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第11話:王都の噂が反転する夜
噂は、風だ。
花びらみたいに軽くて、指でつまめないくせに、顔を叩く。
そして風は、向きが変わると一瞬で世界の匂いを変える。
王宮の“祝賀”――いや、あの崩れた断罪劇から数日。
王都はまだ、あの夜の余韻を舌の上で転がしていた。
甘い。苦い。焦げ臭い。
どの味が本物か、誰もまだ決められない。
でも決められない間に、人は喋る。
喋ることで自分の不安を薄める。
不安は薄まらないのに、喉だけが渇くから、さらに喋る。
昼の王都。市場。噴水広場。馬車通り。
あらゆる場所で、噂が走っていた。
「ねえ聞いた? 聖女さまの奇跡、床に仕込みがあったって」
「王太子殿下、闇商人の手紙落としたらしいよ」
「え、じゃあ裁かれるの、悪役令嬢じゃなくて殿下の方?」
「でもあの悪役令嬢……すごかったよね。泣きもしないで、優雅に」
“優雅に”。
その単語が、リシェルの名前に絡み始めた。
社交界の噂は、夜になるとさらに速い。
貴族のサロンは、噂の温室だ。
紅茶と酒と菓子と、同じくらい噂が盛られる。
ノワゼル伯爵邸にも、招待状が雪みたいに届いていた。
慰めの言葉。謝罪の言葉。探りの言葉。
全部が紙の顔をして、同じ匂いをしている。
リシェルはそれを、机に積んだまま触れなかった。
触れないのは拒絶じゃない。
触れれば鎖になると知っているからだ。
その夜。
ノワゼル伯爵邸の書斎は、灯りを落としていた。
窓の外の王都の明かりが、薄い金色の霧みたいに漂う。
遠くで馬車の音。笑い声。犬の吠え声。
世界は今日も勝手に動いている。
リシェルはソファに座り、扇子を膝の上に置いていた。
隣でエルナが、無言で封筒を数えている。
数える手は早い。
でもその目は、落ち着いていない。
過去の尾行の件から、彼女は“影”の匂いに敏感になっている。
「……多すぎ」
エルナが吐き捨てるように言った。
「これ全部、手紙? 人って暇なの?」
「暇なんじゃないわ」
リシェルは微笑んだ。
「怖いの。だから書くの。紙に押しつければ、怖さが軽くなると思ってる」
「軽くなんないのにね」
「うん」
扉の影が揺れ、カイエンが入ってきた。
いつものように音がない。
影が歩いて、影が礼をする。
「リシェル様」
「どうだった?」
リシェルは顔を上げる。
彼女の声は、淡い紅茶の温度。
カイエンは短く報告した。
「噂の流れが変わっています。……速い」
「速いでしょうね」
「はい。“悪役令嬢”が、“不当に貶められた令嬢”へ」
カイエンは言葉を選ぶように続けた。
「“怖いほど優雅な被害者”とも」
エルナが鼻で笑う。
「怖いほど優雅って何それ。褒めてんのか貶してんのか、どっちだよ」
「両方」
リシェルはさらりと言った。
「人は褒めるときも貶すときも、相手を縛りたいのよ」
カイエンの視線が、机の上に積まれた招待状に落ちる。
彼の眉がほんのわずかに動く。
警戒と、苛立ちと、心配の混ざった動き。
「……今は、味方が増えるのでは?」
カイエンが言う。
「貴女にとって、悪いことではないはずです」
エルナも、少しだけ頷きかけた。
あの断罪の夜、味方の少なさが怖かった。
味方が増えるなら、安心できる。
普通は、そうだ。
でもリシェルは、少しだけ笑みを薄くした。
薄くした笑みは、夜の底みたいに静かだ。
「悪くないことが、良いこととは限らない」
「……?」
エルナが首を傾げる。
「どういうこと?」
リシェルは答える前に、紅茶を注いだ。
湯気が立つ。
湯気が立つと、空気が少しやわらかくなる。
やわらかくしないと、言葉が刺さりすぎるから。
「噂が反転するのは簡単よ」
リシェルは淡々と言う。
「悪役が被害者になって、被害者が偽物になって、正義が迷子になる。……でもね」
彼女はカップを持ち上げ、指先の白さを月明かりに透かした。
「次に来るのは、救いじゃないわ」
「え?」
エルナの声が上ずる。
リシェルは微笑む。
蜜みたいに優しい声で、言う。
「崇拝よ」
その単語は、甘い。
でも甘さの中に、毒がある。
「崇拝は期待を生む。期待は鎖になる」
リシェルは言葉を噛み砕くように続けた。
「“可哀想な令嬢”として、私を持ち上げる。持ち上げたら、次は“私に何かしてほしい”って望む。……私はそれが嫌」
エルナが眉を寄せる。
「でもさ、嫌って言っても……味方は必要じゃん」
「必要よ」
リシェルは否定しない。
「でも、味方を作るために鎖を受け取るつもりはない」
カイエンが静かに、確信を帯びた声で言った。
「貴女は、許されたいわけではないのですね」
その言葉は、図星だった。
図星なのに、責めていない。
理解しているだけの声。
リシェルは微笑む。
その微笑みは、夜の蜂蜜みたいに濃い。
「許しも断罪も、同じ鎖よ」
彼女は淡々と言った。
「許されるってことは、“相手が裁く権利を持つ”ってこと。私はその構造が嫌」
カイエンの瞳がわずかに揺れる。
彼は剣を握る人間だ。
裁きの構造の中で生きてきた。
でも彼女は、その構造自体を切り捨てようとしている。
「私はただ、嘘に触れたくないだけ」
リシェルは言う。
「触れたくない。握りたくない。……嘘は、触ると匂いがつくから」
エルナが小さく息を吐いた。
「……めんどくさい人」
「褒め言葉?」
「半分ね」
エルナは肩をすくめた。
「でも、わかる。持ち上げられるのって、落とされる前提だもん」
リシェルは、ほんの少しだけ目を細める。
エルナが“わかる”と言ったことが、彼女にとっては小さな救いだった。
救いは鎖ではない。
ただ、同じ方向を見るだけでいい。
カイエンは窓の外を見た。
王都の灯りが、ゆっくり揺れている。
噂が走る夜は、灯りが落ち着かない。
「……崇拝が始まれば、貴女を狙う者も増えます」
カイエンが言う。
「嫉妬、羨望、利用……」
「知ってる」
リシェルは笑う。
「だから嫌なのよ。崇拝は、私を“人形”にする。人形は便利だから、みんな触りたがる」
エルナが不機嫌そうに言った。
「触らせなきゃいい」
「触られないようにするには、冷たくなるか、消えるしかない」
リシェルは淡い声で答える。
「でも私は、冷たくなりすぎたくない。消えたくない」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が少しだけ温かくなる。
リシェルは自分で言ったことに、ほんの少し驚いた顔をした。
彼女は普段、望みを口にしない。
口にすると、鎖になるから。
でも今夜は、味方がいる。
味方の前なら、鎖にならない形で言える。
カイエンは一歩近づき、低い声で言った。
「では、どうします」
「噂は放っておく」
リシェルは即答した。
「正義の風向きも、崇拝の風向きも、どちらも私のものじゃない。私が握るのは、私の言葉だけ」
「言葉?」
エルナが首を傾げる。
「嘘に触れない、という言葉」
リシェルは微笑む。
「私はそれを守る。守れば、勝手に崩れる人は崩れる」
そのとき、廊下の方で小さな物音がした。
カイエンの目が一瞬鋭くなる。
でもすぐに緩む。
使用人が湯を運んでいるだけの音だった。
それでも、カイエンは言った。
「……夜の噂は、刃です」
「刃は、握る者の手を切る」
リシェルは笑う。
「彼らは今、私を守るつもりで刃を握る。でも守る刃は、いつか私にも向く。……だから私は距離を取る」
エルナがうーん、と唸った。
「つまり、味方が増えても喜ばない?」
「喜ばないわけじゃない」
リシェルは少しだけ柔らかく言う。
「ただ、喜び方を選ぶの。私は“救われた顔”をしたくない」
「なんで?」
「救われた顔をすると、誰かが“救ってやった”顔をするでしょう?」
リシェルは微笑む。
「私は、その顔が嫌い。あの顔は、次に必ず“見返り”を要求する」
エルナは口を尖らせた。
「……大人って嫌」
「大人じゃなくても嫌よ」
リシェルは笑った。
窓の外、王都の夜風が、カーテンをわずかに揺らした。
風は噂を運ぶ。
噂は人の心を運ぶ。
運ばれた心が、明日また別の言葉を産む。
リシェルはカップを置き、扇子を閉じた。
ぱち、と小さな音。
その音が、決意の印みたいに響いた。
「明日、私は外に出るわ」
エルナが目を丸くする。
「は? 今この状況で?」
「だからこそ」
リシェルは淡々と言う。
「噂が私を“像”にする前に、私は私のままで歩く。像は鎖になる。歩く人間は鎖になりにくい」
カイエンが低く頷いた。
「お守りします」
「ええ」
リシェルは微笑む。
「あなたが影でいる限り、私は光に縛られない」
エルナは渋い顔をして、でも小さく笑った。
「……ほんと、変な人」
「そう?」
「うん。でも……嫌いじゃない」
その言葉は軽い。
でも軽い言葉ほど、胸に残る。
王都の噂は反転した。
悪役令嬢は被害者になり、被害者は疑われ、正義は迷子になった。
でもリシェルは、救いを求めない。
許しも断罪も同じ鎖だと知っているから。
彼女が欲しいのは、ただ一つ。
嘘に触れないこと。
そのために、甘く微笑み、冷たく距離を取り、今日も静かに夜を越える。
風が変わる夜。
鎖が増える夜。
それでも彼女は、扇子を閉じる音で自分を保っていた。
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