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第4話:星読みは告げる、破滅は近いと
しおりを挟むノワゼル伯爵邸の天文室は、夜になると息をする。
昼はただの部屋だ。磨かれた木床、並ぶ書架、硝子の天窓。
でも夜は違う。天窓の向こうに星が出ると、空がすべての音を吸い込み、部屋の中の静けさが濃くなる。まるで世界の裏側に踏み込んだみたいに。
ルフラン・アストレアは、その静けさの中に座っていた。
丸いテーブルの上に星図。古い羊皮紙。黒いインク。細い線。
彼の指は白く、細く、冷たい月光みたいだった。
指先が星図を滑るたび、紙の上で小さな静電気が走る――そんな錯覚がする。ほんとうはただの感覚なのに、彼が触れると未来が鳴る。
天窓から落ちる星明かりが、彼の睫毛を薄く照らしている。
淡い紫の瞳は、泣いているわけでもないのにいつも少しだけ濡れて見える。優しさと諦めが混ざる目。言葉を選びすぎて声が静かになる人の目。
扉が軋む音。
夜の静けさが一枚だけ裂けて、そこから甘い香りが入り込む。
「ルフラン」
リシェル・ノワゼルが入ってきた。
夜色の部屋に、夜色の令嬢。
灯りを控えた天文室で、彼女の存在は光よりも影よりも際立つ。なぜか――彼女は“整いすぎている”からだ。呼吸の速度まで、美しい。
銀のトレイに紅茶。湯気がゆっくりと上がる。
その匂いは、礼拝堂の香みたいに脳を甘やかさない。渋くて、あったかくて、ちゃんと現実に引き戻す匂いだ。
「眠れない?」
リシェルは軽い調子で言いながら、ティーカップを一つ置いた。
ルフランは星図から目を離さず、かすかに首を振る。
「星が、騒がしいんです」
「騒がしい星は、面倒ね」
「……ええ。静かにしてくれたらいいのに」
リシェルは笑った。
その笑いは蜜みたいに柔らかいのに、天文室の空気が一段だけ冷える。彼女の笑いには、いつも“刺すところ”がある。
「静かにしてくれる未来なんて、たぶん誰も選ばないわ」
「……選ばない?」
「うん。人はね、騒がしい未来を選ぶの。退屈より、ドラマが好きだから」
ルフランの指が止まった。
星図の上で、指先が一つの点に触れている。
「今夜の星は、ドラマどころじゃない」
彼は小さく息を吐いた。
「断罪の夜、王太子の星が割れます。聖女の星は、影に喰われます」
言葉は淡々としているのに、胸の奥に冷たい刃が入ってくる。
“割れる”という単語は、未来を壊す音がする。
“喰われる”という単語は、救いの余地がない匂いがする。
リシェルは驚かない。
ただ、紅茶を注ぐ。
湯気がカップの縁から立ち上り、星明かりに溶ける。
「具体的ね」
「具体的に言わないと、誰も信じないからです」
ルフランは自嘲気味に笑った。
「……でも、具体的に言うほど嫌われる」
リシェルはカップを彼の前に滑らせた。
「嫌われたの?」
「追放されました」
ルフランの声は、穏やかに凍っている。
「宮廷占星術師として、未来を告げました。戦が起きると言えば、起きる。病が流行ると言えば、流行る。誰かが裏切ると言えば、裏切る」
彼の指が震えた。
ほんの一瞬。それを隠すように、指を握りしめる。
「皆、こう言いました。“お前が言うから起きるんだ”って。……未来を言い当てることが、罪になりました」
「馬鹿ね」
リシェルは即答した。
その言い方があまりに冷たくて、逆に優しい。
ルフランは目を上げた。
リシェルは彼の視線から逃げない。
恐れも、同情も、過剰な優しさもない。
ただの“理解”がある。
「……あなたは怖くないんですか」
ルフランが問いかける。
「未来を聞くのは、怖いはずなのに」
リシェルは、ティーポットを置いて、扇子をそっと膝の上に置いた。
そして、微笑む。
「未来は恐れるものではなく、扱うものよ」
「扱う……」
「刃物と同じ。怖がって隠すと、余計に危ない。正しく握れば、守れる」
リシェルは涼しい声で言う。
「あなたが未来を見ているのなら、私たちは“握り方”を選べる」
ルフランの喉が鳴った。
彼は今まで、未来を“避けられない宣告”として受け取ってきた。誰も助けない未来。誰も喜ばない未来。言えば嫌われる未来。
でもリシェルは、未来を道具みたいに扱う。
それは残酷にも見えるし、救いにも見える。
「……あなたは」
ルフランは言いかけて、止めた。
“あなたは冷たい”とでも言いかけたのかもしれない。
でもそれは違う。リシェルは冷たいのではなく、温度を選んでいる。
リシェルは、彼の沈黙を急かさない。
沈黙は、言葉の下書きだと知っているから。
代わりに、天窓を見上げた。
「王太子の星が割れる……」
「はい」
「その割れ方は?」
リシェルの質問は、怖がる人の質問ではない。計算する人の質問だ。
ルフランは星図を指でなぞり、短く言う。
「自壊です。外から叩かれて割れるんじゃない。内側からひびが走って、音もなく崩れます」
「美しいわね」
「……美しい、ですか」
ルフランの眉がわずかに寄る。
「崩れるものは、崩れ方が綺麗な方がいいのよ」
リシェルは笑う。
その笑いは蜜のようで、毒のようだ。
「聖女の星は?」
「影に喰われます」
ルフランは視線を落とした。
「……誰かの影ではない。彼女自身の影です。光が強すぎる人ほど、影も濃い」
リシェルは指先でカップの縁をなぞった。
陶器が、かすかに鳴る。
「フィオナは、自分の影に怯えてる」
「ええ。そして影に喰われる」
「影は、嘘の形をしてるものね」
ルフランは黙って頷いた。
そして、ふと視線を上げる。
「リシェル様」
「なに?」
「……あなたの星は、割れません。ですが」
ルフランの声が少しだけ硬くなる。
「あなたの周りは、刃で満ちています。刃が多いほど、あなたが“動かない”ことが彼らを焦らせる」
リシェルは唇の端を上げた。
「焦らせればいいのよ」
「危険です」
「危険は、いつもここにある」
リシェルは淡々と言う。
「危険があるなら、危険な人たちに“自分で転ぶ”場所を与えるだけ」
その言葉が落ちたとき、天文室の外から、鳥が羽ばたく音がした。
夜の静けさの中で、やけに大きく聞こえる。
まるで何かが逃げたみたいに。
ルフランが顔を上げる。
「……今の音」
リシェルは微笑んだまま、扉の方へ視線をやった。
「気になる?」
「気になります」
「なら、誰かが処理するわ」
言い終える前に、天文室の窓辺――屋根の上から、かすかな金属音がした。
次の瞬間、空気が一瞬だけ、切れる。
リシェルは紅茶を飲む。
ルフランは固まる。
エルナなら「うわっ」と声を上げていたかもしれない。でも今ここにいるのは、星を読む青年と、蜜の黒の令嬢だけだ。
そして――影が動く。
天窓の縁を滑るように、黒い影が落ちる。
カイエン・ラグナード。
夜と同化した礼装。肩に積もった夜露。
彼は天窓の外から入ってきたわけではない。天窓は閉まっている。けれど彼はいつの間にか、部屋の影の濃いところに立っている。
ルフランが息を呑む。
「……今、外に」
「刺客です」
カイエンは短く言った。
「屋根の上にいました。……潰しました」
潰しました。
その言葉は軽い。
でも軽い言葉ほど、重い事実を隠す。
ルフランの顔色が変わった。
「……殺したんですか」
「必要なら」
カイエンは淡々と答えた。
「今回は、必要でした」
ルフランの喉がきゅっと鳴る。
彼は未来を言葉で告げる。カイエンは未来を刃で折る。
種類は違うが、どちらも世界の裏側にいる人間だ。
リシェルは、驚きも恐れも見せない。
ただ、ティーポットを持ち上げて、カイエンのためのカップも用意した。
「お疲れさま、カイエン」
「……はい」
カイエンはカップを受け取らない。手を汚した直後の礼儀を、彼なりに守っているのかもしれない。
彼は一歩下がり、報告だけを続ける。
「刺客は一人。装備は軽い。目的は暗殺というより“脅し”です」
「脅し」
リシェルは静かに復唱する。
「誰の指示?」
「王宮寄りの匂いがします。ただ……直接ではないでしょう」
カイエンの目が細くなる。
「使い捨ての手。罠に気づかない者に、刃を持たせた」
ルフランが苦く言った。
「星が騒ぐわけだ……」
リシェルは紅茶の湯気を見つめて、微笑んだ。
「彼らは急いでるのよ」
「なぜ?」
ルフランが問う。
「私が何もしないから」
リシェルはあっさり言う。
「何もしない相手って、一番怖いでしょう? 殴ってこない相手は、殴り返してこないかもしれない。でも、何を考えてるかわからない」
カイエンが低く頷く。
「……追い詰められた人間は、手段を選びません」
「選ばないから、崩れるのよ」
リシェルは甘く言った。
「手段を選ばない人は、手元も見ない」
ルフランはリシェルの横顔を見る。
この人は、怖がらない。
でも本当に怖くないわけではない。怖さを“言葉にしない”だけだ。
怖さを口にすると、怖さが形になる。形になった怖さは、噂みたいに膨らむ。
だから彼女は微笑んで、怖さを喉の奥に封じる。
「リシェル様」
ルフランは、思わず言った。
「……あなたは、いつか壊れませんか」
リシェルがゆっくりと瞬きをする。
その瞬きは、夜の中の小さな休符みたいだった。
「壊れるわよ」
彼女は淡々と言う。
「人はみんな壊れる。壊れない人なんて、最初から空っぽよ」
ルフランの心臓が、少しだけ痛む。
その痛みは、彼女が“人間”だと知ったから。
「でもね」
リシェルは続ける。
「壊れるなら、意味のある壊れ方をする。……私は嘘に合わせて壊れる気はないわ」
蜜のように甘い言葉。
でもそこには、刃の硬さがある。
カイエンが窓の外へ視線を投げる。
「屋根の上は片付けました。ですが、次が来る可能性があります」
「来ればいい」
リシェルは微笑んだ。
「来れば来るほど、彼らは焦って、雑になる。……雑な嘘は、割れやすい」
ルフランは星図に視線を落とした。
星は嘘をつかない。けれど人は嘘に溺れる。
溺れるからこそ、星の光が必要なのかもしれない。
「断罪の夜」
ルフランが呟く。
「……そこが、分岐点です」
リシェルはカップを持ち上げ、湯気の向こうで微笑んだ。
その微笑みは、優しいのに冷たい。
触れたら甘く溶けて、飲み込んだら喉が痛む――そんな微笑み。
「分岐点なら、選びましょう」
「何を?」
「どんな顔で立つか」
リシェルはさらりと言う。
「泣くのか、怒るのか、怯えるのか。……私は微笑むわ」
ルフランは、ふっと笑ってしまった。
笑ってから、泣きそうになった。
なぜか。
自分はずっと、“未来に振り回される人”だったのに、目の前の令嬢は“未来を振り回す人”だからだ。
「……あなたは、本当に」
ルフランは言葉を探す。
「……呪いじゃない。呪いを跳ね返す人だ」
リシェルは肩をすくめた。
「呪いはね、跳ね返すと綺麗な音がするのよ」
彼女は微笑む。
「それが聞きたいだけ」
天窓の向こうで、雲が流れ、星が一瞬隠れた。
隠れても、星はそこにある。
見えなくても、未来はそこにある。
カイエンが静かに一礼した。
「私は外を見張ります」
「ええ」
リシェルは言う。
「今日の“潰した事実”は、誰にも言わなくていいわ」
ルフランが目を丸くする。
「隠すんですか? 危険だったと知らせれば――」
「知らせたら、彼らは“慎重”になる」
リシェルは即答した。
「慎重な嘘は、長生きするのよ。……私は長生きする嘘が嫌い」
カイエンの口元がほんのわずかに緩む。
彼は理解している。敵が知らぬまま過信を積み上げるほど、崩れ方が美しい――その美しさが、リシェルにとっての“勝ち方”だと。
「承知しました」
カイエンは影に溶けるように部屋を出ていった。
天文室に残ったのは、星図と紅茶と、未来の匂い。
ルフランはまだ胸の奥がざわざわしている。刺客の存在が、星の予言を“現実”に引きずり下ろしたから。
「……リシェル様」
ルフランは小さく言った。
「あなたは、どうしてそこまで落ち着いていられるんですか」
リシェルは一瞬だけ考えるような顔をして、次に微笑んだ。
「落ち着いてるんじゃないわ」
「え?」
「落ち着いて見えるようにしてるの」
彼女はさらりと言う。
「私が動揺したら、彼らが喜ぶでしょう? それが嫌なだけ」
ルフランは息を呑む。
動揺を見せないのは強さじゃない。
“相手に喜ばせないための意地”だ。
その意地が、どれほど孤独で、どれほど美しいか。
星図よりもはっきり、胸に刻まれる。
リシェルはカップを置き、扇子を開いた。
パチ、と音が鳴る。
その音が、夜に小さな宣言みたいに響く。
「ねえ、ルフラン」
「はい」
「断罪の夜に割れる星の音、聞いておきたい」
「……聞いて、どうするんです」
「覚えておくの」
リシェルは笑う。
「二度と、同じ甘さに騙されないために」
天窓の向こうで、雲が抜けた。
星がまた姿を見せる。冷たく、静かに、確かな光。
ルフランは星図に指を置き、もう一度、未来を読み直した。
破滅は近い。
でも今夜、彼は初めて思った。
破滅は、ただ怖いだけじゃない。
破滅は、嘘を終わらせる。
嘘が終わるとき、人は真実の匂いを嗅ぐ。
そしてその真実の中心に、きっと彼女が立つ。
蜜のように甘く、氷のように冷たい微笑みで。
――破滅は近い。
けれどその破滅は、リシェルを裁くためのものじゃない。
裁こうとした者が、自分の刃で手を切るための夜だ。
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