王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

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第10話 初めての誓い

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 戦の前夜は、不思議と静かだった。風は塔の縁で小舟のように揺れ、逆さの星川は音もなく流れている。魔王城の最も高い塔――夜の骨でできた尖塔――のバルコニーに、私とヴァルトは並んで立っていた。遠くの稜線で、まだ誰も叩いていない太鼓の皮が空気を待っている気配がする。叩かれる前の鼓面は、呼吸の前の肺みたいに膨らんで、少し苦しそうだ。

「寒くないか」

「大丈夫。……いや、うそ。少し」

 正直に言えば、風は骨の芯にまで入り込み、昼間の覚悟の熱をやんわりと攫っていく。ヴァルトは外套を片側だけ外し、私の肩へ回した。布には夜の匂いがする。星粉を少し焦がしたみたいな甘さ。肩を包む重さは、鎧ではなく、毛布の重さだ。

「戦の前に“重たさ”を増すのは悪習だが、今夜だけは例外にする」

「例外を作るの、上手よね」

「長生きの特権だ」

 言いながら、彼は欄干に背を預けて夜を見た。青い瞳は氷だが、底には必ず泉がある。沈黙がいくつか往復して、ようやく私の喉が温まる。話す番だ、と骨が教える。

「交換しない?」

「何を」

「過去。長いのと、短いの。順番は、短い方から」

 私は自分で言って、苦笑する。短い、と呼ぶには、息苦しい年月だ。けれど、彼の“長命の孤独”に比べれば、私の“優等生の牢”は、掌に載る。

「聞く」

 彼の言葉は、椅子のように安定している。座っていい、と言われている気がして、私は外套を少し掻き寄せた。

「――私は、正答に育てられた」

「知っている。だが、君の口で」

「朝は鐘で起きる。鐘は正しい。遅れてはいけない。朝食では笑ってはいけない。上唇を汚してはいけない。庭師の少年に名前を訊いてはいけない。絵筆で壁を汚してはいけない。音を外してはいけない。泣いてはいけない。間違えてはいけない」

 言葉が塔の壁に当たって戻ってくる。戻ってきた音は、少し柔らかくなっている。魔王城は、話を聞くのが上手い。

「正しくあることは、気持ちいいの。筋肉が全員姿勢を正して、身体が拍手してくれる。……でもね、拍手は苦手にもなる。ずっと続くと、鼓膜が痒くなる」

「うん」

「アレクシスは“正しさ”の証明だった。彼の微笑は答案用紙の満点。あれを貰える自分が好きだったし、貰えなかった自分は間違いだと思った。間違いをなくすために、私の中の“好き”を削った。削った粉で、王妃の仮面を磨いた。……完成間近に、落とされた」

 喉が少し乾く。夜風が、その乾きを慰めるように頬を撫で、髪を撫でる。私は続けた。

「牢は冷たかったけど、理解しやすかった。“悪女”という答えを選びさえすれば、すべての式に合点がいくの。侮辱も、弾劾も、処刑も。“悪女にふさわしい”。正答だった。だから、死ぬ前の一秒まで、私は自分を納得させ続けられた」

「納得は、麻酔になる」

「そう。あなたが来て、麻酔が切れた。痛くなった。生きるのは痛い。……でも、痛いから生きているのだとわかってきた」

 ヴァルトは何も挟まない。言葉の継ぎ目に指を入れて、形を整えるみたいに、外套の裾だけを直した。夜の縁に小さな皺が寄り、それがすぐ伸びる。

「次は、長い方」

「短く話す努力をする」

「それはありがたい」

 彼の口角が、冬の氷の上で日が差すようにわずかに上がる。青がほどけ、言葉が落ちる。

「俺は、終わりの後の生まれだ。最初の戦が終わり、世界が新しい皮を着たとき、その縫い目の近くで目覚めた。俺に“魔王”という名を与えたのは、恐れた者ではなく、頼った者の方だった。夜を頼む声は、いつも静かだ。だから、長命は静寂を飲み込むところから始まる」

 彼の指先が欄干をなぞる。石の表面に夜の粉が宿る。

「最初の百年は、待つことを覚えた。次の百年は、忘れることを覚えた。さらに百年で、忘れないことを覚え直した。間に、いくつかの“欠片”に出会った。眠っている欠片、怒っている欠片、俺を道具にしようとする欠片。どれも“世界を縫う手”を持っていたが、縫い目の色は違った」

「笑った?」

「笑わなかった。笑うと、距離が狂う。距離が狂うと、待てなくなる」

「それで、私に会って?」

「笑い方を、思い出した」

 息が、胸の奥でひとつ弾んだ。塔の影が風と一緒に首をかしげる。彼は続ける。

「孤独は、鍛える。だが、研ぎすぎると刃は欠ける。俺は幾度か欠け、削り直し、そのたびに夜が濃くなった。……濃い夜にお前の音が落ちた。水の底で響く低音。俺はそこで立ち止まり、耳を澄まして、初めて“自分の速度”を測り直した」

「速度?」

「お前が一歩遅いと言ったろう。俺は、長命であることを免罪符にして、歩幅を大股にしすぎていた」

「だから、合わせた?」

「合わせたいと思った。合わせる理由が“お前自身”になった」

 言い終えると、遠い稜線で太鼓がひとつ、皮を叩かれた。空気が震え、骨が微かに共鳴する。始まりの拍。まだ合図ではない。音合わせだ。夜風が温くなる。冬が一歩引き、春が指先だけ塔に触れる。

「誓おう」

 私は、彼の方を向いた。言葉が先に立ち、勇気が少し遅れたが、追いついてきた。指先を差し出す。彼が迷わず絡める。骨と骨の間に、温度が生まれる。

「私があなたを“人”として呼び続ける」

 塔の石が一度だけ鳴った。言葉は魔法ではないけれど、魔法が育つ土になる。彼は目を細める。

「俺がお前の“選択”を尊重する」

 短い。強い。私の胸で、刻印がふわりと熱を足す。遠くで、太鼓がもう一つ。間合いを測るように二つ目の低音が潜り、夜鳥の羽音がそれを横切る。

「形のない誓い、ね」

「形がないから、折れにくい」

「重ねるうちに、輪郭が出る?」

「そうだ。呼吸の形になる」

 風が外套を持ち上げ、彼の髪を撫で、私の頬を撫でる。温い。戦の前夜にしては、優しすぎる温度だ。優しさは人を鈍らせる。けれど今夜は、鈍さを武器の鞘にしてもいい。鞘がない刃は、すぐに人を傷つけるから。

「逃げることも、できる」

 唐突に彼が言った。青の瞳が真っすぐに私だけを映す。言葉に余計な飾りはない。逃げることは選択のひとつ。均衡に嘘は要らない。

 私は首を横に振る。すぐに。考えたふりをする時間さえ、もう勿体ない。

「逃げるのは、もう飽きたの」

 自分の声が、思ったより軽かった。軽いけれど、浮かない。骨が受け止める重さだ。彼の指が少し強く絡む。

「確認する。逃げない。――戦う、じゃない。“選ぶ”」

「うん。選ぶ。敵を、味方を、自分を。数字を。鍵穴を。扉を。泣く場所を。笑う時間を。あなたを」

 最後の語が自分でも甘すぎると感じて、喉で咳払いをした。彼は笑わない。けれど、青の底が柔らいだ。遠くで太鼓が三度、低く鳴り、山の輪郭がその音で描かれ直される。

「俺からも、ひとつ」

「聞く」

「俺はお前を守る。だが、前に出るお前を止めない。支配と庇護の境を、たえず見直す。……ズレたら、叱れ」

「叱るの、得意じゃない」

「練習すればいい」

「じゃあ練習。――ねえ、ヴァルト」

「ん」

「今、私の手を離さないで」

「はい」

 即座に返事が落ちて、手は離れない。くだらない練習だけど、誓いの筋肉はこうやって育つ。形のない誓いは、日常の小さな癖で補強するのがいちばんいい。

「怖いか」

「怖い。怖いけど、楽しい。怖いけど、眠くない。怖いけど、歌える気がする」

「歌え。骨で」

「うん」

 刻印が胸の内側で小さく歌い、塔の壁がその音を覚える。覚えた音は明日、私の背を押す。魔法の歌ではない、生活の歌。足音を揃える歌。逃げない歩幅の歌。

「リュシア」

 名を呼ぶ前の、あの小さな間。私はそこに呼吸を置く。呼吸が落ち着く。彼は続ける。

「俺は長い冬を歩いた。今、春が指先に触れている。……それを怖がらないようにする」

「怖がってもいいわ。怖がるのを、私が見張る」

「見張り番」

「番の番」

「ずるい」

「番はずるいんでしょ?」

 彼の肩が、静かに揺れた。笑いの波長。遠くで、太鼓が四度目を鳴らす。そろそろ、準備の音が合図に変わる頃合いだ。バルコニーの縁に影が広がり、ラザロの気配が低く頭を下げ、セラの扇が一度だけ開いて閉じた。ガルドの息は深く、守護獣の尻尾はきびきびと拍を刻む。

「行こう」

 私が言うと、ヴァルトは頷いて外套を整えた。夜はまた少し冷たくなる。温さは塔に置いていく。代わりに、形のない誓いを持っていく。軽い。けれど、鎧より堅い。

 私は一歩、塔の内側へ向き直り、そして振り返った。逆さの星川。風に撫でられた髪。黒薔薇の冠は今夜は外して、代わりに耳元に小さな蕾だけ挿している。蕾はまだ開かない。開くのは戦の後でいい。生きて戻って、香りを嗅ぐ。――そう決めた。

「最後に、もう一個だけ」

「聞く」

「私があなたを“人”として呼ぶ、と言ったけど……たまに“魔王”って呼ぶね」

「なぜ」

「かっこいいから」

 彼はほんの少し、目を瞬かせ、それから静かに笑った。その笑いは、長命の冬を割るための、最初の春雷に似ていた。

「好きにしろ」

「うん」

 太鼓が五度目を鳴らし、合図の旗が城の骨を伝って流れた。遠くの空が低く唸り、境の霧が薄くなる。攻防の幕が、上がる。

 二人の影が重なる。重なった影はひとつの形になり、長く伸びて階段を降りていく。足音は揃っている。速度は合っている。怖さは残してある。隙も、持っている。均衡は揺れている。だから、歩ける。

 戦の前夜に交わしたのは、指先の約束。形のない誓い。紙にも石にも刻まない。骨に、筋肉に、呼吸に。――明日、刃が鳴るとき、その誓いが鞘になるように。

 夜風が最後にそっと背中を押し、私は塔を下り始めた。次の拍で、太鼓は本物になる。次の瞬きで、世界は脚本を用意する。ならば私たちは、演者であって、脚本家でもある。逃げるのは、もう飽きた。選ぶのは、これからだ。
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