王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

文字の大きさ
9 / 20

第9話 呼び鈴の音

しおりを挟む


 魔界と人間界の境は、地図の線ではなかった。静止した霧と逆さの星水、二つの夜が薄く重なり合う“薄膜(うすまく)”――指で触れれば波紋が走り、耳を澄ませば二種類の鐘の残響が交互にきこえる。そこに、使者の行列が現れた。白布の旗、銀の飾り金具、祈祷を縫い込んだ幟。表向きは停戦の使節、実際は“花嫁の引き渡し”を求めるための蜂蜜に針。

 私はヴァルトと並び、霧の手前に立った。セラは半身を私の背に置き、ラザロは視線ひとつで背後の配置を整える。将軍ガルドは矛先を下げたまま、筋肉だけ戦闘体勢。守護獣たちは霧の縁で尻尾を立て、境の温度差を嗅いでいた。

 先頭の男が馬から降りる。白地に金の縁取り――宮廷儀礼の規定通りの色。儀礼は、都合の良い残酷さを隠す布でもある。彼は胸に手を当てて一礼し、よく通る声で宣言した。

「王家代理、第一使節セドリック。神と王国の名において、停戦と交渉を請う」

 ヴァルトは首だけを傾け、こちらの“速度”で返す。
「魔王ヴァルト。均衡の名において、話は聞く」

 形式が交わると、薄膜の霧が一枚薄くなり、向こう側の列の奥が見えた。鎧の海。その奥――白い幕。幕の影に、人影が二つ。視線が吸い寄せられる。あの高さと輪郭は、見間違えない。

 アレクシス。
 エリナ。

 幕は上がらない。王太子は“舞台”の安全圏に身を置き、使者に脚本を読ませるつもりだ。私は息を整える。刻印が胸の内側でひとつ打つ。呼吸は浅くならない。セラの扇が背中でふわりと風を作り、私はわずかに頷いた。

「まず、停戦案」
 セドリックが巻物を開く。「両軍の後退、境の閉鎖、人質の交換――その一環として、“王家に対する罪人”の引き渡し」

 罪人。私の名は声には出されないが、巻物の紙が私の姓名を知っている匂いがする。インクが乾く前の、薄い鉄の匂い。

「その“罪人”の名を」
 ヴァルトがわざと問う。
 セドリックは一瞬だけ目を泳がせ、礼の角度を取り直した。
「リュシア=フィオーレ。王家侮辱、聖女呪詛、――」

「十分だ」
 ヴァルトの声は冷えた水の落ちる音。
「その名は、今は“魔王の伴侶”だ。肩書の上書きは、先に済んでいる」

 使節の列に波が走る。畏れ、怒り、事務的困惑。香水に砂を少し混ぜた匂い。私は一歩進み、薄膜の手前へ出た。靴の先が霧に触れ、白い皺がほどける。

「王国の提案は理解したわ。私からも端的に」
 私は微笑む。笑いは刃ではない。均衡を置くための“重し”。
「引き渡しには応じない。私は、こちらで“息をしている”から」

 セドリックの肩がわずかに強張った。彼の斜め後ろ、青い飾緒の若い騎士が一瞬だけ目を上げる。その目に、懐かしい影。私の舌が自然に名前を形づくろうとした瞬間、彼がわずかに肩を竦めて目を逸らした。――ロラン。

 巻物が二度、ぱさと鳴り、セドリックは次の文を読み上げる。「なお、王太子殿下より直々にお言葉を賜っている。……“リュシア。戻ってくれば、罪は免除する。君の立場と名誉は回復される。国は間違いを正す覚悟がある”」

 薄幕の奥、白い幕の影が動く。笑顔の角度。遠く離れていても、私はその角度を知っている。授業のあと、庭園で、楽譜の前で、たくさん見た角度。――英雄の仮面の内側で少年が息を詰める時の、微妙な上がり方。

「戻れば、免除」
 私は繰り返し、声の温度を部屋の温度に合わせるように少し下げた。
「甘い言葉ね。蜂蜜にハーブを混ぜて、喉に良さそうにしてある。でも、私の喉はすでに治療済み。薬は過剰なら毒になる」

「慎重に」
 セラが背中で囁く。
 私は頷かず、前を見た。

「私の罪は、あなたを信じたことだけ」
 はっきりと。自分に向けるように。
 言葉は霧に触れ、波紋になって境の両側へ広がる。使節の中で息を呑む音。幕の影が一瞬、揺れた。

 ヴァルトは何も言わない。私の言葉の余韻を、均衡の皿の上にそっと乗せて、傾きを見ている。その沈黙は、庇護ではなく、尊重。

 セドリックは職務に復帰するように一礼して、別の巻物を取り出した。「“神託”が下っている。聖女エリナ様より。……“境が穢れた。花嫁は魔に染まり、国を滅ぼす。今、救え。さもなくば、夜は永遠になる”」

 言葉はよく練られている。恐怖の針の角度が正確だ。私は静かに息を吸い、吐く。刻印が胸の内側で“違う”と小さく鳴った。

「エリナの言葉?」
 私は問う。
 セドリックは肩を固くする。「聖女の言葉を疑うのか」
「言葉は疑うためにある。神託と名付けても、数えるのは人間の手。手は震える。震えには、理由がある」

 薄幕の奥、白の陰がわずかに肩を震わせた――寒さか、消耗か、演出か。私には、あの華奢な肩甲骨の形が“疲れの角度”で沈む瞬間を、何度も見た記憶がある。

「殿下」
 ラザロが半歩前へ出て、儀礼の声で言う。「均衡の礼では、名のある者は“薄膜”に一度立つ作法がございます。双方の誠実を量る秤として」

 沈黙。薄い緊張が、旗の金具をきいと鳴らす。やがて幕の手前に人影が進み出た。霧がわずかに晴れ、輪郭が結ばれる。

 アレクシス。
 鎧は軽装、白と金。顔は隙のない美貌。目の色は海の浅瀬。私は、昔その浅瀬で何度も溺れかけたことを思い出す。今は、岸を知っている。

「リュシア」
 彼は笑う。咎めるでも、責めるでもない。懐かしい顔。懐かしい、という毒。
「戻ってきなさい。君のために、私はたくさんを用意できる。君は聡明だ。ここで死ぬ必要はない」

「私の死は、ここでは議題に上がっていないわ」
「誤解だ。私は君を殺したくない。君は王国に必要だ」
「王国?」
 私は軽く首を傾げる。「あなた自身じゃなく?」
 彼の瞳が一瞬だけ縮み、次の瞬間には元の浅瀬に戻った。

「教会の誤りは正す。聖女も守る。君も守る。――誰も傷つかない道がある」

「誰も?」
 セラが扇を鳴らした。小さな音の刃。
 私は首を横に振り、扇の助太刀を断る。
「あなたが最初に捨てたのは、誰のものだったか覚えてる?」

 アレクシスは黙った。口元が少しだけ強張る。黙った時の顔は、少年の名残を隠しにくい。私は続ける。

「紙に書かれた“正しさ”で私を焼き、民に投げさせ、神の言葉で蓋をした。――それをもう一度、やり直すの?」
「やり直す。今度は、間違えない」
「間違えない、という言葉ほど信用できないものはないわ。人間だもの」

 会談は、機能としてはもう決裂していた。だが儀式は形を要る。ラザロが視線で問う。ヴァルトは短く頷き、彼が用意した次の“段取り”が静かに滑り出す。境に小さな卓が置かれ、双方から盃がひとつずつ進む。盃は水で満たされ、境の真上で一滴ずつ落とし合う。混ざる水を見て、互いの“濁り”を測る――古い習わし。

 私は盃を手に取り、境へ差し出した。アレクシスも同じ。二つの滴が、霧の真ん中で触れ合い、淡い輪を作る。輪はすぐに拡がり、境の表皮を薄くして、どちらにも吸い込まれた。

「……綺麗だ」
 思わず漏れた私の言葉に、誰かが微かに息を呑む。
 アレクシスの目に、記憶の光がよぎる。
「そうだね。君は昔から、こういうのに弱い」
「弱さは、守るべきものよ」

 薄幕の奥で、白が動く。エリナ。彼女は幕の陰から半歩、前に出た。顔色は紙のように薄く、唇は祈りで割れている。目が合った。私の中で、呼び鈴がほんの少し鳴る――胸のどこか、刻印とは別の位置。鈴は小さく、しかし確かに。

 エリナの口が動く。声は、距離と祈りの布で届かない。だが、口形でわかった。
 ――「たすけて」。

 次の瞬間、彼女の肩を司祭服の手が押さえ込んだ。白が再び幕の奥へ引かれる。セドリックは表情を崩さず、巻物の最後の条文を読み上げた。「――期限は三日。引き渡しに応じなければ、王国は“魔の侵攻”と看做し、全面戦争に入る。以上」

 霧の上を、冷たい風が走る。三日。期限は短いほど、相手の呼吸を乱す。よくできている脚本。私は唇に笑いを浮かべ、盃をラザロへ返した。

「三日で、十分。こちらも準備がある」

 セドリックが礼をし、列を下げる。馬の蹄が均一の拍で鳴り、幟が風でほどける。その列の途中、ほんのわずかに乱れが生まれた。白い外套の騎士が、薄膜の真横で馬を歩ませながら、視線を落とすふりをしてささやく。

「……エリナは泣き続けている。あれは演技ではない」

 ロランの声。呼気だけの音量。声に名を乗せない。
 私は目を動かさない。口も開かない。喉がわずかに震え、刻印がそれに応える。
 “呼び鈴”が、胸の違う場所で二度、鳴った。

 列が霧に飲まれ、白い幕も、浅瀬の目も、祈りの袖も見えなくなる。境は元の厚みを取り戻し、二種類の鐘の残響が交互に遠のいた。

「……決裂、ね」
 セラが扇を肩に当て、溜息の形を綺麗に口から送り出す。
 ガルドは地面を拳で叩いた。「三日だと? 食うには短いが、斬るには長い!」
「三日で足りる」
 私は言う。
「欲しいのは、鍵と、鍵穴の位置。エリナの涙の出所、金の流れ、アレクシスの印章箱の数。数字で詰める」

 ラザロが軽く頷く。「教会の側門、夜半に入れ替わる護衛。――抜け道は、あります」
「殿下」
 セラがヴァルトを見る。「あなたは?」
「風を殺す。お前たちが通る間」
 ヴァルトは私に目を向けた。青の底が、決意の音程で澄む。
「お前は、どこへ行く」

「まずは、鐘楼の下。王都の“呼び鈴”を見に行く。誰が鳴らしているのか。それから……ロランの“任務”の影を裏返す」

 胸の内側で、小さな鈴がまた鳴った。これは恐怖の音ではない。真相が近いときの、情け容赦のない微音。甘くも苦くもない、ただ“起きろ”と告げる音。

「リュシア」
 ヴァルトが名を呼ぶ。呼ばれる前に、私は頷いた。
「戻る」
「遅れたら、呼ぶ」
「呼ばなくても来る、んでしょ」
 彼は目だけで笑い、私の指に触れた。冬の泉の中心に、掌の火が確かにあった。
「番は、ずるいからな」

 境の霧が、風で一瞬ほどける。遠くで、かすかな鐘の音。王都の鐘か、魔界の鐘か、聞き分けがつかない。どちらでもいい。どちらの音にも、私はもう、溺れない。

 呼び鈴が鳴っている。
 誰かが、どこかで、真実の扉の前に立っている合図。
 私はその音を胸骨で聞き、歩き出した。三日という脚本の上に、私のテンポで音符を置くために。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」

歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。 「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは 泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析 能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り 続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。 婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」

宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです

ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」 宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。 聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。 しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。 冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。

悪役令嬢に仕立て上げたいなら、ご注意を。

潮海璃月
ファンタジー
幼くして辺境伯の地位を継いだレナータは、女性であるがゆえに舐められがちであった。そんな折、社交場で伯爵令嬢にいわれのない罪を着せられてしまう。そんな彼女に隣国皇子カールハインツが手を差し伸べた──かと思いきや、ほとんど初対面で婚姻を申し込み、暇さえあれば口説き、しかもやたらレナータのことを知っている。怪しいほど親切なカールハインツと共に、レナータは事態の収拾方法を模索し、やがて伯爵一家への復讐を決意する。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

私は私で幸せになりますので

あんど もあ
ファンタジー
子爵家令嬢オーレリーの両親は、六歳年下の可憐で病弱なクラリスにかかりっきりだった。 ある日、クラリスが「オーレリーが池に落ちる夢を見た」と予言をした。 それから三年。今日オーレリーは、クラリスの予言に従い、北の果ての領地に住む伯爵令息と結婚する。 最後にオーレリーが皆に告げた真実とは。

「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。

秦江湖
恋愛
魔法適性「鑑定」がすべてを決める、黄金の国ルミナリス。 名門ベルグラード公爵家の末娘アデリーンは、十五歳の鑑定式で、前代未聞の『鑑定不能(黒の沈黙)』を叩き出してしまう。 「我が家の恥さらしめ。二度とその顔を見せるな」 第一王子からは婚約破棄を突きつけられ、最愛の三人の兄たちからも冷酷な言葉とともに、極寒の地「ノースガル公国」へ追放を言い渡されたアデリーン。 着の身着のままで雪原に放り出された彼女が出会ったのは、一匹の衰弱した仔狼――それは、人間には決して懐かないはずの『伝説の聖獣』だった。 「鑑定不能」の正体は、魔力ゼロなどではなく、聖獣と心を通わせる唯一の力『調律師』の証。 行き倒れたアデリーンを救ったのは、誰もが恐れる氷の公爵ゼノスで……。 「こんなに尊い存在を捨てるとは、黄金の国の連中は正気か?」 「聖獣も、私も……お前を離すつもりはない」 氷の公爵に拾われ、聖獣たちに囲まれ、これまでの不遇が嘘のような「極上溺愛」を享受するアデリーン。 一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。 慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。 しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。 「遅いよ。僕らのかわいい妹を泣かせた罪、一生かけて償ってもらうからね」 これは、すべてを失った少女が、真の居場所と愛を見つけるまでの物語。

処理中です...