10 / 20
第10話 初めての誓い
しおりを挟む戦の前夜は、不思議と静かだった。風は塔の縁で小舟のように揺れ、逆さの星川は音もなく流れている。魔王城の最も高い塔――夜の骨でできた尖塔――のバルコニーに、私とヴァルトは並んで立っていた。遠くの稜線で、まだ誰も叩いていない太鼓の皮が空気を待っている気配がする。叩かれる前の鼓面は、呼吸の前の肺みたいに膨らんで、少し苦しそうだ。
「寒くないか」
「大丈夫。……いや、うそ。少し」
正直に言えば、風は骨の芯にまで入り込み、昼間の覚悟の熱をやんわりと攫っていく。ヴァルトは外套を片側だけ外し、私の肩へ回した。布には夜の匂いがする。星粉を少し焦がしたみたいな甘さ。肩を包む重さは、鎧ではなく、毛布の重さだ。
「戦の前に“重たさ”を増すのは悪習だが、今夜だけは例外にする」
「例外を作るの、上手よね」
「長生きの特権だ」
言いながら、彼は欄干に背を預けて夜を見た。青い瞳は氷だが、底には必ず泉がある。沈黙がいくつか往復して、ようやく私の喉が温まる。話す番だ、と骨が教える。
「交換しない?」
「何を」
「過去。長いのと、短いの。順番は、短い方から」
私は自分で言って、苦笑する。短い、と呼ぶには、息苦しい年月だ。けれど、彼の“長命の孤独”に比べれば、私の“優等生の牢”は、掌に載る。
「聞く」
彼の言葉は、椅子のように安定している。座っていい、と言われている気がして、私は外套を少し掻き寄せた。
「――私は、正答に育てられた」
「知っている。だが、君の口で」
「朝は鐘で起きる。鐘は正しい。遅れてはいけない。朝食では笑ってはいけない。上唇を汚してはいけない。庭師の少年に名前を訊いてはいけない。絵筆で壁を汚してはいけない。音を外してはいけない。泣いてはいけない。間違えてはいけない」
言葉が塔の壁に当たって戻ってくる。戻ってきた音は、少し柔らかくなっている。魔王城は、話を聞くのが上手い。
「正しくあることは、気持ちいいの。筋肉が全員姿勢を正して、身体が拍手してくれる。……でもね、拍手は苦手にもなる。ずっと続くと、鼓膜が痒くなる」
「うん」
「アレクシスは“正しさ”の証明だった。彼の微笑は答案用紙の満点。あれを貰える自分が好きだったし、貰えなかった自分は間違いだと思った。間違いをなくすために、私の中の“好き”を削った。削った粉で、王妃の仮面を磨いた。……完成間近に、落とされた」
喉が少し乾く。夜風が、その乾きを慰めるように頬を撫で、髪を撫でる。私は続けた。
「牢は冷たかったけど、理解しやすかった。“悪女”という答えを選びさえすれば、すべての式に合点がいくの。侮辱も、弾劾も、処刑も。“悪女にふさわしい”。正答だった。だから、死ぬ前の一秒まで、私は自分を納得させ続けられた」
「納得は、麻酔になる」
「そう。あなたが来て、麻酔が切れた。痛くなった。生きるのは痛い。……でも、痛いから生きているのだとわかってきた」
ヴァルトは何も挟まない。言葉の継ぎ目に指を入れて、形を整えるみたいに、外套の裾だけを直した。夜の縁に小さな皺が寄り、それがすぐ伸びる。
「次は、長い方」
「短く話す努力をする」
「それはありがたい」
彼の口角が、冬の氷の上で日が差すようにわずかに上がる。青がほどけ、言葉が落ちる。
「俺は、終わりの後の生まれだ。最初の戦が終わり、世界が新しい皮を着たとき、その縫い目の近くで目覚めた。俺に“魔王”という名を与えたのは、恐れた者ではなく、頼った者の方だった。夜を頼む声は、いつも静かだ。だから、長命は静寂を飲み込むところから始まる」
彼の指先が欄干をなぞる。石の表面に夜の粉が宿る。
「最初の百年は、待つことを覚えた。次の百年は、忘れることを覚えた。さらに百年で、忘れないことを覚え直した。間に、いくつかの“欠片”に出会った。眠っている欠片、怒っている欠片、俺を道具にしようとする欠片。どれも“世界を縫う手”を持っていたが、縫い目の色は違った」
「笑った?」
「笑わなかった。笑うと、距離が狂う。距離が狂うと、待てなくなる」
「それで、私に会って?」
「笑い方を、思い出した」
息が、胸の奥でひとつ弾んだ。塔の影が風と一緒に首をかしげる。彼は続ける。
「孤独は、鍛える。だが、研ぎすぎると刃は欠ける。俺は幾度か欠け、削り直し、そのたびに夜が濃くなった。……濃い夜にお前の音が落ちた。水の底で響く低音。俺はそこで立ち止まり、耳を澄まして、初めて“自分の速度”を測り直した」
「速度?」
「お前が一歩遅いと言ったろう。俺は、長命であることを免罪符にして、歩幅を大股にしすぎていた」
「だから、合わせた?」
「合わせたいと思った。合わせる理由が“お前自身”になった」
言い終えると、遠い稜線で太鼓がひとつ、皮を叩かれた。空気が震え、骨が微かに共鳴する。始まりの拍。まだ合図ではない。音合わせだ。夜風が温くなる。冬が一歩引き、春が指先だけ塔に触れる。
「誓おう」
私は、彼の方を向いた。言葉が先に立ち、勇気が少し遅れたが、追いついてきた。指先を差し出す。彼が迷わず絡める。骨と骨の間に、温度が生まれる。
「私があなたを“人”として呼び続ける」
塔の石が一度だけ鳴った。言葉は魔法ではないけれど、魔法が育つ土になる。彼は目を細める。
「俺がお前の“選択”を尊重する」
短い。強い。私の胸で、刻印がふわりと熱を足す。遠くで、太鼓がもう一つ。間合いを測るように二つ目の低音が潜り、夜鳥の羽音がそれを横切る。
「形のない誓い、ね」
「形がないから、折れにくい」
「重ねるうちに、輪郭が出る?」
「そうだ。呼吸の形になる」
風が外套を持ち上げ、彼の髪を撫で、私の頬を撫でる。温い。戦の前夜にしては、優しすぎる温度だ。優しさは人を鈍らせる。けれど今夜は、鈍さを武器の鞘にしてもいい。鞘がない刃は、すぐに人を傷つけるから。
「逃げることも、できる」
唐突に彼が言った。青の瞳が真っすぐに私だけを映す。言葉に余計な飾りはない。逃げることは選択のひとつ。均衡に嘘は要らない。
私は首を横に振る。すぐに。考えたふりをする時間さえ、もう勿体ない。
「逃げるのは、もう飽きたの」
自分の声が、思ったより軽かった。軽いけれど、浮かない。骨が受け止める重さだ。彼の指が少し強く絡む。
「確認する。逃げない。――戦う、じゃない。“選ぶ”」
「うん。選ぶ。敵を、味方を、自分を。数字を。鍵穴を。扉を。泣く場所を。笑う時間を。あなたを」
最後の語が自分でも甘すぎると感じて、喉で咳払いをした。彼は笑わない。けれど、青の底が柔らいだ。遠くで太鼓が三度、低く鳴り、山の輪郭がその音で描かれ直される。
「俺からも、ひとつ」
「聞く」
「俺はお前を守る。だが、前に出るお前を止めない。支配と庇護の境を、たえず見直す。……ズレたら、叱れ」
「叱るの、得意じゃない」
「練習すればいい」
「じゃあ練習。――ねえ、ヴァルト」
「ん」
「今、私の手を離さないで」
「はい」
即座に返事が落ちて、手は離れない。くだらない練習だけど、誓いの筋肉はこうやって育つ。形のない誓いは、日常の小さな癖で補強するのがいちばんいい。
「怖いか」
「怖い。怖いけど、楽しい。怖いけど、眠くない。怖いけど、歌える気がする」
「歌え。骨で」
「うん」
刻印が胸の内側で小さく歌い、塔の壁がその音を覚える。覚えた音は明日、私の背を押す。魔法の歌ではない、生活の歌。足音を揃える歌。逃げない歩幅の歌。
「リュシア」
名を呼ぶ前の、あの小さな間。私はそこに呼吸を置く。呼吸が落ち着く。彼は続ける。
「俺は長い冬を歩いた。今、春が指先に触れている。……それを怖がらないようにする」
「怖がってもいいわ。怖がるのを、私が見張る」
「見張り番」
「番の番」
「ずるい」
「番はずるいんでしょ?」
彼の肩が、静かに揺れた。笑いの波長。遠くで、太鼓が四度目を鳴らす。そろそろ、準備の音が合図に変わる頃合いだ。バルコニーの縁に影が広がり、ラザロの気配が低く頭を下げ、セラの扇が一度だけ開いて閉じた。ガルドの息は深く、守護獣の尻尾はきびきびと拍を刻む。
「行こう」
私が言うと、ヴァルトは頷いて外套を整えた。夜はまた少し冷たくなる。温さは塔に置いていく。代わりに、形のない誓いを持っていく。軽い。けれど、鎧より堅い。
私は一歩、塔の内側へ向き直り、そして振り返った。逆さの星川。風に撫でられた髪。黒薔薇の冠は今夜は外して、代わりに耳元に小さな蕾だけ挿している。蕾はまだ開かない。開くのは戦の後でいい。生きて戻って、香りを嗅ぐ。――そう決めた。
「最後に、もう一個だけ」
「聞く」
「私があなたを“人”として呼ぶ、と言ったけど……たまに“魔王”って呼ぶね」
「なぜ」
「かっこいいから」
彼はほんの少し、目を瞬かせ、それから静かに笑った。その笑いは、長命の冬を割るための、最初の春雷に似ていた。
「好きにしろ」
「うん」
太鼓が五度目を鳴らし、合図の旗が城の骨を伝って流れた。遠くの空が低く唸り、境の霧が薄くなる。攻防の幕が、上がる。
二人の影が重なる。重なった影はひとつの形になり、長く伸びて階段を降りていく。足音は揃っている。速度は合っている。怖さは残してある。隙も、持っている。均衡は揺れている。だから、歩ける。
戦の前夜に交わしたのは、指先の約束。形のない誓い。紙にも石にも刻まない。骨に、筋肉に、呼吸に。――明日、刃が鳴るとき、その誓いが鞘になるように。
夜風が最後にそっと背中を押し、私は塔を下り始めた。次の拍で、太鼓は本物になる。次の瞬きで、世界は脚本を用意する。ならば私たちは、演者であって、脚本家でもある。逃げるのは、もう飽きた。選ぶのは、これからだ。
1
あなたにおすすめの小説
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです
ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」
宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。
聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。
しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。
冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。
悪役令嬢に仕立て上げたいなら、ご注意を。
潮海璃月
ファンタジー
幼くして辺境伯の地位を継いだレナータは、女性であるがゆえに舐められがちであった。そんな折、社交場で伯爵令嬢にいわれのない罪を着せられてしまう。そんな彼女に隣国皇子カールハインツが手を差し伸べた──かと思いきや、ほとんど初対面で婚姻を申し込み、暇さえあれば口説き、しかもやたらレナータのことを知っている。怪しいほど親切なカールハインツと共に、レナータは事態の収拾方法を模索し、やがて伯爵一家への復讐を決意する。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
私は私で幸せになりますので
あんど もあ
ファンタジー
子爵家令嬢オーレリーの両親は、六歳年下の可憐で病弱なクラリスにかかりっきりだった。
ある日、クラリスが「オーレリーが池に落ちる夢を見た」と予言をした。
それから三年。今日オーレリーは、クラリスの予言に従い、北の果ての領地に住む伯爵令息と結婚する。
最後にオーレリーが皆に告げた真実とは。
「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。
秦江湖
恋愛
魔法適性「鑑定」がすべてを決める、黄金の国ルミナリス。 名門ベルグラード公爵家の末娘アデリーンは、十五歳の鑑定式で、前代未聞の『鑑定不能(黒の沈黙)』を叩き出してしまう。
「我が家の恥さらしめ。二度とその顔を見せるな」
第一王子からは婚約破棄を突きつけられ、最愛の三人の兄たちからも冷酷な言葉とともに、極寒の地「ノースガル公国」へ追放を言い渡されたアデリーン。
着の身着のままで雪原に放り出された彼女が出会ったのは、一匹の衰弱した仔狼――それは、人間には決して懐かないはずの『伝説の聖獣』だった。
「鑑定不能」の正体は、魔力ゼロなどではなく、聖獣と心を通わせる唯一の力『調律師』の証。
行き倒れたアデリーンを救ったのは、誰もが恐れる氷の公爵ゼノスで……。
「こんなに尊い存在を捨てるとは、黄金の国の連中は正気か?」
「聖獣も、私も……お前を離すつもりはない」
氷の公爵に拾われ、聖獣たちに囲まれ、これまでの不遇が嘘のような「極上溺愛」を享受するアデリーン。
一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。
慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。
しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。
「遅いよ。僕らのかわいい妹を泣かせた罪、一生かけて償ってもらうからね」
これは、すべてを失った少女が、真の居場所と愛を見つけるまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる