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第13話:聖女フィオナ、光が剥げる
しおりを挟む光は、剥げる。
ずっと眩しいままの光なんて、ない。
眩しさを維持するには、裏側で誰かが手を動かし続けなきゃいけない。
手が止まった瞬間、光は途端に“ただの塗料”になる。
王宮の夜から、王都の空気は変わり続けていた。
噂は反転し、疑いは根を張り、崇拝は別の形に変質する。
そして聖女フィオナ・ルミエールは、その中心でひりついていた。
彼女は追い詰められていた。
でも追い詰められた人間がするのは、反省じゃない。
多くの場合、演出の強化だ。
自分の正しさを証明するために、もっと大きな光を焚く。
だから、舞台は王宮から“街”へ移った。
孤児院。
病人の集まる施療院。
炊き出しの広場。
涙が落ちやすい場所。
聖女が最も“輝いて見える”場所。
その日の昼、王都の南区。
煉瓦の壁が古びた孤児院の前には、人が集まっていた。
民衆。貴族。記録係。音を立てて歩く衛兵。
そして――噂を運ぶ人たち。
“見物”は、いつだって群がる。
フィオナは真っ白な外套を纏い、子どもたちの前で膝をついた。
目線を合わせる。
手を取る。
頬にキスを落とす。
「大丈夫よ。神は、あなたたちを見捨てない」
声は柔らかく、涙はちょうどいい量で滲む。
その涙は、ガラスじゃないふりをしている。
でも、硬い。
子どもが泣き崩れる。
その子の泣き方は上手すぎた。
上手すぎる泣き方は、誰かに教えられている。
「聖女さま……ありがとう……!」
子どもが叫ぶ。
叫ぶと、周りの大人も泣く。
泣くと、疑いは薄まる。
――これよ。
フィオナは心の中で噛みしめる。
これでいい。これで押し切れる。
けれど、押し切るほどに舞台裏は荒れる。
舞台裏の荒れは、匂いになる。
そして匂いは、鼻のいい者に嗅がれる。
リシェル・ノワゼルは、その場に“いない”。
いないからこそ、彼女の影は濃い。
いない相手を悪にしやすい。
だからフィオナは、わざとリシェルを語る。
「皆さま……」
フィオナは民衆に向けて声を上げる。
「私は信じています。悪は、必ず裁かれます。誰かが人を傷つけ、誰かの祈りを踏みにじるなら……神は沈黙しません」
沈黙。
その単語が、リシェルを刺すために使われる。
彼女は“黙って微笑む悪役”という物語にされる。
見物の貴族夫人たちが囁く。
「聖女さま、可哀想……」
「でも、あのノワゼル令嬢だって……」
「優雅すぎて逆に怖いのよね」
「ほら、また噂が揺れるわ……」
揺れる。
揺れるから、フィオナはさらに光を焚く。
施しの箱が運ばれる。
銀貨がざらりと鳴る。
パンが積まれる。
薬草が並べられる。
すべてが“善意”の形をしている。
しかし善意は、金でできているときがある。
金は、出どころの匂いを持つ。
その匂いは、洗っても落ちない。
その夜。
ノワゼル伯爵邸。
厨房の隅の暗がりで、エルナが戻ってきた。
外套の裾に、街の埃。
髪に、炊き出しの煙の匂い。
目だけが、鋭い。
「拾った」
エルナは短く言って、手のひらを開いた。
小さな紙片。
印の押された受領書。
字は雑で、でも数字だけはくっきりしている。
支払い元の印は――施療院の寄付担当。
しかしその下に、別の符号。
闇商人の流通印と、似た癖のある刻印。
「……これ」
エルナの声が少し低くなる。
「施しの金、普通の寄付じゃない。中継噛ませてる。たぶん、闇資金のルートと繋がってる」
リシェルは紅茶を注ぎながら、紙片を受け取った。
指先は落ち着いている。
落ち着いているのに、瞳だけが冷える。
「よく嗅いだわね」
「鼻は自信ある」
エルナは鼻を鳴らす。
「……最悪。孤児院まで汚すとか」
そこへヴァルトが入ってくる。
鎧ではなく、簡素な礼服。
でも背筋は騎士のまま。
彼の“表”は、法と形式で刃を作る。
「報告を」
ヴァルトが言う。
「王宮側の監査が、表向き停止したように見せています。……だが、裏で証拠隠しの動きがある」
リシェルは紙片を机に置き、静かに言った。
「これを、動かせる形にして」
「承知」
ヴァルトは即答する。
「ただし、出しますか?」
エルナが口を挟む。
「出せば勝てるじゃん」
「勝つために出すなら、出さない」
リシェルは淡々と言った。
「出したら、彼女は“被害者”の仮面を被る。泣いて、叫んで、神を盾にする。……それは面倒よ」
エルナが顔をしかめる。
「じゃあ、どうするの?」
「整えるだけ」
リシェルは微笑む。
「整えるだけで、出さない。出さないからこそ、向こうが焦る」
焦りは舌を軽くする。
軽くなった舌は、自分の首に縄を巻く。
その理屈を、リシェルはもう何度も見てきた。
ヴァルトは頷き、紙片を丁寧に布で包んだ。
「証拠は形にします。形式上の穴も塞いでおきます」
「お願い」
「……リシェル様」
ヴァルトは一瞬だけ迷ってから言う。
「危険が増します。聖女側が追い詰められれば、より直接的に」
「知ってる」
リシェルは紅茶の湯気の向こうで笑った。
「直接的な方が、わかりやすいわ」
そして、その“直接”はすぐに来た。
翌日。
王都の大聖堂の裏手、寄付品の倉庫。
人目の少ない通路。
石壁が冷たく、空気が湿っている。
ここは光が届きにくい場所。
だからこそ、本音が出やすい場所。
リシェルは一人ではなかった。
カイエンが影にいる。
エルナは少し離れた場所で物陰に潜む。
ヴァルトは“表”の仕事で不在。
この場は、会話のための場だ。
そこへフィオナが現れた。
白い外套。
だけど今日の白は、眩しくない。
白が汚れているわけじゃない。
白の“下地”が剥げている。
焦りが、白を薄くしている。
「リシェル様」
フィオナの声は、いつもの柔らかさを装っている。
でも、装いは音に滲む。
「聖女さま」
リシェルは礼儀正しく一礼する。
微笑みは甘い。
けれどその甘さは、相手を安心させない甘さだ。
「……あなた」
フィオナは一歩近づく。
近づくことで優位に立とうとする。
でも距離を詰めるほど、心の焦げが匂う。
「あなたさえ消えれば、みんな幸せになるのに」
言い放った瞬間、空気が凍った。
“みんな”。
その言葉が、刃の鞘になっている。
鞘に入れれば、殺意も正義の顔になると信じている。
エルナが物陰で息を呑む。
カイエンの気配が、ほんの少しだけ濃くなる。
剣が抜かれそうになる匂い。
でもリシェルは手を上げず、ただ微笑む。
柔らかく返す。
「“みんな”って便利な言葉ね」
声は優しい。
優しいからこそ、刺さる。
「あなた自身は、どこにいるの?」
フィオナの瞳が揺れた。
揺れは一瞬。
でもその一瞬が、裂け目になる。
「……え」
フィオナの声が、かすれる。
「私は……私は、ここに……」
「本当に?」
リシェルは首を傾げる。
扇子は持っていない。
隠さない顔で、問いだけを置く。
「“みんな”の中に隠れてるだけじゃないの」
フィオナの胸が、裂ける。
裂ける痛みが走る。
彼女はそれを認めたくない。
認めた瞬間、自分が空っぽだとわかってしまう。
空っぽの人間は、怖い。
空っぽだと知った瞬間、人は死にたくなる。
だから彼女は、嘘を重ねる。
嘘で空洞を埋める。
「違う!」
フィオナは叫んだ。
「私は……神に選ばれた! 私は必要なの! 私がいなければ、誰も救われない!」
その声は、救いの声ではない。
恐怖の声だ。
自分が消えることへの恐怖。
リシェルは、微笑みを崩さない。
崩さないまま、言う。
「救われるって、誰の言葉?」
「神の……!」
「あなたの口から出てるわ」
リシェルは淡々と言う。
「神の声じゃない。あなたの声よ」
フィオナが息を詰まらせる。
詰まらせたあと、また涙で誤魔化そうとする。
けれど涙はもう、効きにくい。
涙が出るほど、彼女の“本音”が浮かぶから。
「あなたは……ずるい」
フィオナは震える声で言う。
「何もしてないふりをして、みんなを……!」
「私は何もしてないわ」
リシェルは笑う。
甘い笑み。
「あなたが勝手に、あなたの嘘で苦しくなってるだけ」
その言葉が、フィオナをさらに追い詰めた。
追い詰められると、人は攻撃する。
攻撃は、自己防衛の形だから。
「あなたがいなければ!」
フィオナは叫ぶ。
「あなたが黙っていれば! 私の光は――!」
そこで言葉が止まる。
“私の光”。
神の光ではない。
自分の光。
それを口にした瞬間、彼女は気づいてしまう。
自分が何を言っているか。
リシェルは、微笑んだ。
その微笑みは、残酷ではない。
ただ、真実に優しい微笑みだ。
「剥げたわね」
小さく、囁くように言った。
「あなたの光」
フィオナは顔を歪め、踵を返した。
逃げる。
逃げることで、自分の空洞を見ないようにする。
でも空洞は、追いかけてくる。
自分の影は、どこまでもついてくる。
フィオナが去った後、倉庫の通路には冷たい静けさが残った。
エルナが物陰から出てきて、震える声で言った。
「……やば」
「そうね。やばいわね」
リシェルは淡々と答える。
「今のは、彼女自身の自爆よ」
カイエンが低く言う。
「……危険が増します」
「ええ」
リシェルは頷く。
「空っぽを見せた人は、次に必ず“埋める”ために暴れる。嘘を重ねる。金を使う。人を使う」
エルナが受領書の包みを思い出したように言う。
「……闇資金、繋がってる」
「繋がるわ」
リシェルは微笑む。
「孤児院の施しは綺麗に見える。でも金は、いつも汚れた手を通る。……彼女はそれを隠すために、もっと光を焚く」
光を焚けば焚くほど、剥げる。
剥げれば剥げるほど、焦る。
焦れば焦るほど、嘘が増える。
リシェルは扇子を取り出し、ぱち、と開いた。
その音が、次の幕の合図みたいに響く。
「ヴァルトに整えさせて」
「整えるだけ?」
エルナが聞く。
「出さないの?」
「まだ」
リシェルは笑う。
「出さない。出さないから、彼女が自分で暴露する。……“みんな”を守るために、ね」
“みんな”という便利な言葉を盾に。
自分自身の空っぽを隠すために。
黒蜜の令嬢は、柔らかい問いで相手を裂く。
刃を使わない。
怒りもしない。
ただ、真実の輪郭を指でなぞって、相手に見せる。
見せられた相手は、目を逸らしたくて嘘を重ねる。
重ねた嘘が重くなり、やがて自分の足を引っ張る。
破滅の種は、もう蒔かれた。
あとは芽が出て、花が咲いて、落ちるだけ。
その落ち方が、どれほど美しく、どれほど残酷か。
リシェルは甘く微笑みながら、ただ待っていた。
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