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第5話:断罪の宣告、蜜の一言
しおりを挟む祝賀の夜の王宮は、香水の洪水みたいだった。
花を飾りすぎて、甘すぎる。音楽を鳴らしすぎて、うるさすぎる。笑い声を積み上げすぎて、薄すぎる。
王宮大広間。
シャンデリアは前回より多く灯され、床の大理石は鏡みたいに磨かれていた。光が跳ね返り、誰の顔もやけに“正しく”見える。正しい顔の下に、どれだけ欲と嘘が沈んでいるかなんて、ここでは誰も見たがらない。
招かれたのは貴族だけじゃない。
民衆もだ。礼拝堂でフィオナの奇跡に泣いた人々が、今日は“祝賀”の名目で王宮に入り、正義の観客席を与えられている。
観客がいると、人は演じる。
観客が多いほど、演技は本気に見える。
そして本気に見えた演技は、いつの間にか“事実”になる。
リシェル・ノワゼルは大広間の入口で一度だけ足を止めた。
扉の向こうから熱が漏れてくる。甘い香り、酒の匂い、興奮の気配。
肌に触れるだけで、心が浮つきそうな空気。
「……うわ」
エルナが小声で言った。
「臭っ。これ、ほんとに祝賀? 処刑場の匂いする」
「似てるもの」
リシェルは淡く答えた。
「祝賀も処刑も、どっちも“見世物”よ」
エルナが唇を尖らせる。
「見世物にするなら、せめて私の好きなやつにしてほしい」
「好きな見世物ってなに?」
「悪いやつが自爆するやつ」
エルナの目がきらりと光る。
「今日はそれが見られる?」
「見られるわ」
リシェルは微笑んだ。
「ただし、私たちは舞台に上がる。観客のままじゃいられない」
背後で、ヴァルトが咳払いを一つ。
黒薔薇騎士団の副団長として、彼は“警備側”の顔も持っている。今夜の彼は、敵の視線にさらされながらも中立の仮面を被らなければならない。
「リシェル様。動線は、予定通りです」
「ありがとう、ヴァルト」
「……王太子派閥の衛兵が増えています。囲い込む気でしょう」
「囲い込まれてあげるわ」
リシェルは涼しい声で言う。
「囲いは、内側から崩れるほうが綺麗だもの」
カイエンは言葉少なに頷くだけだった。
彼はリシェルの半歩後ろ、影の位置を守る。姿は見えているのに、気配は薄い。気配が薄いのに、怖いほど頼もしい。
「……呼吸が重い」
カイエンが小さく言う。
「この空気は、人を乱します」
「乱れればいい」
リシェルは扇子を開く。ぱち、と乾いた音。
「乱れた人ほど、余計なことを口にする」
そのまま四人は、光の海へ踏み入れた。
ざわめきが一瞬止み、次の瞬間、倍になって戻ってくる。
「……来た」
「ほら、ノワゼルの……」
「悪役令嬢……」
「聖女さまが怯えてた人だ」
言葉が背中に刺さる。
でもリシェルは振り返らない。
振り返ったら、それが“反応”になるから。反応は餌になる。餌は群れを呼ぶ。
今夜のリシェルは、夜の花みたいなドレスを纏っていた。
濃紺に黒を一滴落とした色。光を吸い、影をまとい、でも輪郭だけはくっきりしている。首元は控えめで、髪飾りは小さな黒い石が一粒。香りも控えめ。甘さを振りまかない。その代わり、近づいた人だけが気づく程度の、微かな蜜の匂い。
その“近づいた人だけ”が、今夜はいっぱい生まれる。
観客は、主役に触れたがる。
広間の中央には段が作られ、玉座の前に長い赤絨毯が敷かれていた。
そこが舞台。
そこが裁きの席。
そこが断罪の箱。
そして、舞台の上には“光”が立っていた。
アデリオス・ヴァルステイン。
王太子の白い礼装は、シャンデリアの光を反射して眩しい。彼の笑みは自信に満ちていて、今夜が自分の勝利の日だと信じて疑わない顔だ。
隣に、フィオナ・ルミエール。
淡いドレス。涙をいつでも落とせるように潤んだ瞳。
その涙は柔らかいふりをして、ガラスみたいに硬い。切れる。刺さる。割れない。
フィオナがリシェルを見つけた瞬間、小さく肩を震わせた。
演技の震え。
でも民衆はそれを真実として飲み込む。
「聖女さまが……」
「かわいそう……」
「悪役令嬢が来たからだ」
正義の熱が、じわじわ湧く。
熱って厄介だ。
一度湧くと、冷ますためには理性が必要なのに、熱に浮かされた人は理性をまず捨てる。
リシェルは、赤絨毯の手前で足を止めた。
まるで境界線みたいに見えた。ここから先は舞台。ここから先は、誰かが書いた脚本。
ヴァルトがほんの少し前へ出て、騎士団としての形式的な声を上げる。
「ノワゼル伯爵令嬢、リシェル・ノワゼル。参上」
ざわめき。
その名が呼ばれた瞬間、空気がきゅっと締まる。
期待。興奮。嫌悪。
全部が絡まり合って、甘い臭いを作る。
アデリオスが一歩前に出た。
声を張る。
この声は“民衆に届く声”だ。貴族に向けた声ではない。舞台の声。
「諸君!」
彼は広間を見渡し、掌を広げる。
「今夜は祝賀の夜だ。聖女フィオナ・ルミエールが、神の奇跡を示し、この国に希望をもたらした。これは誇るべきことだ!」
拍手。
歓声。
民衆が涙を拭いながら頷く。
フィオナが小さく微笑み、そしてわざとらしいほど控えめに目を伏せる。
“私はそんなに偉くない”という顔。
偉い人ほど、こういう顔が上手い。
アデリオスの声が、次に少しだけ低くなる。
甘い祝辞から、苦い正義へ切り替える音。
「しかし――祝賀は、ただ喜ぶだけでは終わらない。国のために、規範を守り、悪を裁く必要がある」
空気がざわりと揺れた。
民衆の心が、正義にスイッチする音。
アデリオスは、リシェルを見据える。
「ここに、悪徳の令嬢がいる」
指が伸びる。
その指は刃みたいだった。
「リシェル・ノワゼル。貴族としての規範を乱し、聖女を脅かし、王都に不和を持ち込んだ者――」
アデリオスは高らかに宣言する。
「悪徳の令嬢リシェル・ノワゼルを裁く!」
どっ、と歓声が湧いた。
歓声は正義の熱。
熱は、人を酔わせる。
フィオナはその瞬間、涙を落とした。
ほろり、と。
完璧なタイミング。完璧な角度。
落ちた涙がステージの光を反射して、小さな宝石みたいに見える。
「……怖かったのです」
フィオナが震える声で言う。
「私は、ただ神に祈りたかっただけなのに……」
その言葉が甘い。
甘いから、民衆がさらに沸く。
「許せない!」
「聖女さまを泣かせるなんて!」
「裁け!裁け!」
声がどんどん大きくなる。
音楽が、わざとらしいほど静かになる。
まるで“セリフが聞こえやすい”舞台演出。
エルナがリシェルの背後で小さく唸った。
「……うわぁ。やっぱ処刑場」
「静かに」
カイエンが短く言う。
「耳が多い」
「わかってるよ」
エルナは口をつぐむ。
でも拳は握ったままだ。爪が掌に食い込むくらい。
リシェルは、その熱の渦の中で、まったく熱くならない。
怒らない。
泣かない。
声を荒げない。
ただ、ゆっくりと一歩前に出た。
赤絨毯を踏む靴音が、妙に響く。
一歩。
二歩。
彼女が舞台の中心に立つと、空気が変わった。
熱が一瞬だけ引く。
人は“わからないもの”の前で、一瞬だけ黙る。
リシェルの顔は、穏やかだった。
唇は淡い色。
瞳は夜の底。
表情のどこにも怯えはなく、罪悪感もない。
あるのは、丁寧な礼儀と、甘い余裕。
アデリオスが苛立ちを隠せず、声を上げる。
「何か言い訳はあるか!」
「言い訳?」
リシェルが首を傾げる。
その動作があまりに美しくて、数人の貴族が息を呑んだ。
「殿下」
リシェルは穏やかに言う。
「言い訳、という言葉を先に置いた時点で、私が何を言っても“言い訳”になりますわね」
ざわり。
空気が揺れる。
でもその揺れは、彼女への反発ではなく――“しまった”という気配を含んでいる。
フィオナがすかさず声を挟む。
涙を拭いながら、でも口調は優しく。
「リシェル様……私は争いたくありません。どうか、謝ってください。そうすれば――」
「そうすれば、あなたは救われた顔ができますものね」
リシェルはにっこり笑った。
甘い笑み。
でも言葉は、硬い。
フィオナの瞳が一瞬だけ凍った。
すぐにまた震える。
震えることで、冷たさを隠す。
ガラスの涙を、水に見せる。
アデリオスが声を張り上げる。
「不敬だ!聖女を侮辱するな!」
「侮辱?」
リシェルは扇子を閉じる。ぱち、と乾いた音。
その音が、不思議と会場の心拍を揃える。
リシェルは、ゆっくりと視線を会場全体に巡らせた。
貴族の顔。民衆の顔。衛兵の顔。
誰もが“正義”の仮面を被っている。
仮面は軽い。軽いから、簡単に被れる。
でも仮面の下の嘘は、重い。
重いのに、彼らは自分で気づいていない。
リシェルは、唇の端を少し上げた。
ただそれだけ。
怒りではない。嘲りでもない。
まるで蜂蜜の表面に、針を一刺しするみたいな微笑み。
そして、甘く言った。
「裁きを望むならご自由に」
声がよく通る。
柔らかいのに、逃げ場がない。
会場が静かになる。
息を呑む音が、いくつも重なる。
「ただし――」
リシェルは一拍、間を置いた。
その間が、甘い。
甘いから、誰も目を逸らせない。
「その甘露の罠に沈むのは――あなたですわ」
言葉が落ちた瞬間、見えない糸が張られた。
ぱちん、と音はしない。
でも空気の中で、何かが“結ばれた”感覚がある。
アデリオスが眉を吊り上げる。
「な、にを――」
「甘露の罠?」
民衆がざわつく。
「どういう意味だ?」
「脅しだ!」
「悪役が本性を出した!」
フィオナが涙を強める。
強めることで、“被害者の位置”を確保する。
けれど彼女の涙は、さっきより少しだけ硬い。
硬さが増えるのは、焦っている証拠。
リシェルはその焦りを、黙って眺める。
カイエンが背後で、ほとんど音にならない声で言った。
「……糸が張られましたね」
「ええ」
リシェルは小さく答える。
「彼らはもう、足を取られ始めた」
「何に?」
エルナが口を挟む。
今にも飛び出しそうな顔で。
「自分の嘘の重さよ」
リシェルは微笑む。
「嘘は軽い顔をして積み上がる。でも積み上がった瞬間から、重さが生まれるの。……その重さに、気づかないまま」
舞台の上では、アデリオスが苛立ちを隠せず叫ぶ。
「今ここで、証人を呼べ!彼女の罪を明らかにする!」
彼の声は熱い。熱い声は、冷静さを燃やす。
フィオナはすすり泣きながら頷き、取り巻きたちが動く。
衛兵が視線を交わし、文官が紙束を抱える。
全員が“準備通り”に動いている。
準備通りに動く人間ほど、予定外に弱い。
リシェルは一歩下がり、舞台の中心を明け渡した。
明け渡すことで、彼らの自信を膨らませる。
膨らんだ自信は、破裂するとき大きい。
アデリオスが勝ち誇ったように言う。
「見ていろ、民衆よ。これが正義の裁きだ!」
その言葉に歓声が重なる。
正義の熱が、再び会場を満たす。
けれど、見えない糸はもう張られている。
糸は人の足首に絡む。
絡んだ糸は、歩くほど締まる。
リシェルは扇子で口元を隠し、静かに息を吐いた。
その吐息は、甘くない。
少しだけ渋い。
渋いからこそ、現実の味がする。
「……始まったわ」
リシェルが囁く。
カイエンが答える。
「はい。彼らの断罪が」
エルナが小さく笑った。
「“リシェル様の断罪”じゃなくて?」
「ええ」
リシェルは微笑む。
蜜のように甘く、氷のように冷たい微笑みで。
「裁きたいなら、裁けばいい。
でも沈むのは――最初から決まっているのよ」
大広間の灯りは眩しく、音楽は優雅で、人々は熱狂している。
そのすべてが、これから落ちるための助走みたいに見えた。
甘露の罠に沈むのは、私ではない。
私を裁こうとする、あなたたちだ。
リシェルの心は静かだった。
静けさは、嵐の前の無音じゃない。
嵐が来ても崩れない、深い底の静けさ。
そしてその静けさの中心で、彼女はただ、微笑んでいた。
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