王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

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第15話 黒と金のキス

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 鐘が落ちた。空から落ちるのではない、街の心臓が自分の重みを思い出して砕け落ちる音だった。鐘楼は聖光の奔流に貫かれ、石の鳴き声を引きずりながら斜めに裂け、金の粉が空に散る。泣き声と祈りと罵声が層になって、王都は蜂の巣みたいに響いた。

「前へ!」

 ガルドの吠えが道を押し広げ、黒の軍勢が波の背で走る。セラの扇が空へ描く輪は対奇跡の模様、白い光が当たるたび半音ずれて、祈りは祈りの外側へ滑り落ちる。私は路地のつなぎ目を確かめながら駆け、耳に挿した黒薔薇の蕾を指で押さえた。胸骨の中で刻印が鳴る。花弁が、喉の奥でふわりと震える。

 大聖堂――金の尖塔。聖光はそこから溢れていた。階段は人で詰まり、膝をついた者、逃げる者、立ち尽くす者。祈りは強い。強い祈りほど、人を弱くする。私は肩で人波を割り、祭壇へ続く中央廊を目でなぞる。ヴァルトの風が背から押した。夜の温度。冬の泉の匂い。

「殿下は――」

「入口を塞ぐ。行け」

 振り返らなくても、彼の笑いの形がわかる。扉が歌うみたいに開き、私は聖堂の内側へ飛び込んだ。

 黄金。過剰な金。壁は光で飽和し、床の白は目に刺さる。空気は香で重く、喉は甘く痺れる。祭壇の上、エリナが縛られていた。白い腕、青い痣、祈りで割れた唇。足元の鎖に、祝福の刻印。過剰な儀式の傷跡が、教会の“都合”で増し書きされている。

「“最後の奇跡”だ」
 祭壇脇で、枢機卿マルティンが満面で両手を広げる。赤い輪に白鍵の刺繍、笑っていない目。
「聖女は民の前で光を流す。花嫁は魔に堕ち、その身で罪を証明する。王は正しさを戴冠し、国は救われる――完璧な脚本だ」

「脚本ほど安物の神はいないわ」

 私の声は自分でも驚くほど静かだった。怒りは熱いけれど、刃を鈍らせないように冷やして持つ。私は祭壇の階を上がり、エリナの手に触れる。冷たい骨。震える指。彼女は涙をこぼし、声にならない声で私の名を作った。

「リュ……」

「来たよ」

 鎖に触れる。祝福の文字が皮膚を焼く。鎖骨の刻印が“喰わせろ”と微かに歌う。私は息を吸い、内側で黒い花弁を一枚、起こした。花は光らない。なのに見える。花は香らない。なのに甘い。私は鎖の節に花を当てる。――喰う。鉄が、祈りごと軋み、錆の味が舌の裏に広がる。花弁は萎み、代償の痺れが指から肘へ走る。それでも構わない。鎖が一節、二節とほどけ、エリナの肩から重みが抜けた。

「聖堂を穢すなッ!」

 マルティンが叫び、聖槍を掲げる。柄は白、刃は光。祈りの歯が空気を噛み、槍は一足で跳んだ。突きは正確。狙いは私の胸。――風が横から割り込んだ。ヴァルトだ。槍の腹を手の甲で逸らし、軌道を私の肩へずらす。すれ違いざま、刃は彼の前腕を裂いた。黒衣が裂け、白い肌に赤い線。血が聖堂の金を汚す。

「殿下!」

 叫びの先で、彼は笑った。冬の泉の底に、春の泡が浮かぶみたいな笑いだった。

「くだらない脚本だ」

 言いながら、彼は槍の柄を掴む。私が反対側を抱えた。聖光が掌を焦がす。祈りの歯が皮膚を噛む。指先に痛みの針が立つ。鎖骨の刻印がもう一度鳴り、痛みを少し喰って、代わりに手首を痺れさせた。――折る。私たちは同じ呼吸で槍を捻り、祈りの結び目を逆さにする。金の軋み。祈りの悲鳴。槍は中央から、骨のように折れた。

 沈黙の後に、ざわめきが奔った。信徒が見ている。口を覆う女、目を逸らす男、膝から崩れる老人。誰かが「嘘だ」と言い、誰かが「やっとだ」と言った。マルティンの顔が崩れる。化粧の下の皮が乾き、目の下の袋が落ちる。彼は指を振り、私兵の影を呼ぶ。だが、門はもう風に塞がれていた。ヴァルトの軍勢が聖堂を包み、ガルドの吠えが石壁に反響する。セラの扇が信徒の目から恐怖の膜を剥ぎ、ラザロの声が数字で真実を並べる。

「寄付の循環、呪詛証明の捏造、非常令の濫用」
 ラザロは粘土の印影を高く掲げた。「王家百合の左の脚は短い。聖鍵の歯は一本多い。癖は、事実です」

「……黙れ」

 マルティンは呻くように言い、砕けた槍の半分を私に向けた。光が再び立ち上がる。だがその光は、さっきより細い。焦燥で弱く、祈りよりも恐怖で燃えている。私は一歩下がり、エリナを背に庇う。彼女は涙で顔を濡らしながらも、はっきりと首を振った。

「枢機卿様、もう……いや」

 小さな声だった。けれど、聖堂はその声を選んだ。石の骨が共鳴し、黄金の葉がかすかに震え、信徒のざわめきが方向を変える。疑いから怒りへ、怒りから理解へ、理解から羞恥へ。マルティンはその向きを見て、初めて恐怖の顔をした。

「私は、国のために……」

「あなたのための国よ」

 私の言葉は刃になり、彼の頬を浅く切った。赤い線。信徒の前で、彼は悪行を暴かれた。隠し扉の向こうの銀の壺、金の帳面、聖油で薄めた奇跡。扉が開くたび、聖堂の黄金はわずかに色を失い、代わりに人の顔に血が戻る。

 外で、鐘の落ちた残骸がもう一度鳴った。王都の心臓は打ち続ける。玉座のある塔へ視線を上げると、崩れた壁の向こうに白い影。アレクシスだった。瓦礫の間に孤立し、剣を握り、剣先は下がっていた。彼の顔は若い。若すぎる。私は聖堂の柱越しに、彼を見た。彼は私を見ない。まだ見られない。

「さよなら、わたしの少年王」

 声は風に乗り、金の葉に触れて折れ、彼の耳に届いたかどうかはわからない。けれど私には、十分だった。私の口から立ちのぼったその言葉が、檻に火を入れる最後の火種だと、骨が知っていた。

 マルティンが最後の祈りを叫び、砕けた槍を振り下ろす。ヴァルトの腕が再び割れ、赤が白を汚す。私の胸で花弁が震え、痛みを少し喰う。彼は構わず、笑って槍を踏み折った。破片が金の床を転がり、祭壇の段から落ち、音は小さく、けれど決定的だった。

「終わりだ、枢機卿」

 ヴァルトの声は夜の底から響いた。セラが扇を打ち、ラザロが証を掲げ、信徒の視線が一斉にマルティンを貫く。彼は口を開き、言い訳を選べなかった。言葉は飽和し、喉で詰まり、彼はただ、信仰の衣の内側で小さく縮んだ。

 聖堂の黄金と、ヴァルトの黒髪が交わる。黒と金。光と影。彼が私の側に立つ。血のついた腕が触れ、私はその傷口に指を這わせた。熱い。花弁は出さない。これは彼の痛みだ。彼が選んだ対価。私はただ、彼の速度で息を合わせる。

 外の空が低く唸り、王都の角笛が短く三度鳴る。勝敗は決した。ガルドが吠え、その吠えに混ざって民衆の叫びが変質する。恐怖から、解放へ。解放から、混乱へ。混乱から、現実へ。現実の匂いは、石と汗と、消えかけの香。

「エリナ、行ける?」

「……行く。歩く。泣くの、やめる」

「泣いていい。泣き方を選んで」

 彼女はうなずき、祭壇から降りた瞬間、足元の石がひゅうと鳴いた。嫌な音。私は反射でヴァルトと視線を交わす。彼の青が細くなる。セラが扇を止め、ラザロが口をつぐむ。床――金の下の白い石に、古い線が浮いた。

 封印陣。

 黄金の間から色が引き、代わりに灰色の円が立ち上がる。幾何学が、聖句ではない古い言葉で組まれ、線の節に黒い釘が見える。釘の頭には、古の王の紋。王家の前――いや、“王冠の前の王”。石の奥で眠っていた陣が、瓦礫の重みと、血の匂いで目を覚ましたのだ。

「……嫌な目覚め方」

 セラの声が低く落ちる。扇の骨が一度だけ震える。ラザロが膝をつき、線の角度を測る。彼の顔から、書記の余裕が消えた。

「殿下、これは“境の縫い目を逆に縫う”術式。封じる対象は――」

「魔王」

 言葉が空気を凍らせる。ヴァルトの視線は穏やかで、しかし深い泉の底で氷が鳴った。彼は私の手を軽く握る。冬の泉。中心に小さな火。

「古い王が、古い夜を恐れて作った術だ。王都の骨に仕込まれていた。……鐘楼が落ち、金が剥がれ、血が落ち、脚本が壊れた。――それで、目を覚ました」

 封印陣はゆっくりと回り出す。聖堂の黄金が色を失い、黒い線が地面の下から生え、柱の影が伸びて、私たちの足首を撫でた。エリナが小さく悲鳴を飲み、ガルドは唸り、守護獣が尻尾を立てる。マルティンは床に膝をつき、陣の中央で笑った。泣き笑いの顔だ。負け犬の笑い。だが、笑いは笑い。

「神は見ておられる。――いや、見てなくても、術は働く。魔王よ、古(いにしえ)の秤へ戻れ」

 彼の喉が笑いで震えた瞬間、封印陣の中心がひとつ光った。光は白ではない。灰。灰の光。骨の色。私の足元で、花弁が微かに震える。刻印が鳴る。“行くな”。“触れるな”。“触れろ”。矛盾した合図が同時に走る。選択の時間は、いつだって短い。

「リュシア」

 ヴァルトが名を呼ぶ。間を置いて。
「俺を、見ていろ」

「見る」

 私は即答し、彼の横へ並んだ。黒と金が交わる。彼の黒髪が黄金の光を切り、黄金が黒の輪郭を際立たせる。息は合っている。心音は別々に跳ねる。封印陣は回る。王都は息をし直し、鐘楼は瓦礫になり、民は逃げ、祈りは薄れ、現実が濃くなる。

 勝敗は決した。けれど、“物語の次の幕”は、今、床の下から上がってきた。古い封印陣は、私に問いを突きつける。番の隣で、私は何を払う? 何を喰わせる? 何を残す?

 痺れは、まだ手首にいる。払える。だけど無駄に払わない。私は花弁を指先に呼び、薄く、薄く、薄く開かせる。香らない花が、黄金と黒の間で、静かに息をした。

「さあ――古い嘘を、もう一枚、剥がしましょう」

 私の声は、聖堂の天井で柔らかく反響した。封印陣の線が、こちらを見た気がした。黒と金のキスは、もう一度、深く触れ合う。夜は長い。均衡は揺れる。私は睫毛をひとつ伏せ、睫毛を上げ、次の呼吸で、花を置いた。
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