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第3話:聖女の涙は、ガラスみたいに硬い
しおりを挟む礼拝堂の空気は、いつも少しだけ甘い。
祈りの言葉が壁に染みついて、香の煙が天井に薄い膜を張っている。
人はここに来ると、勝手に心をやわらかくする。――正確には、やわらかく“した気になれる”。
王都の大礼拝堂。
白い石の柱がずらりと並び、ステンドグラスが朝の光を砕いて床に落としていた。赤、青、金。色が混ざって、まるでこの場所だけ別の世界みたいに見える。
民衆が押し寄せ、ざわめきが波のように広がっていた。
「聖女さまだ……!」
「今日も奇跡を見せてくださるって」
「ありがたい……神さま、ありがとうございます……」
その“ありがたい”は、祈りというより期待だ。
救われたい、じゃなくて。見たい、に近い。
目でわかる救いが欲しい。手触りのある希望が欲しい。
そういう時代になってしまった。
リシェル・ノワゼルは礼拝堂の奥、柱の影になる位置に立っていた。
目立たない場所。けれど視界はよく通る。
黒に近い紫のドレスは、ここでは不思議と浮かない。祈りの場は、表の白さが強いほど、裏の黒も濃くなるから。
隣に、ルフラン・アストレア。
白金の髪が光を拾い、淡い紫の瞳が、祭壇の中心を静かに刺している。
「……人、多いね」
小声で言ったのはエルナだった。
今日は侍女服の上から控えめな外套を羽織り、髪をいつもよりきつくまとめている。目だけが落ち着かない。元暗殺者の“周囲を数える癖”が抜けない。
「集まるわよ」
リシェルは扇子を閉じたまま、さらりと言う。
「奇跡は、パンより甘いもの」
「甘いのはいいけど、胃もたれする」
エルナは鼻を鳴らした。
「……あ、来た」
ざわめきが、ふっと方向を変えた。
人の視線が一斉に流れていく。
その先に、“光”が現れる。
フィオナ・ルミエール。
淡いドレス。細い首。祈りのために整えられた、あまりにも綺麗な姿。
彼女が歩くと、人々の顔が勝手に上を向く。花が太陽を追うみたいに。
「聖女さま……」
「神の娘……」
フィオナは祭壇に立つと、そっと両手を胸の前で重ねた。
睫毛がゆっくりと伏せられ、唇が祈りの言葉を紡ぐ。
「神よ。迷える者に、光を。痛む者に、癒しを。今日ここに集った皆さまに……あなたの慈悲を」
声は澄んでいる。
水みたいにきれいで、聞いていると心の角が取れる気がする。
その“気”が、人を落ち着かせる。判断を鈍らせる。
フィオナが両手を天へ掲げた瞬間――眩い光が立ち上がった。
天井に届くほどの光。
香の煙が光に巻き込まれ、白い帯になって舞う。
民衆が息を呑み、次の瞬間、涙がこぼれる。
「……あぁ……」
「神さま……本当に……」
「聖女さま、ありがとう……!」
光は美しい。
けれど美しさには、必ず“形”がある。
自然な奇跡なら、その形は揺れる。気まぐれに脈を打つ。
リシェルは、目を細めた。
――一定。
光の立ち上がりが、不自然に一定だった。
まるで時間を測ったように、決まった速度で膨らみ、決まった強さで保たれている。
そして、香。
香の煙が揺れる方向が、風と逆だった。
礼拝堂の扉が開くたび、外の冷たい風が流れ込む。煙はそれに引かれて揺れるはずなのに――フィオナの奇跡の周りだけ、煙が逆に巻き上がっている。
「……ねえ、あれ」
エルナが小さく囁く。
「風、おかしくない?」
「ええ」
リシェルは微笑みの温度を変えずに答える。
「“見せたい形”があるのよ。だから、風も従わせる」
ルフランが、ほんの少し首を振った。
その動きが否定の合図になって、リシェルは視線を彼に向ける。
「星の流れと合っていません」
ルフランは囁く。
「……あれは“導線”です」
「導線?」
エルナが眉を寄せる。
「魔力が流れる道筋。決まった形に光を立てるための、線」
ルフランの声は静かで、怒りを含まない。
含まないから、余計に冷たい。
「自然に湧いた奇跡じゃない。作った奇跡です」
エルナの口元が歪む。
「うわ……最悪。神さまに見せかけて、配線工事じゃん」
リシェルは笑わない。
ただ、目だけでフィオナを見る。
彼女は涙を滲ませ、慈悲深く微笑んでいる。
涙が落ちる。
それは柔らかい水滴――みたいに見える。
でもリシェルには、ガラスの粒に見えた。
硬い。冷たい。割れない。
人の心を切るための涙。
光が収まり、民衆の歓声が膨らむ。
フィオナは優雅に一礼し、祈りを締めくくった。
「神の恵みに、心から感謝を。どうか皆さまが、明日も笑っていられますように」
拍手。涙。感謝。
その波の中で、リシェルは動かない。
動かないことで、余計に目立つ。
「あっ……」
「ほら、あそこ」
「悪役令嬢……来てる……」
視線が刺さる。
刺さるけれど、痛みは薄い。
痛みが薄いのは、刺す側が“正義のつもり”だからだ。
正義の刃は、刺しても罪悪感がない。
礼拝が終わり、人々が流れ出す。
祭壇の奥へと続く扉の前で、護衛の騎士がフィオナを迎えに来た。
フィオナは周囲に愛想よく微笑みながら、奥へ消える。
リシェルはその流れに乗らない。
柱の影から、一歩も出ない。
「追わないの?」
エルナが言う。
「追えば、こちらが悪役の動きになる」
リシェルは淡く言った。
「それに……彼女は、今すごく気分がいい。油断してる。油断してる人は、勝手に喋る」
ルフランが小さく頷く。
「……星も、そう言っています」
礼拝堂を出る頃には、外の空気がひどく冷たかった。
吐く息が白い。
空だけは、フィオナの光よりずっと正直だ。
馬車に揺られて邸へ戻る途中、エルナはずっと窓の外を睨んでいた。
街角の人々の表情、噂話の口の動き、誰が誰と目配せしたか。全部を拾おうとしている。
「……ねえ」
エルナがぽつりと言う。
「フィオナの涙、ほんとムカつく。あんなの、見てる人が可哀想になる」
「可哀想?」
「うん。泣けば正しいって信じてる人たちが、ね」
エルナは唇を噛む。
「私も昔、そうだった。泣かれたら負けだって思ってた。だから、泣く人は強いって……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
過去の扉に指をかけて、開けるのが怖くなったみたいに。
リシェルは、無理に開けさせない。
ただ、指先で扇子を撫でる音だけが、馬車の中に静かに落ちた。
「泣く人が強いんじゃないわ」
リシェルは淡く言う。
「“泣き方を知ってる人”が強いの」
「……嫌な言い方」
「褒めてないもの」
エルナが小さく笑う。
その笑いはまだ短い。けれど短い笑いは、生きるための呼吸に似ている。
その夜。
エルナは一人で市場へ出た。
リシェルの命令ではない。自分の意思だ。
こういうとき彼女は、猫みたいに静かに、鋭くなる。
市場の夜は、昼とは違う顔をしている。
灯りが少なく、影が濃い。人の声が近い。
酒場の笑い、露店の呼び声、金の音。
そして噂が、熱い湯気みたいにあちこちから立ち上る。
「聞いた? 王太子殿下の周り、金が動いてるって」
「しーっ。命が惜しいなら黙っとけ」
「でもさ、闇商人が王宮に出入りしてるって話、ほんとらしいぜ」
「聖女さまの“寄付”が増えたのも、その金だろ?」
エルナは、顔を隠してその会話の隣を通る。
通りすがりのふりで、耳だけを置いていく。
情報は拾うものじゃなく、落ちている場所に行くもの。
ただ、証拠はない。
噂は噂の形でしか存在しない。
噂は軽い。軽いから、誰でも持てる。
だから危ない。
戻ってきたエルナは、夜更けの執務室にリシェルを見つけた。
リシェルは机に向かい、何かの帳面を読んでいる。
灯りに照らされた横顔は、白く、綺麗で、どこか冷たい。
「リシェル様」
「おかえり。寒かったでしょう」
その一言が、エルナの胸をちくりと刺す。
寒さのことを言われたのが久しぶりだった。
自分の身を“人として”気にされるのが、慣れていない。
「……市場で聞いた。王太子の周りで闇資金が動いてるって噂」
エルナは早口で言う。
「ただ、証拠は薄い。みんなビビってるし、口が重い」
リシェルは帳面を閉じ、エルナを見た。
その視線は柔らかいのに、芯がある。
甘いのに、逃げ場がない。
「十分よ」
「え?」
「噂は軽い。でもね、軽いものは積み上がる」
リシェルは穏やかに言う。
「積み上がった噂は、いつか“重さ”になる」
エルナは眉を寄せた。
「じゃあ、今すぐ暴かないの?」
「暴く必要はないの」
リシェルは微笑む。
「嘘は、自分で重くなる。重くなった嘘は、自分で足を引っ張る」
エルナは黙る。
その理屈が、嫌なほど綺麗に通っているのがわかるからだ。
自分が過去に見た“嘘の崩壊”と重なる。
扉の外、廊下の影からカイエンの気配がする。
報告を聞くでもなく、ただ守っている。
その静けさが、リシェルの言葉をいっそう確かなものにする。
エルナが小さく息を吐く。
「……じゃあ、私たちは何をするの」
「落ちる瞬間に、巻き込まれないように立つ」
リシェルは紅茶を注ぎ、湯気の向こうで言った。
「そして、嘘が落ちるのを止めない」
エルナは震える指でカップを受け取った。
温かさが掌に染みる。
それは、怖さを少しだけ溶かす熱だ。
「……リシェル様ってさ」
エルナは言葉を探して、結局、素直に言った。
「優しいのに、怖いよね」
リシェルは一瞬だけ目を瞬かせ、次にふっと笑った。
甘い笑み。
でも、その甘さは媚びじゃない。毒の気品だ。
「それでいいのよ」
リシェルは囁く。
「怖いって思える人は、まだ自分の心を持ってる。ガラスみたいに硬い涙に、簡単に切られない」
窓の外で、風が鳴った。
冬の風は冷たい。嘘もまた冷たい。
けれど冷たさは、真実の輪郭をくっきり浮かび上がらせる。
リシェルはカップを口元に運び、湯気の向こうで静かに微笑んだ。
「さあ……次の舞台が来るわ」
まるで香水の瓶を傾けるみたいに、淡々と。
「彼女の涙が硬いなら、こちらは蜜のまま、落ちるのを待つだけ」
甘い罠は、仕掛けない。
甘さに溺れる者が、自分で沈む。
その理屈を、リシェルは美しく、冷たく、受け入れていた。
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