悪役令嬢と呼ばれた私に裁きを望むならご自由に。ただし、その甘露の罠に沈むのはあなたですわ。

タマ マコト

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第9話:断罪の舞台、形が変わる

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 舞台っていうのは、整っているうちは美しい。
 赤絨毯の線。照明の角度。観客の配置。役者の位置。
 すべてが“予定通り”に見えるうちは、嘘でも本物みたいに光る。

 でも一度、糸が絡まると――
 舞台は勝手に“本性”を始める。

 王宮大広間。
 闇商人の印章が押された手紙の存在、床に浮かんだ導線、証人の買収発言。
 それらが一つの渦になり、会場の空気はもはや“祝賀”でも“公正な審問”でもなくなっていた。

 断罪の舞台は、形を変えていた。
 裁かれるはずだったのはリシェル。
 なのに今、視線は王太子派閥へ向いている。

 ――これ、ほんとに正義?
 ――誰が誰を裁くの?
 ――一番汚れてるの、どっち?

 声にならない疑問が、貴族の扇子の陰で、民衆の肩の震えで、衛兵の固まった指先で増殖していく。

 アデリオス・ヴァルステインは、目に見えて苛立っていた。
 苛立ちは、王太子の笑顔を削る。
 削れた笑顔は、ただの“焦り”になる。

「……秩序を保て!」
 アデリオスは怒鳴り、場を押さえ込もうとする。
「余計な話はいい! 主題はリシェル・ノワゼルの罪だ!」

 声が大きい。
 声が大きい人ほど、聞いてもらえないときに叫ぶ。
 叫ぶほど、焦りが露わになる。

 貴族席の一角で、誰かが小さく咳払いをした。
 それは“距離を置く合図”みたいな咳払いだ。

「……殿下」
 年嵩の侯爵が、慎重な声で口を開く。
「本当に公正を謳うのであれば、まずは先ほどの帳簿の不備、そして……その手紙の出所を」

 言い方は丁寧。
 でも内容は刃。
 そしてこの刃が刺さるのは、リシェルではない。

 別の伯爵が、扇子の陰から続ける。

「我々も王宮に忠誠を誓う身です。だからこそ、国家の管理不備は見過ごせません」
 忠誠、という言葉で自分を守っている。
 “私は敵じゃありません”と言いながら距離を取る。
 貴族の距離の取り方は、毒と同じくらい上手い。

 アデリオスの頬が引きつる。

「……貴様ら」
 低く漏れた声。
 怒りが滲む。
 怒りが滲むと、人はさらに離れる。

 フィオナ・ルミエールは、壇上の影で涙を滲ませていた。
 でもその涙は、さっきほど効かない。
 奇跡の綻びが見えた後の涙は、甘すぎる。甘すぎて、胸焼けする。

 彼女は助け舟を出そうと、柔らかい声を作った。

「皆さま……どうか……殿下を責めないでください。殿下は国のために――」
「国のため?」
 民衆の中の誰かが、ぽつりと呟いた。
「闇商人の手紙も国のためか?」

 その一言が刺さる。
 刺さった瞬間、フィオナの瞳の奥が冷たくなる。
 ガラスの冷たさ。

 彼女はすぐにまた涙を作る。
 でも、作った涙は“遅い”。
 遅い涙は、演技に見える。

 リシェル・ノワゼルは、舞台の端にいた。
 中心ではない。
 中心にいないことで、より中心に見える位置。
 そして彼女は、ただ微笑んでいる。

 甘い微笑み。
 でもその甘さは、人を慰める甘さじゃない。
 人が勝手に沈むのを見届ける甘さ。

 カイエンが背後で小声で言う。

「……風向きが変わりました」
「ええ」
 リシェルは扇子を閉じる。ぱち、と音。
「彼らが作った風よ。自分で吸い込む風」

 ヴァルトが“表”の顔で会場を見渡し、状況を整理する。
 騎士団の副団長として、秩序を保つ。
 でも秩序を保つほど、混乱の原因が浮き彫りになる。
 今の混乱の原因は――王太子派閥だ。

 アデリオスは場を取り戻すため、強引に次の証言を進めようとした。

「……証人を続けろ! リシェルの罪を示せ!」
 その声は怒鳴りに近い。
 怒鳴りは、正義ではなく焦りの音。

 衛兵がミレーヌ・サラフィアを、再び前へ押し出した。
 ミレーヌはさっきの失言の後で、顔がぐしゃぐしゃだった。
 化粧も、涙も鼻水で崩れている。
 彼女は“舞台の人形”として使われたのに、舞台が崩れたせいで一番傷つく位置に立たされている。

「ミレーヌ、もう一度言え」
 アデリオスが命じる。
「何を見た。何をされた。具体的に!」

 ミレーヌは震えながら頷こうとした。
 でも、言葉が出ない。
 出ないのは、怖いから。
 “これ以上喋ったら本当に終わる”と本能が叫んでいる。

 ミレーヌの視線が、フィオナへ飛ぶ。
 助けを求める目。
 子どもが親を見る目。
 救って、という目。

「フィオナ様……!」
 ミレーヌは声を絞り出す。
「私……私、ちゃんと言ったよね……? 私、役に立ったよね……?」

 その瞬間、会場の空気が止まった。
 役に立った。
 役。
 舞台。
 証言が“役”だったと自白したみたいな響き。

 フィオナの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
 そして――視線を逸らした。

 逸らした瞬間、ミレーヌの世界が崩れる音がした。
 耳では聞こえない。
 でも心には聞こえる。
 大事にしていたものが、手から滑り落ちて割れる音。

 フィオナは、慈悲深い聖女の顔を保とうとした。
 でもその顔は、今の“見捨て”でひび割れてしまう。

 彼女の冷たさが露わになる。
 聖女の皮を被った“上に立つ者”の冷たさ。
 自分の評判を守るためなら、取り巻き一人平気で切り捨てる冷たさ。

 ミレーヌの唇が震える。

「……え」
 小さな声。
「……なんで、見ないの」

 見ないの。
 その一言が、痛い。
 痛いから、会場の何人かが目を逸らした。
 見たくない痛みだ。
 でも目を逸らすと、余計に“本物”になる。

 アデリオスが苛立ちで叫ぶ。

「黙れ! 余計な感情を持ち込むな! これは裁きだ!」
 裁き。
 その言葉がもう、空気に馴染まない。
 裁きの舞台は、いつの間にか“自白の舞台”になっているから。

 リシェルは、その場でほんの一歩引いた。
 ただ一歩。
 それだけで、彼女がいた場所に空間ができる。

 そして空間に、彼らの醜さが浮かぶ。
 自分の罪を隠すために叫ぶ王太子。
 自分の評判を守るために見捨てる聖女。
 自分が主役になれない苛立ちで自爆した取り巻き。
 それらが、スポットライトの下で露骨になる。

 誰も気づかない。
 でも確実に、舞台の中心がずれている。
 ずれているから、役者たちは立ち位置を見失う。
 見失うほど、余計に動く。
 余計に動くほど、転ぶ。

 ルフランが、リシェルの横にそっと寄った。
 彼の瞳は静かで、けれどどこか青白い。

「……破滅の星が、動きました」
 声は小さい。
 でもその声は、天井の高さより深く響く。

 リシェルは、微笑んだ。
 甘い微笑み。
 でもその甘さは、無慈悲だ。

「動いたのね」
「はい。……加速します」
「なら、見届けるだけ」
 リシェルは淡々と言う。
「止めない。助けない。……私は嘘の責任を取らない」

 ミレーヌは、とうとう泣き崩れた。
 床に膝をつき、声を上げる。

「私、ただ……褒められたかっただけなのに……!」
 その叫びが、会場に刺さる。
 可哀想。
 でも、可哀想の裏に、醜さも見える。
 褒められたい。
 その欲が、嘘を生んだ。

 フィオナは小さく顔をしかめ、また涙を作ろうとする。
 でももう遅い。
 彼女の涙は、誰かを救う涙ではなく、誰かを切る涙だと見え始めている。

 貴族たちは、さらに距離を置き始める。
 扇子で口元を隠し、隣に囁く。
「……これは危ない」
「……殿下、沈むかもしれない」
「巻き込まれる前に下がるぞ」

 距離を置く動きは、雪崩の前兆だ。
 一人が動けば、二人が動く。
 二人が動けば、十人が動く。
 十人が動けば、群れが崩れる。

 アデリオスはその流れを止められない。
 止めようとするほど、自分の足場が崩れていく。
 彼の声はもう、正義ではない。
 ただの悲鳴に近い。

「お前たち……私を見捨てるのか!」
 叫ぶ。
 叫ぶほど、弱い。
 弱いほど、周囲は離れる。

 リシェルは、一歩引いたまま、微笑んでいた。
 この一歩が、彼女の戦い方。
 押さない。
 引く。
 引くことで、相手が勝手に転ぶ。

 甘露の罠は、彼らの内側に最初からあった。
 嘘。欲。見栄。嫉妬。
 それらが甘露みたいに甘くて、飲みやすくて、やめられなくて。
 そして飲み続けた結果、胃の底で毒になる。

 ルフランがもう一度、囁く。

「……破滅は、止まりません」
「止めないわ」
 リシェルは言う。
「止めたら、彼らはまた嘘を続ける。……私は長生きする嘘が嫌い」

 その瞬間、会場のどこかで、誰かが決定的な一言を漏らした。

「……聖女さまって、ほんとは優しくないのかも」

 その言葉は小さい。
 でも小さい言葉は、耳の奥に残る。
 残った言葉は、夜が明けても消えない。

 舞台は変わった。
 断罪の舞台は、暴露の舞台になった。
 裁くはずだった者たちが、勝手に裁かれる舞台になった。

 リシェルはただ、微笑む。
 蜜のように甘く、氷のように冷たい微笑みで。

 破滅は加速する。
 その加速の中心に、彼女は静かに立っていた。
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