旗にして、僕の肩に重りを乗せた。民は奇跡を見たい。光が欲しい。僕は王だ。与えねばならない。だから、物語が必要だった。悪役も」
悪女。私の名は、そこで呼ばれた。彼の口から直接ではなく、語の陰で。私は肩を軽く回し、骨の位置を確かめる。鎖骨の刻印が、薄く熱を足す。
「……僕は間違えたのかもしれない。しかし、間違いのまま進むしかない時がある。国家は走る車輪だ。途中で止まれば、ひっくり返る。君ならわかる」
「わかるわ」
彼の顔に安堵が走りかけ、私は続けた。
「わかるけれど、許さない」
空気が一瞬収縮した。扉がもう一度閉じた気がするほどの静けさ。アレクシスは目を細め、玉座の段を降りてきた。距離が縮まる。彼の匂いは、昔の庭の匂いに似ている。整えられた草、磨かれた石、朝露の水。そこに、今は鉄と聖油が混じっていた。
「君は、合理を嫌うのか」
「合理を嫌ってない。合理のために私を捨てたあなたを、嫌う」
「捨ててない」彼は息を吐く。「犠牲にした。違いはある。犠牲は意味を持つ。君の犠牲は、国を救うために必要だった」
「“国を救うための私”の話をするとき、あなたはいつも、私を見ない」
彼の瞳が一瞬揺れた。浅瀬の水面に石を投げたみたいに、円が広がって消える。
「戻ってくれば、半分を君に渡そう」彼は急くように言った。「権力の半分、責任の半分、称賛の半分、罵りの半分。――愛していたんだ。今も、愛しているつもりだ」
「あなたの“愛”は、私を無くすことだった」
彼は息を呑み、薄く笑った。「詩人になったね」
「あなたが詩に逃げるから、言葉の刃を磨いたの」
彼は歩を進め、私の手を取ろうとした。私は半歩下がる。彼の手は空を掴み、空中に残った指がかすかに震える。躊躇の震え。ロランの刃と同じ震えだ。彼は唇を噛み、血の味を確かめるみたいに舌で触れた。
「君が戻れば、僕は君を王妃にする。教会には筋を通す。聖女は守る。民も守る。誰も失わずに済む。――それが僕の描いた最良の物語だ」
「その物語で、私はどの場面で息をしてる?」
「……台詞は君に書かせる」
「台本はあなたが持つ」
彼は黙った。沈黙は彼に似合わない。彼はいつも、正しさの文言で沈黙を埋めてきた。今、その文言は紙に置かれ、口元から遠い。
「アレクシス」私は彼の名をもう一度、正しく呼ぶ。「あなたは王になる顔をしてる。立派な顔。けどその顔は、誰のためにあるの?」
「国のため」
「違う。あなたが“自分を嫌いにならないため”よ。君のための嘘」
彼の目が揺れ、次の瞬間、硬質に戻る。「嘘じゃない。妥協だ。政治は妥協だ。君の理想は美しいが、寒い。民は凍える」
「なら、火を配ればいい。誰かひとりを燃やすのは、暖炉の使い方じゃない」
彼は目を伏せ、低く笑った。「……ヴァルトの言葉を覚えたな」
「彼の言葉は、私の呼吸を直した。あなたの言葉は、私の呼吸を止めた」
彼は顔を上げた。浅瀬の色が、深くなる。怒りではない。自尊の反射。彼は玉座の脇の柱に手を置き、ふと目を細める。「まだ遅くない。君は賢い。感情を横に置ける。僕と来い。僕たちの間に、まだ“正解”はある」
「正解は、あなたの癖を直すところからね」
「癖?」
「印章の押し方。左の百合が短い。鍵の歯が一本多い。――直し方でも、直さない理由でも、いい。どちらも、あなたの答えなら」
彼は目を細め、ほんのわずか唇を引いた。「脅迫するのか」
「提示よ。選択の」
空気の底に、低い音が走った。角笛。城壁の向こう。均一ではない拍。人の拍。高台から流れる風が、燭台の火を一斉に横向きに撫でた。次の笛は近い。城の骨が反響して、玉座の金の縁が鈍く震える。
ヴァルトだ。軍勢の配列は見えないのに、風の走り方でわかる。包囲。逃がさない輪。私は肩を下ろし、胸骨に呼吸を置いた。鎖骨の刻印が、拍に合わせて小さく鳴る。
アレクシスの顔が引き締まった。彼は玉座の階を降り切り、腰の剣を抜く。その動きは、儀礼ではなく訓練の癖を持っている。彼は剣を愛した。名誉のためではなく、均衡のために。刃が鞘から出る音が、玉座の間に火花を散らした。
「来るのか、魔王」
「来るわ。あなたの孤城を、風で撫でに」
「なら、ここで終わらせる。――君と僕の話を」
彼は刃先を斜めに下ろし、私に向けるでも、床に向けるでもなく、真ん中に置いた。剣の鏡に、私の顔と彼の顔が半分ずつ映る。半分ずつ。彼はそう言った。
「最後に訊く。君は、僕と国を取るか、魔王と夜を取るか」
「最後に答える。私は、私を取る」
彼の喉がひくりと動いた。剣の縁が薄く震える。躊躇の震えが、刃の芯にまで降りていく。彼は一度息を吸い、吐いた。浅かった呼吸が、今は深い。覚悟の呼吸。私は一歩、前に出た。足音は絨毯に吸われ、影だけが伸びる。
「斬るの?」
「守る」
「何を」
「君の“間違い”から」
「王太子の孤城を?」
「僕自身を」
矛盾だ。けれど、彼にとっては正しい。彼はいつだって、矛盾に足場を作って立ってきた。私は微笑んだ。笑いは侮辱ではない。告別の合図。
「――せめて、正しく迷って」
「君は残酷だ」
「あなたと同じくらいに」
角笛が三度目を鳴らし、窓の外の空気が低く唸る。石壁の内側で、兵の足音が揃い、命令の短い語が跳ねる。扉の外、廊の先で金具がぶつかり、鎖が解かれる。包囲の輪が、音でわかる。私は視線だけで窓の方を見た。逆さの星は見えない。見えるのは、王都の灯が小さく震える様。均衡は揺れを増し、片方へ傾く寸前の美しさを帯びる。
アレクシスが踏み込んだ。速い。剣の角度は正確。私の肩口、心臓へではなく、腕へ。致命ではなく、無力化のための一撃。優しさの形をした暴力。私は半歩捻り、布だけを切らせる。絹が泣く。火花が飛び、石床に小さな星が散った。
「まだ、間に合う!」彼は叫ぶ。「君を守る!」
「守るのは、所有の婉曲表現」
「違う!」
彼の剣が次の角度を探す。私は彼の目を見る。浅瀬が、暗くなる。怒りではなく、自己保存の必死。私は右手を上げ、指先で空をなぞった。花弁は出さない。出せる。けれど、出さない。花は救いに使う。今は、刃を止める言葉を選ぶ。
「アレクシス。あなたの“愛”は、私を箱に入れること。私の“愛”は、箱を壊すこと。――どちらも、誰かのためって顔をしてる」
「なら、僕を憎め」
「憎しみは曲がる。私は真っ直ぐに、あなたを“間違えた人”として扱う」
彼の剣が一瞬止まり、次の瞬間、迷いの力で振り下ろされた。私は身を伏せ、刃は背後の柱に当たって鈍い音を鳴らす。火花が散り、柱の金箔が小さく剥がれた。彼の手が震える。躊躇の震え。彼はそれを噛み殺すように歯を食いしばり、刃を引く。
「……ヴァルトは、君から何を奪った」
「呼吸を。――止めた呼吸を」
「与えたのか」
「取り戻させたの」
答えるたび、彼の顔が少しずつ古くなる。少年が減り、王太子が増え、そして、ただの若い男になる。玉座の間は、二人の時間で狭くなる。天井の金が低く唸り、扉の外で命令が重なって早口になる。包囲はすでに完成している。城の骨が、知っている。
「君のための嘘だった」
彼がぽつりと言った。剣先が床に接し、金属が石に触れる音が冷たい。
「君が処刑台に立ったあの日、僕は、君を“悪女”にすれば、君の死は意味を持つと思った。無意味な死より、意味のある死を。君は聡いから、いつか理解してくれると。……嘘だった。君のためと言いながら、僕が怖かった。王座が、教会が、民が、僕自身が。僕は僕を嫌いになりたくなかった」
言葉は刃より深い。私は静かに息を吐いた。灯りが揺れ、影が細る。
「なら、今から本当を選べばいい」
「どうやって」
「“間違えた”と言う」
「王が?」
「人が」
彼は剣を握り直す。視線がわずかに泳ぎ、すぐに戻る。扉の向こうで、鎧が鳴り、人の足が近づく。角笛が四度目を短く鳴り、城の内外の空気がひとつになろうとする。私は首を傾げ、彼に最後の問いを投げた。
「――あなたが守りたいのは、王国? 教会? 民? それとも、あなた自身?」
彼は答えなかった。答えないという答えが、彼の今の全部だった。彼は剣を上げ、私を通り抜ける風を斬った。火花が散り、玉座の間の空気が一段低くなる。外から、低く冷たい風が吹き込んだ。
ヴァルトの風だ。
包囲は、整った。
玉座の間に、ふたつの物語が向かい合い、火花で互いの輪郭をなぞる。
「アレクシス」
私は呼んだ。彼は視線だけで応じる。浅瀬に、波は戻らない。風は彼の髪をわずかに乱し、燭の火がまた横を向く。
「君のための嘘は、もう要らない。あなたのための本当を、選んで」
「……遅すぎる」
「遅れて始めた音楽が、いちばん心に残る夜もある」
彼は目を伏せ、そして上げ、剣を握り直し――踏み込んだ。
火花が、夜に散る。
外の角笛が、次の拍を告げる。
私の背で、鎖骨の刻印が鳴り、心は、逃げなかった。
物語は、“攻防の幕”へ本当に入ったのだと、空気の温度が教えてくれた。
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