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第10話:リシェルの甘い沈黙、味方の痛み
しおりを挟む王宮の夜は、派手に割れた。
光は揺らぎ、床の導線が露わになり、聖女の涙は硬さを隠せなくなった。
人々の目が、初めて“疑う”方向を向いた。
でも――疑いが芽吹くとき、必ず反動が来る。
甘い夢から覚めかけた人間は、眠気みたいに苛立つ。
苛立つと、誰かを殴りたくなる。
誰かを悪者にしたくなる。
だから、王宮を出た道の空気は、やけに冷たかった。
人の視線が、石畳の上で擦れて火花を散らしている。
ノワゼル伯爵邸へ戻る馬車の中、エルナはずっと黙っていた。
口が悪い彼女にしては珍しい。
いつもなら「ざまぁ!」って叫ぶ場面だったのに、今日は笑えない。
笑えない理由が、喉の奥で引っかかっている顔。
リシェルはそれに気づいていた。
気づいても、触れない。
触れないのが、彼女の甘さだ。
甘さは、踏み込まない優しさでもある。
邸に着くと、カイエンが先に降りた。
周囲を確認する視線。夜の闇を切り分ける目。
「……匂いがある」
彼は低く言った。
ヴァルトが反射的に手を腰に添える。
剣の柄に触れそうで触れない。
“表”の騎士が見せる、抑制の動き。
「王宮から、尾がついたか」
ヴァルトが呟く。
エルナの肩が、びくりと跳ねた。
その反応だけで、リシェルは察してしまう。
王宮の尾じゃない。もっと古い、もっと暗い尾。
――過去。
馬車を降りたエルナは、何でもないふりをして歩き出そうとした。
でも靴音が、いつもより軽い。軽い靴音は、逃げたい心の音だ。
「エルナ」
リシェルが呼ぶ。
「……なに?」
返事はぶっきらぼう。
けれど目が笑っていない。
いつも笑ってなくても、今夜の笑ってなさは別物だ。
「大丈夫?」
リシェルは“いつもの声”で訊く。
心配の声ではない。確認の声。
確認は、逃げ道を残す優しさだ。
「大丈夫」
エルナは即答した。
即答は、だいたい嘘だ。
その瞬間、夜の空気が裂けた。
キン、と薄い金属音。
屋根の上から、何かが飛んだ気配。
次の瞬間――影が動く。
カイエンが、夜の闇の中へ溶ける。
溶けたと思ったら、もうそこにいる。
目にも止まらない速さで、塀の影へ滑り込み、音を吸い込むように消えた。
ヴァルトが低い声で指示する。
「全員、屋内へ。灯りを落とせ」
それは“戦闘”の指示じゃない。
守るための段取りだ。
騒げば騒ぐほど、敵の狙い通りになる。
リシェルは慌てない。
扇子を閉じ、ただ一度だけ、夜の方向へ視線を投げる。
その視線は、甘い。
でも甘さの底に、冷たい刃が眠っている。
邸の中へ入った直後、外で短い音がした。
刃がぶつかる音じゃない。
もっと小さく、乾いた音。
何かが“終わった”音。
数分後。
カイエンが戻ってきた。
いつも通りの無表情。
でも肩の位置が、ほんのわずかに低い。
手に血はない。血の匂いもない。
それが逆に怖い。
「処理しました」
カイエンが言う。
「尾行。二人。……闇の匂いでした」
エルナの指先が、目に見えて震えた。
震えを隠そうとして、拳を握る。
でも握っても止まらない。
震えは身体じゃなく、心から来ている。
ヴァルトが一歩前へ出る。
「誰だ」
「古い組織の手です」
カイエンが短く答える。
「王宮とは別。……エルナに気づいた」
その一言で、エルナの顔が青ざめた。
青ざめたのに、無理やり笑おうとする。
「……あー。やっぱり」
エルナは笑いに失敗した声で言った。
「私の過去、しつこいなぁ」
リシェルは何も言わない。
甘い沈黙。
沈黙は拒絶じゃない。
沈黙は、“言わせる”ための空白だ。
エルナは唇を噛み、ようやく正直な声を落とした。
「……また、私の過去があなたの足を引っ張る」
その言葉は、釘みたいに床に落ちた。
「ごめん。リシェル様。……私、邪魔でしょ」
“邪魔”という言葉は、痛い。
言った本人が一番痛い。
エルナはそれを知っているのに、言ってしまった。
言ってしまうほど、怖いのだ。
カイエンの視線が、エルナへ向く。
責める目ではない。
ただ、冷静に状況を測る目。
でもその冷静さが、エルナには“突き放し”に見えた。
「私は……」
エルナは続きを言えない。
胸が苦しい。息が浅い。
闇組織の暗い廊下、血の匂い、命令の声。
頭の奥で、過去がいきなり再生される。
リシェルはそこで、やっと口を開いた。
怒らない。
責めない。
叱らない。
代わりに、蜜みたいに優しい声で言う。
「足を引っ張るのは過去じゃないわ」
声が柔らかい。柔らかいのに、確かだ。
「過去を隠そうとする恐怖よ」
エルナが目を見開く。
その言葉は“許し”じゃない。
“慰め”でもない。
まるで、扉を開ける鍵みたいな言葉だった。
リシェルは続ける。
真っ直ぐに、けれど甘く。
「あなたはもう、私の侍女」
その言葉が、胸に熱を落とす。
「だから堂々と怖がりなさい」
堂々と、怖がれ。
そんな言葉、誰も言ってくれなかった。
闇の世界では、怖がるのは弱さで、弱さは死。
貴族の世界では、怖がるのは醜さで、醜さは排除。
どちらでも、怖がる場所はなかった。
エルナの喉が震える。
涙が出そうになる。
でも涙を出したら、また“弱い”って思われる気がして、必死で堪える。
「……堂々と、って何」
エルナは声を絞り出す。
「怖いのに堂々って、矛盾じゃん」
「矛盾じゃないわ」
リシェルは微笑む。
蜜の微笑み。
「怖いって言える人は、まだ自分の心を持ってる。心を持ってる人は、逃げてもいい。隠れなくていい。……あなたは、隠れなくていいの」
エルナの胸が、ぎゅっと締まる。
その締まりは苦しさじゃなく、熱だ。
胸の奥で、何かが小さく灯る。
灯りはまだ弱い。でも消えない灯り。
ヴァルトが、珍しく言葉を挟んだ。
不器用な声。
「……リシェル様の侍女に手を出すなら、騎士団としても黙っていない」
それは“表”の言い方。
でもその裏に、個人的な怒りが混じっている。
エルナは、ふっと笑いそうになった。
笑いそうになって、泣きそうになる。
情緒がぐちゃぐちゃだ。
それだけ、今まで自分が一人で抱えてきた証拠だ。
カイエンが静かに言う。
「足を引っ張っていません」
エルナが顔を上げる。
「……え?」
「私が斬ったのは、あなたの過去ではなく、あなたを狙った現在です」
カイエンの声は低い。
低い声は、嘘を許さない。
エルナは一瞬、息を止めた。
その言葉が、すごく真っ直ぐで、すごく痛い。
痛いのは、嬉しいからだ。
信じたくなるから怖い。
「……ほんと、ムカつく」
エルナは涙を堪えたまま言う。
「優しくしないでよ。慣れてない」
「慣れればいいわ」
リシェルは淡々と言った。
「あなたは、慣れていい。幸せに」
その言葉は、命令みたいだった。
幸せになれ、じゃない。
幸せに慣れろ。
生き方を変えろ、ということ。
エルナは俯いた。
俯いて、震える指先を見た。
震えが止まらない。
止まらないけど、今夜はそれを隠さなくていいと言われた。
「……私、怖い」
エルナが呟く。
小さな声。
でもその声は、初めて“許された怖さ”だった。
リシェルは頷き、ティーポットを持ってきた。
紅茶を注ぐ音。
湯気。
温度。
そういう小さな現実が、人を救う。
「怖いなら、飲みなさい」
「それ、万能かよ」
エルナは鼻をすすりながら悪態をつく。
「紅茶で闇組織が消えるわけないじゃん」
「消えないわ」
リシェルは微笑む。
「でも、あなたの心臓の音は少し落ち着く。落ち着けば、選べる。――逃げるか、立つか」
エルナはカップを受け取り、湯気に顔を近づけた。
温かい。
甘くない。
ちゃんと渋い。
この渋さが、嘘じゃない。
「……ねえ、リシェル様」
「なに?」
「私がまた狙われたら……」
エルナは言葉を探し、怖さを飲み込まずに言った。
「私、足を引っ張る?」
リシェルは一拍も迷わず答える。
「引っ張らない」
声は甘いのに、断言だ。
「足を引っ張るのは、あなたが一人で抱え込んで、黙って消えようとしたときだけ。――だから、消えないで」
消えないで。
その言葉が、エルナの胸の奥で熱になった。
熱は痛い。
痛いけど、温かい。
エルナは涙を拭って、無理やり笑った。
「……はいはい。消えない」
そして小さく付け足す。
「……消えたら、あんたが寂しそうな顔するし」
リシェルは微笑んだ。
その微笑みは、味方の傷にだけ静かに甘い。
敵の前では冷たくなるのに、味方の前では蜜になる。
カイエンが窓の外を見て、短く言った。
「今夜は警戒を強めます」
「お願い」
リシェルが頷く。
ヴァルトも一礼する。
「騎士団にも伝えておきます。……表で潰します」
エルナはカップを両手で包み、湯気の向こうで目を伏せた。
震えはまだ止まらない。
でもその震えは、もう恥じゃない。
恥じゃないと知った瞬間、人は少し強くなる。
リシェルは扇子を閉じ、静かに言った。
「私たちは、まだ途中よ」
その声は甘い。
「断罪の舞台は続く。……でもね、エルナ。あなたがここにいる限り、私は微笑める」
エルナは鼻で笑って、でも声が少し震えた。
「……ほんと、ずるい」
「ずるいのは、私の仕事よ」
リシェルは優雅に言い切った。
「甘い罠に沈むのが誰か、最後まで見届けるわ」
味方の痛みは、確かにある。
でも痛みがあるから、絆ができる。
絆ができるから、孤独が薄くなる。
黒蜜の令嬢は、傷を抱えた者たちにだけ、静かに甘い。
その甘さは、毒じゃない。
生きるための熱だ。
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